記憶の小箱さがして
電車に乗っていると、目に留まるものがあった。
母子連れである。
座っている母親は、三十代前半といったところだろうか。洗いざらしのような質感のラフなブラウスシャツがよく似合っている、いかにも活動的な女性という風貌であった。
子どもの方は、まだ小学校に通う前の男の子、年長組さんくらいに見えた。興奮しているのか、履いているブルーの特撮ヒーローグッズのくつが、ぷらぷらせわしなく動いている。
休日にどこかに出かけた帰りであろうか。特撮ヒーローのイベントが近くであったのかもしれない。そんな想像をしていた。
空いている車内なのに、親子が向かい合わせの座席に、横に並ばず座っているのが気になった。二人で座れるスペースが横には十分にある。少しマナーの悪い家庭かもしれない。そう思って眺めていた。
母親が姿勢を前傾させて、少年を手招きした。少年も身を前に寄せる。何やら話をしているらしい。車内の雑音と、揺れる車両の音で、小さいボリュームの会話までは聞き取れない。
「わかった?」
雑音の途切れた合間に、母親が少年に確認をとる声が聞こえた。少年は、楽しそうに目を輝かせて、二度三度うなづいた。
一呼吸の間があってから、母親が少年に向けて、片方の手のひらを上にして腕を構えた。何をするつもりなのか、と見ていると、今度は、少年の方が腕をそろそろと差し出してきた。水平に伸ばされる彼の手が、母親の手のひらの上に伸びようかというその刹那、母親が肩口に構えていた、もう片方の手を勢いよく下ろして、少年の手を挟もうとした。少年は急スピードで腕をバックさせた。ピチャリ、と、母親の両手が上下重なり閉じられた。
どうやらふたりで退屈しのぎのお遊びをしているらしかった。失敗に終わった母親が、大げさに天を仰いで悔しがり、少年はそれを指差しながらケタケタと笑っている。両足を揃え、ぶんぶんと前後に振る彼の姿は、溢れんばかりの生命力そのままを表現していて、昼間の太陽と遜色のない温かさとまぶしさを感じた。
何度かそのゲームが続けられたが、母親の連戦連敗が続いた。それでも母親は、手を挟む側から交替しなかった。挟む方が逃げ出す方よりもかなり難しいことは、数分観測してよくわかった。フェイントをかけようとも、逃げる方は一目散に手を引っ込めてしまえば負けることがない。牽制の意味がないのだ。
自信を強めたのか、少年はだんだんと大胆に、彼の小さな手を通そうとしだした。前後ではなく、横からひじを曲げるようにして間をすり抜けたり、曲げては伸ばしを繰り返して何往復も通過させて、楽しみ方を増やしてゆく。
少年の余裕が感じられつつあった、まさにその瞬間。幼い油断を母親がとがめるかのごとく、少年の手を両手の中に収めた。初めての、勝利と敗北。優勢と劣勢の逆転。
「あっ」
少年は、これから叱られることを予期したような、気まずさのにじむ表情に変わった。負けの恥からか、母親の方を向けず、うつむいてしまった。
だが、母親は、少年の顔ではなく、ただ捕まえたその手に焦点を合わせていた。じっと。彼女の細めた目からは、感情が読み取れなかった。
そっと、少年の手が、なでられた。優しく扱わなければ崩れてしまう、砂の像に触れるように、母親はその手の甲、指、爪、至る所の感触を確かめ、幾度も繰り返した。
遠く故郷にいる母を想った。
頭を撫でられ、褒められた。近所のスーパーへの行き帰り、手をつないで横断歩道を渡った。いたずらが見つかり、痛過ぎない加減に頬をつねられた。何かの拍子で泣いたとき、ぐしゃぐしゃの顔をティッシュやハンカチで拭き取ってくれた。
記憶のデータを引っ張り出せるだけ思い出したが、どれも映像として残るばかりで、母の手の、指の、触れ合った感覚が呼び覚まされることがなかった。
幼少の記憶をさまよって忘我していたら、いつの間にか、親子は別のお遊びを始めていた。指相撲をしている。成人の指の長さに子どもが敵うはずもなく、今度は少年が連戦連敗を重ね、「くっそー」と悔しがっていた。母親は、その表情をくすくすと笑いながら楽しんでいるようだった。
彼も、この触れ合った感覚が薄れて、映像だけの記憶になってしまうのだろうか。あるいは思い出す日が来るのだろうか。どこかに忘れていたものが、不意に見つかった箱から取り出されて愛でる日が。
忘れないで欲しい。一介の少年に対して、そう願った。
おそらく、いや、確実に母親の脳には、深く刻まれている。何度もなでる儀式を思い起こし、多少の安堵が得られた。
ひとつだけ、確かに思い出せる母の手の感触があった。
具合が悪く熱を出し寝ていたとき、額に冷やかな手を押し当てられ、気持ちよかった。
拙作をお読みいただき、ありがとうございました。




