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第五章

感想をお願いします。

 校内は人でごった返していた。まだ午前十時前だというのに小学生や中学生、高校生、卒業生で溢れ、それが校舎の中ともなると廊下の床が見えないほどの混みようだった。

 文化祭初日を迎えたのだ。

 佐川は一階の教室の窓から中庭を歩く人の様子をぼんやり見ていた。中庭には食べ物の小さい出店がいくつか並んでいる。この年はバレー部やバスケ部の有志が店を出していた。殆どの生徒はクラスの出し物に参加するため、こういった店は数少ない有志の参加によるものだった。人の流れは出店に寄ったり、二つある昇降口に向かっていたりしていたが、決して途切れることはない。

 佐川は溜息をついた。

「相変わらず、すごい人の数だこと」

 確か、土曜日に二千人、日曜日になると三千人もの人が来たという記憶がある。それだけこの月見台高校の文化祭は県下で人気が高かった。佐川のクラスの食堂は激辛カレーを売り物にした店で、店の中は段ボールを駆使してインドの宮殿風のイメージを演出していた。相当な出来栄えだ。時間はまだ十一時だけに客が少ないのは仕方がないのだが、一年生で初めての文化祭だけに気の小さい生徒は落ち着きをなくしている者もいた。

「ふん・・・」

 横目でその様子を見ていた佐川はそう言った。

 佐川の記憶では土曜の今日はお昼の少し前から込み始め、それが三時くらいまで続く。日曜の明日はどうしようにも人がはけないくらい客が押し寄せ、廊下に行列が何重にも出来たのを覚えている。人が多すぎて廊下をまともに歩けない状態になるはずだった。

「ふう・・・」

 窓の外を見ながら佐川は再度溜息をついた。

 そして昨日の深夜のことを考えた。全てが夢の中の出来事だったような気がする。現実のことだとは思えなかったが、確かにWEBのアドレスのメモは机の上に残っていた。朝起きて同じアドレスにアクセスしたが、既にそのホームページは消えてしまっていて、佐川の心の中に釈然としない想いが残った。

あれはなんだったんだ・・・先輩たちのところにもあの電話は来たのだろうか? だとしたらどう答えたのだろう・・・。

 佐川は唇を噛んだ。

 自分の中で考え続けても何も進まない。自分に問いかけても答えは何も出てこない。何も解決しない。

「あたし、ちょっと部室に行ってくる。ごめん、すぐに帰ってくるから」

 佐川は唐突にそう近くのクラスメイトに告げると、その返事も待たずに教室を飛び出した。そして廊下の人込みを掻き分け、体育館横のクラブハウスに向かった。昨日の今日で部室に行くことに気は引けたが、そうも言ってられない。廊下の人込みを抜けてなんとか生徒館を出た。

 そして佐川はあっと思った。その驚きで大声を出しそうになったが、右手で自分の口を抑えなんとか踏み留まった。

 なにかのめぐり合わせを感じた。

 

 

「煙草、吸いたいな・・・」

 吉野は体育館の二階にある準備室の窓を開け、そう呟いた。

 この準備室には誰もいない。体育館ではライブハウスが行われており、文化祭実行委員の吉野はその進行委員をしていた。朝九時からずっとだ。少し飽きが来ていた。

「そろそろ交代の時間だな」

 準備室には二箇所窓があり、一つは体育館のステージを見下ろす窓で、一つは体育館の外が見渡せるものだった。そこからは校庭、クラブハウス、生徒館がよく見えた。

 高校生のへたくそな即席バンドを二時間も聞けばさすがに飽きてくる。それにここからマイクでいちいち言わなくても、彼らは従順に時間を守り、順番を守り、次のバンドに場所を引き渡していた。事前の運営委員の説明が良かったのだろう、吉野の仕事は何もないに等しい。

「それにしても、あの謎の電話とホームページ・・・あれはなんだったんだ」

 吉野は九月の空を眺め、そう呟いた。優しい風がこの準備室にも流れ込んできている。

「おっ・・・」

 クラブハウスの裏に男子生徒が一人で立っているのに気がついた。クラスの文化祭Tシャツを着ていて、どこかそわそわしていて落ち着きがない。

 あれは二年だな。

 そしてそこに一人の女子生徒がゆっくりと歩いているのが見えた。その男子と同じTシャツを着ている。

「ははーん」

 吉野はそう呟いて、窓から身を乗り出した。

 告白だな。

 これも月見台高校の名物風景だった。文化祭中、もしくは直後に告白を行い、カップルが誕生する・・・今振り返るとよく分からない恒例行事だったが、実際カップルはいくつも誕生していた。

 実際に見るのは初めてだ・・・文化祭初日の午前中から告白とは随分とお盛んだな。

 二人は落ち合った。男子が何かを話し始めている。何を言っているのか分からなかったが、大方恋の告白でも行っているのだろう。男子が大真面目であることだけは分かった。

 吉野は息を飲んでその行方を伺った。なんだかわくわくすると思った。

 女子は頭を下げた。

 どっちだ?

 女子はきびすを返し、もと来た道に帰っていった。

 振られたのか・・・。

 男子の唖然とする様子が見えた。

 まあ高校生活ってそんなものだよな。

吉野はそう思った。そしておかしさがこみ上げてきた。少しだけあの頃の純粋さを思い出したのだ。

 あれで晴れて付き合うことが出来たならば、フラミンゴ通りから帰れたのになあ。

 付き合っている連中のみ許される駅への帰り道。誰が名づけたか知らないが、フラミンゴ通りとはよく言ったものだ。吉野は結局誰とも付き合わずに終わった。故に誰ともその通りを通ることはなかった。

 そして二歳の娘と妻を思い出していた。

 会いたい・・・

 流れ行く雲を見ながらそう思った。吉野はしばらくこの体育館の二階の窓から、生徒館、校庭、クラブハウスを眺め、文化祭で盛り上がる校内の雰囲気を感じていた。そして深い溜息をつき、その後ゆっくりと背伸びをした。


 

 二人の小学生の男子が体育館の入口脇のコンクリートに座り、出店で買ったばかりと思われるフランクフルトを手にしていた。彼らは満足そうにそれを眺め、二人同時にそれにかぶりついた。

 あの子たち・・・。

 佐川には見覚えがあった。隣の小学校の子供達だ。隠れてよく部室に来て、一緒にレゴを組み立てていたのを覚えている。

 だが本来彼らと話をするようになるのは十二月入る前だったはず。確か、田中君と前川君だったか・・・。

 ふっと笑った。あたしはこの子供達の名前を覚えている。若い頃の記憶は本当に消えないものだわ・・・未来の自分は同僚の名前だって忘れることがあるのに。

 佐川は二人の子供の前を通り過ぎ、クラブハウスに向かったが、すぐに足を止めた。そして振り返り、子供たちに話しかけた。

「ねえ、君たち、レゴに興味ない?」

 フランクフルトを忙しくほおばって食べていた二人は、突然の佐川の問いにきょとんとして顔をゆっくりと上げた。

 間違いない・・・やっぱりあの子達だ。

 二人の顔を見た佐川は確信した。

「あたしさ、レゴ部って部活に入ってるんだ。部室にレゴの部品がいっぱいあるから遊んでいってもいいわよ」

 佐川はそう言った。二人の子供は目を輝き始めた。

「俺、レゴ大好き!」

「俺も! レゴで遊んでもいいの?」

 佐川はにっこり笑った。

「一時間くらいでいいかな? クラスの出しものに戻らないといけないし。部室はそこのクラブハウスの二階よ」

 そう言って機嫌よく佐川は歩き出した。その後を二人の小学生が慌ててついてゆく。

 本来の過去とは違うことをやる。

 そう思うと気分が良くなってくる。あの嫌悪すべき未来から少しずつ遠のいている気がしたのだ。

「あたしたちレゴ部はすごいのよ。モーターを使った六脚型の歩行ロボットとか、搬送ロボットとか、あと世界遺産のミニチュアとかも作ったりするのよ」

「へーすごい!」

 二人の子供は同時に反応した。

「すごいでしょう?」

 佐川の機嫌は良かった。三人はクラブハウスの階段を足取り軽く上がっていった。



 くそっ、心臓が変だ・・・。

 クラスの劇の初公演の最中だった。村田は舞台の照明を担当していたが、劇が進むにつれ、体調の異変を感じ始めていた。

 不整脈が起きている。

 心臓が一定周期に動いていない。ある瞬間、血液が大量に流れるような感覚を覚える。そして心臓がきりきりと痛み出す。村田の額から頬に汗が流れた。右手は彼の心臓付近の胸を掴み、左手だけで照明器具を操作していた。

 くそっ・・・。

 舞台ではコゼットとマリユスが抱き合っている。マリユスがコゼットを連れて、離れて住んでいたヴァルジャンのところに行く。もうすぐレ・ミゼラブルの劇のラストだ。場を盛り上げる音楽が教室内に響き渡る。今見ても完成度が高い劇だと思う。とても高校生のそれには見えない。

 村田は汗を拭い、腕時計を見た。十一時半前になっている。

 ほぼ予定通りだ・・・。

 確かに高校のときはこの不整脈が頻繁に起きていた。極めつけがあの津田沼駅で倒れたときだ。AEDが普及していないこの過去の時代で、助かったのは出勤途中の医師がいたからだった。奇跡だと今でも思っている。

 劇は進み、二人がジャン・ヴァルジャンを見取るシーンに変わった。

 死か・・・今の自分にはとても近い存在だな・・・。

 そのシーンを見ながら村田は思った。

 周りのクラスの人間はそんなことは微塵にも思っていないだろう。死を扱いながらも、それは自分とは全く関係のないことだと思っている。村田にとってそれは不思議な情景に見えた。

 不整脈と心臓の痛みが収まってきた。

 助かった・・・。

 極度の緊張が解けてゆく。村田は深い溜息を漏らした。

 生きている・・・。

 そう思った。心が深い安堵の気持ちに覆われてゆく。

 拍手が教室内で沸きあがった。劇が終わったのだ。教室の明かりが点けられ、客がゆっくり出てゆく。

「次が十二時半からなので、それまでに昼飯を取って下さーい」

 そんな声が聞こえた。

 佐川のところは確か食堂をやっていたな。行って顔を出してくるか。

 村田はそんなことを考えた。昨日の佐川の様子が気がかりだったのもある。

 気づくと右手はまだ自分の左胸を掴んでいた。ひどく強張っている。村田はゆっくりとその手を外した。その手はまだ細かく震え続けていた。

 


 いずみは出だしこそ緊張したものの、自分の役を難なくこなしていた。

 七人の侍のヒロインである志乃役だ。ヒロインといっても主役はあくまでも七人の侍だけに実際の出番は多くはなかったが、湧き上がる興奮をいずみは感じていた。

 楽しい・・・本当に楽しい。

 脚本と監督の人間は本当に七人の侍を研究している。そしてよくこの小さい舞台に落とし込んだものだ。

 改めてそう思った。

 役者のメンバーも素晴らしい。七人の侍の個性にぴったりの配役だ。受験勉強そっちのけで頑張った甲斐はある。映画だけではなく、アニメ版全二十六話を全て見たメンバーもいるって言ってたし、本当にみんな、頑張っている。

 ふふふ・・・。

 いずみは気持ちがいいと思った。この十二時間で起きた不可解な現象を全てキャンセルできる、そんな気さえした。

 そろそろまた自分の番だ。

 野武せりとの最後の戦いの前日まで話は進んでいる。村娘の志乃と侍の一人である勝四郎との愛を確認する場面だ。いずみは志乃の気持ちを考えた。目を閉じ、彼女が思った彼女を心の中に描いた。

 誰かを好きだと思う気持ち・・・。

 目を開け、深呼吸をし、静かにいずみは舞台に向かった。

 村田君、私はあの頃、どんな気持ちだったんだろう・・・?

 そう思ったとき何か違和感を覚えた。いずみは舞台を覗き込んだ。そしてその違和感はすぐに確信に至った。

 台本通りにいっていない・・・アドリブを利かせすぎて違う方向にいっている。侍と農民が酒を飲んでいる場面で、明日も襲撃するだろう野武せりへの不安を語る場面のはずだったが、設定のない身の上話までし始めている。

 収拾がつかなくなっているのだ。あやうく英語も出そうな危うさもあった。

 どうするの・・・どうする?

 周りもそれに気づき始めていた。

 だがどうすることもできず、誰も何の行動に出ることはなかった。

 どうする・・・?

 侍と農民は方向性を持たないまま必要のない会話を延々としている。

「よし!」

 いずみは思い切った行動に出た。少し早かったが舞台に出たのだ。

「え・・・?」

 暴走していた二人はいずみの行動に驚き、話を止め、動きを止めた。

いずみは言った。役に入り込んでいる様子だった。

「さあ、菊千代様、与平さん、もう夜が更けてまいりました。お酒はそれくらいにしてもうお休みになってください。それに明日もまた野武せりは襲撃してくるでしょう? 油断は大敵です。体を休め、明日に備えてください」

 いずみがそう言うと二人は助かったという表情になった。自分達でもどうしていいのか分からなくなっていたのだろう。

「お、おう、そうだな」

 二人はそう言ってすぐに舞台から去った。そしていずみは誰かを探す仕草を見せた。寂しさに耐えている、そんな声でその名を呼んだ。

「勝四郎さま・・・勝四郎さま・・・?」

 いずみはそう言ってその名の人物を探すような仕草を見せた。少し心配だった。本来はこの場面はもう少し後になる。機転をきかせ出てきてくれることを祈った。

 少しの間があった。

「志乃殿?」

 いずみの様子は喜びに満ちた表情へと変わった。

「勝四郎? 何処です?」

 そこからは台本通りだ。いずみは演劇が安定軌道に乗ったことにほっとしていた。

 だけど何かがおかしいわ・・・こんな過去はなかった。この違和感は・・・。

 いずみは心のどこかでそう思っていた。 


 

 すごい人の数だ・・・なんで土曜日の午前中こんなに人が集まっているんだ。

 村田は人込みを掻き分けて一階に下りながらそう思った。佐川のクラスの食堂に向かっていたが、なかなか辿りつけない。腕時計を見ると十一時過ぎになっていた。前が進まない。一階の廊下の流れが悪く、階段を降りようとする人間が捌けなくなってしまっているのだ。

 なんかおかしいぞ・・・土曜の午前中でこんなに混んでいた記憶はない。もしくは記憶違いなのか?

 腕時計を見た。さっきから五分も経っているのにまだ三階から一階に降りることができていない。

 あともう少しだっていうのに・・・こんな感じだと佐川のとこの食堂も昼前にして激混みかもしれないな。いったい何が起きているっていうんだ。

 村田は左胸を掴んだ。もう心臓にさっきの痛みはない。だが何かの不安を覚えていた。さっきから感じているこの違和感のせいだった。

 そして村田は階下に目をやった。

 いた・・・。

 あの昨日の夜に校庭にたたずんでいた前園が、前園と思われる人間が、一階の廊下を人込みの中で歩いている。

 見失うことは出来ない!

 そう思うと同時に村田は乱暴に人を押し退け始め、無理やり階段を降り始めた。

 

 

 佐川はレゴで出来たロボットを部室から二台取り出し、部室の前の廊下に並べた。二人の子供はしゃがみ、目を丸くして高さ三十センチ程度の六脚型の歩行ロボットと二脚型の歩行ロボットを眺めていた。六脚型は吉野が作ったもので、二脚型は村田が作ったものだった。作るのに半年掛かった代物だ。電池を積み、モーターを積み、リモコンで動くようになっていた。

 これを高校生が作ったんだから大したものだわ・・・ここまでくるとレゴ部って言うんじゃなくてロボット部って感じよね。

 佐川はそう思った。彼女は一旦部室に戻ってリモコンを二つ取り出し、それを二人の子供に渡した。

「これ、この二つのロボットのコントローラよ。あたしは使い方が分からないから、適当にいじってやってみて」

「おおー」

 佐川は同じだと思った。本来は数ヶ月後にここにやってくる彼らの反応と全く同じものだ。彼らは早速二台のロボットを動かし始めた。複数のモーター音がクラブハウスの廊下に響き渡る。

「おおお、すげー。これすげー」

 すごい反応だな。

 佐川はそう思った。

 だが何かが引っかかっていた。

 いや、何かではない。はっきりしている。そうなのだ・・・あのときの彼らは月見台高校に来たのは初めてだと言った。にも関わらず数ヶ月まであるこの時期で彼らはこの月見台高校にいる。

 何故・・・?

 二人の小学生は夢中にリモコンで二つのロボットを動かしている。さすが子供はものを覚えるのが早い。衝突させ、離れ、衝突させるの戦いのようなことをし始めた。

「すげーこれ! すげー!」

 すごい興奮してる。市販化したら結構儲かるかもね・・・。

 ふっと笑いが漏れた。そして真顔になって言った。

「君たちさあ、今日なんでこの文化祭に来ようと思ったの?」

「えー?」

「高校生って怖いって思ってたりしなかったの?」

「えーそんなことないよ。全然」

「本当は月見台公園に遊びに行こうと思ってたんだけどね」

 ふたりの子供はロボットを動かしながら交互にそう答えた。

「えっ、なんで変更したの?」

 佐川は食いついて聞いた。

「うーん、なんでかな?」

「すごく楽しそうだったから」

「なんかもっと具体的に言うと?」

 過去が変わった瞬間なのだ。何処が基点なのか知りたかった。

「うーん・・・分かんない」

「分かんない」

 分かんないのかあ・・・。

 佐川は復唱して、小さく溜息をついた。

 


 村田は一階に降りた後、廊下の人込みへ強引に割り込み、前園を見た場所に向かった。

 何でこんなに人が多いんだ! 

 村田は苛立っていた。人込みを掻き分け、ようやくさっき前園を見た場所に辿り着いたものの、その姿を見ることはできなかった。

「なんなんだ、この人の多さは・・・」

 焦りを感じていた。手掛かりをみすみす失うことを恐れていたのだ。少しでも早く前園を捕まえ、この状況の全てを説明させたいと考えていた。そして未来に帰る方法を聞き出したかったのだ。

 村田は少し背伸びし、前方を眺め見た。

 いたぞ。

 前園の頭の影が見えたが、一教室分は離れている。

「くそっ」

 ふいに前園の影が見えなくなった。急に逆方向の人の流れが多くなってきた。村田は押し返され、もはや進むことすら困難になってきた。

「なんなんだ!」

 廊下の窓側に身を寄せた。そして逆流してくる人の流れをやり過ごそうとした。

 おかしい・・・なんでこんなに人が多いんだ。

 再び同じことを考えた。

 もう奴を追うことは難しいかもしれない。

 そう思った。そして唇を噛んだ。

「だが、そうでもないんだよね」

 村田はその声にびくっとした。

「前園・・・」

 横にいる人物の顔を見た。驚いて何も言葉が出ない状態に陥ったが、すぐに我に返り、乱暴にその胸ぐらを掴み、壁に当て、押し殺すような声で言った。

「お前、いったい何者なんだ」

 前園は驚いたような表情を見せたが、次の瞬間にはにやりと笑って見せた。

「君もそうやって怒ることがあるんだね」

「・・・何?」

「君はいつも学校でも家でもどこでも決して自分の感情を表に出さない人間だった。そうそう、離婚したときだってそうだった」

「何を言っているんだ・・・?」

 村田は目の前の人間が何を言っているのか、状況を掴めないでいた。

「ほら、離婚を言われたとき、怒りもせず、泣きもせず、君は自分の感情を隠していたよね。普通あんなにけなされ、ひどいことを言われ、プライドを傷つけられたら、怒るもんだって。まあ君たちは最初から相性が悪かったから、仕方のない結果ではあったのだけれど」

「・・・」

 なんだ、こいつ・・・なんで・・・。

 抑え切れない苛立ちと怒りを覚え始めた。人込みが彼らの前を通り過ぎてゆくが、その音、その風景はもう全く村田には入っていない。

「お前、誰なんだ・・・」

 呟くような声だった。

「お前、何者なんだ!」

 村田は突然爆発するような怒りの感情に襲われ、我を忘れ叫んだ。一階の廊下の人込みはその声に驚き、一瞬にして音を失った。二人を中心に半径一メートルほどの小さい空間が生まれた。

 前園の胸ぐらを掴む手が怒りで震えている。

「何者って」

 その男子生徒はくすっと笑った。

「君と同じクラスで同じレゴ部の前園だよ。俺達、親友だろ?」

「ふざけるな! そんな奴はいない!」

「まあまあ」

 そう言って前園と名乗る人間は自分の胸ぐらを掴む村田の手首を強力な力で引き離した。

「ここじゃ人目が多いな。向こうの管理棟で話さないか?」

 その男子生徒は突き放すように村田の手を放すと、彼は勢いよく人込みの中に倒れた。

「くそっ」

 村田が見上げるともうそこには前園はいなかった。急いで立ち上がり、前後左右に広がる人込みを見渡したが、もはや彼を見つけることは出来なかった。

 いない・・・。

「誰か知らないか? 今ここに一緒にいた奴はいったいどっちに行ったんだ?」

 誰も何も答えない。村田の目には彼らが今起きたトラブルに関わりを持ちたくないかのように映った。

 気が焦った。

「頼む、教えてくれ、今ここに居た奴は・・・」

 村田はすぐ近くにいた月見台の制服を着た男子生徒に聞いた。

「いや・・・突然消えたんだ・・・分からない」

 村田ははっとした。

 管理棟・・・。

 すぐに行動した。人込みを抜け、管理棟に向かった。途中の渡り廊下までくると人は急に少なくなる。村田は走り始めたが、その瞬間に人にぶつかり、よろけ、倒れそうになった。それでも村田は走り続けた。

 

 

 演劇が終わったいずみは舞台衣装のオレンジ色の着物を着たまま廊下に出た。たすきを掛け、前掛けをし、首から手ぬぐいを垂らし、農民らしく見せていたが、劇から抜け出した状態では和風レストランの店員さんにも見える。

 すごい人込みだ・・・。

 いずみはその人の多さに怯んでいた。

 土曜日の午前中にこんなに人がいた記憶なんてないわ・・・。

 ダブルキャストであるため休憩時間が二時間程あった。部室で休憩がてら、朝、購買で買ったパンを食べようと思っていた。それを昼食にするつもりだった。

 遠回りになるけど、一旦管理棟を経由してクラブハウスに向かった方がいい。この状態じゃ生徒館を出ることも難しいわ。

 もう一度彼らと話したかった。さっきから感じているこの世界に対しての違和感を話したかった。それに佐川里美のことが気になっていた。昨日夜、あんなにも気持ちが不安定になった彼女をいずみは心配していた。

 あの子はあの未来に不満だったんだ。それに私は全く気づいていなかった。二歳下のかけがいのない友達だったのに・・・。

 廊下の窓には青々としたすがすがしい秋の空が広がっている。だが、いずみの気持ちは、その空と全く正反対に暗く沈んでいた。

 私は最低だ・・・。

 いつも自分の不満ばかり言って、いつも自分だけが不幸だと思っていた。里美ちゃんは悩んでいたんだ・・・私はそれを気づきもせず、助けることもしなかった。

 本当に最低だ・・・。

 高校のときのあの子は昼休みによく部室にきていた。この時間帯だったら部室にいるかもしれない・・・。

 そう思いながら、いずみは管理棟への二階の渡り廊下に出た。人影は急に少なくなる。管理棟は文化部の展示がされているものの、各クラスの演劇に比べると興味を示す人間は極端に少ない。生物部、化学部、物理部、地学部、茶道部、華道部・・・そういった部活が静かに展示を行っていた。いずみは二階の渡り廊下をゆっくり歩きながら中庭を挟んだもう一つの渡り廊下を見た。

「あ・・・」

 いずみは驚いて止まり、窓から対岸の渡り廊下の一階を見直した。

「村田君・・・」

 村田の様子が見える。今日の未明、自分のことを好きだと言ってくれたときのことを思い出したが、すぐにその思いは消えた。走り、人とぶつかり、尚も先に進む・・・少し様子が変だと思ったのだ。

 焦っている・・・めずらしい。あの人があんなにも感情を表に出すなんて。

いつも冷静で暖かい彼を思い出した。高校からの帰り、フラミンゴロードを通り、一緒に月見台駅まで歩いた時のことを思い出した。年下なのに大人の意見を持った彼をいずみは尊敬をしていた。

 あんな村田君を見たことがない・・・。

 いずみはその場から村田の走り行く方向を確認した。村田は管理棟一階に入ってゆく。

 何かあったんだ。

 いずみはそう直感した。彼女は急いで渡り廊下を渡り切り、すぐの管理棟の階段を使い、一階に降りた。村田と合流するつもりだった。いずみは目の前の長い廊下を走り、村田のいると思われる方向に向かっていった。

 直感的に何かが動き出していることを感じた。そしてそれは自分の運命を左右するものだという予感が彼女にはしていたのだった。

 

 

 吉野はあいかわらず体育館の二階の窓から生徒館、クラブハウス、校庭をぼんやり眺めていた。まだ交代要員が来ていない。吉野は暇を持て余していた。煙草が吸いたいと心底思っていた。

 まる一日吸っていない。こんなに長いこと煙草を吸わなかったのはいつぶりだっただろうか・・・。

 空にはゆっくりと雲が流れてゆくのが見える。

 そうだ、あれは二年前に娘が生まれたときのことだ。

 生まれた直後の娘を抱くのに煙草臭いのは申し訳ないと思い、予定日から吸うのを止めた。あのときは一日出産が遅れたから、まる二日煙草を吸うのを止めていたことになる。

 妻の実家のある仙台での里帰り出産だったから、娘が生まれたと聞いて、彼は仕事を十七時きっかりに終わらし、東京駅から新幹線に飛び乗った。あんなに幸せに満ちたうれしい気持ちというのはおそらくないだろう。新幹線で子供の鳴声が聞こえても気にならない。むしろ自分があやしに行きたいくらいの気持ちになっていた。

 仙台に着いてからタクシーで赤十字病院に向かい、タクシーの運ちゃんに娘が生まれたことを伝え、自分のうれしい気持ちを言った。別に言わなくていいことではあったが、そういったことは何故か自然と口に出る。

「アホだな、俺は・・・」

 そう呟き、そしてくすっと笑った。 

 そこで初めて生まれたばかりのちーちゃんに会ったんだ。小さくて赤い顔、小さい体、小さい手。その手は俺の指を力の限り握ってくれた。なんてかわいいんだと思った。この世であの子の存在以上のものはないとも思った。あの子は俺の宝だ。何があっても絶対に守らなければならない存在だ。そう何があっても・・・。

「あれ・・・?」

 吉野は少し驚きの声を出した。

「佐川の奴・・・なにやってるんだ?」

 体育館の二階の窓から、佐川が二人の小学生を連れてクラブハウスに入ってゆくのが見えた。

 見覚えがある。よく放課後にうちの部室に遊びに来ていた子供たちだ。裏門から死角を駆使してクラブハウスの部室に来て、レゴを作りに来ていた。

 だが、あの小学生は俺らが二年のときの十二月に知り合うはずだ・・・つまりは数ヶ月後だ。それまでは校内に入ったことがないと言っていた記憶がある。文化祭にも来たことがないとも言っていた。それがなんで今、校内を歩いているんだ・・・。

 考えがまとまらない。何かがおかしいような気がする。すぐにでも確認したかった。彼らと会話をしたかった。

 それにしてもなんで進行委員の交代が来ないんだ。こんなことは記憶にないぞ・・・。

 吉野は進行意表の紙を見た。交代時間から三十分が過ぎている。代わりの一年生が来ていないのはおかしいと思った。苛立ちを感じ始めていた。

 体育館のステージを準備室の内側の窓から覗いた。音楽に乗り、気持ち良くで歌っている彼らが見える。純真で自由な彼らがそこには居た。

 実際、進行委員は何もやっていない。さっさとこの場を離れても何も問題は起きないとは思うが・・・。

 しばらく吉野は、楽器を鳴らし、歌を歌う彼らの様子を見ていた。少しうらやましく思った。そして日々の仕事に追われていた自分を省みて、自分が失ったものが多いことを認識した。

「すたれちまったのかな? 俺・・・」

 吉野はそう呟いた。

 誰かが階段を上ってくる。吉野は振り向き、階段を見た。青いTシャツを着た女子がちょうど二階に辿り着いたところだった。一年生のどっかのクラスのTシャツだ。胸が大きく背の低い可愛い女子だった。

「あの・・・」

「交代の一年生?」

 つっけんどんな言い方をした。感情を抑えきれず、吉野の声は強い口調になってしまっていた。苛立っているのがすぐ分かる、ぶっきらぼうな言い方だった。だが、その女子は吉野の態度を気にする様子は全くなかった。

「はい」

 淡々とした口調でそう答えた。

「随分と遅いじゃないか? 何をやっていたんだ?」

 強い口調は変わらない。悪びれもしないその女子に頭にきたのだ。

「いえ、違うんです。私は代理です」

 その女子はそう言いながら首を横に振った。

「本当は別の女の子だったんですけど・・・」

 なんだ、この違和感は・・・気分というか気持ちが悪い。

「どういうことだ・・・?」

 吉野はその女子に聞いた。動揺し、強い口調はどこかに飛んで行ってしまっている。

「その子は学校に来る途中、足の骨を折って今日は休みなんです。何か、地元の駅の階段を踏み外したみたいで」

 吉野は驚きの表情を隠せなかった。

 なんだ・・・どういうことだ・・・こんなことは記憶にない。

 少し混乱してきた。

「代わりに同じクラスの文化祭実行委員の私が進行委員をやることになりました」

 本来の過去と違う。

 そう思い始めていた。

「そうか・・・」

 吉野はそう言うとその女子に進行表を渡した。その一年生の女子はそれを受け取ると言った。

「あの、私は何をすれば・・・」

「今、六番目だ・・・特に何もしなくていい」

 そして吉野はそれ以上の引継ぎをせず、体育館の中の階段を降り始めた。

 その疑念は確信になり始めた。

 もうここは本来の過去ではない・・・少しずつ変わってきているのだ。

 吉野は体育館の外に出た。クラブハウスをしばらく眺めて、その方向にゆっくり歩いて行った。

 さっき佐川と小学生の彼らがクラブハウスに入ってから三十分は経っている・・・。

 その足は自然と速くなってゆく。今、何が起きているのか確認したかった。少しでも早く、今すぐに彼はそれを確認しなければならないと思ったのだ。



 管理棟の一階を全力で走り抜け、いずみの呼吸は乱れていた。

 村田君が見つからない。さっき見たときはここに向かっているように見えたのに。

 彼女は管理棟一階の購買の前にいた。目の前の階段を見上げ、大きく深呼吸をし、駆け足でそれを上り始めた。

 二階に行ったのかもしれない。

 そう思ったのだ。

 それにしても生徒館の混みようが嘘のようだわ。管理棟には殆ど人影が見当たらない。この差はすごい・・・まあ文科系の部活の展示ばかりだから、あまり興味が沸かないのだろうけど。

 いずみは二階に着くとすぐに廊下を端まで見通した。だが村田の姿は見当たらない。彼女は小走りに各特別教室を覗きながら、村田の姿を探したが、そのいずれの部屋にも村田の姿を見つけることは出来なかった。

「じゃ三階なの?」

 そう呟き、三階に上ったものの、どの特殊教室にも村田の姿を見つけることはできなかった。

 いったい何処にいるの? それにあんなに焦って、誰を追っていたの・・・?

いずみは少し疲れを感じていた。

 三階の廊下の窓は全て開けられており、ゆったりとした優しい秋の風が流れてきている。いずみは窓の枠に体重を預け、中庭を見下ろした。

 大勢の客で中庭はごった返している。フランクフルトやポテト、たこ焼き、お好み焼き、焼きそばなどを売っている屋台が三つほど建っていた。数少ない部活の有志の店だ。バレー部と陸上部とサッカー部だったような気がする。

 一人の小学生低学年くらいの子供が走っていた。そしてすぐに転び、大声で泣き始めた。本人とっては大事かも知れなかったが、いずみにはそれはとても平和な風景に思えた。

 もしかしたら屋上・・・? だけど、通常開放は行っていない・・・開いている訳がないわ。

 優しい風が吹いている。それに誘われ、少しの眠気を感じた。

「昨日は二時間も寝てないから・・・」

 あくびをしてそう呟いた。

 階段を上ってみよう。もしかしたら屋上へのドアが開いているかもしれない。確認しないよりはした方がいいわ。

 いずみはそう思った。そして階段に戻り、上り始めた。すぐ目の前に踊り場があり、そこを曲がり更に階段を上がると屋上への扉に続いている。踊り場まで来て、ふと壁を見ると落書きが壁いっぱいに書かれているのが目に入った。

「・・・」

 いずみはそれらの文字を読み、思わず笑みを漏らした。将来の夢、誰かに告白したこと、振られたこと、悩んでいること、うれしかったこと・・・それらの内容が鉛筆やボールペンで無数に壁に書かれていた。

「こんなのがあったんて・・・知らなかったわ・・・」

 壁の文字を読んでゆく。誰かが書いたことに誰かが反応し、他の誰かが更にそれに反応して書く続きもののようなものもあった。面白いと思った。

 青春しているな・・・・。

 少しうらやましい気がした。

 いずみは壁の文章を読みながらゆっくり階段を上っていった。屋上の鉄の扉に近くなるほど、文章の密度は上がってゆく。

 この高校は創立五十年だから、半世紀前の文章もこの中にはあるかもしれない。その人達の悩みはいったい何だったのだろうか? 

 彼女は丁寧に読みながら階段を上った。進路のことが多いように思えた。その次は恋愛だろうか? どの時代も高校生が悩むネタは同じのようであった。人間の本質はあまり変わらないらしい。枕草子を読んでそう思うことがあった。古典で敷居が高いように思えるが、あの書の本質は人の行動に毒を吐いているものだ。決して清楚な内容ではない。内容もほぼ現代人がやっていることと変わらず、人間とは進化しないものだと考えらさせられる。

 いずみが高校生のとき、悩んでいたのはやっぱり進路のことだった。自分が何になりたいのか、何の仕事に就きたいのかを決めきれていなかった。そして結局は親が勧めた弁護士の道に進んだのだが、実際、それに幸福を感じたことはなかった。

 後悔をしているのかもしれない。自分自身で自分のやりたいことを見つけられなかったことに。将来への希望、悩み、不安・・・高校生は皆それと同居しながら答えを見つけてゆくのだ。それを私はできなかった・・・。

 いずみは一歩一歩階段を上るにつれ、空間は少しずつ薄暗くなってゆく。

「あっ・・・」

 いずみは思わず声を上げ、足を止めた。鉛筆で描かれている魔方陣のような模様を見つけたのだ。

 どこかで見たことがあると思った。

 それはタイムスリップする前に村田が持ってきた、あのレゴで作られた魔方陣に似ている。彼女は近づいてそれをよく見た。直径二十センチくらいのもので、決して上手なものではなかったが、模様の細部まで描かれており、緻密な魔方陣であることはすぐに分かった。

「なんでこんなところにあるの・・・」

 いずみはそう呟き、そっとその模様に触れた。

「熱っ」

 鉛筆で描かれていた線は異常に熱かった。鋭く痛みのある熱さだ。

 模様は赤く光り始め、薄暗いこの空間に浮き出てきた。いずみは恐ろしくなり後ずさりをしたが、すぐにコンクリートの階段の冷たい鉄製の手すりに腰が当たった。

「いったい何なの・・・」

 赤く光る魔方陣は突然宙に浮き、倍の大きさに拡大した。

「な!」

 いずみは恐怖し、動けず、ただその成り行きを見ているしかなかった。魔法陣はゆっくり回り始め、突然、異常な高い音を出し、高速回転に変わった。

「逃げないと・・・」

 いずみは階段を降りようとしたが、恐怖と焦りで足が上手く動かなかった。何度も階段を踏み外した。何かの弾ける音が鳴った。それと同時に一気に赤い光りが広がり、強烈な風が流れ込んできた。

「何・・・何なの?」

 赤い光りの輝度が高すぎて、とても目を開けることが出来ない。強い風に押され、いずみはとてもその場には立っていられず、彼女はしゃがみ込んでしまった。しばらくその状態が続いていたが、やがてそれも止み、いずみはゆっくり立ち上がり、目を開けた。

「まさか・・・」

 目の前に広がっているのはさっき見た中庭の風景だった。

 ありえないわ・・・さっきまで階段にいたというのに。

 彼女は三階の廊下に立っていた。そして違和感を覚えた。デジャブのような感覚だ。

 違う・・・違う違う!

 一人の子供が中庭に転んだ。そして大声で泣く姿が見えた。

 さっきと同じ風景・・・。

 この状況が信じられなかった。

 タイムスリップしたんだわ・・・十分か十五分くらい前だろうけど、自分の意識の中にタイムスリップしたんだ・・・。

「あの魔方陣が・・・」

 いずみはそう呟くと走り出し、急いで屋上への階段に向かった。そして何かにせかされるように階段を上り、魔方陣の描いてあった場所に辿り着いた。

「・・・」

 もうその魔方陣はそこにはなかった。魔方陣があった場所には周りと同じように将来の夢や不安、恋の悩み・・・そういった青春の片鱗が所狭しと書かれている。

「夢を見ていた・・・?」

 いずみはそう呟くと力が抜けたようにうな垂れ、その場に座り込んだ。

 とても夢には思えなかった。あの模様を触ったときの熱さは今も手に残っている。だが、その右手を見ても、そのやけどの跡は見ることはできない。

「いったい何が起きていたと言うの・・・」

 いずみはそう呟いた。

 

 

 吉野はクラブハウスの階段を上っていた。この階段を上り、左に曲がり、真っ直ぐ行った奥にレゴ部の部室がある。

 おそらく佐川はあの子供達をレゴ部の部室に連れて行っている。だが、なんでだ? あいつもこの微妙に違う過去に気づいたというのか?

 三人を見てから三十分以上は経っている。もう部室にはいないかもしれない。

吉野はそう思いながら階段を上っていた。

 騒がしい足音が聞こえてきた。吉野の方に向かってきている。吉野は二階の廊下に辿り着くと、二人の子供が走ってくるのが見えた。

「ありがとうな! 髪の短いねーちゃん」

 二人とも後ろを振り返りながら、走っていたため、突然現れた吉野を認識しきれず、結果、勢いよくぶつかった。

「おっ、大丈夫か?」

 吉野はそう言って両手で二人を支えた。

 あの子達だ・・・確か田中君と前川君だったか?

「君たち・・・なんでこの学校に?」

「えー楽しそうだったから」

 吉野の問いに笑いながらその小学生達はそう答えた。

「じゃあな! またな!」

 レゴ部の部室の前に立っていた佐川はその言葉に反応して小さく手を振った。子供達は勢いよく階段を下りてゆく。吉野はその様子をしばらく見ていたが、やがて佐川の方に向き直った。

 佐川は部室に入ったのか、その姿はもう見えない。吉野は部室のドアの前に立った。昨晩の佐川の様子を思い出し、部室に入ることが躊躇われた。吉野は一呼吸して部室のドアをノックし、その引き戸をゆっくりと開けた。

「佐川・・・」

 その髪の短い女子が部室の窓から校庭を眺めている様子が見えた。彼女はゆっくりと振り向いた。

「吉野先輩」 

 佐川の態度は明らかに吉野に対して身構えていた。

「佐川、あの小学生達・・・」

 そう言って吉野は部室を見渡した。

「あの小学生・・・おかしいわ」

「・・・」

「あの小学生達、本来は今この高校にいるはずがないのに」

「俺もおかしいと思った。あの小学生達が俺らと知り合うのは、あと数ヶ月後なんだよ。それまでこの学校に来たこともなかったはずなんだ」

 佐川は頷いた。

「この過去は少し本来の過去とちょっと違うわ」

 やっぱり気づいていたか・・・。

「で、佐川はどうするんだ?」

 無意識に問い詰めるような言い方になってしまっていた。佐川の過去をやり直すと言って、実質は逃げるような態度が許せなかったのかもしれない。

「それ、どういう意味なの?」

 その言葉に反応して、即座に佐川の声の質が悪くなった。吉野の意図を悟ったのかもしれない。

「すまん・・・言い方が悪かった」

 吉野はすぐにそう謝った。

「佐川が言う通り、この世界は俺らが知っている過去ではない可能性がある。こんな世界で過去をやり直すいうことは、新しい未知の未来を切り開くのと変わらない。それでもこの世界で過去をやり直すつもりなのか?」

 そう言って吉野は佐川を見た。彼女は苛立っているように見えた。

「あたしの考えは変わらないわ。あたしはもうあの過去には戻りたくはない!」

「・・・」

 考え方の相違に越えられない壁があるように吉野には思えた。昔はそんなことを感じたことがなかったのにだ。佐川のさっぱりとした考え方に感心もしていたし、尊敬もしていた。

 なのに・・・。

「なあ、人生って確率のようなものとは考えられないか? 選択を繰り返していても結局はその人間性を反映した結果になる。佐川が過去をやり直しているつもりになっても、結局は同じ人生になるんじゃないのか?」

 佐川の苛立ちは吉野にも感じ取れた。相手の様子はとても人の話を聞くそれではない。だが、吉野は彼女を説得したかった。分かって欲しかったのだ。

「今日の朝の未明に」

 佐川は言った。

「変な電話があったわ。機械音でホームページアドレスをひたすら読み上げているやつで、そのホームページに入ったら、未来に帰りたいかって聞いてきた・・・」

「お前のところにも来たのか・・・」

 そういって吉野は言葉を止めた。そして思い切って聞いた。

「どっちを押したんだ?」

「もちろん帰りたくない方にしたわ」

 佐川はきっとして吉野を睨みつけた。

「それの何が悪いっていうの?」

 怒った様子を隠しもいない。

「逃げているんじゃないのか? それ」

「はあ? 何言ってるの?」

 佐川はもう我慢が出来なくなっていた。吉野と一緒の空間にはいられないと思った。そう思う同時に佐川の足は部室のドアに向かっていた。

「待てよ! 佐川」

 吉野は目の前を通り過ぎる佐川の左腕を掴んだ。

「何すんのよ!」

「お前、そんなんでいいのか? 情けないと思わないのか?」

 吉野は叫ぶように言った。

「離しなさいよ! 私は今ある選択で一番いいものを選んだだけよ! 駄目な未来に帰るなんてありえないわ。選択ができると言うのに適切な選択をしないなんておかしいんじゃないの?」

「違う!」

 吉野は怒鳴った。一瞬佐川はその勢いに怯んだ。窓ガラスが震えたような気がした。

「適切な選択をしたと言えば聞こえはいいが、実質は逃げているだけじゃないか! お前が全くの別人にならない限り、未来は同じ結果が待っているだけだぞ!」

 佐川は我慢が出来なかった。彼女の右手が勢いよく吉野の顔に飛び、パンという音が鳴った。吉野は部室を囲む棚に倒れ、棚はガシャンという音と共に大きく揺れた。

「私は逃げたりなんかしていない! 自分の人生を考えて最適な選択をしたに過ぎない。どうして過去をやり直すことが逃げになるというの? どうして同じ結果になると言い切れるの? 先輩の考え方は理解できないわ!」

 佐川の声が部室の中に響き渡った。

「違う! 佐川が何も変わっていない状態で、過去に残って、過去を変えたとしても、来るべき未来は結果的に必ず同じようなものになるはずだ!」

「何を言っているの? 私は私の意志で最適なものを選択すると言っている。それを何故逃げだと言っているのか私には理解できない! 選択して今の現状を変えようとするのが逃げなの? そんなこと言ったら、結婚して相性が悪くて離婚した村田先輩は結婚というものから逃げたとでも言いたいの?」

「な! そんなことは言っていないだろ!」

 吉野は怒りを覚え、怒鳴った。それに対し、佐川は負けじと怒鳴り返した。

「先輩の話は全く分からない! 何がいったい逃げなの? じゃあ選択って何? 選択することが逃げだというならば、誰も何も出来はしないわ!」

 沈黙の時間があった。佐川は吉野を睨みつけていた。何も言わず黙って彼女は彼を見ていたが、どうしても怒りを抑えきれなくなった。

「だいたい、現実から逃げている先輩がそんなことを言う資格はないはずよ!」

 力の限り怒鳴った。だが、言い終わった瞬間に佐川ははっとした。そして口に手を当て、しまったという顔をした。

「現実から逃げている・・・何のことだ?」

 吉野には全く心当たりがなかった。自分が何かに向き合わず、逃げているなんてありえないと思った。何を言っているのか理解出来なかった。

「佐川、いったい・・・」

「うるさい!」

 そう言って佐川は勢いよく部室の引き戸を開け、そのまま部室を出て、同じように乱暴にその引き戸を閉めた。そして下を向いて唇を噛み、顔を歪めた。

 涙が溢れた。佐川は目じりに溜まった涙を手で拭い、廊下を歩き出した。そして階段をゆっくりと降り、クラブハウスを出た。

 九月の風が流れていた。

 校門から入ってくる外部からの客の流れが校庭を通してよく見える。その流れは途切れることはなく続いていた。

 あたしは本当に過去にいるのだ。そして過去の自分になっているんだ・・・。

 そう思った。そしてショートカットの髪の毛を手ぐしで整え、再び歩き出した。彼女は唇を噛んだ。

 もう十一時をとっくに過ぎている。クラスの出し物であるカレー屋が混み始める時間だった。


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