十八回裏:決戦を制したエース
九回表。6‐2で猛虎学園のリード。その差は4点。天龍高校の攻撃で、バッターは一番の真治からだ。
すでに天龍高校の応援スタンドは静かになっていた。誰もが勝利を諦めている。吹奏楽部の演奏も、生徒たちの歓声も聞こえなかった。
「とうとう九回か……。あいつらどうするかな」
京介は椅子に深く座り、じっと見ていた。
「まだ終わってねーぞ。諦めんなよ……」
千石が拳を握って呟いた。
「頑張ってくれ、隼人……」
「負けんなよ……」
「頼むから勝ってくれ……」
朱雀高校の隼人のチームメイトは神頼みのように祈っていた。
「最終回……。天龍打線はどうでますかね。ここで終わってしまうか。榎本くんが三振の数を増やしますかね。今のところ、榎本くんは十四個。和田くんは十三個。勝った方が三振王ですね」
記者室で川端は少し興奮気味にいう。森本は椅子に深く座り、タバコを灰皿に押し潰す。いつのまにか、その量は多くなって溢れていた。
「頼むから勝ってくれよ。……あの子がかわいそうだからな」
真治はヘルメットを被り、バッターボックスに入る前に屈伸したりして体を解した。龍也のいうことが本当なら、チャンスはこの回だけ。ま、攻撃もこれが最後だからいいか。まずは、
「オレが出て勢いをつけないとな」
真治はぎゅっとバットを構えると、マウンドに立っている榎本を睨みつけた。
榎本は荒くなった息を整えながらボールを握っていた。あと一回だ。あと3人。たった3つのアウトを獲ることで、この試合に勝てる。つまり、
「これで俺が最強のピッチャーだ。あの和田隼人に勝ったことになるんだ」
榎本は一番自信のあるストレートを初球放った。球威のあるボールが襲い掛かる。
きた!
真治はインコースに来たストレートを振り抜いた。よく見て、いっきに振り回す。
カキン!
打球は榎本の横を抜けた。鋭い打球が転がり、センターへ。
「よし! いいぞ、真治!」
「ナイスバッティング!」
真治は一塁で大きくガッツポーズをした。一塁側スタンドからも大きな声援を送られる。だが、それは一部であり、ほとんどの生徒はベンチに座り、勝ちを諦めていた。
次は二番広和。広和はふっと息を吐き、改めてこのグラウンドを見た。今こそ、やるしかない。ずっと練習したが、結局一回も成功しなかった。でも、ここで決めなければ、もう終わりだ。
広和はバットを短く持つと、バッターボックスに立ち、榎本を見た。
榎本は少し動揺していた。自信のあるボールが打たれたからだ。でが、ただの偶然だ。次は……無い。
榎本は渾身の一球を西条のミットめがけて投げた。広和は大きくフルスイングした。しかし、ボールはバットには当たらず空振り。
「ストライク!」
主審の声が響いた。
「ナイスボール!」
西条は榎本に返球した。
「何してんだよあいつ! 初球からぶりやがって」
俊介は怒りに任せベンチを拳で叩いた。
広和はそっとグラウンドを見渡した。今のスイングで猛虎学園のナインは少し下がっている。低位置から少しばかり後ろにいた。
広和は小さく口元を緩ませた。作戦通りだ。
二球目。榎本は次はストレートではなくチェンジアップを投げてきた。広和はぎゅっとバットを握った。
「これを待ってたぜ!」
そこで球場にいる全員が驚いた。広和がバントしたのだ。それも、バットのグリップにボールを当てたのだ。ボールは一塁側に転がった。
「よし!」
広和は一塁めがけてもう猛ダッシュした。
「クソ!」
一塁の一鷹は少し遅れてバント処理に走った。まさかあの構えからバントするとは思わなかった。完全に不意をつかれた。それに少し下がっていたせいか遠くに感じる。榎本は疲れて体が重く、バント処理に行ってない。
一鷹はボールを掴むと一塁に投げようとした。すでに広和は一塁まであと数メートルである。一鷹は慌てて投げた。広和は頭から突っ込んだ。
「クッソー!」
広和が一塁に着いたのとセカンドの皇乃がボールを掴んだのはほぼ同時。みんな固唾を呑んで一塁審の判定を待った。審判は手を広げた。
「セーフ! セーフ!」
「よっしゃ~!」
広和はその場に立ち上がって吠えた。
「いいぞ、広和!」
「お前はやるやつだと思ったぞ!」
そして三番の直人。直人はそっと榎本を睨みつけた。未だにオレだけノーヒットだ。だから、ここで打つしかない。
直人はぎゅっとバットを構え、榎本を睨みつけた。榎本は肩で激しく息をし、一塁と二塁を見た。
「これ以上俺に恥をかかせんな……」
榎本は直人を睨み、初球疲れていようとおもいっきり投げた。剛速球が襲い掛かる。そのボールを直人は綺麗に打った。
カキンッ
打球はレフトへ。鋭いボールが海道と赤織の間を抜けた。
「よっしゃ! いいぞ、直人!」
「ナイス!」
直人は一塁で小さく笑みを浮かべながらガッツポーズをした。そのとき、ようやくスタンドから応援が聞こえた。少しは意欲が涌いたようだ。吹奏楽部の演奏も聞こえる。
俊介はバッターサークルでぎゅっとバットを握った。ノーアウト満塁。差は4点。チャンスだ。絶対的なチャンス。ここで打たなければ……終わる。自分は四番。天龍打線の中心。失敗は許されない。
俊介は歩き出した。打席へと向かう。何も聞こえなかった。全てが無になった気がした。自分の鼓動だけが響いてくる。激しく脈打ち、頭の中が真っ白だった。
打席に入り、榎本を見る。榎本が一呼吸置き、投げてきた。
来る。初球だ。ストレートを振れ! 今振るんだ!
俊介はバットに力を込めた。だが、
「ストライク!」
振れなかった。体が動かない。見逃してしまった。
「何やってんだよ! チャンスだぞ!」
真治が三塁から叫んだ。
「おい、俊介!」
広和も二塁から叫ぶ。
「あいつ……」
龍也がバッターサークルで呟いた。ここでプレッシャーを感じたか……。
俊介は打席の前でうつむいていた。わからなかった。今自分が何をしているのか。どういう状況に立っているのか。体が震える。力がうまく入らない。自分は、どうなったのだろうか……。そのときだった。
「俊介!」
俊介はハッと顔を上げるとベンチを見た。そして呟いた。
「隼人……」
そこには隼人がいた。腕を抑え、ベンチから身を乗り出していた。
「バカヤロー! 何やってんだよ! お前はこんなプレッシャーで負けてんのか! 自信もて! お前はいつも誰よりもバット振ってきたろーが!」
俊介はふっと息を吐き、バットをぎゅっと握った。
「悪かったな、隼人。……ここで打たなきゃ」
俊介は榎本を睨み、バットを大きく構えた。
「男じゃねーよな!」
次の球。榎本は高速スライダーを投げてきた。それを俊介は打ちファール。
「打てるぞ、俊介!」
直人が一塁から声をかける。同じように、スタンドからも大きな歓声が送られた。
「次は打ってやる」
俊介は笑みを浮かべる。榎本は荒くなった息を整えながら対峙していた。
「打たせるかよ……」
榎本は渾身の一球を投げた。綺麗に逆回転したストレートが来る。俊介はバットを振り抜いた。
カキンッ!
乾いた金属音が球場全てに響いた。高く上がった打球を追っていく。誰もがその行方を追い、目を奪われた。
勢いのあるボールが少しずつ失速し、地面へと落ちてくる。
「落ちろ!」
「抜けろ!」
「頼むから落ちてくれ!」
スタンドから割れんばかりの声が広がる。打球はセンターのフェンスに落ちてくる。際どいところで、入るか入らないかのところだった。
センターの神風は見上げると、そっと笑みを浮かべて手を上げた。
「捕るな! 捕らないでくれ!」
「入ってくれ!」
打球が落ちてきた。ボールは神風のグラブに近づいてくる。
そのときだ。神風は目を細めた。太陽の光が眩しい。目に入ってきてボールの行方がわからない。そのとき、神風は激しく動揺した。ボールがグラブに当たってこぼしてしまった。そのまま地面に落ちて転がった。
「落ちた!」
「走れ!」
隼人が声を出し、真治、広和、直人が一斉に走り出した。
「何やってんだ! 神風、中継だ!」
ショート赤織が神風に声を張り上げる。神風は慌ててボールを拾うと赤織に投げた。
「ちっくしょ!」
赤織はボールを貰うとすかさずバックホームした。しかし、すでに真治はホームイン。そして広和も戻ってきた。
「よっしゃ~!」
「2点取ったぜ~!」
真治が大声で叫んだ。それと同時に一塁側スタンドから大きな歓声が上がった。耳が壊れるくらいの大歓声が送られる。直人は三塁で止まり、俊介は二塁で胸に手を着きながら立っていた。
あ、危なかった。捕られていたらどうなっていただろうか。でも、これで……。
俊介は後ろを振り返り、バックボードを見た。九回の表。そこに大きく数字で2と書かれてあった。これで2点差。自分が還れば、とうとう同点。あの王者猛虎学園相手に追いつく。
次は五番の龍也だ。龍也はふっと息を吐きバッターサークルから立ち上がった。心臓が激しく鼓動していた。今の状況を考えると、自分が打つしかない。ここで同点にしなければ、決勝まで来て敗れる。すべては、自分の一打にかかっていた。責任を感じる。こんな状況、初めてだった。そのとき、後ろから隼人が声をかけた。
「龍也」
龍也はそっと後ろを振り返った。すると、隼人が拳を突き出してきた。
「お前はずっと責任感じてたろ。あのときから……」
あのときとは、おそらく龍也が野球部を潰そうとしたときのことだろう。確かにそうだった。あの日からいつも思っていた。あのときの償いをしたいと。
「ここで打って、お前がいてくれて良かったって、思わせてくれ」
隼人はにやっと笑った。その笑顔を見て龍也も小さく笑う。
「ああ、同点、いや逆転して、ここに戻ってきてやるよ」
龍也は隼人の拳に自分の拳を軽く当てると打席に向かった。
ノーアウト二、三塁。一打逆転のチャンス。
龍也はふっと息を吐きバットを構えた。今こっちには勢いがある。大丈夫だ。いつものバッティングをすれば、きっと打てる。
榎本はランナーを気にしながら初球ストレートを投げてきた。龍也は歯を食いしばって力強くバットを回した。
カキンッ!
鋭い打球がライトへ。弧を描いて飛んでいく。ライトの松本は必死に走ってくる。そして地面に落ちた。
「行け!」
直人と俊介が走り出した。次の塁めがけ、点を取りに走る。
「これ以上簡単に点を上げるかよ!」
松本がボールを掴むとバックホームした。矢のような返球が来る。その間に直人はホームイン。俊介も続いて走ってくる。
「俊介!」
「突っ込め!」
俊介が頭から突っ込んだ。そして西条がライトからの返球を受け取るとブロックにきた。
「これで終わりだ!」
ホーム上で激しいぶつかり合いが生じた。痛々しい音が響く。
二人はぶつかると吹っ飛んだ。西条は後ろに転がる。俊介はその場に倒れ、手はホームの上に。審判が判定をする。みな固唾を呑んで見守っていた。そのとき、審判は気づいた。ボールは西条の手を離れ転がっていた。
「セーフ! セーフ!」
「よっしゃ~!」
「同点だ!」
真治と広和が飛び跳ねて喜んだ。
「やった! やった! みんなすごい!」
灯が大きく拍手した。縁は呆然と見ていた。隼人は左手でぐっと拳を握り、笑みを浮かべた。龍也は三塁で拳を突き上げた。
直人は俊介のそばに行くと肩を貸し立たせた。俊介は痛そうにしているが嬉しそうに笑っていた。
そのとき、一塁スタンドから大きな歓声と拍手が送られた。それに応えるかのように、俊介は手を上げた。
これで6‐6の同点。未だノーアウト三塁のチャンス。逆転の可能性は十分にあった。
勇気はバットを握り締めながら震えていた。こんな大事な場面で自分。いいのだろうか。自分が出て、いいのだろうか……。
そのとき、後ろから隼人が左手で背中をバチンッと叩いた。
「なにしけた面してんだよ」
「隼人くん……」
「見ろよ。三塁でお前の親友が待ってるぜ」
隼人は三塁の龍也を指した。勇気も三塁を見る。
「中学時代、あいつを助けることができなくて悔しかったんだろ。だったら、今こそ救うときじゃねーのか?」
その言葉で勇気は力強くうなずいた。そして、バッターボックスへと歩き出した。
榎本は膝に手を着きながらうつむいていた。俺のボールが打たれた? 同点にしてしまった? この俺が? 王者猛虎学園の俺が? 史上最強のエースの俺が……。
そのとき、榎本の胸倉を掴まれ顔を上げさせられた。目の前には西条がいた。
「なにやってんだ、榎本」
「西条……」
「周りを良く見てみろ」
榎本はそっと後ろを振り返った。猛虎学園のナインはマウンドに集まらずその場にじっと立っていた。どんなボールが来てもいいように守備の体形を作っている。
「わかるか? みんなお前を信じてるんだ。こんなところで負けない。お前ならきっと抑えられるってな」
「……みんな」
「いつまでも落ち込むな。まだ同点だ。どうせ次の回で点取って勝つんだ。……先輩たちの夏をここで終わらせるな」
榎本は帽子を被りなおすとうなずいた。西条もうなずくと、ボールを渡して戻っていった。
榎本はボールを握ると笑みを浮かべた。ありがとな、西条。こんなところで落ち込んだらエースの恥だな。やっぱり、
「俺は最強だもんな」
初球、榎本は渾身のストレートを放った。勇気はバットを振るが当たらず空振り。
「やっぱり俺って天才」
西条は榎本に返球すると笑みを浮かべた。やっとお前らしくなったな……。
勇気は焦った。球威が戻った感じがした。疲れているはずなのに、まだあんな元気があるのだろうか。初球も打てなかった。でも……。勇気はチラッと龍也を見た。
「絶対、還すから」
榎本が凄まじいボールを投げてくる。勇気はバットを回してファール。何球も続き、いつしかフルカウントになっていた。
そして榎本は笑みを浮かべてストレートを投げた。勇気はボールを良く見てバットを振った。
カキンッ!
綺麗にジャストミートしたボールが飛んでいく。ピッチャーの真上を飛ぶ。榎本はすかさず腕を伸ばした。そのときボールが榎本のグラブが当たった。中に入っている。しかし、勢いのあるボールはそのままグラブから離れた。そして榎本の後ろに落ちた。
「龍也、走れ!」
俊介が叫ぶ。だが、そんな必要はなかった。すでに龍也は滑り込んでホームインしていた。龍也はユニフォームに着いた汚れを払い落とすと笑みを浮かべた。
「わかってたよ。勇気は絶対に打つ。そして、オレをホームに還すってな」
アウトになって還ってきた勇気は、龍也を見ると笑みを浮かべてうなずいた。
そして七番の隼人は三振。八番の信一はショートゴロで九回は終わった。
しかし、天龍高校はついに逆転した。7‐6。1点差。天龍高校スタンドは息を吹き返し、大きな歓声を送ってくる。猛虎学園スタンドは逆に静まり返り、信じられないという表情をしていた。
隼人はベンチに座りながら笑みを浮かべた。これであとは俺が抑えれば勝てる。やっと甲子園が見えてきた。隼人はふらふらになりながらも立ち上がった。
すると、縁が両手を広げて立ちふさがった。頬には涙が伝ったあとがあり、必死で隼人を止めようとしている。
「隼人さん。……もういいです。これ以上は投げないでください。もう限界のはずです。だから……だから……」
「縁……」
「もういいじゃないですか。他の人が投げれば、それでいいじゃないですか。隼人さんが、無理して投げる必要はありません」
縁は目を瞑り、涙が頬を伝わせた。隼人は縁にそっと抱きついた。そして左腕だけで優しく包む。
「隼人さん……」
「縁。俺、投げなくちゃダメなんだ。ここで諦めたら絶対後悔する。……縁と甲子園に行きたいんだ。約束を果たして、お前が喜んだ顔を見たいんだ」
「隼人さん……」
「縁……」
隼人は耳元にそっと囁いた。前から言おうと思った言葉を。伝えたかった言葉を、はっきりと口に出した。
「好きだよ……」
「え?」
隼人は縁から手を離すとマウンドに向かった。縁は振り返って隼人を見た。
「今……隼人さん……」
隼人は気合を入れて鋭い目つきになった。あと3人。3人を抑えれば、甲子園だ。
「うおおおお!」
隼人は気迫を込めた剛速球でストライクを奪いにいく。腕が焼けるように熱くなろうと、針で刺されたように痛かろうと、激痛で視界が定まらなくても、体が覚えているとおり投げる。
もう悔いを残したくない。縁の泣き顔を見たくない。だって……。そのとき、隼人の頭の中で縁が満面の笑みで笑っている姿が映し出された。あの笑顔を見たいから。
隼人は一番の神風、二番の皇乃を三振で終わらせた。だが、そのときだ。
「うっ!」
隼人は咄嗟に腕を抑えた。腕が震え出した。握力もほとんどない。これ以上投げれるのだろうか。
いや、それでも投げる。もう、俺以外に投げれるやつはいないんだ。しかし、三番の海道が粘り強く打った。打球はセンターへ飛んでいきヒット。
「くそ……」
「隼人さん……」
縁は涙を流すとその場に座り込みうずくまった。見たくなかった。あんな苦しそうな姿、見たくない。止めても止まらなかった。あんな姿を見たくなかったから。
「隼人さん……」
そんな姿を見て灯は拳をぎゅっと握ると叫んだ。
「縁ちゃん!」
縁は体がびくっと反応した。そして恐る恐る顔を上げて灯を見た。灯は溢れる涙を流しながら必死に叫んだ。
「どうして最後まで見てあげないの! どうして見届けてあげないの! 今隼人くんは辛くても、苦しくても戦ってるんだよ。それは誰のためなの! それは縁ちゃんのためでしょ! 縁ちゃんのためにあそこまでなりながらも投げてるんでしょ! なのに……なのに……縁ちゃんが隼人くんを応援しなくてどうするのよ!」
そこで縁は思い出した。そうだった。自分はいつも応援していた。隼人のために。隼人が苦しくても、少しでもその苦しみを和らげようと思って、いつも信じて応戦してきた。なのに、今大事な試合で自分は……。
縁は涙を拭いて顔を上げると立ち上がった。ありがとうございます、灯さん。
隼人は右腕をぶら下げながら息を整えていた。あと何球投げられるだろうか。150キロは出るのだろうか。何も聞こえない。全てが無に包まれたようだった。
俊介が何か叫んでいる。隼人は笑った。ダメだ。何も聞こえない。勝ちを諦めたそのときだった。
「隼人さん! 頑張ってください!」
隼人ははっとして顔を上げた。今、縁の声が。
隼人はベンチのほうを向いた。そこにはあの硬球を握り締めながら大きな声で一生懸命応援している縁の姿があった。
「隼人さん! 頑張ってください! 絶対勝てます! 隼人さんならできます! だから、頑張ってください!」
隼人は応援する縁の姿に釘浸けになった。そしてそっと口元を緩ませた。
それが、聞きたかった。その応援だけが、縁の声だけが、いつも自分の心に響き聞こえていた。その応援で、どれほどの窮地を脱したか。やっと……やっと、聞こえた。
「縁……ありがと」
隼人の目にはうっすらと涙がにじんでいた。それを袖で乱暴に拭うと、ポケットから縁がくれたお守りを取り出した。
「縁、甲子園、行こうな……」
隼人はぎゅっとボールを握った。あと一人だ。あと一人で、甲子園に行けるんだ。
隼人はボールを掴むと次のバッターを見た。次は四番の西条だ。西条は大きくバットを掴み、隼人を睨んでくる。
「お前らはよくやった。王者相手によく戦った。だから、ここで俺が終わらせてやる」
隼人は笑みを浮かべた。
「悪いな。終わるのは俺たちじゃない。お前たちだ」
初球、隼人はストレートを放った。149キロのボール。それを西条は打った。しかし、打球は惜しくもファール。そして次もファール。次のボールもファール。両者一歩も譲らずファースが続く。2人とも息を荒くし対峙していた。
俊介は西条を見上げながらじっと考えた。次はどこに構えようか。今のこいつにはどこに投げようと打ってくるだろう。隼人と西条。2人はあの事件以来から別々の道へ歩いていった。今こうして対決している。
そこで笑みを浮かべた。隼人。もしかしたら、神様はこうなることを知っていたのかもな。
俊介はミットの中をパンと叩くと、ぎゅっとあるコースに構えた。
隼人はマウンドから俊介の構えたコースを見た。
「俊介……」
俊介はアウトコースギリギリに構えた。それは、隼人が中学時代の最後の大会で、西条が構えた場所と同じだった。
俊介は微動だにせずそこに構えていた。絶対捕る。死んでも捕まえてやる。だから、おもいっきり投げて来い。
隼人はそっと笑みを浮かべ、顔を上げた。あいつ絶対に狙ってやがる。そこがあのときのコースと同じだと知ってやがる。でも、
「俺はお前を信じて投げるぜ。監督に言われたからな、お前はチームメイトを信じてないって」
隼人は大きく振りかぶった。ワインドアップだった。それを見た海道は二塁へ走る。隼人は構わなかった、どうせ、この一球で終わりなんだ。
隼人の右手から渾身の一球が放たれた。右腕が悲鳴を上げている。傷みが猛烈に走ってくる。それでも、隼人は力を緩めることはしなかった。全ては、縁のために。
放たれたボールが俊介の構えたところに向かって来る。西条はおもいっきりバットを振った。完璧に捉えた。これで、終わりだ……。
縁はベンチの中でぎゅっと硬球を握り締め神に祈り、そして思いっきり叫んだ。
「隼人さん!」
ホーム上で凄まじい音がした。球場全体が静まり返り、その光景を活目していた。誰も動かず、ボールを行方を追う。
俊介は家宅閉じていた目をそっと開けた。そしてミットの中を覗き込む。その中には、汚れているが、白い硬球がしっかりと収まっていた。球速は155キロの最高のボールだった。
「アウト! アウト! ゲームセット!」
主審が叫んだ。それと同時に一塁側スタンドから大きな歓声が上がった。耳が壊れるくらいの大歓声だ。
「あいつら、やりやがった……」
前川は信じられないという顔をしていた。
「……よくやったな。おめでとう、俊介」
京介はそっと笑みを浮かべた。
「やった! やったぞ! あいつら勝ちやがった!」
千石はその場で飛び跳ねて喜んでいた。
「勝ったぞ! 隼人が勝った!」
「あいつやっぱすげぇ!」
朱雀高校の隼人の中学時代のチームメイトも大いに喜んでいた。
「か、勝った……。勝ちましたよ! 天龍高校が勝ちましたよ!」
川端は身を乗り出して叫んだ。
「ああ。これで、あいつらは最後の決断をしなければならなくなった……」
森本はそっと立ち上がると川端に手を出した。
「ほら、約束の掛け金渡せ」
「あ、そうでしたね……」
川端は苦笑いを浮かべた。
鬼塚監督はベンチ裏でふっと息を着いた。
「よくやった、和田。これで、俺も満足だ」
鬼塚監督はそっとサングラスを外した。その目には、うっすらと涙の跡があった。
隼人はそっと右腕を抑えた。もう力も何も感じない。右腕がないような感覚だ。でも、もうよかった。もう終わった。
そっと空を見上げた。今気づいた。空は雲一つない快晴で、透き通ったように綺麗だった。
「空って、こんなに綺麗なんだな……」
すると、前から俊介が勢いよく抱きついてきた。
「よくやった! よくやったぞ! 隼人!」
そして後ろからも、龍也や直人、真治に広和が飛びついてきた。
「やった! やった! 優勝だ!」
「あの猛虎学園に勝ったんだ!」
「これで甲子園だ!」
そこで隼人は気づいた。そっか、勝ったのか。これで、甲子園に行ける。俺は、約束を果たしたんだ……。
隼人はそっとみんなから離れた。そして歩き出した。
「隼人?」
隼人はベンチに向かっていた。一人の人物目指して前に進む。その人物の前に立つとそっと呟いた。
「縁……」
縁は硬球を握り締めながら、大粒の涙を流しながら、潤んだ瞳で隼人を見つめていた。隼人の姿はぼろぼろだった。ユニフォームは汚れ、体はふらふらで、目は死んでいるようだった。
「隼人さん……」
「縁……」
隼人はそっと笑みを浮かべた。
「これで、甲子園に行けるな」
そこで縁は硬球から手を離すと隼人に抱きついた。
「隼人さん!」
縁はきつく抱きしめた。
「本当に……本当に……ありがとうございます。私……私……嬉しくて。すごく嬉しくて……。私、何もできませんでしたけど……隼人さんに何もできませんでしたけど……。本当にありがとうございます」
縁は泣いていた。ぽろぽろと涙を流し、溢れる喜びで感激していた。
そこで隼人はやっと実感した。今自分は約束が果たせた。縁が、甲子園にいける夢が叶ったのだと。
隼人はそっと腕を上げると縁を抱きしめた。本当によかった……。
その2人の光景を、みな静かに見守っていた。
次の日、その写真が全ての新聞や雑誌に大きく飾られてあった。
『幼いころの約束。ついに果たされる!』
『エースとマネージャーの想い。甲子園への夢、今開かれた』
どれもその一面で盛り上がっていた。
「いや~、あんなお熱い姿を公衆の面前で見せたからな。どれもそればっかり」
俊介がいうと、みんな隼人と縁をにやにやしながら見ていた。隼人と縁は顔を真っ赤にしながら恥ずかしそうにうつむいていた。
「あ、あれは、その……ね、隼人さん」
「そ、そうだよ。仕方なかったんだ。ずっと前から約束してたから。それで、つい……」
そんなことは関係なく、みんな変わらずにやけていた。
「ああ~。オレも彼女欲しいな~」
広和が呟いた。
「そうだすね~。お2人がうらやましい」
翔一がうなずく。
「いっそ結婚したらどうだ?」
真治が調子に乗ると、隼人が真治の頭を殴った。
「お、お前腕壊したんだろ。じっとしてろよ!」
「うるさい! お前は調子乗りすぎなんだよ!」
真治は一生懸命逃げ回っていた、その後ろを隼人が追いかける。みんなその光景を見て大きな声で笑っていた。
部室の端っこには、紅蓮の優勝旗と真っ白な賞状、輝くトロフィー、そしてみんな汚れていても笑顔で映った写真が飾られてあった。