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伊藤達は翌日の朝練から姿を現さなくなり、サッカー部の生徒達は昨日以上に大きな衝撃を受けた。
橘は伊藤の後釜である司令塔の役割を振られたが、皆が驚くほど強硬に拒否をした。結局無理矢理押し付けられる性質のものでもないし、いつに無い橘の反抗は説得の余地が無いと判断され、副部長がそのポジションに収まり、彼のポジションを控えの二年生が引き受ける事になった。緑川と成田のポジションにも新たな生徒がつく事に決まった。
皆が慣れないながらも新しいチームで決勝を勝つ事に集中して、研究して作られた仮想相手チームを相手に練習に励んだ。
「忍っ!ショックなのは分るけど、みんなだって動揺してるんだ。断るにしても、もう少し空気読んで言えよ!」
練習を終えて教室に向かう途中玲人がダメ出しをすると橘は「悪かったとは思っているけど、柔らかく断っても、あの殺伐とした空気の中で断りきれないと思ったから」と激昂してああいう態度に出た訳では無く、断る為には仕方が無かったと言う。確かに今はあの時の強硬な態度が嘘の様にいつもの橘だった。
「何で断ったんだよ?あのポジションは元々次はお前だってみんな思ってた。まさか副部長が引退した後も断るつもりなのか?!」
「ああ。断る。それから俺も今度の大会が終わったら退部しようかと思ってるから重要な役割は引き受けない方が良いと思った」
「退部?!何でそんな急にぶっ飛んだ事言い出すんだよ!」
「伊藤先輩や緑川先輩や成田先輩達の結論は正しいと思う。俺の行こうとしている大学はこの高校の推薦枠に無い。もうはっきりと受験する意志が決まっているんだったら早く抜けた方がチームの為だし、自分の為にもなるって先輩達の身の処し方を見て思った。続けられるまで続けたいっていうのは、最後まで一緒に走れないのが無理なのが分ってるのには我儘だ」
「三年生になったら皆で更に良いチームにしてやろうって言ってたじゃないか!」
「俺も甘かった。多分伊藤先輩もそう思ってる。退部時期はもう少し考慮の余地は有るけど、俺は今回の大会でレギュラーは外れるつもりで司令塔は断った」
「そんな勝手に……」
「教室であまり大きな声を出さないでくれ。まだ大会は終わってないんだから」
いつの間にか教室に着いていた二人の珍しく言い争う様子はかなり注目を浴びていた。橘は静かに席に着くと、玲人も何事も無かったかの様に自分の席に向かった。玲人は周りに「サッカーのプレーの事で熱く成り過ぎて、喧嘩とかじゃ全然無いから」とヘらっと笑うと周りも「今サッカー部佳境だもんね。頑張ってね」と声が掛かり橘もそれには微笑んで「ありがとう」と答えた。
「どうしたの?玲人と橘君が喧嘩なんて、何があったの?」
授業が終わり休憩時間に文化祭の練習で囲まれる橘を横目にせりかが玲人を問い詰めた。
「言っとくけどみんな騙されてくれただけだからね!あれが喧嘩じゃ無かったなんて、このクラスの人が信じたとでも思ってるの?みんなが目が丸く成るほど激しい言い合いだったのよ」
「ここじゃ話せない。帰ってから話すけど、部活がらみの事だから、せりには直接的には関係無い」
「分かった。聞いてもあまり役に立てそうに無い事は確かね」
「関係なくも無いか…。忍の事だもんな」
「事情は把握して置いた方が良いわよね。私も昼休みは生徒会の仕事があるから帰ったら聞くわ」
昼休み本庄と沙耶と生徒会室に行くと珍しく伊藤が顔を出していた。昼休みは練習が有る訳でも無く三年生はクラスの分担も無い為、皆無では無かったのだがそれでも稀な事だった。
「今迄まかせっきりで申し訳無かったけど、サッカー部の方引退したから、これからは文化祭迄バリバリやるから宜しく」
「次回決勝なのに引退ですか?!」本庄が即座に反応すると伊藤も苦笑しながら「みんなに言われるんだよなぁ」とぼやいた。
「今日玲人と橘君が揉めてたのもその所為かしら?」
せりかが呟くと沙耶も「そうね」と頷く。
「あの二人が揉めるって…玲人が橘怒らせてたの?」
「いえ。どちらかというと玲人が怒ってましたけど」
「うーん。無関係じゃ無いかもしれないけど、顧問に引退勧告をされちゃったから、どうせなら決勝戦前に退こうって仲間が言い出してさっ。俺は続けたい気持ちもあったけどチームの為には決勝は俺達なしで突破した方がもしも全国に行けた時に都合が良いんだよ」
「そういう事ですか……皆さん仲間思いなんですね」
本庄が納得顔で感心するのを見てせりか達は首をかしげた。本庄が伊藤に説明しても良いか問うと「好きにして」とあっさりオッケーが出たので伊藤達の思惑をまるで聞いた様に話してくれる本庄に感心を通り越して呆れるが、分りの悪いせりかにわざわざ説明してくれたので感謝の言葉を言うと「お礼は明日、高坂と橘の揉めた原因教えてくれれば良い」と更にせりかを呆れさせた。
「約束はしなくていいよ。お嬢さんからは話せない内容かもしれないし、橘か高坂に直接聞いてもいいから」
結局聞かない選択は無いらしい。伊藤は本庄の言い様に爆笑していた。何やら妥協が無いのが良い!と伊藤のツボを突いたようだ。
時間が無いので伊藤の引退の衝撃もあったが、先輩達のヘルプに付いて仕事を回していくと、あっと言う間に時間は過ぎてしまう。
急いでそのまま移動の教室に向かう。教材は勿論準備済みだ。そうして午後の授業が終わって、また生徒会室に戻ると、やっぱり伊藤が居て、本当に引退しちゃったんだな~とせりかは妙に実感が湧いた。
伊藤は寂しげに外を見たが、「頑張れよって玲人に帰ったら言ってよ。それから俺にも喧嘩の原因教えてよ」と野次馬な事を言っておちゃらけた。しかし手はしっかり動いていて、言葉通りバリバリと仕事を終わらせていった。各部活などの担当部署にも伊藤が行くと今迄難が有ってごねていた案件もすんなり受け入れられた。来年は橘に行って貰おうと密かに来期役員の三人は言い合った。せりかは本庄でも丸め込めるんじゃないかと思ったが、今年は正式な役員ではないので他の先輩達が行ってくれていた。会長の若宮でも保留になっていた案件を次々に解決してくる手腕は流石に凄いと思う。
伊藤が加わった事で仕事は大幅な進展を見せた。少し先が見えて来た事で、皆にゆとりが出て来た。後日からも「面倒事があったら持って来て」と宣言して苦情処理係の様な事を楽々こなす頼もしい副会長をせりかは大分見直した。すごい人なのは分ってはいたが、失礼な話だが伊藤がカリスマ的人気を誇る理由の一端が今回の事で少し理解出来た。
帰っていつもの様に予習復習をしていると玲人がやって来た。いつもより話しが有る分、玲人は走れる行程をすべて走ってやって来た。せりかは先に勉強のレクチャーをいつも通り終えてから、急いで階下に降りてペットボトルのお茶を2本持って戻って来た。一本玲人に渡すと玲人はお茶を一口飲んで、切り替える様にしてから今日の出来事を話し始めた。
「俺達の学年の奴らは、忍を中心としたチームにとても期待してた。みんなも結構良い所まで行けそうだって超やる気だったのに、他の奴らが俺みたいにがっかりするのを見たくない。伊藤先輩達が抜けた事は仕方が無いって分ってるし、決勝からチーム作りして自信持って全国に行けって言う気持ちも自分達の優勝したいっていう気持ちを押し殺してチームの為を思ってくれたっていうのはすごく分るんだけど、忍がそんなに早く辞めなくちゃならないとは思えない。今迄だってあいつは両立出来てたし、来年だって伊藤先輩達と同じ位まで居ても大丈夫だと思うのに、本人は伊藤先輩も甘かったの多分後悔してるとかって憶測言うし、今年だってここ迄来れて、決勝勝てたら全国大会なんだ。せりだってそれがどんなにすごい事か分かるだろう?それなのに先の事を考えて顧問の命令刃向かってポジション変更応じないとか信じられない事をするし、みんなは伊藤先輩達の事にショック受けてたからあまり問題視されなかったけど、代わりになった人は三年の副部長だから、この大会が終わったらまた同じ問題が出て来るのは目に見えてるのに…」
「だから、大会終わったら退部するって言ってるんじゃ無いの?三年生がいるうちは司令塔って上級生の方が良いからって遠慮した様に見えるけど、次に断ったらただの自分勝手だし、サッカーはチームプレイだから、それは流石にマズイと思っての決断でしょう。納得が行かない玲人の方が我儘に聞こえる。橘君が受験勉強と両立出来るって決め付けも玲人の勝手な言い分だし、大体うちは進学校なんだって分ってるよね?玲人は優先順位がサッカーが一番かもしれなくても橘君はそうじゃ無い。だから、玲人達と同じ気持ちで戦えないからっていうの解らなくもないけどね。なんだか橘君っぽい考え方じゃ無い?」
「別れる予定の彼氏の事なのに随分忍の肩持つよなあ?」
「ムカついてるからって私に嫌味いわないでくれない?そうなると益々別れを言い出しにくい状況になって来たし、サッカー部が全国大会に行けたら、それはまた言い出せるタイミングが当分伸びそうで私だってどうしていいのか分らなく成って来てるのよ」
「そんなに早く忍と決着つけたいのか?せりは」
「それはそうだよ。もう気持ちの上では別れようとしてる彼と普通に付き合うって、相手の状況を加味した結果だったにしても充分彼を裏切ってるんだよ。心苦しいし、すごく辛いよ…」
「すまないけど、もう少しこの大会が終わるまでは忍に言わないでくれ。忍が本当に辞めてしまうとしたら本当に今迄の努力が実る最後の機会になってしまうかもしれない。俺がそうさせないつもりだけど忍が言う事聞いてくれるか解らないし…」
「さっき言った事とは真逆な事だけど、玲人にだけ橘君が言ったのは彼自身続けたい気持ちがあるからだと思う。伊藤先輩も本当は続けたかったけどって言ってたの。今日生徒会で」
「そっかー!やっぱりそうだよなぁ。忍だって続けたい気持ちとチームの奴と温度差が出た時の事を考えて板挟みなんだよな!俺だってそれは解ってたんだけど、俺達と一緒にやって行きたくないのかよって悔しくて、それに寂しいじゃん。忍が居ないとみんなだってチームから気持ちが離れていってしまうような気がするんだ」
「そうよね。後輩指導だって玲人より熱が入ってたし、涼君だって橘君を慕ってるものね」
少し橘に甘え過ぎな感は否めないが、彼の求心力は、伊藤が居なくなった後は特に必要になるだろうとせりかも思う。今の時点で辞めて悔しいと伊藤は言っていたが、橘も、あれだけ好きで続けて来た事を諦めるのは、もう少し考えてから結論を出せる時間は十分残っている。皆に橘は迷惑を掛ける事にならないか懸念を抱いているが、試合で勝つという以外での彼の部内での役割も、玲人の話からすると大きい様に思う。
「今日の事、本庄君と伊藤先輩が教えてって言うんだけど駄目だよね?」
「はぁ~?何で本庄に教えなくちゃいけないんだよ?伊藤先輩はともかく」
「うん。私からは話せない事だから、話さないけど、本庄君は橘君と親しいのよ?一応、無関係でも無いでしょう?」
「そうか。それ忘れてた。性悪小舅は忍と仲が良かったよな。そういえば……」
素直な玲人らしく間違っていると思えばすんなり意見を翻すのは良い事だが、この言い方は、どうなんだろうとせりかは思う。しかし本庄に対しては毎回の事なのでスル―して話を続けた。
「私から聞けなかったら『高坂か橘に聞くからいい』って言ってたから逃げ道無いんじゃないのかな」
「サッカー部の事、あいつに話してもどうにも成らないよ」
「本庄君が聞くっていう位だから、どうにか収めちゃう気もするのよね」
「せりはそうやって、あいつの事買い被り過ぎ!逆の事されてキレたのに、自分で矛盾してるって思わないのか?」
「まあ、そうなんだけど、あっちは実が伴ってるから良いのよ。私の方は、向こうが思ってるのと掛け離れ過ぎてるし、全部誤解なんだもん。だって聖女だよ?詐欺みたいじゃ無い?」
「俺からは似たり寄ったりに見える。正直に言うけど本庄の事責める資格は、せりには無いと思う。忍の事はまた別だから切り離して言うけど」
「そうね。橘君の事は全然別では無いけど、付き合いを続けられないのは、他の理由の方が大きいから違うんだけど、彼がサッカーを辞めてしまったら、私は、私の理由で彼を見捨てられないんじゃないかと思うの。そう考えると同情で彼と別れないっていうのは、彼にとっても良い事なのかって怖くなってくるのよ。今も怖いのよ。きっと彼を傷付けるし私を軽蔑すると思うし、嫌われるわ」
「別れる相手に嫌われるのを気にするのか?!」
「玲人にだから言うけど、矛盾してるけど、最終的には橘君にも本庄君にも失望されるのが怖いのよ。だから離れたいの。相手の思い込みに見合う自分じゃない事を相手の所為にしてるけど、そうじゃない事に自分自身が失望してる。本当に彼らが思う様な聖女だったら、どんなにいいかって思うの。でもそんな無理な事を望んでしまう事にも、他の事にも、もう疲れてる。自分勝手で自己保身しか考えないような私に『聖女』だなんてそれこそ笑えもしないと思わない?」
「せりは聖女じゃ無いかもしれないけど、俺はどんなせりでも好きだし、軽蔑なんて何があってもしない。それじゃ駄目なのか?」
「駄目じゃ無い。だから私は彼らを非難する事が出来ているのよ。誤解して押し付けてくる方がどうかしてるのよって考えられるのは、玲人が私を否定しないでいてくれるって分っているからだから、駄目じゃないわ」
せりかを苦しめる本庄や橘を一瞬憎いと思うが、結局は、彼女の深層心理は、二人に自分を認めて貰いたいという所から来ているので本質的に人間として尊敬しているからだろう。ふと『愛憎』という言葉が浮かんだが、せりかには似合わない。サッカーを諦めた橘に別れを切り出せず、今の苦しみを抱えながら付き合うせりかが幸せな筈も無い。やっぱり説得してサッカーと仲間を手放さない様に絶対にしなければならないと玲人は思う。
私事で三月まで忙しく間があいてしまってすみません。<(_ _)>




