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橘と玲人が部活上がりで現れた。二人揃うと衣裳を着ていなくとも、源氏の君と頭の中将が現れたと思わせる色香が漂わせていたが、どうやらシャワーを浴びて来た為の様だった。微かに二人とも髪がまだ濡れていた。
橘が直ぐに北川と替わると、真綾は橘を相手に紫の上を演じる。通し稽古も終盤な為、女三の宮を正妻にされてしまい、紫の上は仏門の道へ入りたいと出家を懇願するシーンだった。
橘演じる源氏の君は、悲しそうにしながらも、紫の上を一番愛していると宥め、抱きしめる。相変わらず指一本触れないのに濃厚に抱き合っている様に囲うように回された橘の腕は、位置が絶妙で場面を艶やかなものにしていた。真綾も彼に囲まれてもエアーなので辛い筈だが、泣きながら(涙は出ていないが)「お願いです。仏門に入る事をお許しになって」と色めいた中にも悲しい心情を吐露する様に何度も言うが、源氏の君は勿論許さない。正妻はもともと藤壺の女御の血縁と知って、兄院に乞われるままに迎えた姫宮で、血筋以外に興味の湧くところも惹かれるところも無い姫でがっかりしていた。要は藤壺の女御の面影を追って迎えてしまったが、ハズレだった正妻と自分好みに育った愛しい紫の上とは比べるべくも無いのに、今迄他の女人ともうまく折り合いを付けて来てくれた紫に上が、正妻とは名ばかりの女三宮を気にして、自分の元から去ろうとするのが解せなかった。
ここはクライマックスの場面で文字どうり口で黙らせる、色っぽい場面なのだが、紫の上の気持ちが見ている側にも分かる悲しいシーンだった。
源氏の君が本当に愛しているのは、藤壺の女御だけなのだと紫の上と同じ気持ちになって悲しくなった。紫の上は藤壺の女御がどうしても手に入らない為、用意された替わりなのだと、この時になって気が付くのだ。施された教養も所作も、全ては彼女のコピーだった。見た目でさえ、血縁で良く似て居た為連れて来られたのだと悟ってしまう紫の上が、仏門に入りたいと思う程ショックを受けるのは当然の事なのに、彼はそれに気が付かない。彼女を抱き締めながら「貴女が居ないと生きていけない私にそんな辛い事を言わないでくれ」と甘く囁く。
なんだかせりかは、状況が紫の上と酷似している様に思えて成らなかった。橘は聖女の様なせりかを好きなだけで、存在しない女性=藤壺の女御だとすると、現実の自分は、紫の上の様に理想の存在の替わりの様に感じた。橘の中でのせりかは、きっと藤壺の様な女性なのだろう、とぼんやりと思った。
急に役に入ったとは思えない程のなりきりな源氏の君は、衣裳など着けなくても驚く程美しく妖艶な眼差しで、見ている者を釘付けにしてしまう。あまりに本人に役が合い過ぎている所為もあるが、普段は清廉な橘のうって変わった妖艶さに、見ている全員が別の空間に教室ごと移動してしまったのでは無いかと周りをキョロキョロと見回してしまう程で、紫の上を看取る場面で橘が泣き崩れ、紫の上に縋りつく悲劇的な最後で劇が終わった。
見て居た者は、橘が立ち上がり、そして手を貸して真綾が起き上がると急に死んだ筈の紫の上が生き返った事で、夢から覚めた。
荒井と北川が「「オッケー」」と言うと橘は、フゥーと息を吐いた。源氏の君の艶やかな雰囲気はすっかり消えて、爽やかに安堵の笑みをみせる。
そこで、お開きとなり、荒井と北川と、玲人と橘だけで、冒頭のシーンの打ちあわせの為に残ってまだ続けるようだったが、他の皆は解散となった。
せりかも皆に紛れて美久達とさっさと教室を出た。玲人に遅いから一緒に帰ろうなどと言い出されては、かなわない。玲人はそういう所は無頓着で、橘とあまり近くにいたく無いのは分ってくれてはいても、すっぽり抜け落ちてしまいかねない。
一応脱出に成功するが、本庄と一緒にいる真綾が寄ってきた。
美久達と一緒に真綾の紫の上が良かったと褒めると、素直な真綾は途端に嬉しそうな表情を見せた。『謙遜って言葉を知らないのか?』と後ろで囁く従兄を振り切って「本当に?!」と言って可愛らしく微笑む。
「真綾ちゃん、最近すごくうまくなったよね~。今日の橘君とのラストシーンはすごかったよ」
美久が言うと、弘美も興奮して「私、泣きそうになっちゃった。橘君とも昼休みだけの打ち合わせで、よくあそこ迄、息が合うよね~」と感心しきりだった。
「あれは橘君が雰囲気作ってくれるから、其処に乗るのは意外と難しくないのよ。唯、エアラブシーンは毎回堪えるのよ~。腹筋ピクピクなのに泣きながら『出家させて下さい』って言うのって、どうにも可笑しくなって来ちゃうけど、あそこが山場だから頑張ってどうにか耐えてるのよ。でも彼が私に縋って泣くシーンもエアーなのよ!あっちは鍛えてるから全然余裕なのが憎らしいのよね」
「えーそうなの?徹底してるわね。せりかが見てるからかしら?」美久が、からかう様に言うが今は冗談でも心情的には笑えない。
「あれがリアルに抱きしめられたら、真綾だって嫌だろう?それに生徒会の許可申請にも、その事については各シーンの詳細を演出の人達が提出してるんだ。だから椎名さんの事とは無関係だし本当に触ったら拙い事に成るから、みんなも大変だろうけど、なんとか頑張ってね」
本庄がせりかに向いた矛先を上手に向きを変えてくれるが、それさえも今のせりかには気持ちをささくれさせる物になる。せりかに庇って貰う価値など無い。藤壺では無いと何時になったら気付いてくれるのか、と思うと彼に対してどんどん態度が悪化して来てしまう気がする。
今だって感謝こそすれ、厭う気持ちになってしまうのは間違っている。しかも彼には僅かなせりかの様子でそれが分ってしまうのが、更に困った所だった。取り繕おうとしても、しない方が良かったと思う位になってしまうのは既に経験済みだった。
せりかが黙っていると、やはり気まずい空気になって来てしまい、せりかも思い直して言葉を紡ぐ。
「本庄君の言う通り、本当に抱き合ったりしたら、例え校内だけの上演だとしても、かなりの問題作に成っちゃって、うちの担任だってただでは済まなくなると思うわ!そう思うとあの橘君の首と腰の辺りに手を添えてる様に見せて濃厚で甘い雰囲気が作れるのは流石だし、自己演出も上手よね。北川君も橘君には、一言も言わないでOK出すんだものね」
「私にはあれだけ言いたい放題なのにね!」
「真綾ちゃんだけじゃないわよ。私の六条の御息所だって、生き霊なんて難しいのにリアリティが無いと、この話が成り立たないって随分扱かれてるのよ!」
美久が真綾に愚痴ると、真綾も美久よりも長く北川と接しているので、「苦労は分かるわ!悪気は無いんだけど言う事が細かいのよね」と言い合っていた。
弘美は夕顔役だが、透明感があって儚げな役どころは彼女と合っているし、その上出番が少なく演出側からもほぼOKを貰えていたので、同調は出来ないが気の毒そうに二人を見て居た。
美久などは、生き霊になって葵の上であるせりかを取り殺すという怖い役柄を、よく引き受けたと思うが、源氏の君が一時夢中になる風雅な貴人役でもあるので橘と絡みが多い。橘の為に引き受けたのだろうと思うと美久のせりかへの友情を感じた。それに気が強いのが表に出る美久は、この役に全然向かないという事も無い。まして同性とはいえ、せりかに張り付き後ろから抱き付かれる事を考えても親友である美久がやってくれるのは、とても有り難かった。荒井も全体をよく考えて頼んで来たのだろうと思った。
家に戻ったせりかは本日の復習と明日の予習をしていた。これはもう習慣化しているので、さっさと済ませると、玲人が部屋にやって来た。この時間に来るという事はかなり遅くまで残っていたのだろう。
「おつかれ!遅かったね。もう終わってるから、流して説明するから聞いててね」
そう言って恒例になりつつある、せりかの講義が始まる。玲人は耳を傾けて全て終わった後に引っ掛かった所を聞いてくる。それを説明してから、二人の勉強会は終了となった。もう時計の針は十一時を過ぎていた。流石にいつもよりも遅くなってしまったので玲人も本庄の事で言いたい事は有ったが、せりかに礼だけ言って部屋を去った。
翌朝、昨日は遅くて言えなかった事を玲人は丁度、朝一緒になったせりかにぶつけた。
「あの性悪小舅とは何時の間にか仲直りで、忍とは本当に別れるつもりなのか?」
「仲直りなんてしてないし、本庄君は別に性悪じゃないわよ」
玲人の朝練と同じ時間に出て来てしまったせりかは、もう既に後悔していた。昨日遅かったからと気合いを入れ過ぎたら、いつもよりパッチリと早く目が覚めてしまったので早く家を出る事にしたので玲人と重なってしまったのだが、これで駅で橘と会ったらと思うと一本電車をずらそうかと考え始めていた。
「なんで本庄の事庇うんだよ!大体、あいつが元々の原因なんだぞ」
「原因は本庄君じゃ無いわ。玲人だってそんな事わかっているでしょう?紫の上が源氏の元から去ろうとするのは三宮の所為じゃないでしょう?源氏の君の所為よ」
「忍の所為だって言ったって、忍が何をしたって言うんだよ?本庄が変にせりに絡んで来たから、せりが耐えられなくなったんだろう!」
「そうよ!耐えられなくなったの。耐えられなくなったって事は、その前は耐えてた状況だったのよ。それ自体が原因で本庄君は別れの原因ではないの。彼の事も、思う所は一杯で今は本当に一緒にいるのが苦痛に思えて来てしまう瞬間もあるけど、今迄べったり一緒だったのに急に離れたら橘君は何とも思わないと思ってるの?あの人だって勘が良いのは、玲人だって知ってるでしょう?」
「忍の為に、変わらない生活をしてるって言うのか?」
「彼は大事な試合を控えてるし、文化祭の劇の主役もあるし、生徒会の選挙まであるのよ。おこがましいかもしれないけど、少しでもショックを与えたくないのよ。少なくともサッカーの試合は玲人も同じだから解ると思うけど、ずっと頑張って来た集大成なのよ」
「其処まで大事に思うなら、別れない選択とかは無いのかよ!」
「……玲人は彼と一緒にいる私の苦労を分かっていても、彼の為にと思うのなら、それは彼の為にならないと思うの。大体が彼の好きな私って、高校に入ってからの、怒りもしなければ人も妬まないし、恨まない、悪意も持たない女なのよ。玲人は私がそんな人間じゃ無い事分ってるわよね?」
「なんでまた忍と本庄はそんな風に見えるのか、聞いて見たくなるよな~」
「それは、多分、私の所為よ。前ね、夏休みに由実達と会って思ったのよ。周りが妙に出来過ぎた人達に囲まれちゃったら、やっぱり背伸びしてしまうし、好きな人が出来れば良く見られたいって思ってしまうから負の感情なんて見せられないでしょう?それを本当に無いって思われるとは思わなかったけどね。言い方悪いけど男の人ってロマンティストというか女性に其処まで夢見れるのって呆れちゃうわね。特大の猫被ってた私が非難出来るのかは棚に上げさせて貰うけど、相手の誤解の方が怖すぎて、私が怖気づいても仕方が無いって玲人だって思うわよね?」
「ああ、本庄の方は特に酷い!せりは「赦しの聖女」だって言うから結構ドン引きだったもんなぁ。否定したら俺は近くに居過ぎて解らないんだろうって一蹴されたよ」
「橘君にしたって私が長く怒ってられない人みたいに言うから、あの二人って思考が似てる所が有るから、本庄君程じゃ無くても近い誤解はされてるんでしょうね」
「忍がそう思ってるって確証は無いだろう?」
「相手に何て言って確証を取ったら良いって言うの?元々薄々は感じてた事なのよ。ただ、その正体がはっきりとは分らなかっただけなの」
「誤解を解いても、忍はせりの事好きなままだと思わないのか?」
「思わないわ。彼がそう言ってくれても、それ自体が彼の誤解だと思ってしまうと思う。そう思いながら橘君の彼女で居続ける努力がもう出来ないって思ったから別れる決心をしたのに玲人は分ってくれて居たんじゃ無かったの?」
「あいつらがせりを少し神聖視してるきらいがあるのは俺にも分っていたから、せりがそれに傷付いてしまった瞬間は別れても避けても仕方の無い事だろうって、泣くせりを見てしまったら思ったけど、好きになるのってそんな理屈っぽい事なのか?!もっと感性の問題じゃ無いのか」
「そうね。そういうあやふやで不確かなものなのよ。誤解を解いた後の好きってどのくらい不確かなものか、もともとの好きは何処に存在していたのかって考えてしまうのは理屈っぽい事なの?」
「………ごめん。せりだって簡単に言い出したんじゃ無い事は分ってるんだけど、忍と一緒にいると辛いんだよ」
「最近忙し過ぎて一緒にいられない私と違って、玲人はずっと顔を合わせていれば、黙っている罪悪感が出て来るのは仕方が無いし悪いとは思ってるわ。でも橘君は私達二人にとって大事な人で、その彼の大事な時に黙っているのは仕方の無い事だって、玲人も割り切って欲しいの。お願い!」
「割り切ってるつもりだし、忍もせりを傷付けたんだから仕方無いって思っているんだけど、本庄と一緒にいる所を見ると忍の為でも納得出来ない」
「彼は、私が彼と一緒にいる事を苦痛に感じている事を分かっているのよ。それでも私に不快感を持つどころか、橘君の心配をして今迄通りにしてくれているのに、玲人がそれに対して不満を持つのはおかしいでしょう?私が橘君と別れたら、本庄君も一緒にいる理由が無くなるから、自然と離れて行くと思うわ」
「せりは、何処まで鈍いんだよ!本庄の事、今でも其処まで信じられるのってどうしてなのかって思ってみないのか?!」
「玲人?本庄君と何か有ったの?私は私を聖女と呼ぶ人を信じたりしないわ」
「それなら良いけど……」
「私は一本遅い電車で行くから。練習頑張ってね」
「ああ、勉強もせりに頼って悪いよなぁ。忍は一人でやってるのに」
「彼はそれでも首席だもの。私の助けなんて必要無いんだから、そこは玲人が悪いと思う必要無いわよ。私と助け合うのは昔からの協定でしょう。玲人の成績が落ちたら私も困っちゃう事分ってるでしょう?」
「そうやって俺の事も甘やかすのを見られてるから、奴らに誤解されるんだからな!」
「お互いの為に昔からして来た事で、甘やかしてなんて居ないわよ。私達ずっとそうして来たけど、玲人が私から距離を取りたいのなら今夜から辞めるけど」
「!悪い…今言った事は忘れてくれ…」
「どの辺りから?」
「意地の悪い事言わないでくれよ。せりもかなりいい性格してるの、見て居れば分りそうなものだけどな」
「今のが一番忘れなくちゃいけないと思うんだけど、早く行かないと遅れるわよ」
「ヤバイ!じゃあな」
玲人が走って、乗る予定の電車に間に合ったのが見えた。
※源氏物語の解釈は劇中の中の演出者による解釈とご理解願います。




