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第四章

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「さっきはすまん、取り乱したりして」

 吉野は村田にそう言った。

 もう夜の三時になっている。眠気に勝てず、床に転がって寝ている生徒が出始めていたが、それでも半数以上の生徒は忙しそうに働いていた。大道具、小道具、照明、音響、観客席の準備は大体終わっている。後は外装、及び内装が残っているだけだ。

 彼らのクラスである二年E組はレ・ミゼラブルの劇を行う予定だった。廊下の外装と教室の内装はレンガ造りの街並風とすることになっていた。ダンボールをレンガの形に切り、赤茶色に色づけしたものを白い紙で覆った壁に貼り付ける。二人を含め十人程度の人間が床に座り、黙々とそれを行っていた。

 部室を出てから、村田は前園を探し校内を回っていたが、彼の気配すら見つけ出すことは出来なかった。結局は自分のクラスが劇を行うこの教室に辿り着き、吉野がしていた内装作業を手伝っていたのだ。

「いや・・・気にしていないよ。僕も混乱していたからね」

 村田はそう答えた。そして言葉を続けた。

「前園を探していたんだ。この学校に必ず来ていると思ってね」

 吉野は手を止めて、村田の方に顔を向けた。

「だけど、管理棟、生徒館、クラブハウス、体育館を探してみたが、何処にもいなかった」

「俺も少し探してみたが、何処にも見当たらなかったよ。同じクラスだったから、最後にこの教室に来てみたが、やはり奴はいなかった。クラスの連中に捕まって結局レンガ職人になってしまったがな」

 吉野は苦笑してそう答えた。村田は言った。

「奴は必ず現れると思う。そして何かをするはずだ」

「現れて何をするんだ? というか目的はなんなんだ?」

「分からない。だが気になっていることがあるんだ」

 壁一面に貼ってある白い紙が揺れたような気がした。

「前園は・・・」

 そう村田が言いかけると、目の前の壁が流れたように思えた。

「な・・・」

 壁一面に貼り付けておいたレンガの下地の白い紙が壁から剥がれたのだ。バサッという音を立て、紙は折れ曲がり床に落ちた。

「なんだ、なんだ?」

「落ちたのかあ、あーあ、やり直しだ」

 そんな声が飛んでいる。そして脚立を立て、それに登る生徒、その大きな白い紙を拾い上げ、脚立の上に渡す生徒、あっという間に人が集まり、修復作業が始まった。

 ダンボールのレンガが幾つか剥がれ落ちていたが、被害はそんなに大きくなさそうだった。彼らは要領よく、且つ連携して白い紙を引き上げ、教室の壁をそれで再び覆った。

「完了!」

 その声と共に壁の修復に集まった生徒は、さっさと散会して自分の作業に戻っていった。

「すごい手際がいいな・・・」

 吉野は感嘆していた。その言葉に続けて村田が口を開いた。

「だが、壁の紙が落ちるなんて記憶にないな」

「そうだったか? まあ俺は忘れやすいからな。記憶に全くないけど」

「まあ、僕も記憶がいい方じゃないからな。勘違いかもしれないが・・・」

 村田はそう言って言葉を続けた。

「だけど明日起こることは覚えている」

「ん?」

「確か二日目の晩、体育館に雷が落ちるんだ」

「あ? ああ」

「体育館もその衝撃で屋根が落ちたんだよ。それに巻き込まれて居残っていた一年生一人が怪我をした」

 村田の言葉に吉野は急に思い出したように言った。

「そうだ、確かにそういうことがあった。文化祭は中止にはならなかったけど、それで朝来たら体育館が立ち入り禁止になって、後夜祭をグランドでやったんだよな。俺は文化祭実行委員だったから、その場所変えの仕事に追い回されて大変だったよ。急ごしらえのステージ、照明、音響・・・文化祭実行委員会の人間が総出してなんとかリカバリしたんだ」

「確かにそうだったな・・・」

 村田はそう言った。そして記憶を辿るように付け加えた。

「だけど俺、その雷が落ちた瞬間、現場にいたような気がするんだよな」

 吉野は驚いたように答えた。

「そうなのか? 雷が落ちたのは夜十時とかだぞ」

「いや・・・記憶違いのような気もする。よく覚えていないんだ」

 村田はそう言って背伸びをした。

「喉が渇いたな。裏店の自販でも行って炭酸でも買いに行くか」

 二人は教室を出て、階段を下りながら今度は吉野が口を開いた。

「俺の嫁もこの時代、高校生やってるんだよな」

 ふと吉野はそんなことを言った。

「会いに行ってみようかな・・・」

「え?」

「どんな感じだったのかなって、見てみたいと思ってさ」

 村田は少し慌てた。

「やめとけ、突然会いに行ってどうするんだ? 相手はお前のこと全く知らないんだぞ」

「・・・陰から見るか」

「いや、だから止めとけって。怪しい人間だそ」

「だよな・・・第一、嫁の実家は博多だからな。高校の俺の財力じゃあ、片道の飛行機代で終わりでほぼ無理だ」

 そう言うと吉野は両手で頭を掻いた。

「あー駄目だ。何か考えないと、気分が滅入ってくる。すぐにでも未来に戻りたい・・・」

「・・・絶対に戻る機会はくるはずだ。そのときまで待とう」

 そう言った村田の表情は少し強張っていた。吉野はそれに気がつかず言葉を続けた。

「俺にとって家族は何よりも大切なものなんだ。何物にも変えることはできない。なんとしてでも未来に俺は帰りたい」

 吉野はそう言った。

「・・・お前が家族が大事だの、子供が大切だの言う人間だとは思っていなかったよ」

「まあ、そうかもな。だけど俺にとって家族は命より大切なものなんだ。心の底からそう思っている。だから絶対に未来に帰る。俺達の未来にね」

「・・・」

「あーだけど駄目だ。タバコでも吸いに行くか・・・少し冷静になりたいしな」

 そう言うと吉野は階段を下りながら頭を掻き出した。それを見て村田は思わず苦笑した。

「お前、馬鹿か? 高校生はタバコを吸わないんだぞ?」

「そうだった。今俺たちは高校生だった」

 吉野はそう笑って答えた。

 腕時計の針は既に二時を回っている。

 若い体とは言え、さすがに眠い。どの教室でも学生がダンボールを敷いて寝ているのが見える。その反面黙々と働く生徒も多くいた。

 よく頑張るな・・・。

 村田はそんなことを思った。

 吉野が階段を降りながら言った。

「いずみ先輩はどうしてるんだろう?」

 その言葉に村田は部室でのいずみとのやりとりを思い出した。そして気まずさを感じた。

「役を貰っているからな、クラスで徹夜かもな。さすがに気の毒に思うよ」

「ああ、あの七人の侍のヒロイン」

「文化祭の大賞を取った劇だからな。プレッシャーは相当感じているだろうな。まじめな性格だから」

 村田はそう答えてから、階段の途中で立ち止まった。先に降りていた吉野はそれに気づき、振り返った。

 そうだ・・・。

 村田はぽつりと呟くように言った。

「いずみ先輩・・・随分変わったような気がするんだ」

 村田はそう言って再びゆっくりと階段を降り始めた。

「むらっち?」

 二人は並んで階段を降りる。

「上野の美術館で彼女に偶然会ったんだ。そのときの様子が何か変というか、昔と違うというか・・・」

「・・・?」

「なんか、情けなかったというか・・・主体性がなかったというか、高校時代のいずみ先輩の面影がどこにもなかったんだ」

「・・・」

「昔も確かに天然で抜けているとこはあったけど、芯はしっかりしている人だった。それが、自信が全くないというか、自分では何も決められない、そんな感じの人になっていたんだ・・・」

 二人は昇降口に着いた。そこで自分の下駄箱を捜すのに多少の時間を費やし、彼らは自分の靴に履き替えた。

「でも、さっき部室で話したときはそうじゃなかったな。高校時代のいずみ先輩そのものだったと思うけど」

 吉野はそう言った。

「僕もそう思った。だけど未来あのときの彼女は全く違ったんだ。まるで別人のようだった」

「信じられないな・・・確かにいずみ先輩はちょっと抜けていたところはあったけど、いつも集団の中心にいる人だったからな」

 裏門まで辿り着いて、鉄製の通用口をゆっくり開けた。

「そうなんだよな」

 村田の声はまるで自分に言い聞かせているようにも聞こえた。裏店は四メートル幅の道路を挟んで裏門のすぐ前にある。吉野は裏店の飲料の自販機にお金を入れてから言った。

「もしいずみ先輩自身も過去と未来の自分に差を感じているのなら、先輩も未来に帰りたくないと思っているかもしれないな・・・佐川みたいにさ」

 深夜の自販機の光に照らされた空間は寂しいものにしか思えなかった。大袈裟かもしれないが、暗い宇宙に存在する唯一光る星のように感じられた。その空間の中で吉野が飲料を選択しボタンを押すと、ガゴンと音を鳴らして缶飲料が自販機の取り出し口に落ちた。

「そうかもしれない」

 吉野の後ろでその様子を見ていた村田はそう答えた。

「未来と過去の自分か・・・十六年も経つと人っていうのは変わってしまうものだな」

 吉野はそう言って身を屈め、自販機から缶飲料を取り出した。

「まあ俺自身も変わってしまっているのかもしれないが・・・」

「それは誰だってそうだよ。大人になって社会に出たんだ。変わらないほうがおかしい」

 次に村田が自販機に硬貨を入れた。そして言った。

「佐川といい、いずみ先輩も高校を卒業してからいろいろあったんだな・・・」

 言い終わってから村田は少し考え始めた。何か引っ掛かるものがあったのだ。

「いろいろあった・・・」

 妙に気になる。

 自販機から取り出した炭酸を開けた。そしてそれを口にして言った。

「なあ、吉野・・・」

「あ?」

「この過去でのレゴ部って何人だ?」

「いずみ先輩、俺、むらっち、佐川、前園・・・五人だったと思うけど。あれ?」

 吉野は狐につつまれたような表情になった。

「そう、なんか違和感があるんだよな」

「四人じゃなかったっけ?」

 吉野は思い出したようにそう言った。

「そう四人なんだよ」

 村田の言葉に呼応して吉野が叫んだ。

「前園だ! 奴はレゴ部でも同じクラスの人間でもなんでもない!」

「そもそも、あいつに関する記憶が全くないんだ!」

「じゃあ、あのときの津田沼駅には細身の中年の前園と称する人間はなんだったんだ」

「細身? 恰幅が良くなかったか?」

 今度は村田が狐につつまれた表情になった。吉野は言った。

「いや、細身だった。だが・・・今思うと明からに歳が行き過ぎている。五十歳前くらいだ・・・おかしい、おかしいぞ!」

「僕が新横浜で会ったのは恰幅がよかった。歳は同じ位に見えたが・・・」

 そう言って村田は思い出すような仕草を見せた。そして言葉を続けた。

「やっぱりそうだ。前園なんて奴、知らない・・・少なくとも俺らの周辺にはそんな奴はいなかった。なんなんだ、この記憶の改ざんみたいなのは!」

 吉野は怒りを隠さず、怒鳴るように言った。

「確かにそうだ。そんな奴僕らの周りにはいなかった。じゃああれはいったい・・・」

 村田は言いようのない気味の悪さを感じた。携帯を取り出し、電話番号のリストを確認し始めた。

「やっぱり・・・そんな人間はいない」

 そう言い終わると同時に携帯が振動し始めた。深夜の道路にその振動音が広がってゆく。

 非通知の番号だった。

 村田は気味の悪さを感じ始めていた。人知を超えたこの理解不能の状況にどう対処すればよいのか分からなかった。

 過去に戻った自分、前園という謎の人物、記憶の改ざん・・・

 電話に出るのを躊躇った。触れてはいけないものに触れることになるような気がしたのだ。吉野も同じ気持ちだったのだろうか? 振動を続ける村田の携帯をじっと見つめていた。

 携帯は振動を続けている。

 それは深夜の暗闇の中での出来事だった。

 

 

 この時間は楽しいと思った。

 みんなが自分の意見を聞いてくれる。みんなが自分を頼ってくれている。

 夜中の二時を過ぎていたが、いずみは文化祭の準備に追われていた。いつのまにかいずみが指示を発し、クラスの人間はそれを遂行している形が出来上がっていた。

 いや、本来の過去と同じだわ・・・ここはあの未来と全く違う。

 楽しい・・・。

 そう心から感じていた。

 弁護士事務所では無能扱いをされる自分がいる。意見を言っても全てを否定される自分がいた。上司の机の前に立たされて、延々と馬鹿だの役立たずだの罵られ、重要な仕事は廻されず、経験を積むこともできず、後輩に先を越されていた。萎縮し、いつの間にか自分の意見を言わず、他の人間の顔色を伺う姑息な人間になっていた。自分では何も決められない人間になってしまっていたのだ。いずみは自分の個性が死んでゆくのを感じていた。そんな自分に嫌気が差していた。もう駄目だと思っていた。

 だが今は違う。

 この三年C組は七人の侍の劇を行う予定だった。廊下側の外装はだいたい終わっていたが、内装がまだ終わっておらず、ようやく舞台の設営が終わったという状態だった。その手際の悪さに堪らず、いずみが指示を出し始めたのだ。

 あとは観客席側の内装で終わりだ。ダンボールと白い紙で障子のような内装にしようとしていた。眠気と疲れで士気は勢いを失いかけていたが、いずみはそれを励まし、よく引っ張っていた。

「中川、これどうすればいい?」

「中川、あれ終わったけど、次は?」

「いずみー」

 そんな声が飛び交っている。

 ああ、そうだ。演出の子が言っていたように確かにこの時代の自分は自分に自信を持っていた・・・そしてみんなの中心にいたんだ。

 手放していたもの、忘れていたものを取り戻してゆく感覚を覚えていた。

「いずみ、頑張るわね」

 後ろから声を掛けてきた人間がいた。演出の女子だ。彼女がいずみに話しかけたのは、ちょうど廊下側の壁の障子が完成したときだった。

「さっきはぼーとしていたからびっくりしたわ。もう調子はいいの?」

「うん、もう大丈夫よ」

「よかった。明日が本番だから、どうしようか、心配しちゃったわ」

「ごめん、ごめん」

 いずみはそう言って笑った。

「もう大丈夫だから、明日は・・・もう今日か、まっ、とにかく頑張るわ」

「さすが、月見台高校のアイドルと言われているだけはあるわ。期待してるわよ」

 そう言って、上機嫌でいずみの肩をぽんと叩いて別の場所に向かって行った。

「ちょっと、アイドルって・・・」

 それを聞いていた隣の男子がくすっと笑った。

「まあ確かにファンは多いみたいだけどね」

「もう止めてよ」

「だけど下級生限定だって噂だせ」

 がくっ・・・確かにこの文化祭の後に彼氏になったのは二年生の村田君だけど・・・。

 いずみから苦笑が漏れた。

「・・・そうかもね」

「まあ、いいじゃないか。アイドルなんて言われるなんて、そうはない経験だぞ」

 確かにそうだわ・・・。

 少し涙腺が緩んできている・・・駄目だ。

「鹿島君、ちょっとここをお願いするわ」

 彼女はそう言って廊下に出た。

 深夜だけに人は少ない。二階の廊下の窓から校舎の蛍光灯に照らされた校庭が半分だけ見える。いずみはポケットにあったハンカチを出して目にそっと当てた。

 この過去と未来の自分は違いすぎると思ったのだ。自分を認めてくれる人間がいたことに涙が出た。未来の自分がいかに追い詰められていたことがよく分かった。 

 私は・・・村田君や吉野君には申し訳ないけど、あの未来には帰りたくはない・・・。

 そう思ったときいずみの携帯が鳴った。慌ててそれを取り出し、相手を確認せずに電話に出た。

「もしもし、中川ですけど」

 携帯の電話口から冷たい機械音のような声が聞こえた。いずみは一瞬にして恐怖を感じた。倒れそうになったが、なんとか踏みとどまった。そして自分の勇気をありったけ集めて、電話口の機械音が言っていることを聞き始めた。

 


 佐川の家は月見台高校から成田街道を成田方面に向かい、自転車で十五分位のところにある。山内と別れてから何処にも寄らず、彼女は真っ直ぐに家に帰った。夜の十時半を過ぎていた。

 実家にはついこの間帰ってきたばかりだったが、非常に懐かしく感じられた。この時代の佐川の家は改築前のものだったからだ。モルタルにひびが何本か入っており、その様子はこの過去においてもこの家の古さを感じさせた。

「この家を再び見ることになるとはね・・・」

 佐川は自転車を家の敷地に入れ、家の鍵を出し、静かに家に入った。居間の電気が点いている。 そこには父親と四歳上の兄がテレビを見ていた。母はいないかった。昔から早寝だったことを考えると、大方もう布団に入っているはずだ。

「おう、里美、帰ってきたか」

 兄が声を掛けた。東京大学の二年生だ。同じ月見台高校の卒業だったが、佐川自身はその大学に入ることはなく、彼女は私学に進んだ。同じ兄弟だったが、当時から頭の出来の差は感じていた。

「お前、今日は学校に泊まるんじゃなかったのか?」

「お前、言うな。うちのクラスは食堂だから準備が早く終わったんだ。関係ないでしょ」

「まあ、そう言うなって」

 佐川の父親はのんびりとビールを飲んでいる。兄弟が喧嘩していても、介入はしなかった。昔からそんな人だった。

「明日、文化祭行くからな。お前のところの食堂も寄らしてもらうぞ」

「ふん」

 そう言って佐川は二階の自分の部屋に行こうとした。突然別の声がした。

「明日、頑張れよ」

 父の声だった。

「うん、頑張るわ」

 そう答えた。それから自分の部屋で倒れるようにベッドで横になった。

 いろいろありすぎて疲れた・・・。

 すぐに眠気が襲ってきた。そして携帯の音で起こされるまで佐川は布団も掛けもせずに熟睡しまっていた。

 随分鳴っているが止む気配はない。

「え・・・何?」

 佐川は眠気まなこで机に置いておいた携帯を取り上げた。時間を見ると二時を廻っている。急いで電話に出た。

「もしもし、佐川ですけど・・・こんな真夜中に誰なの?」

 不機嫌にそう言った佐川は、その相手の声を聞いて一瞬にして目が覚めた。機械音がひたすら繰り返しアルファベットの並びを言っていたのだ。

「誰なの・・・」

 言いようのない恐怖を覚えた。暗い部屋の中で機械音が携帯から流れているのだ。電話を持っているだけでも奇跡に近い。だが繰り返し流される機械音を聞いているとそのアルファベットの並びは聞き覚えのある並びのような気がしてきた。

「http:/www・・・」

 何かのホームページアドレスだ・・・。

 佐川は慌てて部屋の電気を点けてメモを取った。

 間違いない・・・。

 そして佐川は携帯の電話を切ると自室のパソコンの電源を入れた。

 パソコンが立ち上がってすぐにブラウザにさっきのホームページアドレスを打ち込んだ。だが該当のホームページが見つからない。

「えっなんで・・・」

 携帯の電話を切ってしまったことに後悔した。もう確認できない。佐川は自分の書いたメモと打ち込んだ文字列を確認した。

「間違ってた」

 そして正しい文字列に修正してエンターキーで打ち込んだ。ブラウザは少しの時間、そのアドレスを探していたが、無事にそのページが表示された。

 佐川はほっとして画面を見た。

 おおよそ素っ気ない画面だ。白地にたった一行だけのテキスト文字だけが打ち出されている。そしてその下には「はい」と「いいえ」のボタンが置かれていた。

「あなたは未来に帰りたいですか?」

 このタイミングでこのホームページのメッセージ・・・明らかに変だ。このホームページを作った人間があたし達をタイムスリップさせたのだろうか? いや、そもそも人間なのか? 神か、宇宙人か、もしくは未来人か・・・?

そして、この質問・・・他のメンバーには同じような電話が入ったのだろうか? というか、このボタンのどっちを押す?

 答えは決まっている。

 佐川は未来に帰りたくなかった。

 いつの間にか社会でいう負け組になっていた。努力して努力したのにも関わらずだ。あの未来は生活するのにやっとの未来だ。保母になりたかったのは事実だが、派遣でしか仕事は得られなかった。あんな低い給料ではきつすぎる。そんな未来に帰りたいと思うわけがない。

 でもこの質問・・・気味が悪いわ。

 だが、佐川はマウスを「いいえ」に置いた。そしてクリックをして画面上のボタンを押した。その瞬間、彼女の口から大きな溜息が漏れた。

ベッドに入る気がしなかった。

 少なくともこのタイムスリップが何かの意図で起こされたものということだけは分かったけど、いったい何が目的なの・・・。

 カーテンを開け、窓から夜空を見上げた。

 先輩達はまだ高校で作業をしているのだろうか・・・?

 ふと佐川はそんなことを思った。

 


 村田の携帯に掛かってきた電話も佐川に掛かってきた電話と同じだった。機械音でホームページアドレスを繰り返すものだった。部室のPCを使ってブラウザに機械音が示すホームページのアドレスを打ち込むと、白い画面に二行の文字だけが書かれたホームページに辿り着いた。

「二人は未来に帰りたいですか?」

 吉野はそう読み上げた。この文の下には例によって「はい」と「いいえ」のボタンが用意されている。

「なんだこれ気味が悪いな・・・というか、どうする?」

 村田は吉野に聞いた。

「佐川は多分、いいえを押したんだろうな」

「多分な」

 村田はそう答えた。

「・・・」

 一瞬の沈黙があった。村田は言った。

「はい・・・でいいか?」

「ああ。でも、なんか少し怖いな」

 吉野はそう呟いた。

 村田は「はい」のボタンをクリックした。するとPCの画面は文字とボタンが消え、ただの白い画面となった。

「・・・」

 二人は顔を見合わせた。そして真っ白いモニタに視線を戻した。気持ちの悪さが残った。得体の知れないこの現象に恐怖を感じていたのだ。

「どうする? クラスに帰って外装作成の続きでもするか・・・」

 そう村田が言い終わった瞬間、突然、部室のドアが開いた。驚いて振り向くとそこにはいずみが立っていた。

「いずみ先輩・・・」

 村田の言葉にいずみは頷いた。

「今さっき何かのホームページアドレスを繰り返し言っている機械音の電話が掛かってきたわ・・・」

「僕らもです」

 そう村田は答えた。

 いずみは部室に入りパソコンの前に座った。一瞬、白い画面に驚いていたが、すぐにそのブラウザを消し、新たにブラウザを立ち上げ、メモしておいたホームページアドレスを打ち込んだ。

「あなたは未来に帰りたいですか?」

 同じ文だな。それに同じボタン・・・。

 村田はそう思った。いずみは二人の方を向いた。

「何なのこれ? というか誰が・・・?」

「分かりません。先輩は・・・」

 吉野はそう言って躊躇った。さっきまでの村田との会話を思い出したのだ。あの話が本当であれば彼女は”いいえ”を選択するはずだと思った。

「二人はどっちに押したの?」

「僕らは”はい”を押しました」

 いずみの問いに吉野はそう答えた。

「・・・」

 彼女はPCを前にして黙り込んだ。

「いずみ先輩はどっちを押すんですか?」

 村田が聞いた。

「どっちって・・・」

 いずみは後ろめたさを感じていた。逃げ出そうとしている自分は認識している。

 里美ちゃんと私は同じだ。現実から逃げ出そうとしているのだ。私は本当に駄目な人間だ・・・。

「私は・・・」

 いずみの呟きが聞こえた。

 そして彼女は深くうなだれ、自分の頭を両手で抱えた。黒く長い髪が重力に従い彼女の顔を覆い隠した。

「どうすれば・・・」

 深い溜息をついた。そして思い切ったように話を始めた。

「私は弁護士だけど・・・今働いている事務所でいじめを受けているの・・・」

 村田はその言葉にはっとした。そして衝撃を受けた。

 社会人がいじめ・・・性格が一変していたのはそのためなのか・・・。

 彼女の背中はどこか悲しげに見える。パソコンの前に座るいずみを見つめながら次の言葉を待った。

「陰口、嫌味、中傷メール、そして存在の無視、書類不受理、・・・それに割り 当てられる仕事は誰も引き受けない苦情処理のような小さい物ばかり・・・」

部屋の壁に掛けてある時計の針がゆっくり動いているのが見える。深夜三時前になっていた。この過去でも時は進んでゆく。いずみは自分たちが時間を逆行してこの世界にきたのがとても信じられなかった。そして過去の自分と未来の自分があまりにも違うのを認識していた。

「大人がするとは思えない陰険で陰湿ないじめをずっと受けていた・・・私はそこで私の自信、誇り、人格を全て根こそぎ奪われてしまったのよ」

 いずみは唇を強く噛んだ。沈んだ心に強い怒りが心の底から沸いてきた。もう抑え切れない。

「私は現役で東大に入り、司法試験は大学三年のときに受かった。それだけで自慢に聞こえる人がいる。妬みから始まり、少しでもミスすれば、彼らは喜び、いじめをエスカレートする。まるで彼らのストレスのはけ口に使われている感じだったわ・・・」

 秒針が時を刻む音が響く。いずみにはその音はやけに大きく聞こえていた。そして言った。

「何故そんな人間に振り回されているのか全く理解が出来ないわ!」

 いずみはそう言って拳を握り、パソコンの台を両手で叩いた。強い怒りの声だった。彼女の悔しさが十分に伝わってきた。

 追い詰められていたのだ。

 未来のいずみ先輩は人間関係に上手くいってなかったんだ・・・いずみ先輩のような芯が強かった人間でも追い込まれ、ああも自信のない人間になってしまうとは・・・。

 彼は人間の恐ろしさを感じた。

「いじめって、いったいどういう弁護士事務所だなんだ・・・」

 吉野はそう呟いた。

 村田はいずみの後ろ姿を見て言わなければならないことを言おうとした。それは彼女にとって必要なことだと思ったのだ。

「でもいずみ先輩、それ、いいえを押したら逃げてますよ」

 いずみはその言葉に肩をわずかにぴくっとさせた。

 言った・・・村田の奴。

 吉野は村田の顔を見ながらそう思った。

「・・・そんなの言われなくても分かっているわ」

 そう呟いた。硬い声だった。

「過去の私だったら、絶対に逃げたりはしない。だけど今の私はどうしょうもなく駄目な人間に成り下がっている。私はそれが悔しい・・・」

「・・・」

 いずみ先輩らしくない。

 過去のいずみの姿が村田の頭によぎった。

 駅までの帰り道に寄った公園のベンチで、いろんなことを語った。夕暮れの中の彼女は本当に綺麗だった。明るく活発で彼女には自信があった。たまに天然なところもあったけど、魅力的な女子だった。村田は胸に込み上げてくる何かを感じた。それは暖かく、懐かしい思いだった。そして目の前に当時のままの彼女がいる。

「いずみ先輩、僕はあなたが本当に好きだった」

「えっ!」

 いずみは村田の突然の言葉に驚き、顔を上げ、振り向いた。吉野も突然の村田の発言に驚いていた。

 お前、唐突過ぎるぞ・・・。

 吉野は隣に立つ村田を眺めながらそう思った。村田の表情は気のせいか清々しく見える。

 いずみは驚きで何も言えなかった。そしてパソコンに視線を戻し、じっとスクリーンセーバーに変わったブラウン管を眺めていた。自分の姿が黒い画面に映って見える。

 少しの沈黙を経て、彼女は口を開いた。

「私に同情しているの?」

 聞き取れないくらい小さな声だった。

「そんなことはないです」

 彼はそうはっきりと答えた。じっといずみの後ろ姿を見つめた。

「僕の好きだったいずみ先輩はここにいます」

「・・・」

 いずみの顔は赤くなった。

 村田君が恋した私・・・。

 そうかもしれない。私はこの過去に来たことで自分を取り戻しつつある。たった数時間しかいないというのに。私は変わったのかもしれない。

 でもそれは未来に帰ったら、一瞬にしてリセットしてしまうわ・・・。

「大丈夫ですよ」

 村田はにっこりと笑ってそう言った。

 いずみは驚いたような表情を浮かべた。そして思い出した。

 ああ、そうだ。この人はいつも私のことが分かっていた・・・私のことを支えてくれた。私のことを包んでいてくれていた。

 いずみは思い出していた。キスもしていない関係のままで分かれてしまった彼は、彼女にとって掛け替えのない存在だった。彼女は確かに彼のことが好きだった。そのときの思いはまだ心の中に存在している。

 でも・・・。

 いずみは首を横に振った。

「そんなことはないわ・・・私はあの未来が怖い・・・」

 再び下を向いた。それはか細い声だった。

 彼女は追い詰められていると思った。村田はそうまでいずみを追い込んだ法律事務所の人間に強い怒りを感じた。

 何のために人は人を傷つけるのか?

 村田は自分の別れた妻を思い出していた。たった二年の結婚生活だったが、結婚から半年もすると、彼女は夫に無神経な言葉を投げつけ、彼にとって家に帰ることは苦痛となってしまっていた。仕事をしていた彼女はストレスを村田に当て付けていたのだろうか? 彼を罵倒し、彼のプライドを傷つけていた彼女はいったい何を考えていのか、今考えても分からないことばかりだった。

 いずみの微かな声が聞こえる。

「ごめんなさい・・・今のわたしにはこの質問に答えることが出来ないわ・・・」

 搾り出すような声だった。そして彼女は震える手でパソコンの電源を落とした。村田は居たたまれなくなった。いずみから視線を逸らすように窓際に行き、誰もいない深夜の校庭を眺めた。

 いや・・・誰かいる。

「・・・前園だ」

 そう呟いた。

「前園が校庭に居る!」

 思わず大声を出した。その声に反応して吉野といずみは窓際に駆け寄った。

「村田君、前園君て、レゴ部の?」

 村田は首を横に振った。

「奴はレゴ部でも僕と同じクラスの人間でもありません。僕らの記憶は操作されている。そんな人間元々いない!」

「・・・」

 いずみは信じられないというように首を振り、窓から校庭を覗き込んだ。

「そんな・・・」

 そう呟いた。

「あれは・・・前園君だわ。でも、タイムスリップする直前に津田沼駅で会った人とは違う。あのときは明らかに私達より年上の人が前園と名乗っていた・・・そうだ、そもそも私は彼を知らない!」

 深夜の校庭に校舎からの光で彼が照らし出されていた。身動きせずに夜空を見上げている。Tシャツを着て、制服の黒いズボンを穿いていた。Tシャツは何処かのクラスのお揃いのもののようだ。背は低めで、頭は短く刈られこの学校では珍しい短髪だった。村田もいずみもその人間が一目で前園であると分かった。未来の前園だと認識した人間に会ったときと同じ感覚だった。だが、話したことも、会ったこともない、全く知らない人間を前園と認識しているのは間違いなかった。

「・・・いったい何者なんだ」

 そう村田が呟いたとき、廊下で陶器が割れる音が連続して鳴った。三人はその音にびくっとし、部室の入口の方向を見た。

 言いようのない恐怖を感じた。

 廊下から声が聞こえてきた。

「おまえー、こんな深夜に皿を割るなよ。まるでホラー映画のシーンみたいじゃないか」

「ごめん、ごめん」

「しかも五枚も割ってんじゃないか」

 そんな声が飛んでいる。

 三人は顔を見合わせ、ほっとした表情をお互いにみせた。何処かのクラスが皿の置き場に困ってクラブハウスの部室を物置代わりにしようとしたのだろう。彼らは再び校庭に視線を戻したが、その風景はさっきのそれと変わっていた。もうそこには誰も何も存在していなかった。

「なんで・・・」

 村田はそう呟いた。

 校舎から漏れる光はなにも照らすことなく、何もない校庭に広がり、何も映し出すことなく、闇に消えていった。それが何か気味の悪いものに感じられてならない。

 いずみは窓を開けた。微かに風を感じる。夜中の九月のそれは冷たく、いずみの長い髪がやさしくなびいていた。

 もうすぐ夜が明ける。そして月見台高校の文化祭初日を迎えるのだ。



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