第三章
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蛍光灯の白い眩しい光に一瞬怯んだ。
「吉野、次、どうする?」
突然そう言われ、吉野ははっとした。
明るい声だ。その言葉と裏腹に周りの雰囲気は慌しく騒々しい。
頭がぼんやりとするな・・・それにここは? 体育館のようだ。さっきまで津田沼駅にいたというのに・・・。
見覚えのある場所だった。
ステージを見ると色鮮やかな巨大な一枚の絵が引き上げられている。体育館の床にパイプ椅子を並べている生徒が見られ、彼らはお揃いの青いTシャツを着ていた。他にも壁の装飾や音響の確認を行っている生徒が見えた。
忘れもしない・・・。
吉野はその巨大な絵に覚えがあった。
そうだ、あれは俺が描いた絵が元になっている・・・ここは月見台高校の体育館だ。
そして自分自身を見た。
お腹が出ていない。
頭に手をやった。
髪もある・・・しかも彼らと同じ青いTシャツを着ているじゃないか!
そしてそのTシャツにプリントしてある文字を読んだ。
月見台高校文化祭実行委員会・・・。
どういうことなんだ? これじゃまるでタイムスリップして、過去の自分になったみたいじゃないか・・・。
「おい、吉野ーどうしたんだ? なんか具合悪いのか? 顔が真っ青だぞ」
「ああ・・・」
「大丈夫か?」
「ああ・・・」
「前夜祭、結構盛り上がったな? 水野委員長の掛け声はさずがだね。各団体の宣伝合戦も今年はなかなかだった。面白かったよ」
「前夜祭・・・」
そうだ前夜祭の直後に似ている・・・これから文化祭実行委員の後夜祭担当の人間は体育館の装飾に当たる予定になっている。明日、明後日の日中、この場所はライブハウスとして使われ、夕方は中夜祭、後夜祭に使われる。パイプ椅子、音響の準備はそのライブハウスのために行われていた。
今、各クラスの人間は明日の文化祭に向け、あてがわれた教室で舞台設定、装飾を行っているはずだ。準備は朝から行われていたが、当然一日で終わることはない。終電まで、もしくは徹夜で準備は行われるだろう。
「ちょうど前夜祭が終わったところなのか?」
「ん? そうだけど。どうしたんだ?」
目の前にいる生徒は吉野のその言葉にそう反応した。
タイムスリップとは厳密には違う。過去の自分に戻っているんだ・・・。
吉野はそう思った。
「ごめん、結城。少し気分が悪いんだ。ちょっと飲み物を買ってくるわ」
そう言って彼は体育館の外に出た。
やっぱり・・・。
外は暗く、夜になっていた。
生徒の教室のある生徒館、特別教室や職員室のある管理棟には光々と電気が点いているのが目に入った。トンカチで釘を打つ音、生徒の打ち合わせの声、芝居の練習の声が聞こえ、資材を運ぶ生徒、劇の衣装を着た生徒、各クラスの色とりどりのTシャツを着た生徒が忙しなく動いているのが見える。
そうだ・・・今は文化祭の前夜祭が終わった直後だ。ステージにあの絵が飾ってあるということは、ここは十六年前で、俺が高校二年だったときの文化祭だ・・・。
あの結城という生徒は隣のクラスの文化祭実行委員だ。クラスは違えど文化祭実行委員の仲間として仲が良かった。三年になって同じクラスとなり、今でも年賀状のやり取りは続けている。彼は頭がよく、旧帝大に現役で合格し、確か、国家公務員のキャリアとなっているはずだ。
彼は高校時代のままの姿だった。ここは間違いなく十六年前の月見台高校なんだ。
「いったいどうなっているんだ・・・」
少し頭が痛い・・・。
あのとき、むらっちが持ってきたレゴの立体魔方陣がタイムスリップの起点だったとしか考えられない。あの赤い光の文様といい、いったいなんだったんだ・・・?
そのとき右横方向から走って寄ってくる影を視界に捉えた。管理棟からすごい勢いで走ってきている。
誰だ?
そう思った瞬間にラリアートをくらった。
「うげっ」
「吉野先輩! どうなってるの!」
「誰だ! あっ佐川か・・・」
そう言って吉野は咳き込んだ。
気絶してもおかしくない!
「佐川なあ、お前、いい加減に・・・」
「お前言うな!」
そう言うと同時に佐川は吉野の腹にパンチを繰り出した。
「がっ」
「どうなってるの! 気づいたら購買の飲み物の自動販売機の前に立っていた! 十六年前よ! いったいどうなっているの!」
佐川は取り乱していた。動揺しまくっている。
あの男勝りな佐川でもこんな風に取り乱すことがあるのか・・・。
吉野はそう思った。
「吉野先輩! 吉野先輩は・・・?」
「ああ・・・お前が保育園の保母さんだって知っている吉野だ」
「はっ・・・」
それを聞いた瞬間、佐川は気が緩んだのか、がくっと地面に座り込んだ。
動揺する気持ちはよく分かる・・・俺だって娘と妻と全く別次元の世界に居るんだ。身が裂かれる思いだ。夢と思いたいが、目の前の風景の鮮明さ、ラリアートで食らった喉の痛み、腹へのパンチの痛み・・・現実のものとしか思えない。いったい何が起こっているんだ・・・
かけがえのない存在と会えないのではないか、もうあの幸せな我が家に帰れないのではないか・・・そんな不安が心を覆ってくる。
吉野は佐川に手を差し伸べ、彼女を立たせた。
「佐川、しっかりしろ」
それに対して佐川は頷き、言った。
「そうだ、パニックっている場合じゃない」
少し落ち着きを取り戻したようだった。
「むらっち先輩が持ってきたあのレゴの立体魔方陣はいったいなんだったの? 前園先輩の言動もよく分からない。遠隔がどうのこうのって、いったいどういうことなの?」
吉野は首を横に振った。
「分からない。現実的にありえないことばかり起きている」
「そうだね」
「少なくとも事の起こりの鍵は前園が持っているはずだ。奴を探して聞き出すしかない」
「でも何処にいるって言うの?」
吉野は少し考えて言った。
「予想だが、奴もこの過去に来ているんじゃなかと思っている。奴とは二年のとき同じクラスだった。まずは二年E組に行ってみよう。そこにはむらっちもいるかもしれない」
彼は更に言葉を続けた。
「あのレゴが過去に飛ぶ魔方陣で、前園によるものであれば、未来に帰る方法も奴が知っているはずだ。奴をなんとしてでも探さなければならない。でないと俺らは未来に帰ることはできない」
その言葉を聞いて佐川は驚いたように吉野の顔を見た。
「未来に帰りたいの? 吉野先輩」
「そりゃそうだろう。俺には妻も子供もいるからな」
それを聞いて佐川は呟くように何かを言った。
「え?」
吉野の耳には届かなかったようだった。そんな吉野の様子を気にする様子もなく、佐川は言った。
「じゃあ行こうか、吉野先輩」
「えっ、ああ」
吉野はそう言って頷いた。そしてズボンのポケットを漁った。
やっぱりあった。
それはクラスの出し物と割り振った教室のリストだった。
文化委員冥利につきるな・・・俺ら二年E組の場所は、三階の一年F組か・・・。
多くの生徒が慌しく動いている。ノコギリを引く者、廊下の装飾を行う者、舞台を設定する者、劇の練習をしている者、人それぞれ、やっていることは違っていたが、忙しさはピークに来ているようだった。
日常の中の非日常・・・。
そんな言葉が吉野の心に浮かんでいた。
いずみは自分の身に起きたことがしばらく理解できなかった。というか実際はそれを考える時間さえなかった。気がつくと彼女は文化祭準備の真っ最中の教室の中にいた。
そして今自分は演劇の練習をしている・・・。
「えー」
小声でそう叫んだ。
七人の侍のヒロイン役だ。台詞が全く出ない・・・立ち回りも全く分からない。十六年も前のことだ。忘れているのは当然だ。だがそうも言ってられなかった。危機は目の前にあった。いずみは謝り倒し、自分のシーンは飛ばして貰い、必死に台詞を頭に叩き込んでいた。
切羽つまって、何故自分が高校の文化祭の前日にいるのか、あの村田のレゴの円盤はなんだったのか、そんなことを考える時間は全くなかった。理解できない現象だったが、今は台詞と立ち回りを覚えることが最優先項目だったのだ。
でないと、この三年C組の演劇は成り立たないものになってしまうわ・・・。
自分がクラスの皆の足を引っ張っている状況は、なんとしてでも避けなければならなかった。
「ああ、もう」
教室の端で一人で台詞を覚えていた。他の生徒は大道具や舞台や教室の装飾、小道具や衣装を作るのに忙しく働いている。いずみのパニックなど気に掛ける人間はいなかった。
「いずみー衣装合わせるから、ちょっと来て貰える?」
「えっ、あ、うん」
声を掛けてきた女子の方に向かった。衣装を合わせている間もいずみは台本から目を離さなかった。ぶつぶつ言いながら一つ一つの台詞を叩き込んでゆく。そして衣装合わせが終わって開放されても彼女は台本を読み続けていた。
「いずみー、台詞覚えたあ?」
ジャージ姿の演出の女子がやってきた。
「うーん、まあ大体」
「どうしちゃったの? 昨日はあんなに完璧に覚えていたのに」
「うーん、ちょっと疲れているのかな?」
なんで昨日の私、完璧に台詞を覚えているのよ!
「でも、もう大丈夫よ」
慌ててそう付け足した。演出の女子は頷いた。
「さっすがあ。東大A判定は違うわ」
「えっ、私そうだったっけ?」
まあ確かに合格して、入学して卒業までしているのだけど・・・。
「うらやましいわ。私なんて勉強さっぱりだから、模試の判定はぼろぼろよ」
そう言ってにやっと笑った。
「大学が全てではないわ。本当に大切なのは頭の機敏さや判断力だと思うのだけど・・・」
「そうね。でもいずみは頭いいし、クラスのメンバーをよく引っ張っていると思うわ。両方を兼ね備えているんじゃない? いきなり台詞を全部忘れちゃうなんて天然なところはあるけど」
「えっ・・・」
私がみんなを引っ張っているなんて・・・弁護士事務所では怒られ、怒鳴られ、いつも萎縮している私なのに。いつも否定され、馬鹿にされている、それが未来の私なのに・・・。
「私はみんなを引っ張ってなんかいないわ。そんな人間じゃない」
「またまたあ」
演出担当の女子は左手を振り、笑顔でそう答えた。
「いずみはそんな人間よ」
「・・・」
「そんなに自分を卑下しないで。みんな、ちゃんといずみのこと、認めているから」
「・・・ありがとう」
いずみは礼を言った。少しほろっときた。実際、今にも泣きそうだった。
「私の台詞は覚えたわ。迷惑を描けてごめんなさい。そろそろ演劇の練習をお願いしようかな?」
そう言って手を前に合わせ、ペコンとお辞儀をした。その演出担当の女子はその行動がかわいらしいと思った。
「OK。さあみんな、練習を始めるよ!」
そう笑いながら、演出の彼女は大声でそう言った。
吉野と佐川は生徒館の階段を使い、三階へと駆け上り、ここで初めて時間を確認した。
懐かしい携帯だな。確かにこの携帯を高校のときに使っていた。
携帯の時間は午後八時半を廻っている。
「演劇を行うクラスの殆どの生徒は終電で家に帰るか、徹夜で準備を行うはずだ。確か前園とむらっちは徹夜で残っていたはず・・・」
二人は早足で一年F組の教室に向かった。二年E組が劇を行う予定の教室だ。廊下はダンボールや材木、黒の大きなビニール袋、発砲スチロール、新聞紙が転がり、多くの制服姿、ジャージ姿、Tシャツ姿の生徒が作業をしていた。
佐川は先を歩く吉野に話しかけた。
「ねえ、吉野先輩、ここ、本当にあたしらが居たときの月見台高校だよ」
「そうだな」
「ウエストポーチしてる・・・」
「ん?」
「この頃の私って、ウエストポーチしてて、レゴの部品を入れてたのよね。どんだけレゴが好きだったんだろ?」
腰のウエストポーチの中身がジャラジャラと音を鳴らして、そう言った。
「ああ、そういえばそうだったな」
「未来じゃ、全然やらなくなっているというのにね」
「・・・俺ももうレゴはやっていないな」
「なんか、大人になるって寂しいもんだね」
佐川はそう呟くように言った。その呟きに吉野は何も反応しなかった。
二人は一年F組の教室に到着した。
「ねえ・・・吉野先輩のクラスの演劇って何だったけ?」
教室の入口で佐川は吉野にそう囁いた。
「ミス・サイゴンだよ」
吉野はそう答えた。
「それって、文化祭の準大賞を取らなかったけ?」
「よく覚えているな。キム役の内海さんが凄くてな・・・ほらあの髪の長い女の子。それにクリス役の田中も芸達者で、後は監督の力だな」
二人は教室を覗き込みながら、そう小声で会話をしていた。
「ところで、むらっちは?」
「いないみたいね。前園先輩も姿が見えない。どうすんの?」
「ああ」
吉野は振り返り、階段に向かって廊下を歩き出した。
「レゴ部の部室に行こう」
階段を下り始め、後ろに続く佐川にそう言った。そのレゴ部の部室は体育館の隣にあるクラブハウス二階の一番奥にある。
「他に居そうなのはレゴ部の部室しかない」
「でもなんで? レゴ部は文化祭に参加していないから、そこに居る意味なんてないよ」
「いや、あいつもタイムスリップしているのだとしたら、他のレゴ部のメンバーに会おうとするんじゃないか? 前園は分からないけどね」
「それってあたしたちがしているみたいに?」
「そういうこと」
二人は一階まで降り、生徒館を出て、体育館の前を通り過ぎ、クラブハウスに向かった。だが、吉野は突然足を止めた。そして思い出したように言った。
「あ・・・俺、文化委員の仕事・・・途中で抜けてきたんだ」
「今はどうでもいいでしょ、そんなこと」
佐川は即座に吉野にそう言ったが、吉野は落ち着きがなくなってきた。
「いや・・・ちょっと抜けることだけでも言ってくるわ」
「な! あんた馬鹿じゃない? なにソッコーで高校生活に馴染んでんの? この状況が分かってんの? 何考えてるの?」
「いや、そうだけど。ほら、一応言っておかないと」
「・・・」
「いや、俺、結城にジュース買ってくるって言っただけだったから・・・」
佐川がわなわな震えてきた。怒りが抑えきれなくなったらしい。
あーしまった・・・。
吉野はその佐川の様子を見て、そう思った。
どうでもいいことにこだわってしまった。後悔先に立たず・・・だ。
吉野の視界の隅から何か高速で動くものが見えた。佐川の回し蹴りが飛んできたのだ。
「うげっ」
なんて力だ・・・。
吉野はそう思いながら、吹っ飛ばされ、転がった。ガードする時間もない。
「あんた、ばっかじゃないの!」
佐川は我を忘れて自分が吹っ飛ばした相手にその言葉を浴びせた。周りが振り向く程の大声だ。
「今はそれどころじゃないでしょ!」
その声に呼び寄せられ、体育館から人が何人か出てきた。あっという間に人だかりが出来た。
「あれ? 吉野?」
文化祭実行委員の結城もその中に居た。
「どうしたんだ?」
怒り狂う一年生の女子をちらちら見ながらそう言った。
「いや、大丈夫・・・」
そう言って吉野はゆっくり身を起こした。佐川はまだ仁王立ちをして吉野を睨みつけている。
顔はかわいいっていうのに・・・なんて怖い。
少し苦笑した。
結城の声が聞こえた。
「そうそう、お前にお客さんだぞ。すぐに帰ってくると思って待ってて貰ってたんだ」
「え?」
吉野はそう言って、結城の後ろに立つ人物を見た。佐川もつられて結城の後ろを覗き見た。そして同時に言った。
「むらっち!」
そこには白いワイシャツに黒いズボンの制服姿の村田が立っていた。彼の表情は重く、思いつめた表情に見えた。
いずみの練習はすぐに終わった。
台詞の言い回しも立ち回りも問題なくこなせた。台詞を言うと体が自然と動き、表情も上手く出せた。体が覚えていたのだ。人間の記憶というものは不思議なものだ。演出の女子のOKはすぐに出た。
「いずみは完璧! 休憩してもいいよ」
その女子はそう言った。
「ずるいー、俺はー、俺達はー?」
七人の侍は一斉に騒ぎ出した。
「あんた達は駄目に決まってるでしょ! さあ練習よ、練習!」
演出の女子の金切り声が上がった。男子の悲鳴にも似た声が続く。いずみはくすっと笑いながら、それらの声を後にして、二階の教室から一階に降り、飲み物を買おうと購買に向かった。
「それにしても、ここはいったい・・・」
いや、どう考えてみてもここは私が三年生だったときの月見台高校だ・・・。
やっと今いるこの状況を考える時間ができた。
全てがあのときのままだ。夢にしては鮮明過ぎる・・・これは現実のものなんだ。
頭が混乱しそうだ。
生徒館を出て体育館の前を通り、管理棟一階の購買の自販に向かった。体育館の前に人だかりが出来ていたが、いずみはそれには興味を持たず、その横を通り過ぎようとした。そのとき、男子と女子の声が重なった叫び声が上がった。
「むらっち!」
「えっ?」
いずみは足を止め、引き返し、急いでその人だかりに割って入っていった。
「ごめん、通らして」
彼女はそう言って数層の人の壁を通り抜けた。そして見た。そこには唖然としている吉野と佐川、暗く重い表情の村田が立っているのが見えた。
「村田君!」
いずみはそう叫んだ。
そうだ、村田君の持ってきたあのレゴの円盤が全ての始まりだったんだ。
「村田君! いったい、これはどういうことなの? なんで過去の月見台高校に私はいるの?」
「いずみ先輩!」
いずみの声に反応して、すぐに吉野はいずみの言葉を遮った。
「いずみ先輩、落ち着いてください。俺らも聞きたいことがいっぱいありますが、ここで聞くと他の生徒に変に思われます・・・場所を変えましょう」
吉野は小声で諭すようにいずみに言った。いずみは一瞬唖然としたような表情を見せたが、すぐに頷いた。
確かにそうだと思ったのだ。
「ねえ、むらっち先輩、あのレゴの魔方陣はいったいなんなんだったの? どうして先輩があんなもの持ってきたの?」
真っ先に佐川里美が口を開いた。聞きたいことは山ほどあった。
村田、吉野、いずみ、佐川の四人はクラブハウス二階にあるレゴ部の部室に移動していた。そして、彼らは部室の中央の大きな机を挟み、一対三の構図となってパイプ椅子に座り向かい合った。一は言うまでもなく村田だった。
「私も知りたいわ・・・」
村田を見つめて、いずみはそう言った。
壁の時計の針は九時半を過ぎている。今の時間、クラブハウスに人が居る様子はない。皆、明日の準備で忙しく、各教室で作業をしているのだろう。レゴ部の部室だけ電気が点いていた。佐川は村田の表情を伺ったが、何も読み取ることは出来なかった。村田の表情は硬く、重いままだった。沈黙に耐えかねて吉野が口を開いた。
「黙っていないで教えてくれないか? あのレゴ・・・あの立体魔方陣のようなものをなんでお前が持ってきたんだ?」
レゴ部の部室だけに棚という棚にレゴの部材の入った半透明なプラスチックの箱が置かれている。レゴの作品もその棚に幾つも置かれているのが見えた。
「ああ・・・」
村田は苦しそうな表情を見せ、深呼吸をした。それは深い溜息のようにいずみには思えた。
「昨日の晩・・・信じてもらえないだろうけど、手が勝手に動いて、あの魔方陣のようなレゴの円盤を作らされていたんだ。僕の頭に突然、あの立体魔方陣の絵柄が頭に入り込んで、手が勝手に動いて、僕はあれを・・・それから気を失っていて・・・」
村田は呟くように言った。
「気がついていたら津田沼で僕はあの魔方陣のレゴを前に過去への扉を開ける呪文を読み上げていた。いや読み上げさせられていた・・・命令されていたんだ! 頭の中で何回も何回も! 僕が・・・みんなをこの過去に・・・」
彼の声は悔しさがにじみ出ていた。混乱しているように見えた。耐えかねて佐川は言った。
「むらっち先輩、それは違うよ。先輩は結局、気を失って倒れていたんだ。悪くなんかない。その後に前園先輩が出てきて、レゴの立体魔方陣からでかい魔方陣を展開して、それであたしたちはこの過去に飛ばされたんだ」
「前園が・・・?」
村田は驚いたように佐川を見た。
「前園先輩はむらっち先輩を遠隔で操ってたとか言ってたよ。やっぱあいつが黒幕で決まりみたいだね」
「・・・」
佐川の言葉を十分理解できた訳ではなかったが、少し救われた思いがした。彼はこの過去に来てから、ずっと自分を責めていたのだ。もしかしたらこのタイムスリップは無意識の自分が引き起こしたものなのではと思っていた。その不安に押しつぶされそうになっていたのだ。
彼は顔を上げた。そして自分が少しずつ自分を取り戻し始めていると感じていた。いずみの声が聞こえる。
「前園君は村田君を遠隔でコントロールして掛けて、彼が思うレゴの立体魔方陣を村田君に作らせていたっていうことなの? でもなんで?」
その問いに佐川は首を横に振った。
「そう、あたしもそれが分からない。自分で作ればいいのにわざわざなんでって感じがするんだ」
窓の外から夜の校庭と生徒館が見える。白く輝く教室で大勢の生徒が忙しそうに動いていた。平和な光景だと思った。
「むらっち、お前、気を失う前に何かを見たり、聞いたりしなかったのか?」
吉野はそう聞いてからすぐに言葉を付け加えた。
「未来に帰る手掛かりがないかを知りたいんだ!」
彼の様子から吉野が焦っているのは分かった。
「声が聞こえた・・・不満なのか?というような・・・僕らと同い年くらいの男子の声だった」
そして村田は首を横に振った。
「それ以外は何も記憶がない。何も分からない・・・」
吉野は唇を噛んだ。
手掛かりはやはり前園にしかないのか・・・。
「前園を探し出して奴から未来に帰る方法を聞きださない限り、俺らは未来に帰れないんじゃないのか・・・?」
それは自分自身に言い聞かせるような言い方だった。
「でも前園先輩を見つけ出したって、未来に帰れる保障はどこにもないわ」
吉野はその佐川の言葉にはっとした。
確かにそうだ・・・帰れる保障は何処にも何もない。
「未来に帰れない・・・」
佐川は返事を返した。
「かもね」
吉野は佐川の言葉に反応し、思わず立ち上がってしまった。彼の座っていたパイプ椅子は反動で一旦不安定になったものの、カタ、カタッと音を立て、すぐに安定を取り戻した。
何かのスイッチが入ったかのように吉野の様子は変わっていった。彼は動揺しているようだった。いや、正気を失っているように見えた。そして彼は目の前の机をバンッと両手でつき、うなだれた。
「俺には妻も子供もいるっていうのに・・・」
そう呟いた声は悲しい声だった。
「そうだ・・・俺達が未来の自分に戻れる保障なんて全くないんだ。明日帰れるのかもしれないし、三年後かもしれない。最悪は帰れない可能性だってある!」
吉野は我を失ったように叫んだ。
「娘はまだ二歳なんだぞ! かわいい盛りなんだぞ!」
「まあ、普通はそうよね・・・だけど吉野先輩は・・・」
佐川は吉野にそう言ったとき、今まで黙っていた村田が口を開いた。
「佐川、もう止めろ!」
怒鳴り声のような声だった。佐川はびくっとし、怯んだ。
「それ以上何も言わないでくれ!」
村田はそう叫んだ。そう彼女に頼んだ。
「佐川はどうなんだよ! 未来に帰りたくないのか!」
吉野は村田の様子に関係なく、大声でそう言った。我を忘れてしまっている。周りも見えているようには思えなかった。彼は冷静さを失ったままだった。
「あたし? あたしは独身だしね。若返れたし、何も問題ないわ。大学受験があるのいうのが面倒くさいけど。第一、働かなくていい。吉野先輩もこの過去にいたら気が楽になるんじゃない?」
「・・・」
吉野は佐川の言っていることが理解できなった。
「お前、何を言っているんだ?」
「うるさい! とにかくあたしはあんな未来に帰りたくはないわ。子供が好きだったから保母になったけど、派遣でしか仕事はなかった。所得はびっくりするほど低いわ! 生活するのもやっとなのよ! 一級建築士の吉野先輩には想像もつかないほどにね!」
「里美ちゃん!」
いずみが堪えかねて言葉を発した。
「今日はここまでにしよ? ね? ね?」
いずみは仲裁に入った。会話の流れが険悪な方向に向かっていると思ったのだ。そして彼女には佐川の様子が自暴的になってゆくのが分かった。いずみはそれに不安な感情を覚えた。佐川はいずみの言葉で我に帰ったような表情となり、悔しそうに唇を強く噛んだ。そしてパイプ椅子から立ち上がり、言った。
「いずみ先輩・・・ごめんなさい」
彼女は乱暴に部室のドアを開け、部室を出て行った。後ろを振り向くことなく彼女は去っていった。
「里美ちゃん・・・」
いずみの呟いた声が聞こえた。
吉野は心に罪悪感に似た感情を覚えた。
何も言う気にはなれない。
少し頭を冷やしたかった。吉野は村田といずみに言った。
「俺もすみませんでした・・・」
「吉野君だけじゃない。私も含めてみんな今の状況が理解できずに混乱している。しょうがないわ」
「・・・」
吉野はいずみの言葉に答えず、席を立ち、部室の引き戸の前に立ち止まり、しばらくそのままの姿勢でいた。そして呟くように言った。
「少し一人で考えさせて下さい・・・」
彼は部室の引き戸を開け、部室を出た。
「すみません・・・怒鳴ったりして」
そう言って彼は部室のドアを閉め、蛍光灯に白く照らされた廊下を歩き始めた。蛍光灯の一本が点滅している。安定したと思いきや、すぐにまたすぐに点滅を再開し、また安定する。彼はそれを見上げながら歩いていた。そしてその光景は言いようのない不安を与える光景だと吉野は思った。
佐川のクラスの出し物は食堂で、その準備はほぼ終わっていた。
劇とは違い、食堂は大道具、小道具を作る必要もなく、且つ演劇の練習もなく、店の内装の準備だけで済む。後は朝の仕込みを頑張ればよく、それ故クラスの人間の殆どは既に帰宅していた。
佐川里美は生徒館校舎横の自転車置き場で自分の自転車を捜していた。すぐにでも帰宅するつもりだったが、自転車がなかなか見つからなかった。何処に置いたのか全く分からなかったし、そもそもどういう自転車に乗っていたのも思い出せなかったのだ。
夜の自転車置き場の蛍光灯は少し眩く、目に痛い。携帯の時計は十時をとっくに過ぎていた。隅に白い自転車の端が見えた。
「あった・・・」
そういえばいつもこの場所に置いていたかも。この白い自転車は見覚えある。
家まで四キロ程度の距離で、雨や雪の日以外、どんなに暑い日でも、どんなに寒い日でも、この自転車でこの高校に通っていた。冬は本当に辛かった。短いスカートにハイソックス・・・寒くない訳がない。どうしてあの我慢が出来ていたのか、今では全く分からない謎だった。
佐川は自転車の鍵を解除し、後輪のスタンドを外すと、それはガシャンと音を鳴らし、地面に着地した。
「おっ、佐川」
その声に反応して佐川は顔を上げた。白い半袖のワイシャツを着た一人の男子が、笑顔で駐輪場の入口に立っていた。まじめそうな背の少し低い男子だ。その男子はカバンを持っておらず、代わりにマジックと白い用紙、ガムテープを持っている。何かの作業の途中だったのだろう。
彼は同じクラスの男子だった。
「あ・・・山内君」
佐川はまずいという顔をし、視線を逸らした。どうしようと思った。だが、その男子はそういった佐川の様子に気づいた様子はなく、
「佐川はもう帰るのか?」
と言った。佐川はコクリと頷いた。
「う、うん」
そう返事をするのがやっとだった。
生徒館の窓には生徒達のせわしなく通り過ぎる姿が見える。この時間、残っている生徒の殆どは、これから徹夜で文化祭の準備を行うのだろう。中には栄養ドリンクを手にしている生徒もいた。だが辛そうな様子の生徒は全く見当たらない。どの生徒も遠足前日の子供のように目が輝いていた。
「この高校ってさ、いいよね」
山内は突然そんなことを言った。
「えっ? う、うん」
「自由で自主があってさ、学生もやるときはやるって感じでさ」
「うん」
彼女は山内をまともに見ることが出来なかった。過去の記憶が蘇ってくる。
あれは三年のときだったから、この過去から二年後になる。三年の文化祭が終わってからすぐのことだった。高校からの帰り道、偶然山内と佐川は一緒になった。あの夕日の中で彼女は山内に告白をしたのだ。
彼はあまり人とは接触を持たず、一人でいることが多かったが、佐川にはどこか惹かれるものがあった。どこが?と言われるとよく分からない。とにかく惹かれたとしか言いようがない。いつも山内のことで頭が一杯になっていた。メールをしたくなる、電話をしたくなる、一緒にいたくなる。そんな感じだった。
初恋だったのかもしれない・・・。
彼女はそう思った。
だけど、その場ですぐに振られてしまったんだ・・・。
山内の声がした。
「今日は月がきれいだな」
その声につられて佐川は銀色に光る月を見上げた。丸い月がちょうど真上に上がっている。
「うん、そうだね」
山内の言葉にそう佐川は返した。
「ねえ、山内君」
「うん?」
「未来って、どうやって決まってゆくのかしら・・・」
佐川はふとそんな言葉を口にした。ついさっきまでの部室でのやりとりが影響しているのかもしれなかった。突然の質問にも関わらず、山内は驚きもせず、右手で顎を触りながら少し考えて答えた。
「いろんな場面でのいろんな選択が未来を決めているんじゃない?」
「あっ、いや、それはそうなんだけど、自分が希望する未来を手に入れるためにはどうしたらいいのかなと思って」
「それはその夢に対して準備して行動しなければならないだろうね」
「例えば?」
「夢の種類によるだろうけど、大学の学部をどう選ぶとか、何の専門学校に行くとか、本場を勉強するために留学するとか、そういったことを考えないといけないと思うよ」
正論を言っていると思った。
だが、現実は違う。
それだけでは自分の望む未来は得られない。努力すれば夢は叶う、能力があれば社会は認めてくれる・・・そんなきれい事で物事は上手く行かない。
「それをやったら、本当に自分が思い描く未来を手に入れることができるの? そんなことないわ。努力なんて関係ないし、ましてや能力なんてもっと関係ない。運が大きく左右している。第一、自分の希望する職に就いたってその人が幸せになるとは限らないわ!」
佐川はそう言い放って、すぐに後悔した。
自分でも大人げないことを言っていると思った。高校生相手に何を言っているんだろうとも思った。
子供が好きだったから保母の資格を取って、その職に就いているが、派遣の身でしかない。給料は低く、生活は不安定だ。果たしてこれで夢が叶ったと言えるのだろうか? 何処でどう間違ってしまったのか・・・こんな生活で自分の夢が叶ったとは思いたくない。
そもそも夢の選択として保母は合っていたのだろうか? もっと別の夢もあったはずなのに私は人生の選択を間違って選択してしまったのではないだろうか?
山内は言った。
「もちろんそういう不安要素はある。ただ、準備をしなければ何も始まらないじゃないか? まずは何かをすることが必要なんだ。運や環境は大きく寄与しているとは思う。でも何もやらないと夢が叶う余地すらもなくなってしまう」
「何もしなければ始まらない・・・」
確かにそうだ。だからあたしは出来るだけのことはやってきた。でもあたしの未来は上手くいっていない!
「自分の出来る範囲で出来るだけのことをしても駄目だったら?」
大人っぽい考えを持った彼ではあったが、相手はまだ高校生だ。その彼に食い下がる自分はどうかしていると思っていた。
「確かに自分の思い描く未来になかなか近づくことはできない。でも諦めたらそれで終わりなんだ。決してあきらめちゃいけないんだ」
「・・・」
正論だと思った。だが実際経験して、失敗した未来となっている身としてはきれい過ぎるきれい事に思えた。
「それでも未来が上手くいかなかったとして、もし人生をやり直す機会があったら、山内君ならどうする?」
「えっ・・・」
山内はその言葉を聞いて一瞬驚いた表情を見せたが、その素振りを彼はすぐに消して言った。
「どうだろうね。そんな都合のいい事を考えたことがなかったから、正直分からないな」
「でも、もし人生をやり直せたら、今度は思い描いていた未来を作れるかもしれないわ」
「そうかな?」
「あたしはそう思う。だって未来を知っているんだもの、上手くいかない訳がない」
そう佐川は言い切った。
山内は首を横に振った。
「僕はそうは思わないな」
山内はきっぱりと言葉を返した。佐川ははっとした。その反対意見に山内の意思の強さを感じた。そして彼の意見と自分の意見が決して一致することがないことを感じ取った。
駐輪場の蛍光灯が何回か点滅している・・・切れ掛かっているのだろうか?
彼女はこの気まずい時間から今すぐにでも逃げだしたかった。
「あたし、帰るね・・・」
山内は少し遅れて答えた。
「・・・ああ、気をつけてな」
佐川は自転車を押し、山内の前を通り、駐輪場を出た。生徒館と管理棟の間に位置する中庭を通り過ぎ、ふと蛍光灯で明るい校舎の窓を見上げた。どのクラスも模造紙を組み合わせ、競い合うように窓ガラスに装飾をしている。佐川は立ち止まって、しばらくそれらを眺め見てから、溜息を吐いた。自分が惨めに感じたのだ。
三十にもなってあたしは何をやってるんだ・・・。
自転車のハンドルを強く握りしめた。
でもあの未来に帰りたくなかった。結婚もできず、不安定な生活を送っている自分には戻りたくなかったのだ。自分の人生をやり直したいと思っていた。自分があんな境遇にいるのはおかしいと思っていた。
そのありえないチャンスが今ここにある・・・。
「おーい、佐川!」
後ろから大声で呼ぶ声が聞こえる。その声に反応して佐川はゆっくりと振り向いた。
「山内君・・・」
少し遠かったが、山内が勢いをつけ、何かを投げてきた。それを佐川は慌てて受け取り、手元を見た。校舎の蛍光灯の明かりで、それが紙パックのコーヒー牛乳であるのが分かった。
「なにこれ? くれるの?」
佐川は思わず笑った。
「ああ、また明日な」
「ありがと、また明日ね」
それを聞いて山内は頷き、校舎に戻ろうとした。一旦止まり、少し考えるような仕草をして佐川に聞いた。
「佐川はこの月見台高校が好きか?」
意外な質問に彼女は驚いた。
「好きだよ。とっても」
「おう、僕もだ」
そう言うと山内は校舎へと帰って行った。その様子を佐川はしばらくじっと見ていたが、思い出したかのように先のコーヒー牛乳にストローを刺し、それを飲みながら片手で自転車を押して正門へ向かった。
もう夜の十一時だ。九月の夜は気持ちが良い。後もう少しで今日という日が終わる。そして明日という日が来て、月見台高校の文化祭当日を迎えることになるのだ。
彼女は空を見上げ、月とその周りの星々をしばらく眺めていた。
夜だというのに生徒館の中は相変わらず文化祭の準備で忙しそうだった。校舎の窓という窓から白い光が漏れ、その光は校庭を明るく照らしている。
いずみはその様子をレゴ部の部室から眺めていた。
このまま過去に留まるとしたら・・・。
本来の過去であれば、私は文化祭が終わった後に村田君と付き合うようになる。だけど大学に入ってからすぐに分かれてしまう、いや、私が彼を振ってしまうのだ。そんな未来をもう一度経験出来るわけがない。それに大学を卒業して、就職先にあの法律事務所を選択することは絶対にないわ。事務所の人間に馬鹿扱いされ、嫌がらせを受ける毎日・・・自分が潰れてしまう。
このまま過去にいるとしたら・・・私の人生は本来の過去とは大きく異なるものになるわ・・・。
「過去をやり直すっていったい・・・」
いずみは思わずそう呟いた。そして我に返った。部室は吉野が出て行ってから、いずみと村田だけになっていた。すぐに気まずさを覚えた。
「私、もうクラスに帰るわ。役を貰っているし、もう少し練習をしないといけないしね」
取ってつけたように彼女はそう言って立ち上がった。
なんだか言い訳をしているみたいだ。後ろめたさすら感じる・・・。
だが、その言葉が聞こえなかったかのか、村田はパイプ席からいずみを見上げて言った。
「先輩は過去を佐川のようにやり直したいと思っているのですか?」
いずみは首を横に振った。
「分からないわ・・・村田君は?」
「僕はなんとしてでも未来に帰りたいと思っています」
はっきりとした口調だった。
「どうして?」
彼の表情が硬く、強張っている。嫌な予感がした。
「・・・僕はあと数ヶ月に心臓発作で倒れるんですよ」
「えっ?」
何を言っているのか分からなかった。驚きを隠せなかった。
「僕は通学途中に津田沼駅で倒れるんです。心臓発作でね。クリスマスの少し前だった。駅にはまだAEDもなく、運よく通勤途中の医師に緊急の対応をしてもらい、僕は助かった」
そんなこと記憶にないわ・・・。
「どうして・・・私は知らなかった」
「知られないように隠していたから。先輩は受験だったし、心配を掛けたくなかったんです」
「でも、私たちは付き合っていたんだよ? なんで・・・」
遠くから釘を打ち付ける音が聞こえてくる。まだ多くの学生が校内に残っているのだろう。笑い声や掛け声も聞こえてきた。窓から秋の夜の涼しい風が流れ込み、いずみの髪を揺らした。コオロギの鳴き声が聞こえてくる。
秋の夜だった。
「あのとき、僕は死を覚悟したんだ」
「・・・」
いずみは動揺していた。もう何も言えなかった。
「激しい痛みの中、たった十七で死ぬなんて嫌だと思った。もっといろんなことを経験したいと思った。もっといろんなもの見てみたいと思った」
廊下で人の騒ぐ声が聞こえる。それらの声が廊下で反射を繰り返した後、引き戸を開けて閉める音がした。階段わきの部室に声の主達は吸い込まれたのだろう。廊下はまた静かな状態に戻った。
「僕は生き延び、それから十五年、生き続けることができた。でも僕はあのとき心の中によぎった気持ちを忘れてしまっていたんだ!」
村田は唇を噛み、言葉を続けた。
「僕は何もしなかった。夢を追うこともなく、みんなが行くからと大学に行き、大企業という理由だけで今の会社を選んだ・・・」
怒ったような口調だった。自分自身に怒っているのだ。そして彼は立ち上がった。
「時間という掛け替えのないものの大切さを知っていた自分が、自分の未来像を考えることなく、夢に向かって何かをするということもなく、無駄に時間を過ごしていたんだ」
「村田君・・・」
「本当に笑ってしまう・・・・本当に情けない」
「そんなことはないわ」
いずみの言葉に強く村田は首を横に振った。
「僕はこの過去でもう一度人生をやり直したいと心のどこかで思っているのかもしれない。だけどそれは間違っている。僕はずるはしたくない。時間を無駄に過ごしてしまったのは自分の責任なんだ。そのことは曲げようのない事実だし、僕は自分自身に責任を持ちたい。やり直すんだったら、知っている過去でやるより、知らない未来でやったほうが卑怯じゃない」
村田はそこまで言った後、壁に掛けてある時計を見た。
「もう行かないと。前園を探してきます。奴は必ずこの過去に来ている。そして僕らに何かをさせようとしている。僕はそれを阻止したいし、しなければならないと思っています」
そう言って部室の引き戸を開けた。
「待って、私も一緒に・・・」
そのとき突然、いずみの携帯が鳴った。電話番号を見ると演出の女子からのものだった。
「はい、中川です・・・うん・・・うん」
村田の出てゆく姿が目に入った。
「あっ・・・」
思わずいずみは声を上げた。部室はいずみ以外誰もいない部屋となった。
「なんでもないわ・・・うん、うん、分かったわ、すぐ戻る」
そう言って彼女は電話を切った。そしてすぐに廊下に飛び出した。
誰もいないコンクリートの打ちっぱなしの廊下が続いている。彼の姿をそこに見ることはもうできなかった。
「村田君・・・」
彼女はそう呟いた。
同時に言いようのない不安を感じていた。