第一章
感想をよろしくお願いします!!
村田は朝から名古屋の工場に出張となり、そのトラブルの対応に追われていた。出荷予定だった半導体デバイスに不具合が見つかったのだ。会社はその対応で大騒ぎの状態になり、ようやく事態が沈静化し、彼が解放されたのは夜の九時を回っていた。村田は名古屋駅のコンコースを走り、最終の新幹線になんとか滑り込み、席に座り、眠気に負け、少しうとうとして、気がつくと窓の外の風景は 新横浜のホームに入るところだった。
久しぶりにあの夢を見た・・・。
彼は席を立ち上がりながら、そう思った。
彼女・・・そう、高校時代に付き合っていた彼女の夢だった。
最近はあまり見ることもなかったのにな・・・。
村田は新幹線の車両を降り、横浜線のホームに向かった。時計は十一時を廻り、ホームで電車を待つ客はそう多くはない。季節は夏で、夜といっても昼間の暑さをどこまでも引きずっている。駅の蛍光灯のまわりに小さい蛾が数匹飛んでいるのが見えた。
「疲れた・・・」
三十を超えると新幹線の日帰り出張は辛いものがある。それに私生活も上手くいっていないのも効いていた。
村田直人は三年前に結婚したものの、一年前に離婚した。いや、離婚されたという言い方が正しいかもしれない。元妻には自分の全人格を否定されるような言葉を散々浴びせられ、今思うと何故結婚したのか思い出されない程、後味の悪い、酷い別れ方をした。
原因はなんだったのか?
今考えても良く分からない。結婚して数ヶ月で生理的に合わないという言葉を彼女は使い始めていた。単純に相性が悪かったのかもしれない。
彼はそのことを思い出し、大きく溜息を吐いた。
この疲れた体で誰もいないあの広いマンションに帰るのか・・・。
寂しさを感じていた。町田に向かう緑の車両が駅にゆっくりと入線してくるのが見える。その瞬間、彼は軽いめまいに襲われた。
大分疲れているな・・・。
そう思った。
「あれ・・・?」
そして気がついた。見たことがある背広姿の男がホームに立っている。少し恰幅が良くなっているが、間違いない。いや、おそらくそうだ。
急いで村田はその男の方向に向かった。車両がホームに停まり、ドアが開き、その男は車両に乗り込んでゆく。村田もそのドアから同じ車両に乗り、声を掛けた。
「前園・・・ぞのちゃん、久しぶり!」
突然話しかけられたその男は少しびくっとして村田の顔を見た。車両のドアが閉まる音が鳴った。驚きで何故声を掛けられたのか理解できていない様子だったが、すぐに声を掛けてきた相手が誰なのか分かったようだった。
「むらっちか? 懐かしいなあ」
彼は明るい表情でそう返事を返した。
「ぞのちゃんも出張の帰りか?」
そう村田は聞いた。高校時代、同じクラスで仲も良かった。だが卒業してから、メールのやり取りも、年賀状のやり取りもしていない。お互いどう過ごしたのか、何も認識がなかった。
前園はあの頃に比べ相当恰幅が良くなっている。腹も大きく出ていた。歳も老けて見えて、とても同じ学年だとは思えない。
「大阪から帰ってきた。疲れたよ」
「僕は名古屋から帰ってきたとこだ。高校卒業して以来だから十四年ぶりか? 大分太ったなあ。ぞのちゃんは何の仕事してんの?」
「俺は車の部品メーカーの営業。小さい会社だよ。むらっちは?」
「ああ、僕は四条電機で半導体の開発をやっている」
「四条電機! すごいな、大手じゃないか! うらやましいなあ」
前園はそう言った。それから彼らは社会人らしい当たり障りのない雑談をした。電車がガコンと揺れる。新横浜の隣の駅である小机に近づいていた。
「あ、俺、次の駅なんだわ」
列車はゆっくり小机のホームに入線し、停車し、ドアが開いた。それと同時に前園は駅のホームへ降りた。
「え、まじで? ぞのちゃん、携帯の番号くれ!」
村田は慌てて言うと、前園は早口で自分の携帯番号を伝えた。村田はそれを携帯に打ち込み、そのタイミングでドアが閉まった。
「うおっ、何にも話せなかった」
思わずそう呟いた。車両がゆっくり動き出す。
まあ、携帯の番号を貰ったからよしとするか・・・。
村田の乗った電車は夜の街を走ってゆく。彼はドアにもたれ掛かり、流れ行く夜の景色をぼんやり眺め見ていた。。
普段はなるべく自炊をしているが、今日は名古屋で駅弁を買い、新幹線の中で晩飯を済ませていた。面倒な台所の後片付けを今日はしなくてすむ。少し気が楽だった。
村田の自宅は町田駅近くの高層マンションにあり、元妻が出て行ってからもう一年以上の月日が経っている。
二人で散々悩んで、話して、決めて買ったこのマンションは二人にとっていったいなんだったのか・・・。
そう思いながら、村田は缶ビールを片手にその内の一つの部屋に入った。部屋の壁は全て棚となっており、透明な箱が幾つも置いてあった。ざっと五十以上はあるだろう。その透明な箱には小さな部品が無数に入っている。それは色別、形別に分けられ、綺麗に分別がなされていた。
村田はその箱を一つ一つ眺めた後、ビールを一気に飲み干した。
それらの箱には無数のレゴの部品が入っていた。数を数えたことがなかったが、この部屋にあるレゴの部品数はおそらく十数万に及ぶだろう。村田が高校のときから集めてきた思い入れのある大切な部品達だ。にも関わらず、部屋の中央に置いてある作業机は作りかけの作品も何も置かれていない状態で、どこか不自然な整頓ぶりに冷たく少し寂しい雰囲気を感じた。
「ふう・・・」
村田は溜息を吐いた。
彼はレゴマニアだったが、ここ最近、いや、ここ最近どころではない、社会人になってから一度も自分の作品を作っていなかった。ただ、この部屋はいつか作るだろう自分の作品たちのためのアトリエとしたかったのだ。結婚し、このマンションを買ったときに真っ先にレゴ部屋の設置を主張したものの、妻の猛反対があった。それを強引に彼は押し切ってこの部屋を得たのだ。
村田は台所に戻り、ビールをまた取り出した。乾物のつまみも一緒にもってきて、またレゴ部屋に戻った。何をする、何かを作るという訳でもなかったが、彼にとってこの場所は一番落ち着く場所だった。休日もこの部屋に来て、部品を眺めていたりして時間を過ごすことが多い。
ふと思った。
「あいつ・・・前園・・・ぞのちゃん」
いや、思い出せなった。何かが引っ掛かっていた。
「レゴ部・・・だったか?」
そうだ・・・同じ部活でレゴ部だった。
他に誰が居た・・・?
最近高校時代のことがよく思い出せない。
三年間同じだったクラスの吉野浩嗣・・・美人だった中川いずみ先輩、短気な女子だった後輩の佐川・・・そしてぞのちゃん。これが僕が二年だったときのレゴ部のメンバーだ。
記憶が不鮮明だった。三十歳も超えると全てのことが思い出しにくくなっている。
嫌だな・・・。
村田はそう思った。
明日は土曜日だ。また部品の整理でもするか・・・この目の前の部品たちが僕自身でもあり、唯一の支えなのだから。
彼はそんなことを考えていた。
吉野浩嗣には娘がいた。
二歳の娘だ。
泣いても、笑っても、怒っても何をしてもかわいい。
共働きだったため、朝、保育園に送るのを旦那である吉野が担当していた。お迎えは電機メーカーの研究所で働いている妻がしていたが、早く上がれる日は吉野が娘を迎えに行っていた。
「ちーちゃん、チューして」
いつも娘にそんなことをねだっていた。娘のチューがほっぺにされる幸せは何物にも変え難い。
吉野はそう思っていた。
吉野自身は設計事務所で一般住宅の設計の仕事をしている。既に一級建築士の試験は合格しており、その内独立することも考えていた。その方が子供を育てる時間を取れそうな気がしたのだ。
その日は吉野が保育園に娘のお迎えをすることになった。抱えていた集合住宅の設計に目処が立ち、予定より早く構造計算への依頼ができたからだった。時計が十八時を廻り、吉野は設計事務所を出た。
夕暮れでも八月の暑さは辛いな・・・。
吉野は駿河台の坂を上り、明治大学の前を通り過ぎ、汗だくになって御茶ノ水駅に着いた。そしてラッシュに成りかけた車両に飛び乗り、亀戸に向かった。そして条件反射的に携帯を取り出し、娘の写真を何回も見た。
「かわいい・・・」
思わず言葉に出てしまった。はっと我に返った。恥ずかしくなった。きっと変な人に見られただろう。車両にそう人が多くないことが幸いだった。
列車が亀戸駅に着くと彼は電車を降り、急いで保育園に向かった。亀戸駅から少し歩いた真新しいビルの隙間にそれはある。一刻も早くちーちゃんに会いたかった。
「吉野ですけど・・・」
保育園の入口に入り、近くの女性の保育士に声を掛けた。
「あ、はい」
その女性保育士は吉野の声に振り向いた。その瞬間に吉野は驚いて声を上げた。
「あ、お前!」
その女性保育士はすぐに吉野の傍に駆け寄り、胸ぐらを掴んで、どすの利いた声で言った。
「お前じゃないだろ? あ?」
相変わらずだった。変わっていない。
「はあ・・・すみません、佐川さん、お久しぶりです」
いや、俺が高校時代の先輩だよな。
「よく見れば吉野先輩じゃん」
佐川と呼ばれた女性保育士は確認するように吉野を上から下まで眺め見た。胸ぐらはまだ掴んだままだ。
「久しぶりじゃん、何か用?」
「いや、娘のお迎えで・・・」
「娘?」
そう言って吉野の顔をしげしげと見た。そしてはっとしたような表情を見せたものの、それは本当に一瞬のことで、佐川の表情はすぐに柔らかくなり、胸ぐらを開放した。
「吉野先輩、髪の毛薄くなったし、太ったなあ」
この言い草・・・十四年ぶりの再会とは思えないな。同じレゴ部の先輩後輩だっていうのに。
彼女は昔から口が悪かった。外見はかなりの美人で上品な印象だったが、全く中身とは異なっている。だが、すがすがしい人間でもあった。
「あの、佐川さん、娘を呼んでくれると助かるのだけど。如何でしょうか?」
「んーそうね」
佐川は部屋に戻り、少し芝居掛かった声で言った。
「ちずるちゃん、パパがお迎えにきたわよ」
佐川が帽子を被った二歳の娘を連れてきた。
「佐川はここ最近、この保育園に来たのか?」
「ああ? 佐川先生だろ?」
ガンを飛ばしてきた。
「は・・・すみません」
反射的に即座に謝った。
顔は綺麗なのに・・・どういう女だ。
「まあいいわ。先週からよ。一人産休が出て、その欠員のお陰で採用して貰ったんだ。派遣だけどね」
「へー」
「吉野先輩は今何の仕事してんの?」
吉野は娘をひょいとだっこした。
「俺は今、建築事務所で働いている」
「へーすごい。一級持っているの?」
「持ってる。すごいだろ」
「あ?」
「いえ・・・」
この掛け合いはなんだか懐かしい気がした。少し吉野の口元が緩んだ。
レゴ部・・・そうだ、あの部室棟の一番奥にあった狭い部屋でよくこんな感じで 掛け合ったものだ。
佐川は吉野に言った。
「あたし、この間の週末にさ、前園先輩に会ったんだ」
「前園?・・・えっ前園?」
あれ、何か違和感があるな。
吉野は娘を抱っこし直した。娘は少し眠そうな感じだ。目がうとうとし始めている。
「この間実家に帰ったときに、ちょうど前園先輩に偶然近くのモールで会ったんだ」
「ふーん、前園かあ・・・懐かしいなあ」
高校卒業して以来、会ってないな。
「あいつ、今何やってるんだ?」
「聞いたけどよく分かんない。なんかの営業と言ってたような気がする」
「ほう・・・」
「私、もうずっとレゴやってない」
「突然話が変わったな」
吉野は苦笑した。
「俺もだ。子供生まれていろいろ忙しいからな。まあこの子がもう少し大きくなったら一緒にやるかもしれないけど」
「ふーん」
それを聞いて佐川は一瞬陰りのある表情を見せたが、すぐにいつもの明るい調子で言葉を続けた。
「久々に部活の人に会いたいなあ。吉野先輩さ、なんとかして」
「えっ、俺?」
「村田先輩と、いずみ先輩に連絡取ればいいだけじゃない」
佐川はなんでもないと事のように言った。
「おま・・・佐川先生はいずみ先輩の連絡先を知らないのか?」
「知ってるけど、先輩、やって」
「えっ」
「じゃあ、なんとかしてね」
佐川はそう言うとさっさと園の部屋に戻ってしまった。
無茶な奴だ・・・。
そう吉野は思いながら、娘が落ちないようにしっかり抱き直した。吉野に抱かれた状態で寝てしまっている。そして元来た道を引き返し、亀戸の駅へと向かって歩き出した。
夜の七時を廻ったというのにまだ空は明るい。吉野は空をゆっくりと見上げた。
あいつ、左の薬指に指輪はなかった。結婚はまだなのか?
吉野はそう思いながら娘の体を強く抱きしめた。大切な宝だ。眠る彼女の頬にやさしくキスをした。
本当にいとおしく、かわいい存在だった。
レゴアート・・・。
デンマーク発祥のおもちゃのレゴを使った芸術作品の美術展が、この週末、上野の森の美術館で行われていた。
中川いずみは大理石貼りの美術館のロビーの真ん中で立ち止まり、入口で貰った館内MAPを広げ、自分の位置を確認していた。日曜の昼とあってか、美術館内は多くの人で賑わっていたが、そんないずみの様子を気にすることなく、彼らは通り過ぎてゆく。
いずみはリュックサックを床に置き、地図を隅から隅まで見て頭に叩き込んでいた。また迷子になる予感がしたのだ。
でもこの美術館・・・広い。ああ、もう三十を超えたっていうのにこの方向感覚のなさは情けないものがあるわ。
「はあ・・・」
高校時代にいずみ先輩と呼ばれていた彼女はまだ結婚をしていなかった。容姿はむしろでダントツできれいなそれだったが、高校を卒業してから誰とも交際もせずにこの歳まで来ていた。
いずみはMAPを畳むと顔を上げ、歩き出した。
今回のレゴの美術展は現代アートの分類に入るものだ。おもちゃの見本市などではない。ニューヨークなど世界各国の芸術家が人間、家族、戦争、愛をテーマとして作った作品を集めての美術展だった。
「一番初めが絵画のゾーンになるのね」
いずみはそう呟き、歩き出した。
高校のときはレゴ部という怪しげな部活に入るほどレゴが好きだった。今はそうでもなかったが、たまたまこの美術展の電車の吊り広告が目に入り、懐かしさもあって来てみたのだ。
レゴの一個一個の部品を組み合わせて作った絵画、それを三D化させたもの、彫像ならぬレゴ像、レゴで作られたオブジェ・・・いろいろな作家のアートが集められ、今、この美術館に展示されている。村田は食い入れるようにそれらの作品を観賞し、一人で批評し、長々と見つめていた。
「この部品、見たことないな」
そんなことをぶつぶつ言っている人間はそうはいない。確実に怪しい人間に見られていたはずだった。
レゴ像には衝撃を受けるものが多いな。等身大で作られたレゴの人間たちは、苦悩、喜び、怒りを体全体で表している。
「すごいな・・・」
村田はそのレゴ像の周りを何回も回ってそれを詳細に見ていた。もう怪しい人以外、何者にも見えない。
村田はそんな感じだった。
中川いずみはレゴの絵画の前に立ち、その迫力に圧倒されていた。それはとても巨大で高さ二メートル、幅三メートルはある。レゴのモザイクを上手く利用し、湖上に浮かぶ中世の城を印象画風に作り上げていた。
芸術は人を感動させる。
そう思った。
「あれ・・・」
いずみは突然気がついた。
「あれ、あれ?」
リュックサック・・・ない。
慌てて辺りを見渡した。
あるわけがない! 入口で地図を頭に叩き込んでいたときにリックサックを床に置いてそのままだわ。あそこにあるはず!
いずみは急いで入口の方向に向かって歩き出した。だが、彼女にはその方向がよく分からなくなっていた。
「あっちだったかしら・・・」
そう言って、T字になっている通路の場所で迷い、左を選ぼうとしていた。だが、人は明らかに右から多く来ている。
「こっちかな・・・」
そう言って右を覗いた。
「こっちかも・・・」
いやいや、左だったてば・・・。
もう一人の自分が必死にそう叫んでいた。
「こっちだわ」
そう呟いて、いずみは右に曲がった。
村田はぼんやり高校時代を思い出していた。レゴ部に入っていただけにこのレゴだらけの空間に居ると否応なく思い出される。懐かしい気持ちになっていた。
そういえばそろそろ文化祭の季節か・・・一生懸命にやっていたもんだ。もっともレゴ部としては何も文化祭には参加していなかったが。うちの文化祭はクラスの出し物に気合いを入れるから、どこの部も部として参加するところは殆どない。そして殆どのクラスの出し物は劇だった・・・。
そうだ・・・。
突然、心に浮かんだ。
いずみ先輩・・・。
あの方向音痴で、忘れ物が多かったレゴ部の先輩。きれいで、かわいくて、それでいてやさしかった。
村田は目を閉じた。
彼女が三年のときの文化祭でヒロインをやっていた。確か・・・七人の侍だった。オレンジの着物を着て、白い前掛けをした彼女を劇中ずっと目で追っていたような気がする。初恋だったんだと思う。そして高校の帰りの一緒に過ごした時間が思い出された。彼女と付き合えたのは奇跡だと今でも思っている。
少し天然だったけどな・・・。
村田は目を開け、苦笑し、向きを変え、歩き出した。そして三D絵画のゾーンに向かった。
後ろで慌てて走る音が聞こえたが、その音は気にならなかった。多分暖かい気持ちになっていたからだ。中川いずみとの思い出が思い返されたからだろう。
だが、当のいずみはそれどころではなかった。右に曲がったのはいいが、そこは明らかに入口とは違う場所だったからだ。
ああ、自分の方向音痴には本当に腹が立つ・・・。
手に握りしめていた地図を広げた。幸いにもこれだけは忘れずに手に持っていたのだ。
ここはレゴ像のゾーンだ・・・このまま引き返せばいいのだわ。やっぱりさっきは左に曲がればよかったんだ。
「ふう・・・」
そう言って美術館の入口の方向に向かって歩いて行った。
いつもこうだ・・・。
そうだ・・・高校のときも似たようなことがあった。レゴ部のみんなでレゴの部品を買いにどこかのモールに行ったときだった。あのとき私だけが迷子になって・・・村田君・・・一年後輩の村田圭介君。彼が迷子になっている私を見つけてくれた。
「村田君・・・」
そう呟いた。
あのとき私の手を握ってみんなの元に連れて行ってくれたんだ。それから付き合って放課後は一緒に帰っていたりしたけど、でも卒業してから別れてしまった・・・。
リックサックを置いた美術館の入口に近づいている。いずみの足は少し足早になってきた。急に心配になってきたのだ。考えてみればリュックサックがそのまま置き去りになっているとは到底思えない。きっと盗まれてしまっている。携帯も入っているし、財布も入っている。カメラも入れておいた。
ああ、もう駄目だ。きっと盗まれている。
いずみは絶望にも似た感情に覆われながら、ようやく美術館の入口に辿り着いた。
その日の佐川里美は自宅のアパートでテレビを見る訳でもなく、チャンネルを数分おきに変えて時間が経つのを待っていた。予定がある訳でもない。やりたいことがある訳でもなかった。彼女の休日はいつもそんな感じだった。
そして考えていた。
保育園に娘を迎えに来た吉野先輩・・・保育園側もひどい。
彼女は溜息を吐いた。そしてリビングの小さいソファにもたれ掛かった。
いや、違う、あたしもだ。
携帯が点滅しているのが目に入った。今付き合っている彼氏からのメールが入ったのだろう。返事を返すのも面倒くさい。好きかと聞かれたら「そうでもない」と即答してしまうだろう。ただなんとなく付き合いがここまで続いてしまっていた。
「もうそろそろ別れ時かな・・・」
彼女はそんなことを呟き、メールは無視して携帯をいじりだした。
月見台高校・・・。
佐川たちが卒業した高校の名前が思い出された。
「高校・・・楽しかったな」
あの頃は本当にいろんなことを一生懸命にやっていた。部活、受験、そして文化祭。
ああ、そうだ、文化祭・・・一年のときのクラスの出し物は食堂で、二年、三年のときは劇だった。そのときは脚本を担当し、書いてゆくうちに楽しくなって、脚本家になりたいと思った。月見台高校を卒業して、大学に入って演劇を少しかじった。だけど途中で諦めてしまった。才能がないと思ったんだ。
「だけど私は・・・今の私は・・・」
多分それを後悔している。髪を手ぐしで梳かした。
あたしは脚本家を諦め、資格を取り保母になることを選択した。子供が好きだったから選んだ仕事だ。だけど派遣でしか仕事は得られなかった。安い給料でのぎりぎりの生活・・・これであたしはなりたいものになったのだろうか・・・?
そうは思えなかった。
突然携帯が鳴った。
佐川里美はその音で我に返り、手にしていた携帯の表示を見た。
「中川いずみ・・・あ、いずみ先輩だ」
急いで携帯に出た。レゴ部で先輩だった名前だった。
「もしもし、佐川です」
「・・・」
「もしもし?」
間違い電話?
そう思った瞬間に相手側から声が聞こえてきた。それも大声で。
「あー里美ちゃん、どうしよう、まずいよおお」
半べそをかいた声だ。間違いない、いずみ先輩だと思った。電話が掛かってくるときはいつもこんな感じだ。困ったら佐川に電話する習慣がついているらしい。
こっちが後輩だって言うのに。困った先輩だ。
「どうかしたの? いずみ先輩?」
「あー、もうどうしよう・・・私のリュックサックなくなっちゃったの。どうしよう」
「え? なに? リュック? 何処で失くしたの?」
「えー、美術館、美術館の入口で床に置いて地図を見て、そのまま置き忘れちゃって・・・」
本当に毎回毎回おなじような内容で電話を掛けてくるな・・・。
「美術館の人に確認した? 落し物として処理されているかもしれないよ」
「そっか、確認していなかった・・・うん、そうだね。私、聞いてみるわ」
「あ、先輩、今度、レゴ部のみんなで・・・」
電話は勝手に切られた。
「こっちの話はスルー?」
それに・・・昔の先輩はこんな感じではなかった。天然だったけど、もっと頼りがいのある皆の中心的な存在だった。社会に出てから変わった。仕事でストレスを感じているんだろうな。
そう言えば・・・この間会ったのって、いつだったけ? 電話はやたらに掛かってくるけど、もう大分会っていないような気がするな。
佐川は少し機嫌が良くなっていた。よく分からない内容だったものの、いずみの電話があったからだった。
そうだ、今日は外に出てぶらぶらしてみよう。
そう思えてきたのだ。
「そろそろ帰るか・・・」
村田は美術館の長い白い大理石の廊下でそう呟いた。ひどく落ち込んだ声だ。打ち負かされた気持ちがしていたのだ。
どのレゴアートの作品も自分には思いつかないものばかりだった。圧倒されていた。
自分にも作れないだろうか・・・?
何度もそう思ったが、すぐに否定した。
駄目だ・・・そもそもオリジナリティが僕にはない。僕は誰かの真似しか出来ない。そんな自分が人の心を動かすなんてとても無理な話だ・・・。
そこまで考えて携帯が振動しているのに気づいた。相手の名前を見ると、高校時代、同じクラスで同じレゴ部だった吉野からだった。彼は急いで電話に出た。
「村田だけど」
「吉野だけど」
二年ぶりの声だ。
「久しぶりだな。どうかしたのか?」
「ああ、突然なんだが、今度レゴ部の人間で集まらないか?」
「え? いいけど、急になんで?」
「この間、偶然、佐川里美に会ったんだ。娘の保育園の先生になっていてさ、びっくりしたよ」
村田は身が凍る思いがした。どこか違う場所に逃げたい衝動に駆られ、彼は廊下を少し歩き、美術館の中庭に向かった。一時的に心が極端に不安定になっていた。
「佐川?・・・あいつ、何か言っていたか?」
「え? 何かって?」
「いや・・・すまん。それにしても佐川が保育園の先生になったとは。また似合わないな」
「そうなんだよ」
冷や汗が流れた。自分を落ち着かせようと小さく深呼吸をして言った
「で、急にどうしたんだ?」
「佐川がな、みんなに集合の召集を掛けるようにと俺にな」
「命令されたのか。佐川の奴、相変わらずだな」
「そうなんだ。全く変わっていなかったよ」
言葉と逆にうれしそうに答えた。
「お前、うれしそうだな・・・」
呆れた声でそう返した。少し緊張が和らいだ気がしていた。
休憩スペースに囲まれた中庭が見えてきた。その休憩スペースには席とテーブルが用意されている。彼は電話をしながら自動販売機でコーヒーを買い、その一つに座ろうとした。
「それでさ、いずみ先輩の連絡先って知ってるか?」
「いずみ先輩?」
その名前を出され、村田はどきっとした。
「そう、お前が高校時代付き合っていた」
「分かるけど・・・いや高校時代の電話番号しか分からない。それこそ佐川が知っているんじゃないか?」
「いや、聞き損ねて。あいつ、怖いから」
「おいおい」
確かに分からなくもないが。
「だから、佐川にいいように使われる・・・」
村田はそう言って唖然とした。
まじか・・・。
中庭を挟んだ場所にいずみが歩いているのが見えたのだ。
「また電話する!」
そう言って村田は電話を切り、いずみが見えた方向へ走って行った。
いずみ先輩だ・・・いずみ先輩がいる!
心の鼓動がどんどん激しくなってゆく。体ごと強く引かれるような想いを感じた。彼はすぐにいずみを見た場所に辿り着いたが、そこには既にいずみの姿はない。村田は焦り、周りを見渡した。
どこだ、どこなんだ・・・?
そして幅広い白い大理石で出来た廊下に出た。少し先に見知った後ろ姿が早足で歩いている。
「いずみ先輩!」
自分でもびっくりするくらいの大声で叫んだ。そう言われた女性は立ち止まり、ゆっくりと振り向いた。
いずみ先輩だ・・・相変わらずきれいだ・・・。
「あ・・・村田君」
そう言ったのが聞こえた。泣きそうな表情だ。
泣いている・・・なんで?
「あ・・・村田君・・・私、私」
なんだ・・・? 何が起こったんだ?
「私のリュックサック・・・なくなちゃったの・・・どうしよう」
「え・・・? リュックサック?」
復唱した。確かにいずみの様子は困り果てている。
「いずみ先輩、リュックサックを亡くしたんですか?」
村田はまだ状況が理解できず、困惑しながらも質問した。
「そうなの・・・今、里美ちゃんに電話したら係りの人に聞いてみたらと言われて・・・それで聞いてみたら、事務所に届いているかも知れないって」
「はあ・・・」
里美ちゃんって、佐川のことか?
「そしたら迷って・・・」
リュックを亡くした上にそれを探して迷子になってたんだ。相変わらずの天然だな。
村田は状況を理解して苦笑した。そしてちらっといずみの左の薬指を見た。
結婚していない・・・。
「いずみ先輩、僕も一緒に行きますよ。これ以上迷ったら大変でしょ?」
「あ・・・ありがとう! 私、もうどうすればいいのか分からなくなっちゃって・・・本当に助かるわ」
いずみは村田に礼を言った。その様子に村田は若干の違和感を覚えた。
何か違うな・・・。
そう思った瞬間にいずみは口を開いた。
「そういえば、村田君って・・・離婚しちゃったって本当?」
おーっと!
「はあ・・・その通りです」
強烈なダメージを受けた感じだ。
いきなり昔の彼氏に言う言葉じゃないよな。昔からそんな感じだ・・・そこは変わっていない。天然なんだ。
村田は勢いで聞いた。
「いずみ先輩は?」
「私? 結婚してないわ。もちろん離婚の経験もないのだけど」
引っ張るな・・・。
村田は苦笑しながら、いずみを連れて白い大理石の廊下を歩き、出口に向かった。MAPから見ると、出口手前に美術館の事務所はあるはずだ。果たして確かに彼女の忘れ物はそこに届けられていた。そして入口に置き去りにされていたリュックサックは、何も失うことなく無事に持ち主に返された。
「よかったですね、先輩」
美術館を出てから村田はそう言った。八月は終わりに近づいていたが、日差しはまだ強く、強烈に暑い。
「うん」
いずみは笑顔でそう答えた。うれしさで気持ちが溢れたのか、リュックサックをぎゅっと抱きしめた。
「どうします? これから?」
村田はそう言った。
「うーん、帰ろうかな。明日仕事だし」
別に下心があった訳ではないが、その返事は素っ気なさ過ぎると村田は思った。
「仕事? いずみ先輩は何の仕事をしているんですか?」
「私? 弁護士」
「すごい!」
思わずそう言葉に出た。
思い出した・・・この人はめちゃくちゃ頭がよかったんだ。
「村田君は?」
「えっ、僕は四条電機で半導体の技術の仕事ですけど」
「半導体の技術・・・? それってどういう仕事なの?」
「うーん、技術って言ってもトラブル対応とかが多いですかね。開発時もそうだし、市場に出てからのトラブルにも対処したり・・・まあ大変ですよ」
「怒られたりするの?」
妙な質問で食いつき方だなと思った。
「そうですね。お客さんに罵倒されたり、工場や開発のメンバーにも責められたり、大変ですよ」
村田はそう言って苦笑いをした。
「そうなんだ・・・」
いずみはそう言って黙り込んだ。
「嫌じゃないの?」
「怒られるのはそりゃ嫌ですよ。でもまあ仕事ですからね」
「・・・そうなんだ」
いずみは僅かに下を向いた。沈んだ表情になっている。
なんか、昔と違うな・・・。
村田はそう思った。
「誰だってそうよね」
彼女はそう言って少し笑った。
高校時代のいずみ先輩は自信に溢れていた。容姿端麗で学業優秀、やさしく親切で、ファンも多かった。部を良く引っ張っていたし、機転もきいていた。天然なところもあったけれど、それも愛嬌だった。だが、目の前の彼女は明らかに昔とは違う。大げさに言えば、自分というものを失っているように見えた。
「あの、いずみ先輩・・・」
「うん?」
「さっき吉野からの電話があって、近々レゴ部のみんなで会わないかって。いずみ先輩もどうですか? 元々は佐川が吉野に命令したのが始まりみたいなんですけど」
佐川の名前を出して、いずみの表情が柔らかくなった。
「さっきの電話したときには何も言っていなかったけど・・・どうしよう・・・」
迷っている様子だった。
「何日頃になりそうなの?」
「いや、まだ決まってないみたいです。後でメールなり、電話なりします。昔と一緒ですか?」
「うん、一緒」
「分かりました」
そうだ・・・僕らは昔付き合っていたんだ。この人のことが誰よりも大切で好きだったんだ。
ふとメールを一生懸命に打っていた過去の自分を思い出した。
「あと、ぞのちゃんも呼ぼうかと思って」
「ぞのちゃん、ぞのちゃん、ぞのちゃん?・・・ああ、前園君。どうしよう・・・」
いずみは不安げな様子でそう言った。
結局、最後まで彼女は煮え切れない態度のままだった。そして二人はそのまま駅に向かい、お互いの帰路に着き、別れた。
村田には何か釈然としない思いが残った。逃げ場がない程の強烈な暑さを感じながら、それが何なのか彼は考えていた。
いずみは迷っていた。そして決められずにいた。
仕事先の弁護士事務所から家に帰ってから、すぐに二階の自分の部屋に閉じこもった。ベッドに座り、溜息を吐いた。電気も点けず、部屋は暗いままだ。スーツ姿のままで着替えもしていない。
「どうしよう・・・」
決められない、いつもの自分がいた。
三十を超えた今まで実家を出て一人暮らしというものをしたことがない。家事も出来ない。未だに母親の作った弁当を持って仕事場に出勤している。そして困ったらいつも高校の後輩である佐川里美に頼り、泣きついている。
自分でも情けないと思っていた。高校のときは天然と言われていたものの、いつも周りを引っ張っている自分がいた。自分に自信もあった。
だけど、今の私は自信を失い、情けない、しょうもない自分になってしまっている・・・。
こんな自分は嫌だ・・・。
いずみは唇を強く噛んだ。
仕事ではいつも上司や同僚に嫌味を言われ、怒鳴られ、なじられている。こちらに非がなくても、そんないじめのような状態がずっと続いていた。上手く人間関係を築けなかったのだ。
「お前が凄いのは、東大に現役で合格したことと、司法試験を在学中に合格したことだけだな! 後は全く駄目だ」
それを言われない日は殆どない。
ベッドにいずみはスーツのまま仰向けになった。天井をじっと眺めた。
「私は駄目だ・・・」
萎縮し、失敗を犯す。ミスが生じる。更に萎縮してしまう。仕事では自分には重要な案件は決して廻ってこない。信用されていないのだ。期待もされていない・・・そしてこの歳で結婚もできていない・・・。
いずみは寝返りを打った。
泣きたい気分だった。
「村田君・・・」
誠実で真っ直ぐな彼を思い出した。その彼は私に憧れてくれて、好きだと言ってくれ、そして二人は付き合ったのだ。
一緒に学校から帰るだけの仲だった。キスもしていない・・・。
その高校時代の彼氏である村田にまた会うのは気が引けた。自分が振ってしまったといものあったが、今の情けない自分が彼と接触して、それが分かってしまうのを恐れていたのだ。
いずみは溜息を吐いた。
突然メールの着信を知らせる音が鳴った。いずみはびくっとしたが、すぐに携帯を手に取り、メールを開いた。
「レゴ部の集まり・・・月見台高校文化祭初日の九月十五日、津田沼で集合して、月見台高校に行き・・・」
村田からのメールだった。
正直どうすればいいのか分からない。あっちは一度結婚までしているのに私はずっと独身だ。どうしてなの?
離婚したとはいえ、私は妬いているのかもしれない。
私は本当に駄目だ。
いずみは携帯を見つめた。佐川に電話をして相談してみようと思ったのだ。
そこにはいつもの情けない自分がいるのは分かっていた。今の状態から脱出できない自分がいた。