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「橘と別れたい」というせりかの考えは、多分話しても美久や弘美達にさえ理解は難しいだろう。多分解ってくれるのは玲人と…当人である橘だけだろう。不思議と橘はせりかが別れたいと言ったら、何も言わなくても、全て理解して直ぐに別れてくれる確信があった。
それは橘にとっては美点でも、付き合う相手にとってマイナスである方に働いてしまうプレッシャーを橘は良く理解して気遣ってくれていた。
クラスでせりかが、橘に相応しく無いと嫉みを受け無い程度には、橘は程良く腹黒い一面をわざと見せていたし、付き合う時も周りが楽しめる程度には、せりかを困らせる強引な玲人の友達をアピールしてどうして付き合う事になったのか誰も聞かない位に、進捗状況が分る面白い見せ物の様に周りを楽しませた。
こうしてクラスでの橘の彼女という位置の価値を高い物にしないでくれた彼の気遣いは十分にせりかにも伝わった。そんな誘導を容易くする事が出来る彼は、友人時代からの憧れでもあり、好意を深めるのには充分な存在だった。元々、せりかは、美しい彼に入学式から淡い恋心を抱いていた。しかし、同じ日に、その淡い恋心を抱いた女子がどれ程居たかについては、恋愛事に疎かったせりかにも容易に判る程、皆が橘に見惚れていた。
それが深い恋愛感情になって、告白してきた他クラスの女子も沢山いたが、橘自身のトラウマによる女性不信の所為で全て取り付く島も無い程あっさり断られていたが、彼に告白してきた女の子は皆、例外なく綺麗で可愛い子ばかりだった。過去の事が無ければ、橘だって無碍に断ったりはしなかったかもしれないとせりかは考えている。橘が一年前にせりかを好きだと言って来たのは、それこそ親友の玲人の幼馴染だという安心感から、せりかに対しても心を開いて行った結果からだと思う。それでもあの時、彼は自分に簡単に靡かなかった事に僅かに安堵して親友というお互いに心地の良い距離感を保った。器の大きな人だという事を差し引いても、振られた人間と更に友人としての距離を詰める奇特な人は、そうは居ないとせりかは思った。
二年生になってもその距離感は、更に近づく事になったが、玲人に頼まれて引き受けてくれたのは、クラスが変わった所為で少し悪化してしまった女性不信の克服に丁度良いのと、せりかに対する好意から彼の思いやりもあって、玲人の堅い守りによって大分ずれているせりかの「付き合う」認識を改めさせてくれようとしたのは、付き合い始めてからの彼の言動を思い出せば、この事は確実にそうだろうという他が無い程、せりかへの教育に彼が心を砕いてくれて居たのを思い出す。「いつ別れても良い様に」という趣旨の事を何度も言われた。しかも別れても親友なのは変わらないという彼をせりかは、段々と愛おしく思う様になっていった。
彼に相応しく有りたいと願うのは決して不自然な事ではない。それが段々とせりかを追い詰める様になっていったとしても、願う事を辞める事は難しい。彼が望んだ訳でも無いので彼に非は無いのは明白だが、周りの目を意識しながら良い子であろうとするせりかは多分もう疲れて来ていた。本来の自分でも良いんじゃないかと思う程、自信家には到底なれっこ無い。そこに本庄の言葉を聞いたせりかは心の中でプツリと最後の糸が切れた音が聞こえた気がした。中学の時の玲人の傍にいた時の謂われの無い言いがかりには面倒だと思っても受け入れられたのに、橘の彼女でいるプレッシャーと、彼の良い子であろうとするせりかへの美しい誤解を苦痛だと感じてしまうのは、橘に対して薄情だとせりかも思う。しかしそれ自体がもう別れる理由だとも思うのだ。玲人と同じだけの気持ちを彼に向けられないせりか自身の気持ちは、きっとその程度でしか無かったのかと唖然とした。彼の事は勿論好きだった。身体を重ねる初めての相手が彼で良かったと今でも思う程には愛していると思う。しかし彼の事よりも、自分の気持ちを優先してしまうのは、自分の方が可愛いという事だろう。今迄恋愛感情ではなくとも玲人を優先出来た自分は橘に申し訳ない気持ちになった。
こんなせりかでも橘からは見限らないだろうと思うと、せりかから別れを切り出すしか無いという考えがせりかの心の中を占めた。自分に対して思いやり深く配慮に溢れた彼に応えられない自分を軽蔑されるのは正直怖い。しかし偽りの自分でいて相手に好かれたとしても、それは紫の上のようにやはり辛いものだとせりかは思うのだ。あんなに美しく素晴らしい彼がこれから先、藤壺と出会えない筈は無い。それは自分の罪悪感を薄めようとする考えなのは充分承知しているが、本当にそうだと思っている。勝手だが、紫の上の様に解放して欲しいと願ってしまう自分は、自分の中では自分可愛さの人で無しになってしまっても仕方が無いと思っている。
玲人は、せりかと橘に対して罪悪感を抱いていた。それは無理矢理付き合わせた事だと皆には思われそうだが、それ自体は玲人の願う近い結果が出て来ていたので、付き合い自体は良かったと思う。勿論ずっと続いて欲しかったが、せりかに男女の機微を教えるという難しい難題を橘は楽々クリアしてくれたし(色々とやり過ぎなところもあって言いたい事は多々あるが)橘の有る種の女性に対する偏見を取り除いて貰うには、せりかとせりかの周りの女子は丁度良い人材で、せりかと付き合ううちに周りとも自然と交流が出来、他のクラスメイトの女の子達も「せりかの彼氏」という知り合いの恋人に対する距離で接して来てくれる様になった為、随分と避けていた最初に比べるとマシになって来たと思う。橘の中で女性に対する苦手意識は薄くなって来ているのが、一緒にいるとよく分かった。玲人がせりかに申し訳無いと思うのは、せりかが色々な事に頑張り過ぎる元々の原因は自分にあったからだった。御近所付き合いを円滑にする為に、せりかは一人で玲人の分も頑張って来てくれた。玲人も頑張らなかった訳では無いが、細かい事に気が付くせりかの物心ついてからの頑張りには遠く及ばないだろうし、せりかに甘えてしまって来ていた。目一杯頑張っている人間がそれ以上頑張らないとならない状況になったのが今回の遠因であり元凶であり自分の様に思うのだ。もう少し綱に緩みがあったら、せりかも頑張る事を苦痛に感じる事には、きっと成らなかっただろう。橘には、せりかの事で悪いとは思って居ない。橘はせりかが好きだったし、彼にはせりかを振り向かせる力があった。結局両刃のものとなってしまったが、付き合う様になってせりかが橘を好きに成らせる事が出来ると彼と長く一緒にいた玲人は考えて、付き合いを勧めた。強要はしていないし、彼はそのチャンスをうまく掴んだ。本庄の気持ちを知っても付き合いを続けたのだから、最終的に橘が選んだ事になる。途中、まさか本庄がせりかを好きだと言い出して橘に何と言っていいのかと悩んだ時期もあったが、聡明な彼は、何もかもを玲人が告白する前から承知していたのだ。だから、それ以降は玲人には責任の持ちようは無いと思っていた。結局は二人の問題になるだろう。
橘に悪いと思うのはむしろサッカー部の事だった。玲人達の代の部員は、当たり前のように彼に頼り、チームを纏めて下級生を育てていくのも、橘に付いて行けば間違い無いと思っていた節があった。それ程に彼は頼りになったし、周りを黙らせる実力も兼ね備えていて、伊藤と同じ事を橘が引き継いでくれると勝手に思っていたのだ。だから退部の話をされた時には、うろたえてしまったのだが、彼が早めに抜けた方が良いと思ったのは、玲人達に問題があった所為では無いかと思ってしまうのだ。橘に頼ったチームが来年受験の為に早く彼が抜けて、抜け殻みたいな状態で戦う事になったとしたら、悲惨な状態で玲人達が最後、悲しい気持ちで三年間の苦労が報われずに引退となるのを危惧したのだとしたら、と思うのを考え過ぎだとは思えないのだ。橘はそこまで考えの及ぶ人間なのだから。自分達の不甲斐無さが、彼を早めに引退に追い込んだのだと考えると本当に申し訳無くなった。彼が続けても希望大学に入れると思う位迄、大事なものを諦めて欲しく無い。いつ抜けてもフォロー出来るから大丈夫だから、続けたいだけ続けて欲しいと言えるだけの統率力と実力を玲人達は持たなければならない。意識改革と一言で言っても難しい。橘がいなくなって初めて皆も自分の役割に気が付くのかもしれないとも思う。橘も多分そう考えているのだろうと思うと今迄暢気でいられた自分に玲人は腹が立った。




