第二章
感想お待ちしています。
夕方、村田は会社の休憩室で携帯の着信メールを確認したが、村田の送ったメールにいずみからの返事は返ってきていなかった。
「月見台の文化祭はもう明日だぞ・・・」
そう呟いた。
やはり僕が原因なのか? 僕を避けて今回の集まりに来ないというのか? 一方的に確かに振られたが、そこまで嫌われた記憶はない。それにそんなにひどい別れ方にはなっていないはずだ・・・。
「じゃあ、いったいなんなんだ・・・?」
四階のこの休憩室の窓から、夕暮れの海が見える。きれいな海だと思った。赤い夕日を背に数隻の貨物船が航行していた。黄昏というのはこういう風景なのだろう。村田はもう一度携帯と向きあい、いずみに同じ文章のメールを送ると、窓からの夕焼けの景色を見ながらコーヒーを飲んだ。そして何をするつもりもなく携帯のニュースサイトに入った。
唖然とした。いや驚愕したと言ってもいいかもしれなかった。
村田は無意識にその記事を口に出して読み始めた。
「大手電機メーカーの四条電機は、半導体部門の業績悪化を踏まえ、三つある工場、及び横浜の開発拠点の統合を発表・・・」
全て時間が止まったような気がした。
なんだ、これ・・・。
「それに伴い、半導体部門二万人の内、一割の二千人を希望退職、及び配置転換により削減する予定で・・・」
リストラが始まるのか・・・。
急いで休憩室を飛び出した。そして廊下を駆け抜け、事務所に戻った。事務所の様子は別段普段と何も変わっていない。ただ部課長が全員、席に居なかった。
「みんな、大変なことになっているぞ!」
村田は大声でそう叫んだ。
数人がその声に反応して、村田のところに集まってきた。村田は自分の席に座り、PCからニュースサイトに入った。
「どうしたんだ? 村田?」
「リストラが始まる・・・この開発拠点も閉鎖されて工場に統合される」
周りに立っていた数人の人間は村田のその言葉に絶句した。騒ぎを聞きつけ、村田の席を中心とした人だかりができ始めた。それはどんどん大きくなってゆく。
「どういうことだ、これ?」
「組合にそんな話、あったのか?」
「なんで社内発表もなしにいきなり社外発表なんだ?」
村田はそれらの声を黙って聞いていた。
ここには試作ラインの人間を含めると九百人もの人間が働いている。この全ての人間を退職もしくは異動させるというのか・・・?
事務所のところどころに少人数のグループが発生しているのが見えた。皆そのことについて話しているのだろう。こうなってはもう仕事どころではない。
明日は月見台高校の文化祭でレゴ部OBの人間が集まる日だっていうのに・・・。
楽しみだったことが、ひどく気が重いことに変わったような気がした。騒ぎは止む様子もなく、拡大してゆく。不安な雰囲気がただ広がっていった。
そうだ・・・。
村田は会社帰りに買ったコンビニ弁当をダイニングのテーブルに並べている最中にそれを思い出した。そして確認をした。
このどたばたで忘れていた・・・。
「いずみ先輩からメールが返ってきていないな・・・」
だけど、人のことを考えているどころじゃなくなってしまったな。もういずみ 先輩の判断に任せよう。子供じゃないんだし・・・。
テレビのニュースは今回の四条電機のリストラのニュースが必ず先頭に来ている。大きな話になっていた。
「四条電機の今回のリストラは、選択と集中に失敗した結果であり、半導体を柱とした経営戦略を見直さなければならない状況が背景にあったと言えると思います。国内景気の悪化、及び韓国勢の値引き攻勢に打ち勝てなかったことであり・・・」
ニュースの解説員はそう説明していた。
二、三年前まではどのニュース番組でも四条電機の半導体への選択と集中の戦略を絶賛していたというのに・・・。
村田はコンビニの弁当を食べ終わるとその容器をゴミ箱に捨て、レゴ部屋に行った。考えをまとめたかったのだ。
「事業所統合に・・・希望退職」
五年前も今回のように会社の業績が悪く、希望退職の募集があった。あのとき多くの仲間が去り、村田の師匠とも言える先輩社員も会社を辞めた。その先輩社員を見送ったときの悲しさは今でも鮮明に覚えている。
「リストラ・・・」
もう経験したくはないと思っていた。
あのとき会社は違法スレスレ、いや違法とも言うべき手段でリストラを断行した。社員を三段階に分類し、最下層に分類された人間にはしつこく面談を繰り返し、退職に追い込んでいった。それでも辞めない人間はリストラ部屋に押し込め、仕事を与えず、プライドを奪い、最後は退職に追い込んだのだ。
あんなことが許されていい訳がない。
少し体の具合が悪くなってきた。熱でもあるのかもしれない。意識がだんだん遠のいてゆくような気がした。自分が自分でなくなるような感覚があった。
「世の中不愉快なことばかりだな」
そんな声が聞こえた。男の声だった。
村田はその声にびくっとした。だが、それと同時に自分の体が自由に効かないことに気がついた。振り向くことすらできない。突然、村田はレゴの部品を棚から運び出し、テーブルにそれをばら撒いた。自分の意図ではない。手が勝手に動き始め、それらのレゴで何かを作り始めたのだ。
逆らえない・・・いったい何が起きているんだ・・・。
何かの模様をレゴの部品で作り出しているようだった。
いったい、何が・・・。
気が遠くなり、意識はすぐにでも失われそうだ。
くそっ・・・。
だが、手は動き続けている。手の動きを止めようとしても、抗おうと叫び声を上げようとしても、それらは全て不可能なことだった。
意識が途切れ途切れになってきた。
くそっ・・・。
そして彼の記憶はプツッと途切れた。
そして文化祭当日の朝になった。
吉野は二歳になる娘の寝顔を見て、おでこにやさしくキスをした。
かわいい・・・本当にちーちゃんはかわいいな。
そう思った。今は朝の七時半だ。横で妻が寝ているが、起きる様子は全くない。吉野家の土曜日の朝はいつも少し遅めだった。
娘が生まれて吉野の世界観は変わった。
守るべき大切なものができたんだ。生まれたばかりで泣くのに一生懸命だったあの頃のちーちゃん。小さい手でぎゅっと俺の指を握ってくれた。そのときこの子を守りたいという強い感情が生まれたんだ。
そう、俺はこの子を全力で守りたいと俺は思っている。
もう一度寝ている我が子を見た。
「かわいいな・・・」
吉野はそう呟いた。
朝食を用意しておいたから、起きたら妻と娘は一緒にそれを食べることになるだろう。吉野は肩掛けの鞄を手にし、自宅のマンションを出た。
今日は天気がよさそうだ。
自宅から一番近い駅は市川駅で、母校に行くにはそこから総武快速に乗り、津田沼で新京成線に乗り換え、月見台駅で降りる。レゴ部のメンバーとの待ち合わせはその途中の津田沼にしていた。
ここから市川の駅は徒歩で十五分程度の距離だった。健康のためバスに乗らず歩いていたが、この程度の運動では出る腹を抑えることはできないようだ。何か本格的に運動をしないとまずいとは思っていた。やがて駅に到着し、すぐにホームに入ってきた総武快速に乗った。土曜日の、しかも下りの電車だけに車内に人影は少ない。
だが、偶然は重なるものだ・・・。
吉野は見知った人間を確認した。相手も座席に座って本を読んでいたが、すぐに吉野を認識したようだった。
「おう!」
吉野はそう言って、その人物の座っている席の正面に立ち、話しかけた。
「懐かしいな、初島」
「そうだな。高校を卒業してからだから、十四年ぶりか?」
相手の男はそう言ってにやっと笑った。工事関係の仕事をしているのか、ベージュの作業着を着ている。
「だが・・・少し太ったな、お前」
「・・・そうかな?」
吉野は少し苦笑して言った。
「そんなことはどうでもいいんだよ。今日はどうしたんだ?」
「俺? 仕事で本千葉に行くんだ」
「本千葉?」
「マンションの建設現場に行くんだ。現場監督をやってる。二十階の高層マンションだぜ」
「へー」
「お前は何処に行くんだ? というか仕事は何やってるんだ?」
「俺は建築事務所で働いてる。一戸建て専門だけど、集合住宅もたまにやってるよ。今から月見台高校の文化祭に行くんだ。レゴ部の連中と一緒にね」
電車がガタンと少し揺れた。
「それ、いいなあ。文化祭かあ・・・レゴ部の誰が来るんだ?」
「同じクラスだった村田と、中川いずみ先輩、一年後輩の佐川。後は同じクラスだった吉野と前園」
「へー、いずみ先輩かあ・・・村田が付き合っていた。あの先輩、かわいかったよなあ」
初島は思い出すように車両の天井を見上げた。
「俺もあんな嫁じゃなく、いずみ先輩みたいな人と結婚したかったな」
初島が冗談とも思えない口調でそう言った。
「なんだ、お前結婚していたのか? 高校時代、女はむかつくと言っていたのに」
吉野がそう言うと初島はにやっと笑った。
「それどころか、かわいい娘がいるぞ」
「お前んとこも娘か。俺んとこも娘だぜ。二歳の超かわいい子だ」
「ほう・・・だが、俺んとこの方が絶対かわいいって」
列車が津田沼駅のホームに入ってゆく。
「あ、初島、俺、津田沼で降りるから。メアド交換しようぜ」
「お、おう」
二人は急いで携帯を取り出し、列車のスピードが落ち、慌てる中で、二人はどうにかメールアドレスを交換した。そして吉野は列車から飛び降りた。
「じゃあな、初島。仕事、ほどほどに頑張れよ」
「ああ」
そう言った瞬間にドアが閉まった。そして初島は思い出した。いや、違和感を取り戻したのだ。
「吉野!」
ドアに駆け寄り、そう叫んだ。列車はゆっくりとスピードを上げてゆく。
「・・・」
間に合わない。
そして急いで今交換したばかりのメールアドレスにメールを打とうとした。だが急に強い頭痛に襲われ、気がつくと初島は呆然として流れる電車の窓の風景を眺めていた。
何をすべきだったのか忘れてしまっていた。大切な何かを誰かに伝えられずにいる・・・そういった後味の悪い気持ちを初島は抱えていた。
彼は頭を抱えた。
電車は走り続けている。今はそれだけが分かっていた。彼はそんな状態にいたのだ。
雲ひとつない晴れたこの日の朝、佐川里美は亀戸天神の前を猛スピードで走り抜けた。
間に合わない! 寝坊した! よりによってこんな日に!
普段運動していないだけに少し走っただけで息が切れる。もう倒れそうだ。彼女は走るのを止め、歩きに切り替え、駅に向かった。そしてバックに入れておいた携帯が鳴っているのに気づいた。
えっ、誰? いや、当然か・・・もう八時十五分を過ぎている。
佐川は立ち止まってバックから携帯を取り出し、電話に出た。
「あ、いずみ先輩ですか? すみません。今走ってそっちに向かってます。あと五分位で着くと思う・・・」
本当は十分くらいだろう。
「寝坊して・・・うん、うん、じゃあ」
そう言って電話を切った。そして佐川は再び走り始めた。天神通り商店街に入り、通り抜ける。短めの髪が走るたびに揺れた。顔はきれいなほうに分類しても構わないだろう。その証拠にすれ違う男の殆どは彼女の容姿に惹かれ、思わず振り向いてしまっている。ただ、一回でも会話してしまうと、その粗雑さと乱暴さから、一瞬にしてそのきれいな容姿からくる清楚なイメージはどこかに吹き飛んでしまう。それが常だった。
佐川は天神通り商店街を抜けて明治通りに入った。ようやく駅が見えてきた。急いで駅の改札を通り、千葉方面のホームにつづく階段を掛け上がった。そこには中川いずみが不安げに立っているのが見えた。
「あ、里美ちゃん! 久しぶり!」
大きく手を振っているのが見える。彼女の表情は安堵のそれに変わっていた。
「ごめん、先輩。寝坊しちゃいました」
時計を見ると八時二十分を過ぎている。
「待ち合わせは八時半だから、もう間に合わないな・・・すみません」
「ううん、いいのよ」
「一応、吉野先輩に電話しておくわ」
「うん・・・」
佐川はいずみの反応がおかしいと思った。
「どうかしたの? いずみ先輩」
「あの・・・村田君に電話、遅れるって電話をしようとしたんだけど・・・」
電話したんだ。散々電話できないって悩みまくって、あたしに電話してきたのに優柔不断だなあ・・・まあ、それがかわいいけど。でも、仮に裁判所にお世話になるときがあったとしても、この人には弁護を頼みなくないな。
本気でそう思っていた。
「全然繋がらなくて・・・」
「はあ」
「何回か掛けたんだけど・・・」
「・・・」
やっぱりまだ好きなのかな?
「まあ、電池が切れちゃったとか? 分かんないですけど。とりあえず、吉野先輩にメールしますね」
そう佐川が言うと、電車にホームに入ってくるアナウンスが流れた。佐川は急いで吉野に遅れる旨のメールを打った。総武線がスピードを落としながら入ってくる。佐川は髪を抑えながら、その光景を見つめていた。
空は雲ひとつない良い天気だ。秋の風が吹いて気持ちよく感じられ、今日と言う日が楽しいものになる予感が彼女にはしていた。
吉野は待ち合わせの場所である津田沼駅北口のベンチに座った。時計は八時四十分を廻っているが、まだ誰も来ていない。
吉野は青い空を眺め、そして高校時代を思い返していた。
文化祭・・・一年のときは食堂だったか? 二年のときは演劇で、確か三年のときも演劇だった。役には着かず、大道具、小道具で参加していた。そもそも文化祭実行委員で忙しく、とても役を引き受ける状態ではなかったのだが、心のどこかでは役をやってみたい気持ちはあったな。
そのときの気持ちを思い返して、吉野は少し苦笑いをした。
「それにしてもあいつら遅いな・・・まあ、いつものことか」
彼らの遅刻癖は筋金入りだ。社会に出ても直らないとは困ったものだ。
ふと横を見ると少し離れたベンチに細身の中年の男が座っているのが見えた。吉野より少し歳を取っているかもしれない。その男は腕時計を何回も見て、時刻を確認している。どうやら同じく待ち合わせの様子だった。
落ち着きのない人だな・・・。
その忙しい仕草に吉野はそう思った。そしてまた空を見上げた。青い透き通る青い空でゆっくりと雲が一つ流れてゆく。
今日はいい日になりそうだ。
そんな気が吉野にはしていた。
彼が所属していた文化祭実行委員の仕事は、各団体の出し物の把握、場所の割り振り、物の貸し出しの管理、前夜祭、及び後夜祭の準備等々、多岐に渡る。夏休みも登校し、文化祭が近いと土日も学校に出るようになる。今日も奔走する委員の姿が見られるかもしれない。とにかく忙しかったが、この委員会に入るとたいていの人間が三年間を続けてやり通すため、委員会というよりは部活に近いものがあった。
月見台高校の文化祭の花形は各クラスの演劇だ。プロ顔負けと言ったって過言じゃない。一学期から準備を始め、三年であっても夏休みは登校し、演劇の練習を重ねていた。振り返ると、多くの人間が純粋に一つの作品を作り上げてゆくという経験は、あの高校の文化祭の経験しかない。それは自分の人生において宝物と言ってよかった。
卒業して痛感した。
あの空間、そしてあの時間は間違いなく楽園だったのだと。そして二度と手に入れることのできないものなのだと・・・。
そう思っていた。吉野は急に眠気を感じた。
昨日は夜遅かったからな・・・今日という時間を空けるためにかなり遅くまで働いた。眠くてしょうがない。
残暑の季節とは言え、朝はそれほど暑くない。目を閉じると気持ちの良い風を感じた。
だが眠い・・・。
携帯にメールが届いた音が聞こえたが、眠気の方が勝り、意識が薄れてゆく。だが、すぐに目が覚めた。目の前に人の気配を感じたのだ。
「おーここにいたのか」
さっき少し離れた横のベンチにいた中年の男だった。
「・・・」
一瞬何が起こっているのか理解できなかった。寝惚けていたのかもしれない。言葉を発さず、少しの間、目の前に立つ細身の男を見ていた。
「・・・ぞのちゃんか? 随分印象が変わったな」
ようやく吉野はそう答えた。前園は頷いて、吉野の隣に座った。
「そうかもしれない。俺、高校のときは太っていたからな。吉野はその逆だな。えらく太ったな・・・」
「いや・・・それはもういいから。さっきも初島にも言われたから」
「初島・・・? ああ」
無関心な言い方だった。そして前園は話を変えるように言葉を続けた。
「で、他のメンバーは?」
「まだ来てないよ。もしかしたらメールが入っているかもな」
吉野は携帯を取り出し、メールの確認を行った。
「いずみ先輩と佐川は一緒だ。あと五分くらいで着くみたいだ。むらっちは連絡がないな。携帯に電話を掛けてみるか」
そう言って、吉野は村田の電話番号を探し出し、携帯に電話を掛けた。
「留守番電話センターに・・・」
待つ間もなく機械音が流れてきた。
「留守電か」
吉野はそう呟いた。
それにしても前園の奴・・・当時の面影が全くないな。顔を見ればなんとなく、分かるもんだと思うんだが・・・。
駅から中川いずみと佐川里美が現れた。佐川は大きく手を振った。
「おーい」
そして近づいたところで言った。
「あれー村田先輩はどこ?」
佐川の奴、いきなりタメ口かよ!
「むらっちと連絡つかないんだ。一昨日、本人と電話で話したときは来る気まんまんだったんだが・・・」
「ふーん」
「まあ、もう少し待って来なかったら、先に月見台高校に行こう。子供じゃないんだから、一人でも来れるだろう」
吉野がそう言い終わると、いずみが何かを言いたげな様子を見せた。
「あの・・・」
おどおどしている。らしくないな・・・。
いずみは言った。
「私がここで待っているから・・・みんなで先に行っていいわよ」
ふむ・・・。
「分かりました。いずみ先輩。じゃあお言葉に甘えて・・」
その言葉が言い終わらないうちに吉野の右頬に佐川のグーの拳骨が飛んできた。体が吹っ飛ぶのではないかと思う程に強烈なものだったが、なんとか持ち堪えた。
「馬鹿! 何言ってんの? いずみ先輩を置いていくなんて出来る訳がないでしょ!」
佐川の怒鳴り声が聞こえた。吉野は殴られた頭を右手で抑えながら、怒る佐川を見た。
何かを思い出しそうになった。
いったい何を・・・。
その瞬間に吉野は我に返った。
「おっ、おう、そうだな」
「とにかく、もう少し待ってみようよ。いずみ先輩を一人置いておくなんて出来ないんだから」
佐川はそう言った。
「むらっちの奴、いずみ先輩に気を使わせるなんて、後でしめてやるわ」
むらっちもお前の先輩だろうが。黙っていれば相当かわいいのに、なんでこいつはこんな残念な性格なんだ?
吉野はそう思った。突然、今まで黙っていた前園が言葉を発した。
「あれ、むらっちじゃないか?」
駅の改札から出てきたばかりの一人の人物を見て言った。佐川はつっけんどんな言い方で答えた。
「どれ? というか、あんた誰?」
その瞬間、その男は不安げな表情を見せたものの、それを隠すかのように笑顔を作り、佐川に言った。
「嫌だな、佐川さん、前園だよ。一年先輩だった、前園だよ」
「ま・え・ぞ・の?」
佐川は露骨にそんな人間は知らないという顔をしたが、前園の目を見て、すぐにああという顔になった。前園はほっとした表情をして言った。
「それより、むらっちの様子、なんか変じゃないか?」
「変?」
そう言われて佐川と吉野、いずみは村田の方向を見た。遠目で見ても表情がないのが分かる。というか焦点があっていない。彼は大きな紙袋を抱きかかえ、今にも倒れそうな感じで歩いていた。明らかに変だ。
「おい、村田!」
吉野はそう声を掛けた。
生気が全くない。
村田はゆっくりと吉野達に近づいてゆく。そして何も言わずに彼らの前に立ち、しゃがみ、紙袋の中からビニールの緩衝材に包まれた物体を取り出した。そして立ち上がった。
「なにこれ? 開けてみていいの?」
そう言って、佐川は村田の返事を待たずして緩衝材を開け始めた。中には白を基調とした厚さ五センチ、直径五十センチ程のレゴで作った円盤が入っていた。魔方陣のような模様が組まれており、それが数層積んであるように見えた。
「これ、むらっち先輩が作ったの? 魔方陣みたいな模様を作っているけど、何なの?」
佐川は立ち上がり、怪訝な顔をしてそう聞いた。
村田は佐川の問いに答えず、うつろな視線のまま、レゴの円盤の上に左手を差し出し、何かを呟き始めた。だが、急に体がふらつき、一気に地面に倒れた。
「村田君!」
いずみが叫び、慌てたように彼に近寄り、彼の手を取った。
「村田君!」
意識がない! いったいどういうことなの?
いずみは焦った。
「村田君! しっかりして!」
いずみの叫び声が響いた。
「誰か、救急車を!」
そう言った瞬間に前園がレゴの魔方陣の前に立った。
「えっ?」
彼女は驚きの声を上げた。彼は呟いた。
「やれやれ、遠隔で人間をコントロールするのはやはり難しいものだな。用心してここにいてよかったよ」
吉野はその言葉に反応した。
「お前、何を言ってるんだ? むらっちに何をしたんだ!」
怒鳴り、前園の胸ぐらを掴んだ。
「まあまあ、落ち着けって」
そう言ってにやっと笑うと驚くほど強烈な手の強さで吉野の手を外し、彼を突き放した。吉野は二、三メートルの距離を飛ばされ、コンクリートの上を転がった。そして前園は気を失って倒れている村田の胸ポケットからカッターを取り出した。そして左手をレゴの魔方陣の上にかざし、右手でその人指し指を切った。
「な!」
吉野はその様子を見て唖然とした。
一筋の赤い血が流れ出た。それはレゴで作られた白い立体魔方陣に向かって、赤い雫となって落ちてゆく。そして明らかにそれを境に異変が始まった。
レゴの魔方陣が赤く光り始め、魔方陣が浮かび上がり、その組み換えが始まり、圧縮ファイルを解凍するような複雑な動きをしたかと思うと突然、巨大な赤く光る円形模様が足元に現れた。直径十メートルはある。そしてその魔方陣を中心にゆっくりと周りの空気が回り始め、やがて強い風となり、竜巻となった。
「なんなの、これ!」
佐川の声が聞こえた。風に押され、立つのもやっとだ。
「村田君!」
いずみの叫ぶ声に彼が答えることはなかった。
何が起ころうとしているの?
いずみは得体の知れない気味の悪さを感じていた。どうすればいいのか分からなくなっていた。
周りは徐々に暗くなってゆく。唯一の光は足元の赤い魔方陣からのものしかない。
突然、体中に電撃が走ったような痛みを感じた。
「いやあああ」
いずみは叫び声を上げた。吉野や佐川のそれも聞こえたが、もうなにもかもが分からなくなっていた。
そこで記憶がぷつりと切れたのだ。