第八章
感想お願いします
雷が二回落ちたのだ。
辺りは深く暗い真っ黒な空間になっていた。山内は腕時計を見た。蛍光色に光る時計が指し示す時間と彼が思っていた時間はほぼ一致していた。
体育館のかべは数箇所崩れ、外からでも中の惨状が伺える。目が暗闇に慣れるにつれ、状況が分かってきた。酷い光景だと思った。雷は体育館の屋根に直撃し、屋根はガレキと化し床に落ち、それが山のように重なっている。人が下敷きになっているとすれば、おそらく即死しているだろうと彼は思った。
「くそっ」
あの嫌な記憶が蘇ってくる。材木の焦げたような臭いのせいだ。家々は焼かれ崩れ落ち、多くの人間がそれに巻き込まれ、命を落とした。あの残酷な風景が頭を過ぎったのだ。
「・・・」
あの感情に飲まれそうだ・・・ここで飲まれたら今までの全てが無駄になってしまう!
ガタンと音が鳴った。その音で山内は我に帰った。ガレキの崩れ落ちる音、歪む音が時折鳴っている。焦げた臭いが辺りに漂っていた。
「ひどいものだ・・・」
そう呟いた。この高校を含め、周辺の電気は全て落ちている。明かりは全くない。大規模な停電が起きているようだった。
突如、嫌な予感がした。弾かれたように山内は体育館から離れた。気が焦り、足が思うように動かない。
急げ!
山内は唇を強く噛んだ。
急ぐんだ!
突然、辺りは眩いばかりの光に覆われ、凄まじい音に支配された。
「!」
雷音と雷光に圧倒され、とても立っていられない。世界は白くなり、世界は砕かれ、空気が張り裂けるような轟音が鳴り響いた。世界の終末のように思えた。
だが、そう思った直後に世界は再び暗く静かな世界に戻った。焦げたような臭いが鼻につく。彼は立ち上がって、視線を体育館にやった。手が震え、恐怖からの支配がまだ続いている。
「あいつ・・・」
そう山内は呟いた。そして前を見た。
いずみは、倒れている佐川に駆け寄った。暗く、よく見えなかったが、ぐったりしている彼女の様子はすぐに分かった。
「里美ちゃん!」
そのいずみの叫び声から少し経って佐川の返事が返ってきた。かすれた声だった。
「大丈夫です。それより・・・」
佐川は立ち上がろうとしたが、よろけ、壁に右手をついた。
「吉野先輩を追わないと・・・」
彼女はそう呟いた。
「そんな体じゃ無理だわ!」
「じゃあ、どうすればいいんですか!」
強い口調になっていた。
「それは・・・」
「前園は吉野先輩の体を乗っ取って、中夜祭最中の体育館に雷を落としたんですよ! 止めないと! 吉野先輩を取り戻さないと!」
その声は必死だった。
「・・・」
いずみは何も言い返せなかった。佐川の言っていることが正しいと思ったからだった。
「だけど!」
佐川は壁を伝い、足を引きずりながら、部室の出入口の引き戸に向かっていた。いずみはそれを遮った。
「いずみ先輩、どいて下さい」
「そんな体で、行かせる訳にはいかないわ!」
「いずみ先輩!」
佐川の声にいずみは首を横に振った。
「いずみ先輩、分かって下さい!」
そう言った瞬間に佐川の体はよろけ、レゴが並べ置かれている棚に掴まった。
「僕がいく」
呟く声が聞こえた。村田の声だ。
「えっ・・・」
いずみは驚きの声を上げ、反射的に振り向いた。
「危険だわ! あの前園君を相手に無事でいられる訳がない! それにいったいどうやって吉野君を救うって言うの!」
いずみは村田にそう叫んだ。自分でも取り乱していると思った。何故否定的な意見しか言えないのかとも思った。
自分は否定的なことばかりを言っている。何も提案できていない。それでいい訳がない。それは自分でも分かっている!
「いずみ先輩・・・僕は親友だっていうのに吉野に何もしてやれなかった。家族が亡くなったときも、家族がいると思い込み始めたときも、僕は何もできなかったんです」
「だからって・・・」
「今しかないんです。今を逃したら、吉野を救う機会はもうないかもしれないんです」
村田は部室の入口の引き戸を開けた。暗く廊下は何も見えない。深く黒い闇がそこにはあった。彼は自分の心を落ち着かせようと深い呼吸をした。
覚悟を決めなければならないと思った。村田は静かに廊下に出た。
「村田君!」
いずみの叫び声に村田は振り向かなかった。彼はゆっくりと歩き始め、やがて廊下の暗闇に消えていった。
「村田君!」
彼を追って廊下に出た彼女はもう一度その名を叫んだ。悲痛な声だった。
いずみの頬に涙がつたって落ち、もはや心を占領する不安を払拭するのは到底不可能に思えた。彼女は床に膝を着いた。村田が心配でならなかった。
雨粒が落ちる音がしていると思った。
徐々にその数は多くなり、やがて秋の大雨に変わった。
山内は体育館から出てすぐの生徒館と管理棟の間の渡り廊下に立っていた。辺り一帯は停電で電気は落ち、明かりは全く存在していない。携帯を開いたが、落雷の影響か電源は入らなかった。まるでこの付近一帯が電気のない世界になっているようだと彼は思った。
「・・・」
暗闇の中から聞こえる雨音は不気味なものに感じる。彼は渡り廊下からクラブハウスと校庭を眺めていた。
「君は無事だったんだね」
後ろから声がした。山内は、ゆっくりと後ろを振り向いた。
「お前か・・・」
「俺だ!」
その声の主は怒りを爆発させたように突然山内に襲い掛かり、彼の横腹に蹴りを入れた。
「がっ」
二、三メートルの距離を飛ばされ、彼はコンクリートの床に転がった。続けてその声の主は倒れている山内の胸ぐらを掴み、片手で生徒館の壁に山内を投げ飛ばした。
「ぐお!」
山内は壁に凄まじい勢いで打ち付けられ、呻き、それきり動かなかった。とても人間業のものとは思えない。相手はにやっと笑って、山内に歩き近づいた。愉快な気持ちになっていた。
「さあ、立ち上がって下さい」
が、そういい終わった瞬間に横から何者からの体当たりをくらった。大粒の雨の中に飛ばされ、泥を被り、倒れた。
「ぐっ」
だが、その体当たりを仕掛けた人間自身もバランスを崩し、少し離れたところで倒れ、泥を被った。体当たりをされた前園はゆっくりと立ち上がった。
雨は少し小降りになっている。
「いきなりひどいな・・・むらっち」
口に入った泥を吐き捨て、その男は言って立ち上がった。
「前園・・・お前・・・月見台の生徒を! これで未来を変えるっていうのか! こんなの許されると思っているのか! お前、何様のつもりだ!」
「そんなに取り乱さんな。必要なことだったんだ。しょうがないだろう?」
「な!」
村田は一瞬にして怒りに囚われ、立ち上がり、前園に殴り掛かった。村田の拳は前園の頬をかすったが、その瞬間に前園の拳が村田の腹部に当たった。村田は前かがみの姿勢となり、そのタイミングで彼は後頭部を殴られ、再び彼は倒された。
「ぐおっ」
間髪入れず前園は村田の背中を蹴り上げた。
「痛いじゃないか、ああ?」
前園はそう怒鳴りながら何度も村田に蹴りを加えていた。村田はその中でどうにか前園の足を掴み、力の限りそれを引っ張った。前園の体勢が崩れ、彼は倒れた。水溜りの水が跳ねる。
「お前! あの中には全校生徒に近い人数の生徒がいたんだぞ! それを!」
村田は立ち上がり、そう叫んだ。
「そつらが死んだからって、何がどうだというんだ! 邪魔をするな!」
前園も立ち上がり、そう怒鳴り返した。そして早口で何かの呪文を詠唱し始めたが、何も起こることはなかった。彼はズボンのポケットに手を入れ、それを確認した。
「ちっ」
彼はすぐに舌打ちをした。
そしてズボンのポケットから手のひらより一回り小さいプレートのようなものを出した。
カラフルで何かの幾何学的な模様が彩られていたが、さっきの衝撃が原因なのだろう、表面は割れ、剥がれ、個々の部品も幾つか外れていた。
「レゴ・・・?」
暗く、よく見えなかったが、それはレゴで作られたもののようだった。
「これじゃあ、術式が実行出来ないじゃないか。それどころか飛ぶことすら出来ない」
雨音の中でそんな声が聞こえてきた。前園はそのプレートをしばらく見ていたが、突然、それを片手で強く握り、潰し、破壊した。
「お前、許せないな・・・お前のさっきの体当たりでこうなったんだ・・・」
前園はそう言って泥で汚れた右手で村田を狙った。
「死ねよ」
そう言って前園は連続して数発の衝撃波を撃った。逃げる間もなく、村田は衝撃波に当たり、宙に浮き、更に後続の衝撃波に打たれ、数メートルの距離を飛ばされた。
「がっ」
暗い雨の中で村田は背中から地面に叩きつけられた。その衝撃で彼は動けず、もがき、激しく咳き込んだ。苦しいと思った。だが、彼は咳をしながら、どうにか立ち上がり、真っ直ぐに前園を睨み見た。
「ちっ」
前園は苛立ちを感じ始めていた。雨に打たれ、泥まで被っている自分のこの状況に苛立っていたのだ。
その原因は目の前の人間のせいだ!
「お前、死ね!」
空間はトルネードを成し、衝撃波となって迫ってくる。だが、村田は逃げることも叶わず、飛ばされ、地面に叩きつけられ、泥の中で転がり、止まった。
雨に打たれる自分を認識していた。その中で村田は呟いた。
「これで・・・」
「あ?」
「これで・・・未来はお前の望んだ通りという訳か・・・」
「あ? そうだよ」
体中に痛みを感じていた。突然、雨が強い大粒のものに変わった。気のせいか鉄骨の軋む音が聞こえてくる。不気味な音だと思った。
体育館の方からなのか・・?
立とうとしたがすぐに足が崩れた。
「おお、結構ダメージは受けているみたいだな」
前園がにやっと笑った。
突然、彼の右手に長さ一メートルの幅二センチ角材が現れた。
「この手の角材は文化祭だけにいっぱいあるな・・・」
そう言ってそれを引きずり、前園は倒れたままの村田に向かって歩き始めた。
電気はまだ戻っておらず、部室の中は暗いままだった。椅子に座らず立っていたいずみは窓の方向に視線をやった。
外で何か起こっている・・・。
いずみはそう思った。
村田君だ。
それは直感だった。窓側まで行き、外の様子を伺った。大粒の雨が降っているが風はもう止んでいた。さっきまで鳴っていた雷も、もう何処かに消えてしまい、その気配すらなかった。
「あっ!」
彼女は思わず声に出した。
暗く雨の降る校庭に一人の男子が倒れている。白いワイシャツが泥で汚れ、その部分は黒い闇と同化していた。立ち上がろうとしても、足は崩れ、それでも尚、立ち上がろうとしている。彼の足は自身の体重を支えることが、もはや出来ていなかった。
「どうして・・・」
いずみの声は震えている。この状況を見て平静でいるのは難しい。彼女は動揺していた。
「いずみ先輩・・・?」
壁に当たった右肩がまだ痛い。佐川は肩を抑えながら、いずみにそう言った。
「村田君が・・・村田君が・・・」
いずみはその言葉を繰り返し言った。
佐川はよろけながらもパイプ椅子から立ち上がり、壁の棚をつたい、いずみの隣まで行った。そして外の様子を見て、その状況に絶句した。
山内は土に顔を付け、うつ伏せに倒れていた。
前園は木の棒が引きずり、それは細かい砂利に当たり、カリカリと音を鳴らしている。山内はゆっくり目を開け、前園が倒れている村田に接近している状況を目にした。
「あいつ・・・」
村田先輩を殺す気だ・・・。
その状況を予想し、背筋が寒くなった。頭がはっきりしない。後頭部からは血が流れ、それからは生温かさを感じる。体がしびれ、自由がきかない。
「くそっ」
山内は生徒館の校舎横に積み重ねて置いてある木材を横目で見た。どこかのクラスが余った材料を置いたものなのだろう。山内はなんとか立ち上がり、その中から長さ一メートル程の角材を手に取った。
これぐらいはまだできる!
山内は右手を上げ、村田を指差した。その瞬間、長さ一メートルの角棒は一瞬にして消え、村田の前に現れ、彼の足元に転がった。
山内の口から血が溢れ、彼は咳き込んだ。
「ああ?」
前園は振り返り、山内を見た。
「お前、本体に手を上げるつもりなのか?」
「・・・」
「お前、目的を忘れてないか?」
声は怒りに満ちた声だ。
「僕の分霊の分際で僕に歯向かうとは。役割を忘れ、人間ごっこをした挙句、僕を裏切るのか!」
その怒鳴り声はクラブハウス二階の窓から顔を出している佐川といずみにも聞こえた。
「山内君が分霊って、いったい・・・」
佐川はそう呟いたが、それ以上何も言わなかった。驚きでなにも言えなかったのだ。
「里美ちゃん、山内君って・・・」
「・・・あたしと同じクラスの男の子で、あたしが・・・好きだった人です」
いずみはその言葉にはっとして、生徒館の校舎を背に立つ一人の男子生徒を見た。弱り、立つのもやっとな様子だ。
前園はゆっくりと右手で空気を払う仕草を行った。その瞬間、山内の体は校舎の壁に押さえつけられた。
「ぐおっ」
山内のうめき声が聞こえた。
「山内君!」
佐川は叫んだ。
「あれ?」
前園は意外そうな顔をした。
「なんだ、お前、えらく弱いじゃないか! 怠けていたせいで力が弱くなったのか?」
「・・・」
山内はその質問に答えなかった。
「三年も僕から離れて、随分青春を満喫したみたいだな? お前が何もしなかったから、僕は自ら過去に飛ばなくてはならなかった。お前は三年の間、何回も機会を逃している。そして力をなくし、挙句、役立たずに成り下がったのか!」
山内は血を吐き、かすり声で答えた。
「・・・お前の計画には合意なんか出来る訳がない! 日本に復讐するなんて、日本を滅ぼすなんて、馬鹿げている!」
「!」
村田は山内の言葉に衝撃を受けた。
いったい何を・・・。
「ちっ」
前園の舌打ちが聞こえた。山内に苛立っていた。
「お前・・・一族が皆殺しにされた過去を忘れたのか? あの人間共に殺された一族の無念を忘れてしまったのか?」
「忘れる訳がない・・・僕はお前で、お前は僕なのだから。だが、それは数百年前ことじゃないか。今の時代とは関係がないはずだ!」
山内の声はかすれ、聞き取り難い。明らかに弱っている。
「うるさい!」
前園は怒鳴った。
「あの人間共は我々の技術を妬み、開拓した土地を狙い、我々の一族二百人を皆殺しにしたんだぞ! 私利私欲、自分の欲望のままに進んだ奴らを許せる訳がないだろ!」
「だからと言って・・・」
「この世界の人間の本質なんだよ!」
鋭い声だった。
「外から来た人間を差別し、区別し、排除する。そういった人間の手によって俺らの大切な家族は死んでいったんだ! 我々が別の場所から来た人間というだけでだ!」
「だからと言って何故今の日本に復讐をしようとするんだ! 彼らの子孫に何の罪があるっていうんだ! もう止めろ!」
山内は今にも倒れそうだったが、必死に気を繋ぎ立ち続け、そう怒鳴った。血が止まない。後頭部から顎をつたい、雫となって落ちた。
「黙れ!」
それは怒りに満ちた声だった。
「もう数百年前の過去には戻ることはできない。あの魔方陣の実力は十五年前に戻るのがせいぜいだからな! 過去に戻って一族を救うことなんてとてもできないんだよ! 時の流れを司る魔方陣を割り出すのに何百年も掛かってしまった。時間が掛かり過ぎたんだ! だったら一族の無念は奴らの子孫に責任を取ってもらうしかないじゃないか!」
雨は小雨になり、止み始めている。
「俺はずっと一族二百人の無念を晴らすためにここまできた。体が朽ち果て、意識だけの存在になっても、そのために俺は存在し続けたんだ! さっきの落雷で時間の分岐点への干渉は終わった。この日本は終わりだ! ざまあ見ろ!」
村田は二人の会話を黙って聞いていたが、とてもついて行けなかった。よく分からなくなっていた。
「一族を救うために過去に圧力を掛けた訳ではなく、一族の仇を討つために日本を滅ぼそうと過去に干渉していた・・・?」
村田はそう呟いた。
別のところから来た一族。差別され、区別され、土地を取られ、数百年前に一族を滅ぼされた・・・前園はそのときの復讐を現代にしようとしている。そのために未来が変わるこの過去の分岐点へ干渉したということなのか?
彼は半壊している体育館を見た。
さっきの言葉が本当ならもう破滅の道は始まっているのかもしれない・・・。
村田は言いようのない怒りを覚えた。抑えることが出来なかった。そして叫んだ。
「あの体育館にはほぼ全校生徒全員がいたんだぞ! それを・・・」
「ああ?」
前園が突然の村田の言葉に反応した。彼は村田の方へ向き直った。
「彼らの未来を奪ってなんとも思わないのか!」
「ああ? 何言ってるんだ?」
「彼らにはいろいろな未来があったはずだ! それを奪っていい訳がない!」
そう言って村田は山内から転送された角棒を手にし、それを支えにして自身を立たせた。そしてそれを木刀のように握り直し、前園に向けた。
「ふん、何を言っているんだ。あいつらの未来? いったいどういう未来だったんだ? 世界を変えるほどすごいものだったのか? 誰かに感動を与えるほどクリエイティブなものだったのか? 新発見を誰かがしたとでもいうのか?」
前園はにやっと笑った。
「そう、この吉野の未来のようにろくなものじゃない。皆、何の変化もない平凡な人生を歩んでいる。小さな範囲の小さな満足を心の支えとして生きている小物ばかりだ」
「・・・」
「何も言えないだろう? お前だってそうだからな。大企業で働いているからってなんなんだ? 人の役にでも立っているのか? 部下二人だけのリーダー? つまらない地位だ。それで歴史に名を残せるとでも? つまらない女に引っかかり、罵倒された挙句、離婚された。それも殺され掛かってね。それがお前が高校のときに望んだ未来だったのか?」
「・・・黙れ」
「ああ?」
「黙れ!」
村田は角棒を振りかざし、前園に向かって走り始めた。
「ふん、馬鹿が・・・」
前園はそう呟いた。
突然、雨粒が一斉に落ちる音がした。また雨が降り始めたのだ。
前園に押されていた。角棒は水を吸い、重く、滑りやすくなっている。一つの動作が終わっても、すぐには次の行動に入れなかった。暗闇で大粒の雨の中、互いの木の当たる鈍い音が不規則に鳴り、水溜まりで跳ねる音が鳴った。相手の攻めは大振りだったが、濡れた木の角棒は何度か村田の体にかすった。足下のぬかるみに何度も足を取られ、彼のバランスはその度に崩れた。
「くそっ」
そう呟いた瞬間、前園の角棒が村田のみぞおちを狙って伸びてきた。村田は自分の角棒をとっさに跳ね上げ、その軌道を逸らしたが、すぐに前園の角棒は彼の脇腹を狙って接近してきた。村田は自分の角棒でそれを受け、なんとか難を逃れた。角棒から重い衝撃が伝わってくる。防戦一方だ。
「くそっ」
もう一度同じ言葉を口にした。
村田は角棒を一旦引き、そしてばねを使い、一気に角棒を前園に伸ばした。前園は難なく角棒で叩き落とし、迫る村田に蹴りを放った。
危ない!
村田、体を曲げた。
避けきった!
そう思った瞬間、角棒が頭上から振り下ろされる動作が目に入った。村田はそれを避けようとしたものの、ぬかるみに足を取られ、泥水を全身に被り、転倒した。角棒は凄まじい勢いで彼の右肩に当たり、村田はうめき声を上げた。前園は攻撃の手を止めるつもりはないらしい。角棒の端を倒れている村田に向けた。
もう駄目だ・・・。
突然、背後が明るくなった。一瞬何が起こったのか理解が出来なかった。
そうだ! 電気が復旧し、停電が終わったのだ。
大雨の降る黒く暗い世界は、突然校舎の灯りに照らされ、明るい世界となった。大粒の雨が光の粒のように光り、世界を美しいものにしている。
「な・・・」
正面から光を浴びた前園の動作が一瞬止まった。
目が光りに慣れていないのか・・・?
村田はすばやく横に転がり、自分の角棒を手に取り、前園の右足の脛に勢いよく当てた。
「ぐおおお」
前園は呻き声を上げ、倒れた。村田はすばやく立ち上がった。
足の骨を折ってしまったかもしれない・・・。
「村田先輩! こっちに!」
生徒館の校舎を背に倒れている山内の叫び声が聞こえた。声はかすれ、力を振り絞ったような声だ。村田はその声に反応するように山内に向かって走った。
「大丈夫か?」
「僕は大丈夫です。それより・・・」
そう言って彼は身を起こし、顔を上げた。
「奴を体育館に誘導してください」
「体育館・・・?」
「奴と吉野先輩を分離します」
山内はかすれた声でそう言った。
「君はいったい・・・」
「一年の山内です。佐川さんと同じクラスの」
「そうじゃない! さっき前園が言っていたことは本当なのか?」
「・・・本当です」
「・・・」
村田は息を呑んだ。山内は言った。
「元々奴から分かれた僕には当然体はありません。この体は本来の山内君が自殺して彼の意識が消えてなくなるときに僕が受け継ぎました」
「な・・・」
村田は驚きで何も言えなくなっていた。
「だからなのか、彼の強い憧れというか希望と一緒に僕は今生きています。僕の意識はもう奴の分霊だったときとは違います。僕はこの時代を生きてみたい。そして奴がもたらす災厄を防ぎたいと思っています」
彼は微かに笑った。
「さあ、急いで行きましょう」
そう言って彼は体育館に向かおうとしたが、バランスを崩しすぐにでも倒れそうになった。
「・・・」
それを見て村田は何も言わずにしゃがんだ。そして背を貸し、彼をおぶった。そして白い光りが広がる空間の中、体育館に向かって走り始めた。
クラブハウスから村田の姿と山内の姿が見えなくなった。いずみは焦った。彼女は突き上げるような強い衝動に駆られ、部室の引き戸を勢いよく開け、廊下に飛び出した。彼女は心配でならなかった。不安で自分を止めることは出来なかった。
「いずみ先輩!」
佐川は突然のいずみの行動に驚き、そう叫んだ。そしていずみを追って廊下に出た。クラブハウスにも電気が戻り、廊下は白い蛍光灯で照らされている。いずみの姿はもう何処にも見えない。代わりに彼女のものと思われる階段を走り降りる足音が、廊下の壁に反射し、その空間に響き渡っていた。
いずみ先輩を追わないと・・・。
ダメージは残っていたが、いずみを追えないほどではない。佐川は誰もいない廊下を走り始めたが、すぐに止まった。注意して周りを伺った。そして思った。
人の気配が全くない・・・。
階段を降り、クラブハウスを出て、渡り廊下に入っても同じ感覚を覚えた。目の前には雷が落ち、屋根の半分が崩落し、全体が歪み、壁がいたる所で落ちた体育館が見える。嫌な予感を払拭できなかった。ぞっとする思いがしてならなかった。
「・・・おかしい」
村田は暗い体育館に入ってすぐにそう呟いた。
体育館の中は屋根から崩れた大小の瓦礫で足の踏み場もない状態だった。天井は大きく穴が開き、フレームの鉄骨部分は大きく歪み、その様子から三回の落雷の凄まじさが容易に想像できた。
体育館に雨が降り注いでいた。暗く、音もなく、そこは全てのものが吸い取られてゆく不気味な世界に思えた。村田は意を決して、山内をおぶったまま体育館の中を進み始めた。違和感を覚えていた。そしてその違和感は次第に確信に変わっていった。
誰も倒れていない、死体がない・・・。
中夜祭でほぼ全校生徒の人間が体育館に入っていたはずなのにだ。いったいどういうことなんだ・・・。
村田は山内を降ろして、彼に肩を貸した。
「これを見たら、前園は卒倒して怒り狂うでしょうね」
山内はそういって少し笑った。声はかすれ弱っている様子に見えた。
こんな体で前園を対峙できるのか? それに・・・。
「いったい、どうなっているんだ?」
村田が言わんとすることが分かったのか山内は頷いて言った。
「それは・・・」
がたんと大きな音が鳴った。それは体育館の入口から聞こえ、山内は視線をその方向にやった。
「前園・・・」
「何故、誰も死んでいない! 何故ここに一体の死体も存在しない!」
前園は右足を引きずりながら、そう怒鳴った。そして村田たちとの距離が十メートルに縮まったところで、彼は立ち止まり、山内を睨みつけた。
「お前の仕業なのか!」
激怒し、殺気を放っている。とても尋常な様子ではなかった。
「ああ、そうだ」
この暗闇でも前園の苛立ちが分かる。山内は毅然として、怒れる前園を睨み返した。前園は怒りに身をまかせたまま、大声で怒鳴った。
「何故、邪魔をする!」
開いた天井から小雨が入ってくる。冷たい霧のような雨だった。髪から雨粒が滴り落ちてきた。前園は唇を噛んだ。そして激怒しながらも練り上げた自分の計画が遂行されず失敗したのだと感じ始めていた。
「村田君!」
突然、いずみの声がした。クラブハウス側の入口から、体育館に入り、村田達の場所に駆け寄ってきた。
ここは危険なのに何故・・・。
「いずみ先輩!」
いずみに続くように佐川の声がした。彼女もまた村田達がいる場所に駆け寄った。前園はその様子を見て舌打ちをした。そして山内に言った。その声は怒りに満ち、背筋が寒くなるような声だった。
「お前、何をしたんだ」
怒りの感情に覆われた前園は山内にそう聞いた。山内はすぐには答えず、しばらく沈黙してから答えた。かすれた声で辛そうな様子だった。
「体育館と校舎の外にいる人間だけ未来に飛ばしたんだよ。体育館と校舎外に魔方陣を張り巡らしておいたんだ」
「え・・・?」
いずみは思わず声に出してしまった。山内の言葉は続いていた。
「過去にゆく魔方陣を各所に設置して相対的に体育館と校舎の外の人間が未来に飛ぶようにしたんだ。僕の知っている時間系の魔方陣はそれしかないからね。上手くいって良かったよ」
「じゃあ、私が見たあの屋上に続く階段にあった魔方陣って・・・」
山内は頷いた。
「それも僕が設置したものだよ」
そう言い終わると彼は咳き込み、吐血した。口の中から血の味が広がった。
「山内君!」
佐川は叫んだ。山内の吐血に衝撃を受け、動揺し、不安な心に押しつぶされそうになった。
「・・・」
山内は佐川に頷き、前園に言った。
「僕らだけ二時間先の世界に飛んだんだ。魔方陣を起動させるのに僕の力の殆どを使ってしまったんだけどね」
少しの間、山内は黙り、やがて呟くように言葉を発した。
「前園、君は村田先輩達をこの過去に送り込み、時間に歪みを生じさせた。その歪みは歴史の分岐点を作り、確かに未来を選べる機会を生んだ。でもその条件が多くの生徒の死だなんて許される訳がないだろう? 既に分岐点は通り過ぎている。もう止めないか? 僕は・・・」
「・・・ふざけるな!」
前園は言った。
「予定通りこの場所で生徒が千人近く死んでいたら、日本は滅亡に向かっていたはずだったんだ!」
不意に天井からねじか何かが落ちる音がした。それは雨に濡れる床を転がってゆき、暗闇の中でその音はやけに響いた。
「例え雷のせいであっても千人近くの人間が死ぬというのは事件だよ。歴史に強力な方向性をつけられる。戦争が始まりそうになったとき、回避しようとする人間がいなければ、未来に起こるべき戦争の芽は摘まれることはない。回避の意見に賛同する人間が現れなければ、戦争は起こしやすい」
「何を・・・」
村田は思わず声に出してしまった。
「つまりは死んだ彼らは賢明で、未来に起こるべき戦争の目を摘む側の人間だったんだよ。時の政府は法律の解釈を捻じ曲げ、戦争を起こそうとしていた。メディアは何故か反対の意向を示さず、むしろ好意的に扱っていたんだ。世間は反対意見を言うこと自体がタブーとなっていたが、君たちを含むこの高校の卒業生達は果敢で勇敢だった。月見台高校の卒業生が戦争反対運動を始め、それがOB、OG全体に広がって、反対意見は大きな渦になっていったんだ」
前園の怒声は続く。
「そして戦争は起こらなかった。度胸試しのようなつまらない意地の張り合いで始まるはずだった戦争が、市民の反対で防がれてしまったんだよ! すぐに終わらせるつもりで始めた戦争は、長引き、泥沼化し、他国を巻き込み、戦場化してこの島国は疲弊し、滅びるはずだったのに!」
「・・・」
村田は隣で肩を貸している山内を見た。彼は浅く頷き、苦しそうな表情を見せた。前園の言葉は更に続いていた。
「この国自体が戦場化し、難民が無数に出る。最後は・・・」
「もういいだろ!」
山内は前園の言葉を遮った。
「もう歴史には干渉できない。分岐点は過ぎたんだ」
「黙れ!」
前園は怒鳴った。
「やっと一族の恨みを晴らすことができるはずだった。だが、お前のせいで・・・」
前園の表情は凄まじい怒りのものに覆われていた。
「無駄になった・・・無駄になってしまった!」
我を失っていると村田は思った。怒り狂うその様子からは恐怖すら感じる。
「もうこの先数百年は時の分岐点は現れない。時間を掛け時の分岐点を作り、準備してきたというのに全くの無駄に終わるなんて酷くないか!」
前園はわめいた。
「あああ!」
叫び続け、苦しそうな表情を見せた後、彼は喉を掻きむしった。目つきが尋常ではないと誰しも思った。突然、前園は喉を掻くのを止め、左腕を前に出した。
「おおお!」
そう叫び、山内に向かって空間を圧縮させ、トルネードを放った。その言葉に反応して山内は白い半透明の直径二メートル程の大きさシールドを張り、トルネードの直撃を避けた。だが、山内の体力を奪うものでもあったようだ。彼は前屈みになり、床に膝を付いた。
「死ね!」
衝撃波が連続して撃たれた。執拗な攻撃に山内は次第に押され、徐々に後退していった。
「死ね! 死ね!」
怖い・・・。
いずみは何度もそう思った。前園の周りの大小の瓦礫が静かに浮き始めた。いずみはその様子に息を飲んだ。
あんなのが来てしまったら、いったいどうなってしまうの・・・。
「うそ・・・」
瓦礫は加速し、勢いよく山内のシールドに向かってきた。音を立て、数え切れない数の瓦礫がシールドに当たってくる。いずみはその場で耳を塞ぎ、しゃがみ、現実から逃げたい思いに支配されていた。恐怖に押しつぶされそうだった。 防壁のシールドにひびが入り始め、その数は増えてゆく。
明らかに押されていたのだ。
感想お願いします