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第七章

感想をお願いします。

 時計を見ると夕方の四時近くになっている。時間というはあっという間に過ぎるものだ。

 佐川は何かズレのようなものを心の底で感じながら、自分のクラスの出し物であるカレー店にカレー鍋を運んだ。実際の調理は管理等の家庭科室で行われている。中庭を経由し、それを生徒館一階の店に運び込み、盛り付けを行い、客に提供しているのだ。

「今日、昼くらいに裏門のところで玉突きの交通事故があったらしいぞ」

 そんな声が聞こえた。

 あの裏通りから聞こえた救急車両のサイレンの音はそれだったのか・・・。

 佐川はそう思った。

 記憶のないことがまた起きている。知らないことが勝手に起きている過去・・・それはいったいどう定義すればいい時間なんだろう

 店に客は殆どおらず、佐川の仕事も暇になり始めていた。あと三十分もすれば 文化祭の初日は終わる。そうすれば中夜祭の時間だ。

 昨夜は徹夜で準備にあたっていた生徒が多いだろうに。よく頑張るわ。

 佐川は生徒館校舎の壁に寄りかかり、中庭の様子をぼーと見ていた。中庭の有志の屋台は本日、最後の追込みを掛け、必死に呼び込みを行っている。

「こんなところにいたのか」

 校舎の窓から身を乗り出し、佐川に話しかけてくる男子がいた。山内だった。いつもと違い、和らいだ顔に見えたる。

「山内君、どうしたの? 随分とご機嫌じゃない」

 いつも一人でいる山内にしてはめずらしい表情だと思ったのだ。佐川の記憶にはないことだった。

「三年生のモダンタイムスを見てきんだ」

「へー、どうだった?」

 佐川の問いに山内は答えた。

「元のチャップリンのものに大分アレンジを加えていた。でも良かったと思うよ。僕的にはモダンタイムスよりは独裁者の方が好きなんだけどね」

「へー山内君、チャップリンが好きなんだ」

 佐川は意外に思った。そんなこと全く知らなかった。

「独裁者の最後の五分間の演説がいいんだよね」

「床屋の演説ね」

 山内は頷いた。

「あれを聞いたときは感動して興奮がしばらく収まらなかったよ」

「あたしも結構チャップリンを見た時期があったわ」

 まあ大学生のときなんだけど・・・。

「へー」

 山内は一階の窓から見える中庭の風景を見ながら言った。風が流れてきた。ベージュのカーテンがやさしく揺れる。

「他には何か好きなのはないの? 佐川さん」

「うーん、やっぱり黄金狂時代かな」

「王道だね。僕はあの靴を食べるシーンが好きだね。初めて見たときは驚いたよ」

「ロールパンでダンスをするのもいいよね」

 風でカーテンがゆったりと揺れている。

 平和な時間だ・・・。

 佐川はそう思った。

「僕は将来俳優になろうと思っているんだ」

 突然彼はそんなことを言った。

「え・・・?」

 佐川はその言葉に驚いた。

「でも、俳優やるって言ったって、それで生活出来ないこともあるんじゃないの?」

「いきなり現実的だな」

 山内は苦笑した。

「そうかもしれない。初めは僕も本気じゃなかったんだ。そもそも他の人の夢だったからね」

「・・・?」

「だけど、やっていくうちに面白いと思うようになった。こんな僕でも人に感動を与えられるなんて、すばらしいと思ったんだ。僕はこの夢を大切にしたい。この夢のお陰で僕は救われたと言ってもいいんだ」

 彼女は横で窓から乗り出しているその男子を見た。

「とはいうものの、端役ばかりなんだよね。確かに夢はなかなら手に入らないかもしれない。でも何もしなかったら何も始まらないんだ」

「・・・」

 高校のときの山内君はそんなことを考えていたんだ。

 佐川は下を向いた。高校生男子に教えられたような気がした。

 それに比べあたしは・・・。

「佐川は将来、何になるつもりなんだ?」

「えっ」

 反射的に少し顔を上げた。

「佐川って何でも出来そうだよな。要領もいいし、頭の回転もいい。成績だって学年でトップだし」

「えっ・・・そんな、そんなことはない」

 佐川は首を横に振った。山内が眩く、自分が小さい存在に思えたのだ。

「あたしはいつも逃げている・・・あたしは何も出来ない人間よ。そう、きっと何度やり直したって・・・」

 最後の言葉は呟きよりも小さい声だった。

「そんなことはないさ。佐川は何者にもだってなれる」

 山内は笑顔でそう言った。佐川は横に首を振った。

「そんなことはないわ」

 突然、女子の笑い声が聞こえた。店の中からだった。大方暇になってふざけ始めたのだろう。

 佐川は話を続けた。

「あたしは・・・あたしは脚本家になりたかったのかもしれない」

「?」

 山内は少し驚いた顔になっていた。

「保母さんになりたかったんじゃないのか?」

「あれ、あたし、山内君にそんなこと言ったことがあったけ?」

「いや、ないけれど、なんとなく」

「保母か・・・それもそうなんだけど、それよりは脚本家だったかな。でも本当になりたかったことなのか、今では自信がないわ」

 ただ、大学生のとき少しだけそう思った時期があった。あれは本当の気持ちだったのだろうか? それも自信がなかった。

 本当は自分のやりたいことなんて分かっていなかったのかもしれない。あたしは馬鹿だ。そんな大事なことも分からないなんて。

 佐川は笑った。

「山内君さ、将来俳優になれなかったらどうするつもりなの? なりたいものになれなかった先には何があるのかしら? なりたいものになった先はいったい何があるのかしら?」

「うーん、どうだろう」

 彼は思い出すように空を見上げた。青く、白い雲が浮かぶ空を見た。そして背伸びを彼はした。

「?」

「俳優の夢は、僕自身が何をやりたいかということを初めて考えたことなんだ」

 山内は言葉を続けた。

「それまでの自分は自分の与えられた役目に縛られて、何も出来なかった。だけど僕も意思を持って生きてみたくなったんだ」

 役目・・・?

 考えてみれば、あたしは彼のことを殆ど知らないわ・・・。

 山内の顔を見た。彼は頷いた。

「その先はいずれにせよ、なりたいものじゃないかな。失敗したって、成功したって、そこが終わりじゃない。なりたいものに向かって歩き続けるんじゃないかな」

 それを聞いていた佐川は驚いた表情を顔に出した。そして笑い出した。

「あははは・・・あははは・・・」

「えっ、僕、何か変なこと言ったかな?」

「ううん、そうじゃない。山内君、すごいなと思って」

 未来の山内君は俳優として成功していない。俳優にはなっているかもしれないけど、少なくとも有名俳優にはなっていないわ。でも彼ならば、さらに先の未来で有名になって夢を現実にしているかもしれない。そして更なる先ではハリウッドに行って成功しているのかもしれない。

 彼女はそう思った。

 四時半の鐘が鳴った。本日の文化祭が終わったのだ。放送が入り、校外の人間が校舎を出てゆく姿が見える。昼間の激混みの状態が嘘のようになくなり、人込みで床すら見えなかった廊下も今はたまに生徒が歩いているだけ状態に変わっていた。

 教室から声がした。

「おーい、山内、そろそろ中夜祭が始まるぞ」

「おう!」

 山内は教室の中の生徒に振り向き、そう答えた。

「佐川も行こう!」

「う、うん・・・あたしは後から行くわ。喉が渇いたし。先に行ってて」

 佐川はそう答えた。そして校舎に寄っかかるの止め、自分の腰とお尻を叩いて言った。

「山内君、ありがとう。なんか青春っぽい、いい話が聞けた。少し感動したよ」

 そして彼女は中庭を抜け、管理棟の購買に向かった。が、すぐに立ち止まり、振り向いて言った。

「君の夢、叶うといいね」

 笑顔でそう言うと彼女は向き直り、購買に歩き出した。山内は少し驚いた顔をした。

「佐川も未来を諦めず、頑張れ!」

 そう彼女の背中に言葉を返した。

 校内放送が入った。放送委員もノリノリなのだろう、バックミュージックを流し、DJさながらの口調で中夜祭が始まることを告げた。

 佐川は立ち止まり、空を見上げた。空は夕暮れになり掛けている。青と赤が混じり始めた西の空は何故か彼女に言いようのない不安を感じさせていた。夕暮れの雲がゆっくりと流れている。佐川は風に流れる自分の髪をそっと抑えた。

 

 

 体育館から中夜祭のバンドの曲が鳴り、生徒達の歓声が聞こえた。

 外は既に暗くなっており、各教室の電気が点けられ、その光は外に放出されている。村田はリュックを背負って、一階の廊下を歩いていた。廊下の窓からクラブハウスが見える。

「部室の電気は点いていないな・・・」

 中夜祭には出るつもりはなかった。彼は家に帰ろうとしていた。

 高校生と一緒にはしゃぎ、テンションを上げる気にはとてもなれない。彼らとは十四歳も離れているんだ。一緒に騒ぐなんて到底無理な話だ。

 靴を履き、昇降口を出たところで彼は立ち止まった。いろいろあり過ぎて疲れていた。体を休めて、この混乱した状況と気持ちを整理したかった。

「にしても、吉野の奴・・・」

 村田はそう呟いた。ズボンから携帯を取り出し、電話を掛けた。

「この電話は電源が入っていないか、電波の届かない・・・」

 留守電話の機械音だ。何回も電話を掛けているが全く繋がらない。

「あいつ、いったい何処で何をやっているんだ・・・」

 携帯を右手でパチンと閉じ、そう呟いた。吉野とは朝から会っていない。文化祭実行委員の仕事があると言って、別れたきりだった。それから連絡が取れなくなっている。

 上から突然声がした。

「村田君!」

 その声に村田ははっとした。見上げると二階の教室の窓からいずみが身を乗り出しているのが見えた。彼女は劇中で使っているオレンジの和服をまだ着ている。

 綺麗だな・・・。

 見とれてぼーとしてしまった。裏門で交通事故が起きたとき、しがみ付いてきた彼女の感覚を思い出していた。

「村田君!」

「あ・・・」

 村田は我に帰り、正気を取り戻すかの様に首を横に振った。

「もう帰るの? だったら私も一緒に帰るわ。少しそこで待っていてくれる?」

「えっ・・・」

 いずみの姿はもう見えない。おそらくは着替えにでも行ったのだろう。

 彼はざわっという周りの雰囲気を感じた。

 そうか・・・高校生の大きな興味の一つは誰と誰が付き合っているだもんな。ましては美人で有名だったいずみ先輩だったら尚更か。

 本来の過去でもその記憶はあった。いずみと村田が付き合うことになったとき、校内はちょっとした大騒ぎになったものだ。

 あの頃は全てが若かった・・・。

 村田は苦笑した。そして校舎を見上げた。

 ここの世界は懐かしく楽しい。若々しく生命力に溢れている。僕が失ってしまったものが彼らにはあるのだ。

 村田はその一つを確信していた。

 それは夢だった。気づけば他の連中と同じように大学に進学し、夢を認識していながらも何もせず先延ばしにし、就職活動に勤しみ、結局は普通のサラリーマンになった。

「結局、怖くて何もしなかっただけなんだ。自分の限界なんて自分が一番知っている」

 そう呟いた。

 昇降口を通して廊下を二人の女子が走ってゆくのが見えた。おそらく中夜祭に向かっていったのだろう。笑いながら走る彼女達は眩しく、うらやましくもあった。村田は下を向き、視線を逸らした。

 そうなんだ。僕はもっともらしい理由をつけて、この世界から逃げようとしているだけかもしれないんだ・・・。

 村田は拳を強く握りしめた。

「おまたせ、村田君」

 その声に反応して顔を上げると、いずみが昇降口から出くるのが見えた。ゼイゼイ言っている。よほど急いで着替えてきたのだろう。

「大丈夫ですよ」

 村田はそう答え、歩き出した。

「あっ、待って・・・」

 いずみはそう言った途端、足が絡まり、転びそうになった。村田は慌てていずみを支えた。彼女の足元を見ると靴をちゃんと履いていない。相変わらずの天然ぶりだと思った。沈んだ気持ちが吹き飛び、思わず笑みを漏らした。

「いずみ先輩、変わっていませんね」

「え、何?」

「いえ、なんでも。靴、ちゃんと履いてくださいね」

「う、うん」

 いずみは頷き、コンクリートの地面につま先を何回かコンコン当て、両足の靴をきちんと履いた。

「なにか気に掛かることがあったの?」

「・・・なんでですか?」

「さっき上から見ていたら、携帯を掛けて溜息していたから・・・今も沈んだ表情だったし」

 村田は頷いた。

「・・・朝から吉野と連絡が取れないんです。クラスにも戻って来ませんでしたし、文化祭実行委員会の本部にも顔を出していないみたいで」

「部室かもしれないわ」

「いえ、部室に電気は点いていませんでした。多分誰もいないと思いますよ」

「・・・」

 いずみは黙り込んだ。

「あの、いずみ先輩、佐川に電話してみて貰えますか? 吉野は佐川の行動を気に掛けていましたから、何か知っているかもしれません」

 それを聞いていずみは、すぐにカバンから携帯を取り出し、佐川の番号に電話を掛けた。

 だがすぐに首を横に振った。

「駄目、里美ちゃんも留守番電話で繋がらないわ・・・」

「・・・」

 佐川もか・・・。

「どうする? 村田君」

 いずみは村田の顔を見た。

「気になりますね。少し部室で待ってみましょう。もしかしたら二人とも中夜祭に出ているだけなのかもしれませんし」

「うん・・・」

 そう言っていずみはクラブハウスの方角に向かって歩き始めた。

 

 

「すごいな、いったい何があったんだ・・・」

 部室の引き戸を開け、コンクリートの床に散らばっている無数の白いレゴの部品を見て、村田はそう呟いた。

 何かの作りかけだろうか・・・? 

 村田は部室の中を見渡したが、そこには誰もいなかった。レゴのブロックは入口側に集中して散らばっている。レゴを踏まないように部室に入るのも一苦労だ。村田の後からいずみが部屋に入ったが、部室の荒れた様子を見て驚き、思わず息を止めた。床には散らばったレゴ部品の他にレゴの入っていた透明なプラスチックの箱も横たわっている。

「吉野がやったのか・・・」

 そう呟いたが、いずみはすぐに首を横に振った。

「里美ちゃんも連絡がつかないわ。まだ誰とも言えないと思う。部室の入口に向かってレゴの部品を投げつけたみたいね。こんなに散らばって・・・でも、いったいどうしてなの?」

「・・・」

 嫌な予感が村田にはしていた。考えられることは一つだと思った。

 窓がガタガタと揺れている。少し風が強くなってきているようだった。あと少しすれば中夜祭も終わる時間となる。外はすっかり暗くなっていた。

「前園と・・・遭遇したのかもしれません」

 ぽつりと村田は言った。

「僕も奴とあったとき、奴に動揺させられ、不安にさせられ、僕は自我を失いそうになりました。このレゴの部品を見ると、それがこの場で起きたように思えます」

「どうして前園君は・・・」

「分かりませんが・・・」

 あの執念とも言える言葉の一つ一つを思い返していた。怒りに取り憑かれていると言ってもいいかもしれない。

「奴は自分の家族と一族が殺されたと言っていました。それが関係あるとは思うんですけど」

「でもそれって、いったい何の事件なのかしら?」

「・・・」

 村田は大机に自分のリュックサックを置いた。そしていずみの顔を見た。

「どの事件に該当するか分かりませんが、もしかしたら未来に起こることなのかもしれません。彼は未来を変えようとこの過去に干渉しているのではないでしょうか?」

「あ!」

 いずみはそう言った。合点がいったというような声だ。

「じゃあ、この過去が少しずつ本来のものと異なってきているのは・・・」

 村田は少し考えるそぶりを見せて言った。

「それこそが奴の狙いなんだと思います」

「・・・」

「僕ら四人がこの世界に来たことで、世界に歪みが生じ、その影響が周りに伝播しているんじゃないでしょうか?」

 村田はゆっくりとしゃがみ、散らばったレゴの部品を拾い、ひっくり返っていたプラスチックのケースを直し、その中に白いレゴの部品入れた。

「結果、僕らと関係ないところでも過去の改変が行われるようになった・・・」

「それ・・・なんかの小説や映画みたい」

 いずみはそう呟いた。そして村田の正面にしゃがみ、同じようにレゴを拾い、透明な容器に入れ始めた。

「まあ、僕達が過去の自分の中にタイムスリップしている自体、もうSFなんですけど」

 村田はそう言葉を返して右手で自分の心臓に手を当てた。

「奴の望みはその余波を使って未来に起こる自分の家族、一族の死を変えることではないでしょうか?」

「話は合いそうだけど、本当にそんなことが出来るのかしら・・・」

 否定は出来なかった。

 確かに今いる過去は自分がいた本来の過去とは異なり始めている。それも村田君が言うように自分達がこの時間軸に割り込んできたからなのだろう。

「でも、前園君はどこまで確信があるのかしら? その、未来を変えるってことに」

「・・・」

 そうなんだ。それが引っ掛かっていた。

 風が吹けば桶屋が儲かる的な計画が前園の計画とは思えなかった。望む未来ではなく、違う未来を招いたっておかしくはない。村田は床に落ちている白いレゴの部品を拾って、ケースの中に放り投げた。その度に「カチャッ」と部品同士の当たる軽い音がケースの中から聞こえる。

 どんなに考えたって、この新しい過去からの未来の世界の姿は知りうることはできない。それはどんな人間にでもだ・・・。

「でもこの過去は実際に変化し続けている。その結果を前園は計算できているというのか・・・?」

 そんなことはありえない。

 村田はレゴを拾う手を止めた。

「いや・・・」

 そう呟いた。

「奴は単に歴史を変える特定の時間軸を知っているだけなのかもしれません」

「特定の時間軸?」

「そうです。僕らをこの過去に割り込ませることで本来向かうべき未来を変える。その分岐点が・・・」

「それがこの時間軸だということなの? でもその時間軸って・・・?」

「例えば、平清盛が源頼朝の命を救った瞬間とか、中臣鎌足が中大兄皇子に靴を差し出したととか、直接は歴史を変えてはいないけど、歴史的には分岐点だった場所。そういった分岐点がこの月見台のこの時間軸にあるのだと思います」

「・・・」

 そうかもしれない。今持っている少ない情報から考えると合点はいく。だが、ぼんやりと掴みどころのない引っ掛かりを感じていた。窓が揺れる音が鳴った。風は強くなってきている。外は暗くもう何も見えない。ただ風が強く、窓を揺らす音が聞こえるだけだった。

「・・・」

 いずみはコンクリートの床に散らばっているレゴの部品を見ていた。そして気がついた。彼女は幾つかのレゴの塊を手に取って眺め言った。

「これ、この過去の世界に来るときに見たレゴの魔方陣に似ているわ」

 いずみは立ち上がって大机にその塊を置いた。全部で五つの塊を合わせてみると、確かに魔方陣のような模様を持つ円盤型になった。直径五十センチ位はある。

 村田も立ち上がり、いずみの横で並び終わった白いレゴの魔方陣を見た。

「魔方陣が二層になっているんですね」

「でもあのときは三層のように見えたわ。きっとこれはまだ未完成なんだと思う。それに・・・」

 いずみは腕を組み、レゴの模様を眺めながら、考えるように言った。

「これ、左右逆模様なのよね」

「逆模様?」

「そう、逆模様。鏡で映ったようにね。多分なんだけど、左右逆模様にしたということは未来に帰ることを意図しているんじゃないのかしら・・・」

「未来に・・・」

 村田は思わずその言葉を復唱した。

「あの魔方陣は私達を過去に飛ばしたものだわ。その逆だったらと吉野くんか里美ちゃんは思ったのかも」

 いずみはそう言った。

「里美ちゃんは未来に帰ることを拒絶している・・・吉野君は未来にいる家族の元に帰りたいと思っているわ。だから・・・」

「これを作ったのは吉野ですね」

 村田の言葉にいずみは頷いた。

「多分・・・そしてレゴの魔方陣を作っている最中に前園君が現れて・・・連れ去られたんだわ」

「・・・」

 村田はその言葉に反応して携帯をポケットから取り出し、吉野の電話番号に電話を掛けた。

「電源が切れているか、電波の届かない・・・」

 機械音が繰り返しそう言っているのが聞こえた。村田は首を横に振った。

 何も進まない閉塞感を感じていた。

「私、里美ちゃんに電話してみる」

 そう言っていずみは携帯をカバンから取り出し、佐川に電話を掛け始めた。

 電話の呼び音が廊下から聞こえる。村田はすぐにそれに気がついたが、いずみは気がつくことなく、電話を手に持ち、相手が電話に出るのを待っていた。彼女の天然さがそこに少し現れている。

 佐川は電話に出ない。

 妙だなと村田は思った。

 そして突然、部室の引き戸が「がたっ」と動いた。いずみは驚き、村田の腕にしがみ付いた。

 部室の引き戸が音を立てながら開いてゆく。そこにはクラスのTシャツに制服のスカート姿の佐川が立っていた。彼女の表情は硬く、深く落ち込んでいるように見える。村田は佐川のその様子に気づいたものの、それには触れずに言った。

「よう、佐川、随分久しぶりな気がするな」

 そう笑い掛けた。

「・・・」

 佐川は無表情のまま反応しない。

「・・・吉野先輩は?」

「何処にいるのか分かんないんだ」

 村田がそう答えると佐川は悲痛な表情になった。

「先輩・・・」

「なんだ、佐川」

「勝負・・・勝負しませんか?」

 村田は一瞬何を言われたのか分からなかった。

 今、勝負って言っていたのか?

 横に居るいずみを見た。さすがの天然のいずみでもこの展開には驚いている様子だった。

「里美ちゃん、勝負ってどういうこと? 何の勝負をするの?」

「レゴで・・・」

「レゴで何の勝負をするんだ? と言うか、何のための勝負なんだ?」

 村田はそう言った。

「あたしが負けたら、あたしも未来に帰ることに合意するわ。でも、あたしが勝ったら・・・」

「佐川が勝ったら・・・?」

「前園先輩に本当のことを言って欲しいんです」

「!」

 雨の音だろうか? パラパラと何かの落ちる音がした。村田の心は大きく動揺し、息が止まるのではないかと思った。目を閉じ、心を落ち着かせから、正面の佐川を見た。

「本当のことを・・・佐川はやっぱり知っていたんだな」

 村田はそう呟いた。そして唇を強く噛んだ。

「どういうこと? 村田君、里美ちゃん」

 いずみの声が響く。

 佐川はいずみの視線から目を逸らした。村田は怒鳴るように言った。

「できない・・・できる訳がない! お前はなんで僕にそれを言わそうとするんだ? 僕が今更そんなことができる訳がないだろ!」

「むらっち先輩しかいない! 今のままじゃ吉野先輩は前に進めない! お願い、むらっち先輩!」

 佐川は悲痛な声でそう返した。村田は首を横に振った。

「おかしいぞ、お前! 自分は未来に帰りたくないと逃げのようなことを言っておいて、矛盾している!」

「あたしをお前って言うな!」

 佐川は拳でテーブルをドンと叩いた。

「そうよ、私は逃げていたわ。だけどもう止めた。今逃げているのは村田先輩の方よ!」

 佐川の語彙は強かった。

「あたしなんかじゃ駄目なのよ! 村田先輩が・・・一番の親友の先輩が言わないと!」

 佐川はそこまで言うと、それ以上の言葉はもう出なくなっていた。込み上げる気持ちが溢れてくる。もう何も言えなかった。彼女は下を向いてしまった。もう逃げることはしたくはない。それが佐川込み上げる気持ちだった。

 遠くの空が雷で光った。風で窓が揺れ、ガタガタという音が何度も鳴った。雨音もパラパラと聞こえる。天気は急速に悪化している様子だった。不安を掻き立てるような雰囲気がこの部室を覆い始めていた。

 村田はうつむく佐川をじっと見た。

 悔しいが、佐川の言葉は間違っていない。そうだ、こいつが言うように僕は逃げている。吉野が崩れるのを恐れて、僕は本当のことを話せないままだった。それどころか吉野の言葉を訂正しないで会話を合わせてしまっていたんだ・・・。

 僕は佐川を批判する権利はない。

「勝負ってどうするんだ?」

 そう彼は呟いた。

「それはレゴの作品を作って・・・」

「・・・僕は何でもOKだが、もう勝負はいいんだ」

「・・・?」

「僕は自分の親友に本当のことを告げるよ」

 村田はそう言った。憑き物が落ちた感じがした。

「村田君、里美ちゃん、さっきから何を話しているの・・・?」

 いずみが会話に割り込んできた。何が起きているのか全く理解出来なかったからだった。

「・・・」

 いずみの問いに村田はすぐには答えなかった。彼は唇を強く噛んだ。

「村田先輩・・・」

 佐川の言葉に村田は頷いた。中夜祭のバンドの音、生徒の歓声が聞こる。時折、パラパラと雨の音が鳴り、同時に風が窓を揺らす音が聞こえた。

「吉野が結婚して、子供がいるのは知っていますよね」

「うん・・・二歳の女の子だったかしら? とっても可愛いみたいで、溺愛してるって感じたわ。吉野君の未来に帰るモチベーションって奥さんと娘さんのところに帰ることのはずよ」

 そのとき佐川の目から涙がこぼれるのをいずみは見た。

「え・・・?」

「いずみ先輩、落ち着いて聞いてください」

 村田はそう言った。

 いずみは村田と佐川のただならない雰囲気を察し、頷いた。

「吉野の家族はもういないんです」

「え?」

「彼の家族は一年前に事故で亡くなっているんです」

「!」

 その瞬間に佐川は「わああ」と泣き出し、コンクリートの床に膝をつき、顔を手で覆った。

「吉野はそれを未だにずっと認めていないんです。まだ家族が生きてるって思い込んでいるんです」

 村田は悲痛な表情をした。

「・・・」

 いずみは驚いていた。何も言えなかった。そして吉野の家族のことを話す様子を思い出していた。

 あの楽しそうで、家族を大切に思う気持ちが虚無のものだったなんて・・・とても信じられない・・・。

「あたしが働いている保育園に娘さんを預けていたみたいで、亡くなった後も先輩は迎えにきていた・・・保育園のスタッフもそれに合わせて、ずっと預かっているふりをして・・・本当のことが言えないままでいたんです」

 佐川は泣き続けた。

「あたしは吉野先輩に嘘をつき続けていた!」

「佐川、そのことで自分を責める必要なんてない。それは僕だってそうなんだ。僕もずっと本当のことが言えなかったんだ」

 後悔の念が村田を襲っていた。おそらく佐川もそうに違いなかった。このままで良い訳がない。もう逃げることは選択できないんだ・・・。

 村田はそう思った。いずみが口を開いた。

「それが本当のこと・・・なんて悲しい事実なの・・・」

 胸の痛みが痛くなってゆく。

 私だったら耐えられているだろうか? 辛すぎる事実だわ・・・信じていた存在がもう亡くなっているなんて・・・。

 いずみはそう思った。

 雷がまた遠くで鳴った。

「吉野君に本当のことを言ったら、吉野君はきっとおかしくなってしまうわ・・・どうにかならないの、村田君? 彼をただ傷つけるなんでかわいそう過ぎるわ!」

 そう叫ぶいずみに村田は首を横に振った。

「でも彼の家族は彼がこのままでいいとは思っていないはずです」

「・・・」

 そうだと思った。

 亡くなった彼の家族がそんな状態の吉野を望んでいるとはとても思えなかった。

「それが本当だったら吉野君の本当の望みは過去をやり直すこと・・・」

 村田は頷いた。

「前園が現れた理由はきっとそこにあるんだと思います」

「え・・・どういうこと?」

 その言葉に佐川が反応した。

「さっきまでこの部室の床はレゴの部品だらけだったんだ。まるでだれかにそれを投げつけたかのようにね。おそらく投げつけられたのは前園で、奴は吉野を何処かに連れていかれてしまったんだと思う・・・」

 佐川は自分が跪いているコンクリートの床を見渡した。幾つかのレゴの部品が散らばっているのが見える。

「どういうこと? 吉野先輩が何処かにって、村田先輩、説明して!」

 佐川は床に両手をつき、そう叫んだ。

 外は風が強く、時折大粒の雨が顔に当たる。

 吉野はその中で目も閉じず、真っ直ぐに立っていた。風も、雨も彼には関係のないことのようだった。

 雷がだんだん近づいてきている。

 彼はその音が聞こえる度、遠く光る光りを見る度、笑みが漏れた。空を見上げ、その時を待っていた。

 


 山内は中夜祭の行われている体育館の隅に立っていた。

 ステージではバンドが曲を演奏しており、その音の大きさに比例するかのように体育館にいる全校生徒に近い生徒達は興奮し、曲に合わせ、リズムを取り、叫んでいた。時折遠くから聞こえてくる雷ではこの熱気を冷ますことは出来ないようだ。

 山内は興奮する生徒を避けながら、体育館の扉に辿り着き、外に出た。外に出てもバンドの曲と生徒の歓声はよく聞こえる。彼は中庭に向かった。辺りは暗かったが、校舎の窓から漏れる明かりで中庭での視界は十分取れる。

 空が西の空が一瞬光り、時間が経ってから落雷の音が鳴った。山内は空を見上げ、雲の動きを確認した。ゆっくりとそれが西から東へと動いているのが見えた。

 暗い記憶が蘇ってくる。

「くそっ」

 そう呟いた。それを思うと心が硬くなり、自分を保てなくなる。彼はそれを恐れていた。上手く心の中にそれを同居させることはやはり難しい。

だが、それでも自分は変わった。

 前までは暗い記憶に縛られ、何も考えることができなかった。凝り固まり、ただ人を憎んでいた。ずっとそうして僕は過ごしていたんだ。そんなことが正しい訳がない。

 だが、彼が望んでいた夢を追うにつれ、自分は変わり始めている。

「僕に託した君の未来・・・」

 山内はそう呟いた。

 遠くで空がまた光り、落雷の音が鳴り響いた。こちらに近づいているようだ。

空を見上げた。

 体育館から漏れてくるにぎやかな曲と空の様子は対極的だと思った。彼はその差を気味悪く思い、次第に不安を感じ始めていた。

 

 

 佐川は部室のパイプ椅子に座りながら、外の暗い風景を眺めていた。窓ガラスには薄く自分の姿が映っている。ときどき遠くの空が稲妻で光り、その度にガラスの自分の姿は消えた。それがここしばらく何回が繰り返されていた。

 窓際に立っていた村田が口を開いた。

「佐川はまだ未来に帰りたくないと思っているのか?」

 その言葉に佐川はすぐに首を横に振った。

「ううん。山内君って同じクラスの男子と話して考えが変わった。その子は俳優を目指している子だけど、未来で俳優として成功してはいない。そんな未来が待っているのに・・・」

 空が光り、少しの時間を置き、雷が落ちる音がした。

「この過去の彼は失敗も成功も想定しているみたいだった。彼はどんな未来が待っていても前に進み続けると言っていた。それに・・・」

「・・・?」

「それに彼はあたしが何者にもなれる人間だと言ってくれた。自分をそう思っていてくれた人がいたんだと思ったら、嬉しくなってさ」

 佐川の顔に笑みが浮かんでいた。

「あたしは自分の未来を否定してこの過去にしがみ付こうとしていた。あんな未来となってしまったのは、自分が原因なんだと認めることが出来なかった。でも結局は全て自分が行動した結果なんだよね」

 佐川は顔を上げた。

「あたしは未来に帰るわ。そして自分のあの状況を必ず変えてみせる。自分の未来を自分の望み通りにする!」

 佐川の強い意志を感じた。

 佐川の考えは未来に変える方向に変わっていたのか・・・。

 村田はそう思った。

「私も未来に帰るわ」

 いずみの突然の言葉に反応して、村田はいずみの顔を見た。

「驚かなくてもいいじゃない」

 そう言ってにこっと笑った。

「いや、だって先輩は弁護士事務所で人間関係に悩んでいるって言っていたじゃないですか・・・」

「自分を思い出したの」

「自分を・・・?」

「この月見台高校に帰ってきて、演劇の準備をして、実際に役を演じてね」

 いずみはそう言って言葉を止めた。

「私は自分という人間を思い出した。もう大丈夫よ。私はもう負けない」

いずみ先輩がおかしくなっていったのは、あの弁護士事務所に入ってからだ・・・でもまたあの未来に帰ったら・・・。

「でも、未来に帰ったら、また・・・」

 佐川はいずみにそう言った。いずみはすぐに首を横に振った。

「私は自分の性格をあの弁護士事務所で殺していた。けなされ、馬鹿にされ、いじめられていた。私は彼らに従属するような日々を送っていた・・・」

 いずみは目を閉じ、一呼吸置いた。そしてゆっくりと目を開け言った。

「いつのまにか私は自分では何も決められない、人の顔色を伺う情けない人間に成り下がっていた。それはもうお終いにしなければならない」

 自分でも分かっていた。自分が少しずつ変わり、全く望んでいない姿に自分がなってゆくことをよく分かっていた。

「村田君、里美ちゃん、私はこの過去の世界に戻ってきて思いだしたの。私は自分で考え、決めることができる人間であったことを。前を向いて歩ける人間であることをね」

 いずみはそう言ってにっこり笑った。

「わたしはもう大丈夫だし、もう決して負けたりしないわ」

 村田は頷いた。昔のいずみの姿を感じた。

 そして彼はいくつか床に散らばっている白いレゴを再び拾い始めた。村田はそれをプラスチックのケースに放り投げた。レゴ同士の当たった軽い音が鳴る。

「僕は過去をやり直すことが卑怯だとか、やり直すんだったら未来でやった方がいいとか言っていたけど、未来に帰りたい理由が他に・・・過去にいたくない理由が本当はまだあるんです」

 村田は溜息を吐いた。

「僕には夢があったんだです・・・でも僕はそれを最初から諦めていた。自分には才能がなかったから、何も行動に移さなかった」

「・・・知ってた」

 いずみはそう言った。村田はその言葉にはっとして 彼女の顔を見た。

「だって、半年だったけど、私達、付き合っていたのよ。私は村田君のことばかり見てた。村田君のことばかり考えていた。私は村田君のことが好きだったから!」

 わお・・・。

 佐川はそう思った。

 あたしもいるのに・・・相変わらずの天然ぶりだ。

 そう思うとくすっと笑った。

 村田の表情は少し驚いていたが、すぐに笑い返した。重苦しい気持ちがどこかに消え去っていると思った。

「そういう逃げている自分をまた経験したくなかったです。今もその夢は持っているのだけど、残念がら僕には才能がないから・・・」

「むらっち先輩」

 佐川は言った。

「情けない。夢をやらないで諦めるなんて最低だよ」

「ああ・・・」

 村田はそう言って笑った。

「僕の夢はレゴのアーティストになることだったんだ。でもネットで自分の作品を公開しても、評価は全く駄目でさ。全然、評価されない。やってもやっても評価されないのは正直辛いものがあるよ。それが続くとさすがに諦めたくもなる」

「・・・」

 佐川は記憶を辿り、思い出していた。確かに村田の作品には感動を覚えるほどのすごいものはなかったように思えた。昼間の小学生が遊んでいたレゴのラジコンロボットも世界が度肝を抜くほどのものではない。

「まあ、いいんだ。才能がないのはよく分かっている。奇抜性もないし、結局は人の真似ばかりしているのもよく分かっている。だけど僕はレゴが好きだからね。これからはコツコツ作品を作り続けるさ」

 村田はそういい終わるといずみは頷いた。

「そう、それが大切よ」

「まあ、それならそれでいいんじゃない?」

 佐川はくすっと笑った。

「?」

「結局はあたし達の未来はあたし達が作り出すしかない。当たり前のことだけど、あたし達は過去あってのあたし達の未来なんだ。それをちゃんと理解するのにすごく遠回りをした気がする」

「・・・そうだな」

「そうね」

 そう言って二人は佐川につられ笑った。本当に佐川の言うとおりだと思った。こんな簡単なことを気づくのに本当に時間が掛かった。そう思っていた。

 

 

 外は暗い。空が雷の光りで青白く明るくなってから、その音が辿り着くまで数秒の時間が掛かっている。雷はまだ遠い空で鳴っているようだ。

 吉野はクラブハウスをグラウンドから見上げていた。隣にある体育館からは中夜祭で演奏されているバンド音がガンガンと鳴り、生徒の熱狂した声も聞こえてくる。彼は少し頭をおさえた。

「うるさいな」

 吉野は舌打ちをした。体育館から漏れてくる音でない。彼は鋭い、針のようなノイズに悩まされていた。彼は雷の鳴る空を睨みつけ、叫んだ

「こい!」

 その瞬間、空は雷で光り、すぐに落雷の音が鳴り響いた。さっきより近くなっている。

「ちっ」

 舌打ちをした後、吉野はゆっくりとその身を宙に浮かせた。そして二階の高さまで上がると、右手を上げレゴ部の部室に狙いをつけた。

「あれか・・・」

 その言葉と同時に彼の右手付近の空気がトルネードを形成し始め、部室へと凄まじい速度で向かっていった。そのトルネードは部室のガラス窓を割り、棚のレゴの作品を飛ばした。ガラスの破片が散り、風が舞い、複数のレゴの作品が一瞬にして無数のレゴの部品となった。

「な!」

 部室にいた村田といずみと佐川の三人はとっさに身を屈めた。突然の出来事に驚き、動揺し、混乱した。

「ちっ、はずしたか・・・」

 村田はその声に反応して部室の窓の外を見た。

 吉野が部室の窓の外に立っている。

「な・・・吉野、なんで・・・?」

 驚いて村田は窓側に駆け寄り、いずみと佐川も驚きを隠せないままそれに続いた。

「吉野君!」

「吉野先輩!」

 強い風がその勢いに任せて部室に流れ込んでくる。

「うわ!」

 風は服や髪を強く揺らし、大きめの雨粒が数粒に当たった。

 ここは二階だぞ!

 宙に浮いている!

「お前、前園だな!」

 とっさに村田はそう叫んだ。外見は吉野そのものだったが、前園に間違いないと彼は直感的に思った。まるで何かに乗っ取られているように見えた。吉野は冷ややかな笑みを口元に浮かべた。

「この男はね、ずっと逃げていたんだよ。現実からずっとね。この男の家族は車に跳ねられて既に死んでいるにも関わらず、家族が生きていると自分に言い聞かせて、自分を誤魔化していたんだ」

 そう言って吉野に乗り移っている前園はにやっと笑った。目に生気はなく、気味悪く思えた。

「周りの人間もこの男に合わせて、やるべきことを決してしようとはしなかった」

 風が強い。吉野の髪はバタバタと暴れ、それは部室にも流れ込んできた。ふと横を見るといずみの長い髪も佐川の短めの髪も激しく揺れていた。

「そんなことは許されないよな。そう、君たちがこの男に伝えようとしたことを僕が先にしたんだよ」

 目の前の男子はニヤニヤと笑いながら言った。宙に浮いた彼は暗闇の中で更に言葉を付け加えた。おどけた口調で、人を苛立たせる言い方だった。

「まあ、それだけの話なんだけどね」

 いずみは唖然として目の前の人間を見つめていた。

 それだけのことって・・・あんなに家族が待っていると信じていた人にあの辛い事実を・・・そんな言い方って・・・。

「ひどいわ・・・」

「えっ、何だって?」

「ひどいって言ったのよ!」

 いずみは窓のサッシを両手で強く掴み、そう叫んだ。

「心外だな」

 前園は言った。

「僕は事実を教えてあげたんだ。感謝してほしいくらいだよ」

前園はそういい終わったとき、思い出したように笑い始めた。

「そうそう、今まで信じていたものがなくなり、虚無であったことに気づかされたこの男はどうなったと思う?」

 前園は愉快そうに言った。

「混乱してね、駄々をこねる子供みたいに泣きじゃくって、レゴの部品を僕に投げてきたよ。あの行動は笑えたね。君たちにも見せてあげたかったよ」

 宙に浮いた状態のまま、彼は笑い続けた。

「彼は雪崩が起きるように自我をなくしていったよ。だけど、お陰で僕はこの体を簡単に得ることができた。よかったよ。まあ村田君のときは失敗してしまったのだけどね」

 村田はその言葉にはっとした。

 あのときの茶室の出来事は、それが目的だったのか・・・奴は僕の体を乗っ取ろうとしていたんだ。

 村田は背筋の寒い思いがした。

 吉野の弱みにつけ込んだんだ! なんて事を!

 強い不快感と怒りを覚えた。そして言った。

「何の権利があって、吉野に家族が亡くなっていることを言ったんだ! 唯一の吉野の生きるモチベーションだったんだぞ!」

「あ? まだその話をするのか?」

 吉野の姿の前園はくすっと笑った。

「まあいいや、じゃあ君たちだったら、上手く言えたっていうのかい?」

 この言葉にすぐには答えられなかった。今さっき決心し、佐川に約束したことだったが、それが難しいことは十分に分かっていた。

 何の混乱もなく、そのことを吉野に伝えることは絶対に無理だ。そんな残酷なことをすぐに受け入れられる奴なんでこの世にはいない。

 村田は唇を強く噛んだ。

 だが、いずみは叫んだ。

「そうよ! 私たちは仲間なのよ! できるわ! だから吉野君を返して!」

「そうはいかないな」

「どうして! 吉野君を解放してあげて! そして私達を未来に帰して!」

 そういずみは前園に言った。

「未来に帰ることに吉野は合意しないと思うけどな。その理由は君だってよく知っているじゃないか。それに彼の体がないと何かと不便でね。例えばこんなこととかが、僕はできなくなってしまう」

 そう言って前園は左手を顔の高さまで上げ、指でパチンと一回鳴らした。その瞬間、閃光が空を走ると同時に雷の音が鳴った。空気が震えるほどの凄まじい音量だった。

「!」

 いずみはとっさに村田の腕にしがみついた。佐川は嫌な予感を覚えた。

 近くに落ちた・・・?

 そして吉野に憑依している前園を見た。彼は強く風が吹き荒れる中、雷が落ちた方向を眺めていた。

「ちっ」

 彼は舌打ちをし、呟いた。

「まだノイズがうるさくて駄目だな」

 佐川ははっとした。

 さっきの落雷はこの目の前の人間がやったことなんだ・・・偶然なんかじゃない。

「この時間軸では君たちの存在は空間の歪みを生んでいる。それを利用させて貰ったんだ。僕には安定した体がなかったから、この体には本当に助かっているよ。彼には感謝しないとね」

「ふざけるな!」

 村田は叫んだ。

「歴史を変えるのが目的なのか! 未来に起こるお前の家族と一族が殺される事実を変えようとしているのか!」

 前園はその質問に意外そうな表情を見せた後、にやっと笑った。

「ふーん、そう考えたんだ。まあ、いいけどさ。それにここに来たのは別に君たちと討論するためなんかじゃない」

 そう言って前園は目を細め、部室の中を伺った。

「ああ、ノイズの原因はあれか。くそっ、あいつの小細工だな」

 そして右手を伸ばし、部室の中に狙いをつけた。

「バン」

 前園はそう言った瞬間に彼の右手からトルネードが発生し、成長しながら部室に向かっていった。部室の空気が圧縮された気がした。その瞬間、棚の幾つかのレゴ作品が一瞬にして分解され、それを構成していた一つ一つの部品が凄まじい風と共に宙に舞った。

「な!」

 村田はそう叫び、前園の方向を見た。

「これでノイズは消えたな」

 前園は何かから解放されたかのように笑った。彼は右手を天に伸ばし、指を鳴らした。

 そして恐ろしい光景が起きた。雷が光り、クラブハウスの周りの世界は目も開けられない程の眩い世界となった。それと同時に雷の恐ろしく大きな音が鳴った。雷は体育館に直撃したのだ。

「やった!」

 前園の声が聞こえた。

 高校の校内の電気が全て消えた。一瞬にしてそこは暗く重い空間に変わった。

村田、いずみ、佐川の三人は窓から乗り出し、体育館の方向を見た。薄暗いが、体育館の屋根は雷の直撃で大きく凹み、建物自体が内側に歪んでいるのが分かった。そして屋根の一部が崩れる音が大きく鳴った。

「うそ・・・」

 いずみはそう呟いた。その声は恐怖で震えている。

「中夜祭の最中に・・・こんなこと本来の過去には起きていないわ。誰もいない、もっと後の時間に落ちたはずなのに・・・」

 そう呟くのがやっとだった。

 中には中夜祭に参加していた生徒が大勢いたはず。その体育館に雷を落とすなんて・・・中にいた人間の多くが今の一撃に巻き込まれ、負傷したに違いない。それどころか、死亡者だって・・・。

 そう思うといずみは立っていられず、足元から崩れた。

「いずみ先輩!」

 村田は崩れそうになったいずみを抱えた。前園はその様子に構わず言った。

「もう一回だ」

 右手を体育館の方向に伸ばした。その言葉に佐川が反応した。

「いずみ先輩、むらっち先輩どいて!」

 手に持っていた携帯を力いっぱい前園に投げつけた。彼女の青い携帯は真っ直ぐ前園に飛んでゆく。

「お前、うざいな」

 その言葉に佐川ははっとした。

 投げつけられた携帯は前園の手前で止まっている。前園は冷たい冷酷な横目で佐川を睨みつけていた。彼は目を細め、

「壁に当たれ」

と告げた。その瞬間、佐川の体は一気に後ろに引かれ、勢いよく部室の引き戸にあたった。

「うっ」

「佐川!」

「里美ちゃん」

 指をパチンと鳴らす音が聞こえた。再び閃光が走り、凄まじい音が鳴り、体育館に雷が落ちた。この世の終わりに思えた。立ってはいられなかった。

 そして静かな世界がやってきた。もう前園はいない。全ての電気が消え、そこには暗い世界が広がっていた。

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