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ボヘミアの伝聞

ボヘミアの伝聞



アーサー=グッドマンの手記

 私がその人物について語るとき、未だかつて一度たりともその人柄を的確な文言で言い表せた試しがない。なぜなら、長年彼と命運をともにし、皆にその偉業を知らしめようと筆をとっている私自身が、世間に伝えるべき彼の本質を未だ掴みあぐねいているからである。

彼という人間を知るとき、その頭脳明晰さを抜きにしては語るに難い。例えば、これまでの彼の依頼人の中には不誠実を持ってP・T探偵事務所を訪れた者たちが数多く存在したが、その者たちのだれもが、彼の相対する人物を肉薄するかのような鋭い眼孔を目にし、合理的な追求のもと決まってじりじりとその悪意にまみれた陳腐な素性を紐解かれていった。そして、愚者たちは彼の事を評する。それはまるで百戦錬磨をその雄弁一つで戦い抜いた、聡明かつ非人道的な判事のごとく仕業であった、と。

また、彼の評判がフリート・ストリートの報道記者たちの耳にも伝わっていたことはご存知であろう。マダム・タッソー殺人事件、オーデル教奇襲事件、テムズ川変死事件といった名だたる重大事件の解決に一助したことなどが、そのときにしてようやく大々的に報じられることになったのである。記者たちは、彼のその眼孔の奥深くに溢れる教養と、熟成された人生経験からくる論理的思考力とを評し、Homes reincarnation(ホームズの再来)、like Milky Homes(現代のミルキーホームズ)、とまで大きく構えた見出しをつけたほどである。

つまり、事実上、彼は紛れもなく名探偵と呼ばれるにふさわしい人間であったのだ。しかし、悪態にせよ名聞にせよ、世間からの注目を浴びる彼でいて、なお、私を含む誰ひとりとして彼の本質が把握できずにいる。これは助手としてなんとも恥ずかしいことではないか。

彼の視野から眺めた世界は常に流動的に姿形を変え、まるでテムズ川の流れのごとく、緩やかに長い人生の道を流れていく。グレート・シーン会館にて音楽を楽しんだかと思えば、書斎をあさりだして論文の執筆に勤しみ、強迫観念にとりつかれたかのように筆を走らせる。東洋の茶道や華道とやらをたしなんだかと思えば、競艇に明け暮れ、数百ポンドを失ったとにやけ顔で肩をすくめてみせる。その振る舞いたるや、ともすれば、私でさえ、彼は自由気ままな俗人風情なのではないかと錯覚してしまいそうになるほどの出鱈目な行動である。

だが、そんな彼をして唯一、その目に傑物の輝きが灯る瞬間がある。それは、硬直した状況に張り巡らされた複雑奇怪な謎を、論理的思考の中にのみ解決せしめようとする瞬間に他ならない。その時こそ彼は、紛れもない傑物、歴史に名を連ねる名探偵へと姿を変える。強いてあげるならば、その少年のごときあくなき探究心。それこそが彼の本質であろう。

そう。あの日もその好奇心に満ちた鋭い視線で、彼はボヘミアから送られてきた奇妙な手紙に目を通していた。そして、意味深な笑みを浮かべて初対面であるはずの私に向かってこう言ったのだ。

「アーサー君。君にはこの手紙の意味するところがわかりますか?」

十数年前の出来事が、今でも記憶に鮮明に浮かび上がる。それでいて筆を取る手に力がこもらないのは、やはり私が彼という人間の全貌を測りかねているからであろう。しかし、同時に私以上に彼の事を知る人間もいないであろうという自負。筆を走らせるのにこれ以上の理由は必要ないのかもしれない。

望むならば、彼の偉業をこの手記に書き留めよう。高名なる名探偵ルーカス=アルフレッド。私と彼が初めて出会った日の思い出話を、このボヘミアの伝聞に変えて。

                             MAY,1954,

Author G.




Ⅰ ボヘミアの伝聞 

 ある休日の昼下がり、私はウェストミンスター郊外にあるP.T.探偵事務所を訪れていた。建築技師としての職を失い、日雇いの探偵業で仮住まいを点々と移していた私が、田舎者にはいささか似つかわしくないこの気品溢れる街に呼び寄せられたのは、古いつてから耳にしたある噂がきっかけであった。なんでもその噂によると、この街に住む、かの高名なルーカス=アルフレッドが探偵助手を募集しているというのだ。

その噂の信憑性など微塵も疑うことをしなかったのは、当時の私が世間に見放された浮浪人であったからであろう。私を雇い入れてくれるかもしれない場所がある。それも、あの有名なルーカス=アルフレッドその人の助手として! などという敗色の濃い絵空事を思い描けていたほど、心身ともにくたびれていたことが、ともすれば私と彼とを出合わせた運命的ないたずらだったのかもしれない。

当時、アルフレッドは極端にメディアに顔を晒すことを控えていたため、その名探偵としての名聞に反して、かなりの変人であるとの噂が世間ではまことしやかに囁かれていた。そして、それは俗人にも満たない浮浪者である私の耳にも例外なく届いてくるのであった。男色好きをする、とか、女中を週替わりで取り替える豪傑である、などといった低俗なものから、血の臭いで犯罪者を嗅ぎ分けることができるのだ、とか、拷問器具のコレクターであり、彼自身も殺人狂の側面を持つものである、といった狂気じみたものまで。そしてそんな馬鹿げた噂のどれもが、やはり愚者であった私にとっては、顔合わせの前に、良い具合に襟を正そうという意気込みの一助となってくれるのだった。

――傑物というものは、えてして俗人には理解できないことをするものだ。

そんな思慮に浸りながら、事務所から現れた女中に案内され、今まさに、アルフレッドその人に会いまみえようという時、もう一度私は奇人アルフレッドの姿を思い浮かべ、気を引き締めた。

「どうぞ」 ノックの音に、数秒間をおいて反応した男の声。そして、女中が開いた扉の向こうに見える男の、意外な姿に面食らう。

肘掛け椅子に深々と座って、シガノフ・ミステリーを口にくわえて吹かしている男。これが、ルーカス=アルフレッドなる男なのだろうか? ダブルのウェストコートをダボダボに着くずした、太身の男。その姿は噂に聞いていたどの想像にも劣る、ごくありふれた――というよりは、幾分小汚い50代の英国紳士のものであったのだ。そして、私はすぐに気を取り直し平静を装う。

「どうも。アーサー=グッドマンと申します。この度は、探偵助手をお探しになられているとのことで、貴宅を訪問させていただきました」

 彼は二重、三重に私の様子をその目でなぞると、咥えていたシガノフを灰皿に押し付け、またマッチを取り出して新たなシガノフに火をつけた。「すまないが、あいにく忙しいところでな、ここから出て行ってはもらえないか?」無愛想に淡々と言い放つ彼の目には、他人を値踏みするような高層階級の人間特有の性質が見て取れる。

「こちらが、私の履歴書なのですが……」と、不穏な間にしびれを切らし差し出したものを、一瞥すると、彼は机に積み上げられた書類の山に乗せて、またじっとこちらの様子を伺った。

「元建築技師で、日雇いの探偵業をこなす、アーサー=グッドマン」 不意にそう口に出すと、妙に落ち着き払った様子で机の上に広げられていた手紙のシワを伸ばし、私の前に差し出した。

「すまないが、君がこれまで生きてきた経緯など、私はいささか興味がなくてね。私の興味が注がれるのは、もっぱら遠い異国からの伝聞なのだよ。例えば、こんなボヘミアからの隠喩にまみれた手紙のような、ね」

「手紙……、ですか?」突然の出来事に一瞬混乱するも、すぐに現状を理解して差し出された手紙を慎重に受け取る。


暗室で育つ植物ほどわたくしを疑心させるものはありません。

願わくば、あの大輪の花が咲きませんことを。

                     

 U.N.owen

 

受け取ったその手紙は、手紙と呼ぶには語弊があるほどの簡素なものであった。そして、その文体の持つ奇妙な違和感を拭えぬままに、「一体これはどう言う意味でしょうか?」とこぼした私に、彼のさらなる発言が「なあ。アーサー君」と、追い討ちをかける。しかし、彼のその目からは先ほどの侮蔑は消え去り、打って変わったように少年のごとく純粋さが覗いたような気がした。

「私はどうやら、君のその瞳の中に、聡明で、謙虚な輝きを見いだせないこともないようだ。いいや、実際に私の事務所を訪問してきたという時点で君はいくらか有能な人物なのであろう。このまま門扉を引き返していくにはいささか惜しい人物だ。君が、かのような薄っぺらい紙切れにその人柄を要約できるような人物ならばいざしらず。想像力に溢れる若者であるとするならば、どうだろうか? 君のような有能な紳士が、どのような考察をするのか私に聞かせてはもらえないだろうか?」

突然の態度の変わりように、私は気味の悪さを感じた。彼という人間性が一向につかめないでいるのだ。まるで芝居じみた会話とでも言おうか。

「考察……、と申されますと?」

「考察、さ。私に頼らず、君自身の力で考えを巡らせるということだよ。これは、ボヘミアにいる、とある人物から送られてきた手紙だが、君はこの状況をどう考えるか、という簡単な質問だ」

そう言って、今後の私の発言を吟味するように、彼は椅子から身を心なしか乗り出して、両手を握り合わせてみせた。――考察といわれましても……、そう口に出そうとした瞬間、私はアルフレッドが先程発した奇妙な表現に違和感を覚え、丁寧に言葉を選んた。

「そうですね……、暗室で育つ植物、大輪の花、その意味するところは理解しかねますが、恐らくこの二つが短い文章の中のキーワードとして注目すべきであるものでしょう。そして、この文体からは書いた人物が女であるということが伺えます」

私がそれだけ言うと、彼は肩をすくめてみせた。

「君の考察はそれでおしまいかい?」

「いいえ。しかし、これ以上の事を推理するには情報が少なすぎます――、よろしければ、貴殿にいくつか伺いたいことがあるのですが……」

私がそういうと、彼は表情を曇らせた。「残念だが、仮にも探偵の助手を志す者ならば、この状況に質問がふさわしくない事を察して欲しいものだ。先程確かに言ったはずだが。私に頼らず、とね。考察をやめたいのならば、一向に構わない。だが、君はまだ何か見過ごしていることがあるんじゃないか?」そう言うと、彼は、またその目に好奇心を浮かべた。

いつのまにか先程案内役を務めた女性が姿を消している事に気づく。この部屋にいるのは私とアルフレッドの二人だけだ。まるで、この状況は、企業面接のようだ。いや、事実、この質問で、恐らく私は彼に何かを試されているのだ。

「もちろん、私が確かめたかったのは、この文面に対してのみの考察ではないのですよね? ということです。いくら、経験の浅い若者といえど、文面にばかり注意を惹かれて、机の上に置かれた封筒に目が行かないほどの愚か者ではありません。その封筒の消印は5日前に押印されていて、宛先は確かにここウェントミスターの街に宛てられたもののようです。そして、宛名にはルーエン=アルフレッド――、との名前が書かれています。つまり、この手紙は確かに貴殿に宛てて出されたものだということです」

 机の上で乱雑に散らばった書類の中には、手紙が入っていたと思しき封筒が丁寧に置かれている。消印と、宛先の部分は、はっきりと見て取れたのだが、差出人の名前はインクがかすれていて不鮮明なものだった。しかし、目を細め、凝視すると、そこには文面と同じ書体でMary Saint claireなる名前が書かれていることがわかった。

「それはそうとして」と彼は、小さく相槌を打つと、再び次の発言を嗜めるような表情で言った。

「君は肝心の考察を一体いつになったら話してくれるんだい?」

「ええ、もうほんの少しばかり、考える時間をいただけないでしょうか?」

私は、頭の中にぼんやりと浮かぶいくつかの仮定をまとめ切れずにいた。そのため、考える時間を引き伸ばそうと、こうやって明白な事実のみを小出しにしているのだ。しかし、どの仮定も、何かが腑に落ちない。そして、しばらく思考した後、その理由にふと確証を得る。そう。やはり先ほどのアルフレッドの発言には小さな違和感があるのだ。

「私にはどうもその手紙が投函されたのがボヘミアからであることを推論から確証を得ることはできませんが、貴殿はこれをボヘミアからの手紙だとおっしゃいました。そして、その封筒と便箋に書かれた差出人の名前には重大な矛盾点が見られます。手紙の本文末に書かれたU.N.オーウェンの名と封筒に書かれたメアリー=セントクレアという名前。つまり、この手紙は二人の人物によって連名投函されたものではないかと思っていたのです」

「思っていたとは?」

「はい、やはりその仮説は間違っていた。――つまり連名ではないのであろう、ということです。貴殿の『とある人物から送られてきた』という口調や、文中の『わたくし』という一人称の表現から考えて、そう推測しました。すなわち、この人物はどちらか片方の名で偽名を使っており、そのあからさまな書かれ方からは、手紙の受取人である貴殿を騙すための意志が感じ取れないということです。そして、そう考えると、新たに第二の仮説が浮かび上がってきたのです。もし、この手紙をある一人の人物が書いたのだとすれば、この二つの名前のどちらか片方、つまり――騙すことが目的でない偽名の方には受取人――すなわち貴殿に向けた何らかのメッセージが含まれているのではないか、ということです」

「して、そのメッセージとは?」

彼は無表情のまま、じっとことらに目を向け、前傾姿勢のまま尋ねた。

「わかりません」

私の発言に、彼はその時初めてその口元を緩ませて、僅かな笑みを浮かべた。

「わからないとは、驚いたものだ。こんな中途半端な推理を披露する人間を、誰が探偵などと呼べようか?」

――中途半端な?――推理?――偽名のメッセージ? ……そうか! 私はその言葉のニュアンスに思い当たる節がある。そうして、ようやく、これまでの仮説の糸が絡まり合って一本の線につながりつつあった。

「いいえ、私は推理を投げ出すつもりなど毛頭ありません。その偽名のメッセージに関しては、正確に言うと『わからない』のではなく私には『わかりえない』のです。なぜなら、その差出人はボヘミアにいる、あなたの知り合いだからです」

「それは一体どういう意味だ?」

「私は、そもそも勘違いをさせられていたようです。唐突にこの手紙を渡されたことで、文面にばかり注意が惹きつけられてしまった。だから、貴殿の質問の本意を見落としてしまったんですよ。そう。貴殿は先程おっしゃいましたね『君はこの状況をどう考察する?』と。私は、始めその質問を手紙の文面に関してのことだと思い込んでしまったんですよ。つまり、この手紙に込められた暗喩を読み取れとでも言われているかのように錯覚してしまったんです。しかし、その実は違った」

彼は、時折シガノフを口にくわえて、煙を吐き出す以外にはじっとその身を静止させ、こちらの言論に聞き耳を立てている。

「そう、先ほどの貴殿の言葉を引用させていただくと、こんなものは中途半端な質問だったんですよ。これほど短い文章にこめられた暗喩を推理するには、やはり最低限その人物像が浮かぶくらいでなくてはいけないはずです。見知らぬ女が、素性の知れない探偵に出した暗喩文の真相を、目立った手がかりもなく探る。そんなものは推理などではなく、結局、単なる幼稚な想像にしかなり得ないのですから」

「では、君のその――論理に基づいた仮説――をお聞かせ願おうか?」

「はい。仮説は確信に変わりつつあります。そして、この仮説を確信に変えたのは、あなたが先程見せた、ある不自然な態度の変化です。手紙を見せる前後で私に対する態度が一変した。恐らく、貴殿は私が手紙の文を読み終わった時に確信したのですよ。あの時に私が、手紙に書かれた何かに気づかなかったことに。

『この状況をどう考察する?』とはつまり、文面の解読ではなく、『お前はこの不合理な問いかけについてどう考える?』という意味の詰問であったのです。恐らく、あの短い文章の中に含まれていたのではないですか? 名探偵ルーカス=アルフレッドの助手になるものが、知っていては不都合極まりないメッセージが!」

 完膚なきまでの推論をぶつけられたアルフレッドはしばし沈黙していた。

 私はその推理を述べている間中、愉悦な思いがしていたことをここに告白しよう。その瞬間の私は、過大評価された探偵アルフレッドにいとも容易く肩を並べた、名探偵アーサー=グッドマンであったのだ。「我こそは――」と愚直にも決めゼリフを言わなかったことがせめてもの救いである。そんなことを口走っていたなら、恥ずかしさのあまり私は当面彼と顔を合わせることができなかったであろうから。そして、やはり私をそんな辱めに合わせたのも、あの高名なる名探偵ルーカス=アルフレッド、その人であったのだ。


「やれやれ、これで、退屈極まりない演芸の時間も終わりというところか」そう言って立ち上がった彼は不意に「おーい、ルーカス」と自らのファミリーネームを叫びだしたのだ。彼は事務所の扉を開けて、いつの間にかそこに立っていた30代と思しき端麗な顔立ちの紳士から銀貨をいくらか受け取ると、先ほどの厳格さとは打って変わったような軽快な足取りで、P.T.探偵事務所を後にした。

現状が飲み込めず、その場に立ちすくむ私を眺めながら、扉外に立つその紳士は「なかなか面白い推理でしたね」と言った。

「彼の名はジョージ=ブロウ。私の友人兼仕事仲間の一人――普段はコヴェントガーデンで観光客向けのマーケットを経営している男――です。あの風貌と立ち振る舞いから、しばしば第一印象は無骨そうに捉えられがちですが、彼はああ見えて案外誠実な男ですよ。とりわけ、私からの依頼とあれば多少高くはつくものの、決まって忠実に実行してくれます」

私はその紳士の、すらすらと流れるような雄弁な言葉遣いを聞きながら「何か大変な思い違いをしていたのでは?」と、その時にしてようやく気づいたのだ。

「しかし、ブロウは忠実とはいえ、その器用さには難があるようですね。アドリブは利くが、その演者としての素質は乏しい。あの演技力で、役者の道を歩まなかった事はブロウの人生にして最大の好判断といえます」

彼はそう言うと、机の上に置かれたシガノフ・ミステリーを手に取り、マッチで火をつけた。ネイビーのシンプルなスーツを着こなし、特徴的な口ひげを生やした紳士。その私と同じくらいの年齢と思わしき容姿に、年長者の持ち合わせるような落ち着きのある物腰と、英国紳士の上品な立ち振る舞いが見て取れた。そして、彼はあたかも初対面の客人を歓迎するような口調で私に向かって言ったのだ。

「ご紹介が遅れました。私が探偵のルーカス=アルフレッドです」

その姿は噂に聞いていたどの特異な彼の想像よりも、ごくシンプルで奇抜さに欠けるものであったが、私はその瞬間彼こそがアルフレッドなのだと妙に納得してしまった。その紳士の持つ独特な重みを帯びた風格が、この人物は大物である、と初見の私に妙に強く訴えかけたのであった。

「君を助手として雇わせていただきたいのですが」彼はそう言うと、右手を私の方に差し出した。私は無心でその手を握り返したが、どうにも現状を把握できないでいた。

「あの、失礼ですが、アルフレッド殿――」

するとその言葉に重ね合わせるように、彼は言った。

「アーサー君。見てのとおり、私は君と歳も性別も同じくするものであります。ならば、そのような敬称は是非ともご遠慮願いたいものですが」

「ああ、では、失礼ながら、アルフレッド――、と呼ばしていただきます。ところで、私は突然の出来事にいささか困惑しているのですが、先ほどの助手として雇うという意味と、現状をご説明願えませんか?」

「説明? 君は、私の助手を希望して来たと伺いましたが?」

「ええ、しかし、両手を上げて喜ぶには、どうにも納得のいかない点が多すぎるもので」

 彼は私に向かって小さく会釈をして、「では、このような形でのご対面になった事を失礼します」と一言添え、また原稿でも読み上げるかのように流暢な弁で話し始めた。

「そもそも、今回、助手を募るにあたって私は三つの条件を設けたのです。まず、第一の条件は『最低限の論理的考察力を持ち合わせていること』でした。そして、先ほどの君の考察を拝聴していたところ、多少の寄り道は見られるものの、概ね正解を導き出せていたとお見受けします。ただし、あくまで、論理に根本的な間違いがある事を除いて、という意味ですが――」

「根本的な間違い、というのは、一体どう言う意味でしょうか?」

「つまり、先ほどのあの考察では真相にたどり着けていない、という事ですよ。ところで――」

彼は、意味深な表現で私の質問をはぐらかした上で、その問題に言及しようともせず、「アーサー君。君は本を読みますか?」と、別の質問を投げた。

「本は、一般に嗜まれる程度には読みますが……」

「それは、例えばどういった類のものですか?」

「学術書や、娯楽本の類です」

「娯楽本とは、具体的にどういった分野のものを?」

私には食い気味で質問を重ねる彼の真意が掴めなかった。「本といっても、紀行文や美術書、建築書くらいしか嗜みませんが……」と言うと、彼は「そうですか」と何かを確かめるように言った。

「アーサー君。我々探偵というのは、複雑怪奇な謎に立ち向かうとき、とにかくその謎にまつわる情報を集める事を第一とするのです。その時に必要なのが、丹念な聞き込み能力や、書斎にあふれる文献から適切な情報を探し出す能力です。その方法は多岐に及びますが、我々は、努めて真相の手がかりとなる情報をのみ見つけ出そうとするべき存在なのです。慎重に、一つ一つを見落とすことのないように吟味しながら。そして、そんな我々に必要なのは、物事を計画的に進めようとしない愚者の存在です」

「その、愚者――とは、まさか私の事でありましょうか?」

「ええ、そうです。しかし、どうか気を悪くしないで頂きたい。私が言う愚者とは、単なる無能な出来損ないという意味ではなく、『聡明なる愚か者』とも呼べる、非常に尊ぶべき存在なのです」

「それは……、一体どう言う意味でしょうか?」

釈然としない様子の私を見て、彼は少しの間考え込むと、丁寧に言葉を選びながら落ち着いた口調で話を続けた。

「聡明な人間というのは物事を慎重に進行させたがるものです。事実、ここを訪れた多くが、私という人間を調査し、気に入られるための傾向を調べ上げて来た者たちでした。しかし彼らは皆、探偵が助手に何を求めているのか、という重大な点において決定的な勘違いをしているのです」

彼はそこでひと呼吸つくと肘掛け椅子に座り、「ところで、アーサー君」と言って私に質問をした。

「探偵が助手に求める最も大切な事とはなんだと思いますか?」

不思議と彼の雄弁には聞き手を納得させる力があった。そして、自分でも驚いたことに、私は彼の言論の中に見つけたその質問の答えを自然と口に出していたのだ。

「愚者であること……、でしょうか?」

「そうです。それこそが、私がブロアに演技をさせてまで設定した第二の条件でした。私が求めていたのは、ルーカス=アルフレッドという人間がどのような存在であるのかという下調べをせずにやってくる大胆な人物。君はブロアを偽物だと見抜けなかった時点でその条件を満たした聡明なる愚か者だったのですよ」

「しかし、それは、裏を返せば思慮の足りない、軽率な者、とも言えるのではないでしょうか?」

「ええ、その通りです。しかし、助手の軽率さなどというものは実のところ、私にとってみれば大した問題ではないのですよ。先程も申し上げた通り、探偵にとっての最優先事項は情報を集めることです。そして、その情報というやつが、推理の糸口として大いに役に立つものである反面、大いなる危険性を孕んだ厄介なものでもあるのです。多すぎる情報は、私たちに『先入観』を植えつけ、最も重要視されるべき真相を、その取るに足りない情報で作られたガラクタの山の中に見失わせることにもなりうるのです。故に私は、探偵助手を募ったのです。余計な事にとらわれず、常に物事を新鮮な目で捉えてくれる、けがれなき愚者の視点を持つ人物を。ともすれば、軽率な行動から、私の先入観を払拭してくれる聡明なる愚者を」

私は彼のその見解を聞きながら、納得すると同時に、何か小さな違和感――まるで、その言論によってどこかへ誘導されているような奇妙な感覚――を覚えた。不思議なことに、気がつけば私は自らの意志によって相槌を打たされているのだ。

 「そして、三つ目の条件ですが……。これが私にとって前に述べた二つよりも、最も優先されるべきことであり、そして私の元を訪れる者たちの中から、それを満たした者を見つけ出すのに最も困難な条件でもありました」

「その、条件というのは?」と尋ねると、彼はまた、「その答えを言う前にですね――」と言って、ひと呼吸おいた。

 「一つだけ。念のため、もう一度確認させていただきますが、アーサー君。君は『ボヘミアからの手紙』というシチュエーション、そしてその文末に書かれた『U.N.オーウェン』の文字に何ら思い当たる節がないのですね?」

「はい、あいにく私には思慮が及びません」

「そう、それを聞いて安心しました。やはり君は特別な人であるのです」

彼は満足げな表情を浮かべた。

「特別といいますと?」

「小説ですよ。探偵というものは幅広い知識と教養が求められる職業ですので当然のことながら、勤勉な読書家が多い。そして、なぜか、私の事務所を訪問してくる探偵にはそのほとんどが小説というものを好んで読む傾向があるのですよ。

あなたはご存知ないようですが、『ボヘミアからの手紙』、『U.N.オーウェン』という二つのキーワード。これらはそれぞれ、サー・アーサー・コナンドイル、アガサ・クリスティという二人の著名作家が残した、世界中で最も読まれている推理小説からの引用なのです。そして、そんなことは、あの手紙を読んだ探偵ならば、ほぼ全員が瞬時に回答できるべきものであるのです。しかし、あなたは手紙を読み終わったあとも不思議そうな顔をしていた。そして、私にとってはそれが何よりも喜ばしいことであった」

「すみませんが、私はあなたの意味することを十分に理解しかねます。小説を読まない人間であるというだけでは、到底納得ができないのです。肝心の三つ目の条件――、結局、あなたがなぜ私を選んだのかということが……」

「いいえ、その答えは既にご存知のはずですよ」

「もう一度よく見てください」そう言うと、彼は私に先ほどのボヘミアからの手紙を手渡した。

「『U.N.owen』という名前。アーサー君。あなたは、この名前にどうしてこうも中途半端にイニシャルが用いられているのか疑問には思いませんでしたか?」

「中途半端なイニシャル?」

「そう、注意深く観察していれば、気づくことができたはずですよ。このアルファベットの奇妙な並び方に」

そこまで、言われてようやく私はアルフレッドの意図を理解した。『君はまだ見過ごしていることがあるんじゃないか?』そう、あの太身の男、ジョージ=ブロウの口を通して、アルフレッドは私にそのことを既に何度も忠告していたのだ。そして、彼は不敵な笑みを浮かべて言う。

「ようやく、気づいたようですね。自分が何も知らなかったのだ、ということに。ユー・エヌ・オウン――Unknown(アンノウン)。

私は忠告していたのですよ。私が女中に変装している事。君という人間を吟味していること。そして、私が推理小説なるものを忌み嫌い、そんなものを好んで読む人間とは相入れない性格である、という事も。君は何一つ知らない愚か者である、とね」


 私はその時、得意げに言い放ってみせた彼が浮かべた演劇のような表情を見て、「ひょっとするとこいつも偽物なのでは?」と一瞬疑ってしまった事を覚えている。しかし、当然のことながら彼がその正体を晒す事はなかった。なぜなら、彼はやはりルーカス=アルフレッド本人にほかならなかったからである。

「暗室で育つ植物ほど私を疑心させるものは――――ありません。願わくば――――あの大輪の花が――咲きませんことを」

アルフレッドは繰り返しその文章を口に出しながら、窓からちらちらと気持ちの良い日光の差し込めるP.T.探偵事務所の中を、ぐるぐると歩き回り始めた。そして、彼は不意に立ち止まると、呆然と立ちすくむ私の様子を悪戯に伺いながら、「ところで――」と、初対面であるはずの私に向かってこう言ったのである。

「アーサー君。君にはこの手紙の意味するところがわかりますか?」

 その時の彼の表情からは意味深な笑みは消え、再び少年のごとく純真さが覗いていた。

「よろしければ、私にお聞かせ願いたいのですが、アーサー君。君はこの文面についてどのように考察しますか? 君のその幼稚な想像とやらを、是非とも私に聞かせてください」

――それは、忘れようにも忘れることのできない、ある休日の昼下がりの出来事であった。そして、この時折見せる純真な表情こそが、私が未だに、ボヘミアの伝聞にまつわる真相と、彼という人間の本質をつかみ兼ねている理由の一つであるのだ。


                            (May,1954 ボヘミアの伝聞)



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