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源氏物語については、作中の劇での解釈です。
生徒会とクラスの演劇と二つの仕事を掛け持ちしながらなんとか仕上がった文化祭の初日を迎える事が出来て、せりかはまだ劇も終わっていないのに安堵の溜息を吐いた。
伊藤が加わってから大分楽にはなったが、橘と涼の不在は来年の事を思うと頭が痛かった。涼には悪いが、他のせりか達を手伝ってくれる下級生メンバーはサッカー部以外の人選で、文化部も手芸部の様に力が入っているところは出来れば、避けなければと思ってしまった。
舞台は13時からと一番集客のいい時間を取って貰えた。依怙贔屓だといわれても構わない。朝一番や帰りに近い時間等では、三年生以外のクラスは準備や片づけに忙しいのでその時間が一番ベストだったのだ。一般公開しない以上、時間はせめて良い時間帯を頑張る皆の為に取ってあげたかった。
案の定『橘の光源氏』は注目度が高く、宣伝の必要が無い位、今日迄にも噂になっていたが、一応ポスター張りや宣伝の為、ビラを持って各クラスに声を掛けて回った。
一時からの当番が押し付け合いになって揉めたクラスも出たと聞いて、せりかは苦笑してしまった。
どうやら玲人の頭の中将も話題になっている様で、去年同様、イケメン様様である。橘や玲人のファンでは無くとも、源氏物語という題材は、それだけでも気を引く要素を多分に含んでいる為、男子も女子に当番の交替を譲らないらしく、その時間、模擬店を閉めようかという相談をしているクラスも出て来て、申請を出された生徒会は困惑したが、流石に却下した。
舞台は帝に源氏の君と頭の中将が呼ばれて拝謁する所から始まる。美しい内裏に着飾った女官たち、気品溢れる帝が扇子で指示を出すだけで、溢れかえった観客の目は帝である本庄に向き、彼が、その場の空気を平安時代に誘う。
そこに普段の橘からは考えられないほど、美しく艶やかで色香を全身から振りまく、光る君が現れると、周囲は一斉にざわついた。
内裏の皆も、見慣れたクラスメイトの変わり様に、他よりも驚愕の表情を見せるが、荒井と北川はこの事が分っていたのか『光る君の登場で、皆がざわめく』と台本に記されていた。それ程に橘の源氏の君は、衝撃的な色香の漂うまるで本物の光源氏のようだった。軽やかに舞う様に歩く源氏の君は、たいそう上品で、衣裳の重さを感じさせない優雅さで帝の元へ行く。頭の中将役の玲人も後に続くが、皆の視線は眩い源氏の君に向く。彼が歩いて行くだけでキラキラと粉を散らして行く様だったが、そこは照明も登場のシーンなので念入りに彼にライトを当てている効果でもあった。
美しい姿の上に、綺麗な声で帝に気安い様子でころころと笑う橘は、光源氏が乗り移ったのでは無いかと思う程、いつもの彼の表情や、喋り方とは違い、無邪気な婀娜っぽさも有り、内裏の女官に流し眼をくれる。女官役の子が真っ赤になって俯くが、これも『台本通り』である。全く荒井達には頭が下がる。
そして帝の前で踊りを所望されるが、源氏の君が、蹴鞠をお見せしたいと提案し、帝に対しては有り得ない傍若無人さを見せるが、帝のお気に入りの彼の言う事は難なく受け入れられて、蹴鞠を披露する事になる。玲人と橘がいるからこその無茶振りな設定だが、ここは登場からの第一の見せ場の場面になる。サッカーボールを和風の毬に仕立て、二人で蹴り合うのだが、近くから遠くへと段々距離を伸ばしながら、最後は端と端で高く蹴りあげる毬を後ろ向きで蹴り返したり、一端足で止めてから天井近くまで高く上げたりと、アクロバティックな技を繰り広げる。
観客のサッカー部の先輩達から、ピューピューと囃したてられるが、二人の見事な『蹴鞠』は帝から称賛される。
同僚達からも羨望の眼差しを浴びるが、二人は、当然の様に自信に溢れ、今日は何処の姫君の元へ行くのかと、女性の事で競い始める。
「六条の方は大変お美しいが、誰にも靡かないと聞いたが…」
「では、私が口説き落としてみせようか」と源氏の君が言い出すが、周囲は「誰が行っても無駄だと思いますよ」と諭すのだが、半ばむきになって、美しく教養高い貴人である六条の御息所の元に通うが、中々うまく行かないが、段々と御息所が絆されて、身を委ねる迄に成ると、源氏の君は、この恋愛ゲームに飽きてしまう。
「年上の気の張る方よりも、気が軽く可愛らしい方が良いな」と言い始め、すっかり向こうが本気に成ってしまった六条には、足が遠のいてしまい違う花を渡り歩く。
美しく雅やかな源氏の君に靡かない女性など皆無で、色々な美姫と逢瀬をかさねる。ここからが第二の見せ場で十五歳以下が居ないという絶対的な自信もあるので、かなり見た目には際どい濡れ場のシーンになる。源氏の君に掻き抱かれ、衣裳も乱れても大丈夫なギリギリまで乱れる。観客が気まずくなる位、艶めかしい。しかし、衣裳は縫い付けてあるのでそれ以上は絶対に乱れない。しかも練習通り、橘は支えもしないのだから、女性の演技力と筋力に頼った結果だが、予想以上に色っぽい場面となり、皆が固唾を吞んだ。真剣に15歳未満禁止なお話に成ってしまって、いくらこのシーンの為に一般に公開しない日を上演日に選んだといっても大分やり過ぎな感はあった。『一切接触しませんが源氏物語に出てくる男女関係を匂わせる場面があります』とポスターやチラシ、入口の看板には書いたが、出来が予想を上回る濡れ場シーンは後からおしかりを受けそうである。
観客は最初の方こそ、そわそわ、ざわついたが、物語に入り込むと源氏の君が女たらしなのは当たり前だしと、段々落ち着いて見入る様になっていった。なんといっても嫌らしい雰囲気はゼロではないのだが、美しい姫に、中性的な美しさを放つ源氏の君の計算された、艶やかさと美しさが目を引いた。
そうして艶めいたシーンから、右大臣家の姫との結婚のお話になる。いよいよせりかの出番だった。玲人演じる頭の中将の妹役な為、玲人に「お兄様からこんな縁談お断りする様、お父様に仰って下さい。私は東宮様に嫁ぐつもりで、そう言われて今迄居りましたものを、元皇子とはいえ、臣下に下った方など嫌でございます」というと、玲人は大袈裟に困った顔を見せた。まあ舞台仕様なのだろうが、短期間で玲人も本当に頑張ったと思う。橘の様に始めから、真剣に取り組んで居れば良かったのかもしれないが、あちらは、出来過ぎな人で、玲人だって怠けて居た訳では無い。サッカーと勉強でもう一杯一杯だったのだ。比べるのが酷というものだろうと思う。
玲人は宥めるが、葵の上は納得出来ない。しかし貴族社会で決まった話をひっくり返すのは、かなりリスキーだし、右大臣は勿論娘の我儘など応じない。
「かの光る君殿を見れば、姫の気も簡単に変わろう。それに源氏の君を他家に取られる訳には行かぬ」
玲人も政治判断から「そうですね」と父の言葉に頷く。頭の中将もあの美しい源氏の君に会いさえすれば、葵も他の女人同様、魅入られると思っていたのだ。
しかし、事は思った通りに行かない。源氏の君の方が年が下の所為もあり、高飛車な姫に気を使い、疲れてしまった様なのだ。葵も美しく、東宮妃にと思い教育して来たのだから、教養面等は、他の姫と引けを取らない筈なのだが、二人は中々、うまく行かない。
そうしている内に、彼の方は他の女人に通う様になってしまう。元々が、母親を直ぐに亡くし、父が帝だった為、甘えられる相手が居なかった源氏の君は寂しがり屋なのだ。頭の中将はそこの所を分かっているが、葵の上は源氏の君の不貞が許せない。源氏の君も右大臣に気兼ねして、渋々葵の上の元に通うのだが、冷たくあしらわれて、心がどんどん離れて行く。
そこに振って湧いた様に葵の上が懐妊した事が分り、夫婦はその事を機に、心通わせる様になる。葵の上も体を気遣う優しい彼に、心を許す様になる。そこからは睦まじい夫婦に成って行って周りも一安心するのだが、嫉妬に狂った六条の御息所が生き霊と成って葵の上を呪い殺してしまう。美久が白い着物に蝋燭の立った輪を頭に乗せて、せりかに圧し掛かりホラーさながらの名演技でオドロオドロしいヒューと風の効果音とスモッグを焚いてまるで本当に呪われてしまっている様だとせりかも思う程、演出効果抜群の第三の見せ場だった。
源氏の君は残された息子と共に深い悲しみに暮れる。息子は男手で育てられないだろうと右大臣家に当座、引き取られてしまい、また源氏の君は孤独になってしまう。
気分を変える為に訪れた寺で、恋焦がれた義理の母、藤壺の上と、面差しのよく似た少女を見かけ、衝動的に連れ帰ってしまう。
少女はやはり藤壺と血縁関係にある、貴族の妾腹の娘だった。父親に捨ておかれ、祖母の元で暮らして居たので、祖母を言い包めて、自分の家で暮らす事にさせる。藤壺の上の様な淑女にを育て上げようと『紫の君』と名付けた。色々な教育を施すが、予想以上に飲み込みの良い紫の君に、源氏の君も喜び、悲しみから癒されて行く。兄弟の様な暮らしが何年も続き、紫の上も源氏の君を兄とも父とも思う様に成って行く。この数年が紫の君にとって人生で一番幸せであっただろうと思う程、愛くるしい笑みを浮かべ、源氏の君にまとわりつく。「おにいさま!今日は手習いを致しましたの」と真綾が可愛らしく見せると、源氏の君は「書は人と為りを表すものだから、美しい文字を書ける様にならないといけないよ」と紫の君に自分の理想を押し付ける。しかし真綾は嬉しそうに「では、もっと、もっと頑張らなければ、なりませんわね」と微笑む。それに満足した様に源氏の君も頷き、真綾の頭を撫でる。
幸せな時間が終わりを告げるのは、それから直ぐの事になる。源氏の君に花を散らされた紫の君は、大きなショックを受けるが、感情の起伏を表に出さない様に、しつけられてしまった為、源氏の君に本当の気持ちを言えないまま夫婦となる。夫婦と成ってからも他の姫君の元に通う夫に、不満など持たないのが淑女の鑑であるので、文句など以っての他であり、自分の元に来てくれたのを嬉しく感じるという風に気持ちを押さえ込んで生きて行く。全ては源氏の君に嫌われない為だった。そうして居れば、彼は自分の所に帰って来てくれる。理想通りの美しく淑やかで賢明な女性に仕上った紫の君を紫の上と呼ぶ様になり、源氏の君も左大臣となり、頭の中将は右大臣となる。左大臣である源氏の君の一番寵愛を受ける女人として敬われるが、彼との間に子も出来なく、源氏の君も紫の上をこの上なく大事にはしてくれるのに、正妻にしようとはしない。
それは、表には決して出せないが、紫の君にとって、とても悲しい事であった。
そうして紫の上に満足して居た筈の、源氏の君は、あるハプニングから、藤壺の上と過ちを犯してしまう。やはり恋心がくすぶって居たのだ。その一夜だけの過ちで子を授かってしまい、罪悪感から藤壺の上は二度と源氏の君に会ってくれなくなってしまう。実の母にそっくりだと言われていた藤壺との子は、皮肉にも源氏の君の生まれた頃によく似ていたが、それを不思議に思う者は無く、父帝にも言えないまま、後の朱雀帝が育つのを見守るが、父帝は早々と出家して源氏の君の兄上に位を譲り遠く静かな所で暮らす事になり、藤壺の上も出家して付いて行く事になり、本当に今生の別れになってしまう。悲しみに打ちひしがれる源氏の君を紫の上は救う事が出来ない。結局、藤壺の上の身代わりを捜し求める旅をまた始めてしまい、紫の上はまた深く傷付いて行く。
兄帝の女御になる予定の女性と恋に落ち、関係を持ってしまった事から、今の地位から降ろされ、遠方に流されてしまう。鄙びた地へ貴女を連れてはいけないと源氏の君は涙を流し、紫の上と離れて暮らす事になるが、許されて戻って来た時には、その土地の有力者の娘と小さな姫を連れ帰った。子の居ない紫の上はまたも絶望させられるが、明石の上と呼ばれる連れ帰られた女人は、とても鄙びた土地の出とは思えない程、教養高く、慎み深く、そして思慮の深い方でもあった。身分の低い自分が母であるよりも、紫の上の娘として育てて頂きたいと申し出たのだ。
明石の上に申し訳無いと思いながらも、娘の成長を見て行くのは、本当に幸せで彼女に感謝してもしきれない位であるのに、周りの者達は「紫の上様は何て御心が広いんでしょう!」と為さぬ仲の娘を育てる紫の上を誉めそやす。「殿方の不実を嘆かないのも、紫の上様なればこそ」と言われれば、そうしないと駄目な女性だと、源氏の君にから思われてしまうから、自然とそうなってしまったのだが、否定のしようも無い。
美しく優しく育った娘は、時の東宮妃に決まり、入内する事になる。そこで紫の上は今迄の感謝も込めて、明石の上に娘を返す決意をする。姫に自分は産みの母では無い事を打ち明け、本当の母が内裏に付き添い傍に居てくれたら姫も心強いだろうという配慮もあった。後に中宮に迄昇りつめる姫は、帝の寵愛も厚く、宮中一、時めいた立場に成れた裏には、他の女御様達と競い合いも激しく、明石の上の尽力と支えが大きかった事だろう。
もう思い残す事の無い紫の上は、源氏の君とゆったりと暮らし、中宮様が宿下がりで来てくれるのを楽しみにしながらの穏やかな生活が訪れた。そう思っていた矢先に事件はまた起きる。
源氏の君が正妻を娶る事になったのだ。兄院の頼みで断れないと彼は言うが、準天皇の位まで昇りつめた彼が、断れない話し等無い。まして妻になる娘は娘よりもずっと幼い。藤壺の女御の血縁者だと知って欲しくなったのだと直ぐに分かった。それに自分には無い高貴な血が、降嫁される姫宮には流れているのだ。彼は母上の更衣様の身分が低かった為、臣籍に落とされた。心のどこかで高貴な血筋を求めているのだろうとは、紫の上を正妻にしようとしない源氏の君に感じては居た。それは、彼の生まれを考えれば責められるものでは無い。藤壺様の面影と高貴な姫宮の両方を手に出来るのだから、その降嫁の話を受けたのは道理だろうと思う。
彼の事以外、もう思い残す事が無くなっていた紫の上は、姫宮を迎い入れる準備を滞りなく終えると、仏門の道へ入る決心をした。
おめでたい席では、言い出せない為、姫宮をお迎えしてから、しばらく経ってから言い出した。
源氏の君に許しを得られず、苦しむ日々が続いて、紫の上は、病で寝付いてしまっても源氏の君は最後まで、紫の上を俗世に留めようとして、そうしてそれは、最期の時まで許されずに、紫の上は天へと旅立つ事になってしまう。源氏の君は嘆き苦しむが、紫の上は最後まで、従順な身代わりだったのだと思うと悲しい終わりだった。そうして悲劇のまま幕が下りた。




