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閑話1 【無荷無覚】が無効化するストレスの定義について二つの超越的存在の間で交わされた平穏な論争

本編10000ポイント、ブクマ4000件御礼。

前作の「疲れない」に比べて「ストレスを感じない」はわかりにくいという感想をいただいていたので書いてみました。

完全に解説回です。

(細かい解説は)不要ラ! とか、(世界設定には興味)ないです みたいな人は、この話は読まなくてもまったく問題ない作りになってます。

 それは、どこでもないどこかで交わされた会話だった。

 

 そこには空間という概念自体が通じないため、会話の主がそこに存在するという言い方すら適切ではない。

 

 そもそも会話しているモノたち自体、「存在」という言葉で言い表せるかどうかすら疑問だった。

 だが、さしあたりそうとでも呼んでおくしか、人間に理解できる方法がない。

 

 そんな「存在」が、二体――二人――二つ? その「空間」に存在している。


 いくら科学が発達しても、人類が物質にとらわれている限り、そんな「空間」があることにすら気づけないだろう。

 その「空間」は、いかなる言語、いかなる数式による表現も受け付けない。

 そこが世界と世界の狭間である以上、そこは世界ではありえなかった。だからこそ、そこには世界を世界たらしめる一切の力が働いていないのだ。

 物理法則も、魂の輪廻すらもあざ笑う、世界の地平線の向こう側――。

 

 だが、そんな「空間」で交わされる会話のほうは、ごく常識的な言語によるやりとりだった。

 つまり、なんてことのない雑談である。


「やっほー、ウルヴィちゃん、ひさしぶり!」


 若い女性の声が、明るく言った。


「……。おひさしぶりです……。その節はどうもありがとうございました。でも、わたしのことはちゃんと本名で呼んで」


 暗く沈んだ少女の声が、しゃべることを厭うような調子でそう返す。


「あいかわらずねえ。でも、よかったの? わたしがやったことといえば、単に条件に当てはまる地球世界の人間をそっちの世界(ファル=ギーア)に転生させただけ。なんの使命も与えなかったわよ?」


「……それで構わない。わたしには人間の自由意志に干渉する権限はないから」


「あら、それじゃまるでわたしが人間の自由意志を奪ってるみたいじゃない?」


「……そんなことは思ってない。わたしとあなたでは存在のあり方が違う。あなたとわたしは大きくくくれば同じ超越者かもしれない。でも、わたしは造られた存在だから」


「だけど、彼があなたのもとにたどり着く保証はないわ」


「……彼にその運命があれば、いずれはわたしのもとにたどり着く。早いか遅いかの問題でしかない」


「神に等しい存在であるあなたが運命に委ねるというのも不思議な話ね」


「……神に等しい存在だからこそ、物事を意のままに進めようとするべきではない」


「彼、条件には当てはまってたんだけど、相当に魂をやられててね。このままじゃ二度目の人生に前向きになれないと思って、ささやかな力をあげたけれど……余計な手出しだったかしら?」


「……あれくらいなら構わない。

 ただ、あなたの定義した『ストレス』なる概念が曖昧。精霊たちが困惑してる」


「ありゃりゃ。ざっくりしすぎだったかしら」


「厳密に再定義してほしい。そうでないと、【無荷無覚】と名付けられた力自体が輪郭を失い、正常に機能しなくなるおそれがある。魂に思わぬ損傷を与えるかもしれない」


「う……それは大変ね。じゃあ、ストレスについて整理してみましょうか」


「わたしの理解では、『ストレス』というのは、地球の未発達な模擬科学が生み出した虚構の概念。外的刺激による心身への影響を包括的に指している。

 でも、包括的すぎる。この定義では、ありとあらゆる生理現象をストレスとみなすことすらできてしまう」


「ネットで検索すると、ストレスというのは、ストレッサーによって生じたストレス反応のこと、なんて説明が出てくるわね。

 でも、ストレスを生み出すのがストレッサーなんだから、ストレッサーによって生み出されるのは、そりゃストレス以外にないわよね。定義が循環してるわ」


自己循環論法(トートロジー)でしかない。

 外的刺激によって生じた心身の反応……と解釈しても理解困難。

 なぜなら、人間の身体は常に外的な刺激にさらされていて、それに応じて心身は常に反応している。

 つまり、人間が生きていることそのものがストレス反応だということになってしまう」


「地球の科学の水準では、そうとしか言いようがないのよ。外的な刺激が心身に影響を及ぼす過程はカオスに近いわ。『ストレス』という人工的な概念を用いないと、説明が複雑になりすぎるということね」

 

「つまり、虚構。よくわからないことをひとくくりに『ストレス』の一語に押し込んだだけ」


「でも、わたしの力のあり方は知ってるでしょう? 本人が『ストレス』なる言葉を感覚的に把握してさえいれば、その感覚的な把握の通りに、【無荷無覚】は機能するわ。

 前世でストレスを味わい尽くした彼は、『ストレス』という概念に、感覚的な強い実在感を抱いてる。そのことに、『ストレス』なるものの科学的な定義なんて関係ないわ。彼の心の中には、ストレスというはっきりとした観念が存在してるの。

 その観念を利用して、わたしは【無荷無覚】というスキルの効果に輪郭を与えたってわけ」


「あなたの力は融通がききすぎる。ずるい」


「しょうがないじゃない、そういう存在なんだもの。

 ともあれ、『ストレス』を厳密に定義するのはなかなか難しいわ。

 ただ、具体例に即して輪郭を与えることはできると思うの」

 

「……なら、輪郭だけでもいい。演繹的な定義ができないなら、帰納的な推定で満足するしかない」


「オーケー。

 じゃあとりあえず、ストレッサーがストレス反応を引き起こすとしておくわね。

 まず、ストレッサーにはどのようなものがあるかしら?」

 

「物理的なものなら、騒音、振動、熱、光、気圧等、人間によって知覚されうるすべての刺激が当てはまる。

 化学的なものとしては、食品や薬物の影響が挙げられる。

 生物によってもたらされるストレスとしては、細菌やウイルス、微生物、アレルギー物質など。

 要するに、なんでもあり。ありとあらゆるものがストレッサーになりうる」


「そうね。他にも人間関係、経済的な困窮なんかもストレスに含められるわね」


「でも、外的な刺激に対して、心身が反応するのは当然のこと。むしろ、反応しないほうが問題。ストレス反応は、ストレッサーから身を守るための防御反応でもある」


「いわゆる『戦うか逃げるか(fight or flight)』と呼ばれる反応ね。

 森で熊に出会った時に、人は激しいストレスにさらされる。でもそれは、自分の命を守れるよう、交感神経や内分泌系が反応したからか。

 とはいえ、この反応はやや過剰なものを含んでる。熊への対処には冷静さが必要なのに、やみくもに戦おうとしたり逃げようとしたりしたら、かえって危険かもしれないわ。まして、恐怖で動けないなんていうのは、本末転倒ですらあるわよね」

 

「ストレッサーが人間関係に起因する場合、なおさら不適切な反応といえる。

 横暴な言動をする王がいたからといって、神経の昂ぶるままに王を殴り倒すわけにはいかない。

 この場合、極端なストレス反応が起こることそのものがストレスともなっている。

 あきらかに、ここでのストレスには、その個体の生存上のメリットがない。長期的なストレスが心身にダメージをもたらすことを思えば、生存上デメリットしかないともいえる」


「そこがポイントね。

 【無荷無覚】は、ストレスを感じなくなると説明されてるけど、ストレッサーに対する心身の一次的な反応までは抑制してないわ。

 危険な状況では、【無荷無覚】があっても恐怖は感じる。

 ただ、それをストレスとは感じない。一次的な反応だけで心身の反応が打ち止めになって、その後に続くストレス反応が抑制されるの」


「……その部分が曖昧だと言う者もいる」


「そうかしら? 恐怖そのものと、恐怖から受けるストレスは別物のはずよ。怖いものを怖いと思う、そこまでは同じだけど、そこにストレスを感じないなら、『そこにりんごがある』と認識するのと同じことではないかしら?」


「ストレスに対するアラームは起こるものの、アラームによって引き起こされる激烈な心身の反応は抑制される……ということ?」


「アレルギー反応と比較するのはどうかしら?

 アレルギー物質が身体に入ったとしても、アレルギー反応の起こる程度は人によってさまざまだわ。花粉で目がかすみ、鼻が痒くなる人もいれば、まったく反応のない人もいる。

 アレルギー反応も、もともとは生体の防御のためのものね。

 でも、危険性がないアレルゲンにまで反応する必要はないわ。アナフィラキシーショックでは、時に命まで落とすことがある。

 ストレスへの反応も、ストレッサーへの適切な対処という意味では、逆効果なものが多いわね。ストレスで交感神経が昂ぶって眠れなくなるのは心身を回復する上ではマイナスだし、アドレナリンの分泌で疲れを感じなくなるのも適切な休養を取るためにはマイナスよ」


「【無荷無覚】は、抗アレルギー薬のようなもの?」


「比喩としては近いんじゃないかしら?」


「そう聞くと、大した力ではないようにも思えてくる」


「使い道を選ぶ、トリッキーな力ではあるわね。

 でも、強いストレスのかかる状況下で、常に冷静でいられるメリットは大きいわ。

 単調な繰り返しの作業や修練は、退屈との戦いになりがちだけれど、彼は退屈を感じはしても、それをストレスには感じない」

 

「彼にとって自分が退屈していることは、テーブルの上にりんごがあるのと同じこと?」


「そういうことね。【無荷無覚】がなくても、修行を積んだ瞑想者なら、自分の感情をそのように扱うことができるかもしれないわ」


「【無荷無覚】は宗教的な悟りに近いもの?」


「似た部分はあると思うわ。

 もっとも、修行を積んだ瞑想者だって、ストレスによって引き起こされる心身の問題を、完璧にコントロールするなんて不可能よ。その意味では、彼は常に悟りの極致にあるとも言えそうね。

 わたしはそこまで計算してなかったけれど、あなたの世界では、このことにはまたべつの意義があった」


「精霊の相克?」


「ええ。能力がスキルとして『所有』できるわたしの世界とは違って、ファル=ギーアにおける魔法は純粋な精神操作で行うものよ。

 人間にとって異物である精霊の力は、この上ないストレッサーでもあるわ。その最たるものが相克ね」


「彼は、相克を感じないわけではない。他の人間と同じように感じている。ただし、そこにストレスを感じない」

 

「手を、火であぶられたとしましょう。手に熱いという感覚が生じるわね。その熱いという感覚は、耐え難いストレスを生む。

 感覚そのものを遮断してしまってはかえって危険だから、そこは残しつつ、感覚から生じる不都合な反応を抑制してるのね。

 もちろん、ストレスをなくすだけだから、火であぶられて何もしなければ火傷するわ。だけど、熱いという感覚はあるのだから、それに従って冷静に火から逃れればいい。

 火であぶられるほど危険じゃないこと――たとえば、学校の授業が退屈でしかたない、というようなストレスもあるわね。

 この場合、退屈の感覚だけはあるけれど、聞き続けることに苦痛はないということになる。『退屈な授業だな、でも聞いておこう』とか、『退屈な上に無益な授業だから睡眠時間に充てよう』みたいに、冷静に割り切ることができるのよ」

 

「……もし、彼が転生者でなかったとしたら、ストレス反応がないのは危険だった?」


「小さな子どもがストレスを感じられないとしたら、身を守るための本能的な防衛行動ができなくなって危険でしょうね。

 でも、彼には地球で二十歳すぎまで生きた経験がある。

 彼は、いわゆるブラック企業で心身をすり減らしていたわ。ストレスを解消できず抑え込むしかない状況にあった。

 ストレスを解消しろって外野から言うのは簡単よ。

 でも、ストレスがそんな簡単に解消できるのだったら、鬱になる人なんていないでしょう。カウンセラーや精神科医の半分くらいは、仕事がなくなることでしょうね。

 ストレスは、人を殺す。

 もともと原始的な環境を生き抜くための『戦うか逃げるか』という激しい反応を引き起こすのがストレスよ。そんな猛獣みたいなものを抑え込んでいたら、いつかは自分が食い殺される。

 そんな経験をしてしまったら、二度目の人生に前向きになれないのも無理はないわ。

 次くらいは気持ちを楽に生きてほしいと思ったのだけど、案外ファル=ギーアには適した力だったかもしれないわね」

 

「あなたも、ここまで役に立つとは思ってなかった?」


「だって、わたしはわたしで、自分の世界が大変なんだもの。手持ちのギフトの量も限られてたし。彼の【無荷無覚】の場合、以前に似たような力を授けた経験があったから、なんとか都合がつけられたのよ」


「……感謝している。こちらの要請に応えてくれて」


「いいってことよ~! 一緒に地球のオンラインゲームをやってた仲じゃない!」


「……あのゲームのサービス終了は痛恨だった」


「最近のゲームは通信容量の関係でファル=ギーアには繋げないものね……」


「さみしい。死にたい。これがストレス。わたしこそ【無荷無覚】がほしい」


「やめてよ! ほら、こうしてたまに通信するからさ!」


「うう……生きる。匿名希望の女神様、大好き」


「わたしもウルヴィちゃんのことは友だちだと思ってるから」


「……だったら本名で呼んで」


 どことも言い表せないどこかで交わされたそんな会話は――とりあえず、エリアックの物語には大きな関係のないものだった。

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