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橘の休み時間は殆ど人に囲まれていて本人が見えない状態に陥っていたが、他のクラスに見せないという観点からいえば少々気の毒だったが、何とか打開しようとはせりかも友人達も思わなかった。
彼の相手役との練習時間は昼休みに設けられていた為、それ以外の少しの休みは従者役や同僚、宮中に仕える女房役等との練習の時間になっていた。
普段ならせりかや本庄と談笑していた橘だったが、いかんせん時間が其処以外取れない状態で有った為、十分程度の休憩時間にも熱の入った演技をしているのが皆の隙間からせりかにも見れた。
「橘君って俳優とか目指してもいいわよね~。大学行ったら劇団とか考えても良いのにね」
「お嬢さん、それ橘本人に言えるの?今、多分疲労とか色々ピークだから、すっごく機嫌悪く成ると思うよ!」
「でも橘君はやるからには全力投球の人だし、才能も見た目だけじゃ無くて、ちゃんと勉強したらすごく有ると思うんだけど、本庄君は勿体無いって思わないの?」
「悪いけど思わない。これは文化祭の劇だから良いけど、自分から乗り気じゃない様な役者がプロの世界でやっていけるとは思えない。橘のあの頑張りはクラスの委員長としての責任感から来ている物であって演劇に心酔して演じている訳じゃ無いからね」
「相変わらずこっちがぐうの音も出ない位、身も蓋も無い言い様ね。返す言葉が無くなっちゃうわ…」
「椎名さんが、そう思うくらいに今回の役が奴に合っているのは確かだけどね。だって荒井さんは橘を想定して書いてるんだから当たり前なんだけど、思った以上に橘がなりきりなんで感心してしまうけど、きっと余裕が無いから余り何も考えずに役に入ってるんだと思うよ」
「無の境地の上での悟りって言いたいんだろうけど、毎回ああいう主役に抜擢されちゃうのも大変よね。ここのところ私とだって「葵の上」としてしか喋ってないのよ?」
「それは…普通だったら捨てられるレベルで酷い彼氏だね。こういう時ってお嬢さんでもやっぱり寂しいものな訳?」
「寂しいかって言われると毎日顔は一応見られるし、私の方も彼ほどじゃ無いけどかなり忙しいから寂しいと思う暇は無いけど、心配にはなってくるわね。体が持つのかなって思うもの」
「それは橘って見かけが中性的でそうは見えにくいけど、ずっと部活してるし、元々は地元のサッカーチームにも入ってたらしいから基本的に体力の心配は要らないんじゃ無いの?」
「それでも余計な事を考えられない位に悟りを開いちゃってる訳でしょう。体力がギリでセーフだとしても精神的には結構キテるって事よね?」
「うーん…それは多分そうなんだろうけど、今の状況は打開出来る余地が全然無いから頑張って貰うしかないんじゃないかなぁ。だって橘に余裕が出来たところで劇の練習がもう少し出来るか、生徒会の手伝いが乗っかって来るだけだからね。それが十分に出来れば今よりも精神的には楽には成る可能性は大きいけど、それってサッカーの試合に負けたら出来る余裕でしょう?橘も其処は一番力入れて好きでやってるトコロだろうから、幾ら大変でも、今の状態が周りに全面的に協力して貰っても、仕方が無いって割り切ってるんじゃないの?主役引き受けたのだって委員長なのに何も出来そうに無いから、最大限自分を活かす使い方してるし、出来ない所は周りからやって来てくれる様に仕向けた所も有るんだから、キツイ所は勿論あると思うけどこれ以上無いくらい上手いやり方してると思うよ」
「あの人の責任感と周りを動かす能力って案外共存してる様でしてない様に思うのよね……」
「どういう意味?」
「周りにどう思われても主役なんて引き受けなければ良いのに、こんな大変な事に成るって去年の事を思えば分かってたと思うの」
「それは橘も今の時点で椎名さんと付き合ってなければ、これ程周りに気を使わなかったと思うけど…」
「私と付き合ってるから周りに悪く思われたく無いって事??かぐや姫にならない様に庇ってくれたんじゃ無くて?」
「それは、俺の憶測だけどお嬢さんが、かぐや姫をやらなくちゃ成らなくなるというのは橘の今の状態を慮っての事でしょう?それはやっぱり男のプライドが有るからそれはさせたく無いんじゃないかな?それにお嬢さんも目立つ事あまり好きな方じゃ無いし、無理に自分の為にやってくれそうになったのを見たら、どうにかして自分でやった方が良いって結論になったと思うし、橘自身、自分の価値を把握してるから橘が主役なら宣伝の必要も無い位だしね。お嬢さんじゃ駄目って意味じゃ無いけど、奴のような飛び抜けた知名度もないでしょう?」
「私じゃ主役には弱いのは判ってるから気を使わなくても良いのよ。でも、玲人とかもいるから何とかは成るじゃ無い?橘君にしても違う役で出るんならお客さん集めに成りそうだし」
「橘に脇役は無理だよ。想像してみて?他の奴がセリフを言ったって見ている観客の全ての視線は、どうやったって奴の所に行っちゃうよ」
「そうだよね~…最近慣れって怖ろしいけど見慣れて来て目がパチパチしなくなったけど、こうして離れて遠くから見ると彼の所にだけスポットライトが当たって見えるような人だもんね。主役オーラ満載で他の人は霞んじゃう…」
「それは、奴も荒井さんも解ってるから、脇役で出れないって結論に頭の中では成ってたと思う。それにどうしたって今迄橘だって何の嫉妬の目も無く過ごして来ては居ないだろうからね。あれだけ見た目が飛び抜けて良い上に学年首席だよ?!その上強豪サッカー部でレギュラーと来たら少しでも反感買う様な事したら、どうしたって良い気になってるとか言い出す輩が出て来るに決まってるよ」
「このクラスに限っては大丈夫じゃ無いの?元五の子達も多いから橘君を悪く思う人なんて居ないんじゃないかな」
「お嬢さんって人の事羨んだり妬んだりしない人だよね」
「…………本庄君には言った事有ったと思うけど、真綾さんをずっと羨んでいたし、嫉みの感情も皆無ではなかったから、そうやって良い子だと本庄君に決め付けられた言い方されると正直キツイのは理解してくれるかな?私は今だって他の子の事を全然悪く思わないような、そんな人間じゃないわ!!」
「ゴメンね…でも椎名さんは自分が思うよりも良い子だと言うと嫌がられるから言い方変えるけど人を嫉む要素が少ない人だから、あまりそういう感情を持つ機会が今迄少なかったとは思う。だから一般的に僻む気持ちを本質的には理解出来て無いと思うよ」
「橘君の事を話してたのに、話が私の所為で逸れちゃったわね。だけど本庄君にしても橘君にしても私の事を多分どこか誤解してるんじゃないかって思うのよね。漠然とずっと感じてた事だったけど、今の私は人を羨んだり妬んだりしないって本庄君に言われて、靄が晴れた気がする。分かったわ。何が間違っていたのか…」
せりかはじっと本庄を見つめた。何気なく話していた話しから、本庄と橘から感じていた違和感を突きとめてしまった様だった。彼等はせりかから負の感情を排除して見ているのだ。どうしてそんな残酷な事が出来るのだろうと思うが、考えれば考える程そういう風に見える様に無意識に仕向けたのかもしれない自分にも嫌気が差した。
本庄の前から何も言わずに席に戻ってから、授業が始まる前に、「気分が悪くなってしまったから」と美久にだけ言って教室を出た。
高校に入ってから初めて授業をサボってしまった。しかし今は自堕落な自分でいる事がせりかの心に安寧をもたらした。本庄はせりかと付き合っているから橘は周りとの調和をより重んじて、その為に努力をしているのだと聞かされたが、それが事実だったら(多分事実だろうが)橘の横に居る為に、相当の努力を要しているのはせりかの方だ。彼の隣に立つ女性が普通で許されないという事は始めから分っていた。だからこそ、成績も落とさない様にしたし、クラスの纏め役も引き受けた。容姿は変わらなくとも出来るだけ美しく見える姿勢や動作、表情を作った。彼と付き合うという事はこういう事だという覚悟は一年生の頃からあったし、付き合って居ない友人関係の頃でさえ隣を歩く彼の存在は、そういう努力をさせる理由には充分になった。それが、より強迫観念をいだかせる位のものになったのは、やはり付き合い始めてからだった。
クラスの皆は橘との付き合い始めの冗談の様な玲人の押し付けや、橘が、せりかを無理矢理頷かせた事を知っている。彼が見かけの様な爽やかな性格という訳でも無い事も分っている為、彼女であるせりかを羨む半分若干の同情も入る。何にしても橘側から酷く好かれ、望まれて付き合う事になったと思われているので、あまりせりかの非には無頓着だといっても良い。
しかし、学年全体、学校全体で彼を見た時に、その彼女の存在は、ある程度は特別で無ければ成らない。橘に言えば誰が決めたと言われそうだが、誰かといえば『みんな』であり別の言い方があるなら『彼自身』だろう。
そうして『良い子』であるせりかに幻想を橘は抱いているのだろう。あの、人の本質を見る事に長けた本庄でさえ、せりかは人を嫉む事などしないと思っているのだから、自分はどれ程、橘の『源氏の君』よりも女優なのだろうかとせりかは思う。演じている事に気付いているのは自分だけなのか、本庄のいう自分が本当の自分なのか境界線が怪しくなって来ていた。彼が思うような自分に成りたいと思って居たが、彼等にそう思われる事については苦痛だ。矛盾している様に思うが、心底そう思う。そう思われたい人達は彼等と自分を取り巻く多くの人達にとってそうありたいだけで、彼等にとってそう有りたい訳では無い。自分でも勝手だと思うが、付き合う相手や、親しい友人に過大評価を受けるのは、精神的にきつかった。ましてどの位からかそう思われていたのかは分っては居なくともせりかの中で僅かな違和感は感じていた。
涙が出るのを堪えて居たが、ハンカチで拭っても溢れてきて、完全に涙腺が崩壊していた。こんなに泣いたのは何時振りだろう。しかし、こんなに絶望的な気持ちになったのは何時だったかは、はっきり覚えていた。一年前、玲人に絶縁宣言された時だ。信じていた人に裏切られたと感じた感覚は今も同じだった。橘や本庄が裏切った訳では無い。むしろせりかが彼等を裏切ったのだろうと思う。彼等の期待に添える自分は存在しない。あと一年と少し偽りの自分を続ければきっと問題無い筈だろう。彼等の綺麗な誤解など、せりかのあずかり知らぬ事だ。しかし、橘との付き合いを続けるのは流石に無理がある。学校で少しの時間接する訳では無い。この不本意な気持ちを相手にぶつけずに居られなくなる時が来るかもしれないし、橘がせりかの為に何かしらの努力をしてくれているのが分れば、止めたくなるに違いない。そういう不自然な行動を見逃す程、橘は鈍くは無い。そうしたら問い詰められるのは目に見えている。もしも問い詰められたら相手を詰って憎んでしまいそうだった。『貴方達の求める私でいてあげたかったのに』と。
目立たない様に屋上で泣いてしまっていたが、人が来た気配がした。一瞬身構えるが、しかし、それは、せりかが今、一番待っていた人物だったので力が抜けて座り込んだ。
「玲人までサボったら駄目じゃ無い…」
泣き腫らした顔で注意してもなんの威力も無い。それに一番の素の自分でいられる玲人の前では、何ら気取る必要も無い気楽さに、今迄随分無理をしてしまったものだと思った。
玲人はせりかの肩に手を置いたが、また涙を流し始めたせりかを抱き締めたりはしなかった。そういう玲人との距離は心地の良いもので背中をさする玲人に気が済むまで泣いた後「橘君とは別れる」と告げた。
「分かった。だけど今は…」
「今直ぐには言わない。判ってる。試合と文化祭が終わってからにするから」
「俺から言おうか?」
「ううん。それじゃ彼が納得しないし、あまりに不誠実だと思うから」
「本庄が心配してたけど、どうする?」
「そうね。今の状態じゃ、まるで本庄君と喧嘩でもしてしまったみたいだしね。でも本庄君なら何故私が此処でこうして居るのか、多分もう分ってしまっているから流石に直ぐに顔合わせられないし、取り繕う気力も無いから、今日はもう帰るわ。定期は持ってるから鞄持って帰って貰っても良い?」
「分かった。担任にも言っとく」
「有難う。じゃあもう行くわ」
「せり………」
玲人は何と言葉をかけて良いか分らないが名前を呼んだ。
せりかにはそれが分ったので、「玲人がいてくれて良かった。いてくれるだけで良いの」と言うと玲人は無力さに拳を握ったが、その手をとって「本当に本当だから!」とせりかが微笑むと、ほんの少しだけ堅い表情を緩めた。
せりかの勝手で関係のない橘に何故?と思われる方もおられるとは思いますが、彼女なりに押し込めて沈めていた思いが爆発してしまったとご理解頂けると幸いです。




