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奴隷オークションに出されたエルフの私ですが、牢屋の隅にいた美少年が王国最強の魔術師でした

作者: 豆柴の旅々
掲載日:2026/10/30

「お前はここに入ってろ!」


 ――ドンッ!


「きゃっ!」


 背中を乱暴に押され、私は冷たい石床に倒れ込んだ。


 慌てて振り返ると、男が鉄格子の扉を閉めるところだった。


 ――ガシャン!


「おとなしくしてろよ。明日には高く売ってやるからな。」


「ま、待ってください! お願いです! ここから出してください!」


「うるせえ! 黙ってろ!」


 男は吐き捨てるように言うと、そのまま立ち去ってしまった。


「そんな……。」


 私は鉄格子にしがみついた。


 けれど、遠ざかっていく足音が戻ってくることはなかった。


 ……どうして、こんなことになっちゃったんだろう。


 私の名前はフィーナ。


 生まれてからずっと、深い森の中で暮らしてきたエルフの少女だ。


 私たちの森は、木々の間から柔らかな日差しが差し込み、澄んだ小川が流れる美しい場所だった。季節ごとに色とりどりの花が咲き、森の仲間たちと穏やかな毎日を過ごしていた。


 そんな私には、幼い頃から憧れていたものがある。


 森の外の世界だ。


 人間たちが暮らす大きな街。賑やかな市場。見たこともない建物や、美味しい料理。


 そして、どこまでも水が続いているという海。


 森を訪れる旅人から外の世界の話を聞くたびに、私は胸を躍らせていた。


 いつか、自分の目で見てみたい。


 その夢を叶えるため、私はついに森を出ることにしたのだ。


 もちろん、お父さんもお母さんも心配していた。


 人間の中には、エルフを珍しい商品として扱う悪い者もいる。だから、決して知らない人を簡単に信用してはいけないと、何度も言い聞かされた。


 私は大丈夫だと答えた。


 知らない世界を見たいという気持ちの方が、ずっと強かったから。


 それなのに。


 森を出て間もなく、私は奴隷商人に捕まってしまった。


 道に迷っていた私に、親切そうな男が声をかけてきたのだ。街まで案内してくれるという言葉を信じ、渡された飲み物を口にしたところまでは覚えている。


 次に目を覚ましたときには、両手に鎖をかけられていた。


 そして、ここへ連れてこられたのだ。


 ……私、なんて馬鹿だったんだろう。


 お父さんとお母さんの言うことを、ちゃんと聞いていればよかった。


 森から出なければよかった。


 私はその場に座り込み、膝を抱えた。


 涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちる。


 明日には売られると言っていた。


 売られたら、どうなるんだろう。


 もう二度と森には帰れないのかな。


 そう考えると、怖くてたまらなかった。


 しばらくして、私はようやく周囲に目を向けた。


 薄暗い牢屋の中には、私と同じように鎖をかけられた少女たちが何人もいた。


 泣いている子。虚ろな目で床を見つめている子。誰もが絶望したような表情を浮かべていた。


 そのとき、小さな泣き声が聞こえてきた。


「……お母さん……。」


 見ると、私よりずっと幼い女の子が、牢屋の隅で膝を抱えていた。


 まだ十歳にもなっていないように見える。


 私は迷った末、その子の隣に腰を下ろした。


「……大丈夫?」


 女の子が顔を上げる。


「お母さんに……会いたい……。」


「……うん。そうだよね。」


 私だって、お父さんとお母さんに会いたい。


 怖くて、今にも泣き出しそうだった。


 それでも、私は女の子の手をそっと握った。


「きっと、また会えるよ。」


「……本当?」


「……うん。」


 自分でも、そんな保証はどこにもないと分かっていた。


 それでも、何も言わずにはいられなかった。


 女の子は私の手を握り返すと、少しだけ泣き止んでくれた。


 その様子を見て、私はほっと息をついた。


 すると、不意に視線を感じた。


 顔を上げると、少し離れた場所に一人の少年が座っていた。


 銀色の柔らかな髪。


 透き通るような白い肌。


 長い睫毛に縁取られた、綺麗な青い瞳。


 女の子と見間違えてしまいそうなほど、美しい顔立ちだった。


 年齢は私と同じくらいだろうか。


 少年も両手を鎖で繋がれていたけれど、不思議なくらい落ち着いた表情をしていた。


 私と目が合うと、少年は小さく微笑んだ。


「……優しいんだね。」


「えっ?」


「その子のこと。」


「あ……。」


 私は隣の女の子を見た。


「だって、泣いていたから……。」


「うん。」


 少年は穏やかに頷いた。


「君だって怖いだろうに。」


 その言葉を聞いた途端、胸の奥がぎゅっと苦しくなった。


 ……そうだ。


 私だって、怖い。


 怖くて、怖くて、仕方がない。


 でも、そんなことを言ったら、また泣いてしまいそうだった。


 私は俯いた。


 すると、少年が優しく声をかけてくれた。


「……大丈夫?」


「……うん。」


「怪我はしてない?」


「うん。大丈夫。」


「そう。よかった。」


 少年は、それ以上何も聞かなかった。


 ただ、静かに微笑んでくれた。


 どうしてだろう。


 たったそれだけのことなのに、少しだけ安心してしまった。


 私は迷った末、少年の近くへ移動した。


「あの……隣に座ってもいい?」


「うん。いいよ。」


 少年は少しだけ身体をずらしてくれた。


 私はその隣に腰を下ろした。


 しばらく、二人とも何も話さなかった。


 けれど、不思議と気まずくはなかった。


「そういえば、君の名前は?」


「フィーナ。」


「フィーナか。いい名前だね。」


「……ありがとう。」


 名前を褒められて、少し照れくさくなった。


「あなたの名前は?」


「僕の名前は……そうだな。もう少ししたら教えるよ。」


「……どうして?」


「ちょっと事情があってね。」


 少年は困ったように笑った。


 不思議な人だと思ったけれど、無理に聞くのも悪い気がして、それ以上は尋ねなかった。


「……ねえ。」


「何?」


「あなたも、捕まっちゃったの?」


「うん。そんなところかな。」


「そうなんだ……。」


 少年は、それ以上何も言わなかった。


 私も、どう話を続ければいいのか分からなかった。


 それでも、隣に誰かがいてくれるだけで、少し心が落ち着いた。


「……私ね、今日、初めて森の外に出たの。」


「森の外?」


「うん。私、エルフだから。ずっと森で暮らしていたんだ。」


「そうなんだ。」


「森の外には、大きな街があるんでしょう? それに、海とか、お城とか、見たこともないものがたくさんあるって聞いたの。」


「うん。たくさんあるよ。」


「本当?」


「本当だよ。」


 少年が頷いた。


 私は、少しだけ身を乗り出した。


「海って、本当にどこまでも水が続いているの?」


「うん。水平線まで、ずっとね。」


「すごい……。」


「夕日も綺麗だよ。海が一面、金色になるんだ。」


「……見てみたい。」


 思わず呟いた。


 けれど、すぐに現実を思い出してしまった。


「……でも、もう見られないのかな。」


 私は膝を抱え直した。


「私、楽しみだったんだ。知らない場所に行って、いろんなものを見て、いろんな人とお話しするのが。」


「うん。」


「それなのに、森を出た途端に捕まっちゃって……。」


 声が震えた。


「お父さんとお母さんにも、心配をかけちゃった。きっと今頃、私のことを探してると思う……。」


「……うん。」


「私、森から出なければよかったのかな。」


 少年は何も答えなかった。


 ただ、静かに私の話を聞いてくれている。


 慰めるわけでも、無理に励ますわけでもない。私が言葉に詰まれば、続きを待ってくれた。


 それが、なんだか嬉しかった。


 さっきまで胸の奥を押し潰していた苦しさが、少しずつ和らいでいく。


 誰かに話を聞いてもらうだけで、こんなにも心が軽くなるなんて。


 私は、少し驚いていた。


「……ごめんなさい。」


「どうして謝るの?」


「だって、私ばっかり話しちゃって。つまらないでしょう?」


「そんなことないよ。」


 少年は穏やかに微笑んだ。


「もっと聞かせて。君が見てみたかった世界のこと。」


「……いいの?」


「うん。」


 胸の奥が、じんわりと温かくなった。


「じゃあね、私、大きな街の市場にも行ってみたいの!」


「市場?」


「うん! いろんなお店が並んでいて、美味しいものがたくさん売っているんでしょう?」


「そうだね。焼きたてのパンとか、甘いお菓子とか。」


「甘いお菓子!」


 思わず声が大きくなってしまった。


 慌てて口を押さえると、少年がくすっと笑った。


 私も、つられて笑ってしまった。


 ……あれ?


 私、笑ってる。


 ついさっきまで、もう二度と笑えないんじゃないかと思っていたのに。


 この少年と話していると、森を出る前の、わくわくした気持ちを思い出せる。


 私は、そのことが嬉しかった。


 やがて、少年が私に尋ねた。


「フィーナは、やっぱり外の世界を見てみたい?」


「……うん。」


 私は少し考えてから頷いた。


「怖いけど……でも、やっぱり見てみたい。」


「そっか。」


 少年は嬉しそうに微笑んだ。


「じゃあ、きっと見られるよ。」


「……本当?」


「うん。」


「でも、私たち、明日には売られちゃうんでしょう?」


 少年は少しだけ考えるような表情をした。


 そして、静かに答えた。


「大丈夫。もうすぐ、みんな帰れると思うから。」


「……どうして?」


「そうだなあ……。」


 少年は困ったように微笑んだ。


「今は、まだ秘密かな。」


「……秘密?」


「うん。」


 私は首を傾げた。


 どうして、そんなことが言えるんだろう。


 私たちは、こんなところに閉じ込められているのに。


 けれど、少年の青い瞳には、不思議なほど確かな光が宿っていた。


 その表情を見ていると、ほんの少しだけ、また希望を持ってもいいような気がした。


◇


 翌日。


 私たちは奴隷商人たちに連れられ、牢屋を出された。


 長い廊下を歩かされ、重い扉の前に並ばされる。


 扉の向こうからは、大勢の人の声が聞こえていた。


「いいか! 余計なことをするなよ! おとなしくしていれば、痛い目には遭わずに済むからな!」


 男が怒鳴った。


 私は震える手を握り締めた。


 ……怖い。


 昨日、少年と話している間は忘れられた恐怖が、再び胸の奥に広がっていく。


 隣を見ると、あの少年がいた。


 昨日と同じように、落ち着いた表情をしている。


 目が合うと、少年は小さく微笑んだ。


「大丈夫。」


「……え?」


「きっと、大丈夫だよ。」


 どうして、そんなことが言えるんだろう。


 私たちは、これから売られてしまうのに。


 それでも、少年の声を聞くと、少しだけ呼吸が楽になった。


 私は小さく頷いた。


 やがて、扉が開かれた。


 眩しい光が差し込んでくる。


 その先には、大きな舞台があった。


 舞台の向こうには、豪華な衣装を着た人たちが大勢座っている。


 貴族たちだ。


 誰もが、私たちを品定めするような目で見つめていた。


 ……嫌だ。


 背筋が冷たくなった。


「さあ、皆様! 本日も素晴らしい商品を取りそろえております!」


 舞台の中央で、派手な服を着た男が声を張り上げた。


「なお、落札された商品の引き渡しは、すべての競売が終了した後となります。それでは、最初の商品からご紹介いたしましょう!」


 一人の少女が前へ押し出された。


 少女は怯えた表情で客席を見つめている。


「銀貨五十枚!」


「金貨一枚!」


「金貨二枚!」


 次々と声が上がる。


 少女は、金貨三枚で落札された。


 客席から拍手が起こった。


 ……嘘。


 人が、物みたいに売られている。


 分かっていたはずなのに、実際に目の前で起きていることが信じられなかった。


 次の少女も、その次の少女も、次々と競り落とされていく。


 泣いても、助けを求めても、誰も気に留めない。


 やがて、私の番が来た。


「さあ、皆様! 続いては本日の目玉商品でございます!」


 男が私の肩を掴み、舞台の中央へ押し出した。


「なんと、こちらは希少なエルフの少女! 美しい金色の髪に、透き通るような緑の瞳! これほどの商品は、滅多にお目にかかれません!」


 客席がざわめいた。


「ほう……エルフか。」


「これは珍しい。」


「なかなか可愛らしいではないか。」


 いくつもの視線が私に集まる。


 私は思わず俯いた。


 ……見ないで。


 お願いだから、そんな目で見ないで。


「それでは、金貨十枚から!」


「十五枚!」


「二十枚!」


「三十枚!」


 金額が、どんどん上がっていく。


 私は震えていた。


 誰かが金額を口にするたびに、自分の未来が遠ざかっていくような気がした。


 そして――。


「金貨百枚。」


 客席の奥から、低い声が響いた。


 そこには、太った中年の貴族が座っていた。


 派手な宝石を身につけ、私を見ながら嫌な笑みを浮かべている。


「ふふふ。エルフの娘か。これは楽しみだ。」


 全身に寒気が走った。


 ……嫌。


 あの人だけは、嫌だ。


「金貨百枚! ほかにいらっしゃいませんか!」


 誰も声を上げなかった。


「それでは、落札でございます!」


 ――カンッ!


 木槌の音が響いた。


 私は、その場に立ち尽くした。


 ……終わった。


 私、あの人に買われちゃったんだ。


 もう、森には帰れない。


 お父さんにも、お母さんにも会えない。


 海を見ることも、大きな街を歩くことも、きっとできない。


 昨日、少年に話した夢が、次々と頭に浮かんだ。


 あんなに楽しみにしていたのに。


 どうして、こんなことになっちゃったんだろう。


 涙が頬を伝った。


 そのとき、ふと視線を感じた。


 舞台の袖に立つ、あの少年だった。


 目が合うと、少年は小さく頷いた。


 まるで、心配しなくてもいいと言っているように。


 ……どうして?


 私、もう売られちゃったんだよ?


 それなのに、彼の青い瞳には、少しも諦めの色がなかった。


◇


「さて、皆様! 本日最後の商品でございます!」


 司会の男が声を張り上げた。


 私は顔を上げた。


 舞台へ連れてこられたのは、あの少年だった。


 銀色の柔らかな髪に、綺麗な青い瞳。


 昨日、牢屋の隅で私の話を静かに聞いてくれた少年だ。


 彼は両手を鎖で繋がれたまま、落ち着いた様子で舞台の中央に立っていた。


「こちらも大変珍しい、美しい少年でございます! この容姿であれば、どのようなお屋敷でも重宝されることでしょう!」


 客席から感嘆の声が上がる。


「ほう、これは見事だ。」


「まるで人形のようではないか。」


 けれど、少年はそんな声など気にも留めず、静かに客席を見渡していた。


 ……どうして、そんなに落ち着いていられるの?


 これから売られてしまうというのに、彼の表情には少しも恐怖が見られなかった。


 やがて、少年は小さく頷いた。


「……これで全員かな。」


「ん? 何か言ったか?」


 司会の男が眉をひそめる。


「うん。もう十分だよ。」


「何が十分だ! お前は黙って――」


 ――バキンッ!


 突然、乾いた音が響いた。


 少年の両手を繋いでいた鎖が、粉々に砕け散ったのだ。


「なっ……!?」


 司会の男が驚いて後ずさる。


「き、貴様! 何をした!」


「証拠はそろったし、参加者の確認も終わった。そろそろ終わりにしようか。」


「何を訳の分からんことを! 衛兵! こいつを取り押さえろ!」


 男の怒声に応じて、武装した衛兵たちが舞台へ駆け上がってきた。


「おとなしくしろ!」


 一人の衛兵が剣を抜き、少年に斬りかかる。


「危ないっ!」


 私は思わず叫んだ。


 けれど、少年は逃げなかった。


 それどころか、振り下ろされた剣に向かって、ゆっくりと片手を上げた。


 ――ガキィン!!


 ……え?


 私は自分の目を疑った。


 少年が、剣を素手で受け止めていたのだ。


 鋭い刃は彼の手のひらに触れているのに、傷一つついていない。


「なっ……なんだと!?」


 衛兵が顔を引きつらせる。


 少年の身体を、淡い青色の光が包んでいた。


「ば、馬鹿な……! あれは身体強化魔法か!?」


 客席から驚愕の声が上がる。


 少年は剣を受け止めたまま、空いている手を伸ばした。


 そして、衛兵の胸にそっと触れる。


「穿て、イクトゥス!!」


 ――ドォン!!


「ぐあああっ!!」


 凄まじい衝撃とともに、衛兵の身体が後方へ吹き飛んだ。


 舞台の端まで転がった衛兵は、そのまま動かなくなった。


「なっ……!?」


「何をしている! 全員でかかれ!」


 司会の男が叫ぶ。


 今度は三人の衛兵が、同時に少年へ斬りかかった。


 しかし、少年は慌てる様子もなかった。


 最初の剣を軽くかわし、二人目の衛兵の胸に手を当てる。


「穿て、イクトゥス!!」


 ――ドンッ!!


「ぐはっ!」


 衛兵が吹き飛ぶ。


 続いて、背後から迫った三人目の剣を振り返りざまに受け止めた。


 そのまま胸に手を触れる。


 ――ドォン!!


「うわああっ!!」


 また一人、衛兵が宙を舞った。


 最初に剣をかわされた衛兵が、再び斬りかかってきた。


 少年はその剣を軽く払い、相手の胸元へ手を伸ばす。


 ――ドンッ!!


「ぐあっ!」


 最後の衛兵も、舞台の上を転がった。


 あっという間だった。


 たった一人の少年が、武装した衛兵たちを次々と倒してしまったのだ。


 しかも、少年は息一つ乱していない。


 ……すごい。


 私は呆然と彼を見つめていた。


 昨日、牢屋の中で優しく微笑んでくれた少年と、同じ人だとは思えなかった。


「ば、化け物だ……!」


 司会の男が震える声を漏らした。


 その言葉を聞いた少年は、少しだけ困ったように笑った。


「ひどいなあ。ちゃんと人間だよ。」


 そのときだった。


「に、逃げろ!」


「こんなところにいられるか!」


 客席の貴族たちが、一斉に立ち上がった。


 豪華な衣装を乱しながら、我先にと出口へ殺到する。


「開けろ! 早く扉を開けろ!」


 一人の貴族が大扉に手をかけた。


 しかし――。


 ――ガチャガチャ!


「なっ!? 開かんぞ!」


「何をしている! 早く開けろ!」


「だ、駄目です! びくともしません!」


 何人もの男たちが扉を押し、引き、身体ごとぶつかっていた。


 それでも、扉はまったく動かなかった。


 よく見ると、大扉の表面に淡い青色の魔法陣が浮かび上がっている。


 ……魔法?


 まさか、あの少年が?


「無駄だよ。」


 舞台の上から、穏やかな声が響いた。


 少年は逃げ惑う貴族たちを見渡し、静かに微笑んだ。


「一人も逃がさないよ。」


 その瞬間、会場の空気が変わった。


 少年が右手を掲げる。


 その足元に巨大な魔法陣が浮かび上がり、青白い光が会場全体へと広がっていく。


「天を巡りし光の檻よ、不浄なる者を縛せ。」


 詠唱に呼応するように、無数の光の輪が宙に現れた。


「戒めよ、アヌルス・ルキス!!」


 ――キィィィン!!


 光の輪が一斉に飛び出した。


「な、なんだこれは!?」


 貴族の一人が叫ぶ。


 光の輪は宙を滑るように飛び、逃げようとしていた男たちの手足に絡みついた。


「ぐあっ!?」


「う、動けん!」


「は、離せ! 私は侯爵だぞ!」


 光の輪が次々と貴族たちを拘束していく。


 ある者は両腕を縛られ、ある者は両足を封じられ、その場に崩れ落ちた。


 抵抗しようとした者もいたが、光の輪はびくともしなかった。


 司会の男も、奴隷商人たちも、倒れていた衛兵たちも例外ではなかった。


 ほんの数秒で、会場にいた男たちは全員拘束されていた。


「た、たった一度の詠唱で、これほどの広域魔法を……!?」


 客席の誰かが、震える声で呟いた。


 私は、ただ呆然とその光景を見つめていた。


 あれほど大勢いた人たちが、たった一人の少年に制圧されてしまったのだ。


 しかも、彼は一歩も舞台から降りていない。


「き、貴様……いったい何者だ……!」


 床に倒れた司会の男が、震える声で尋ねた。


 少年は静かに答えた。


「王国特別捜査局、潜入捜査官。」


 会場が静まり返った。


「今回の任務は、この違法奴隷オークションに関わる者たちを特定し、証拠を押さえることだったんだ。」


「な……なんだと……!?」


「この競売に参加する貴族たちの顔を、直接確認する必要があったんだ。君たちは、なかなか尻尾を出してくれなかったからね。」


 少年は淡々と続けた。


「でも、今日で終わりだ。」


 そう言うと、右手を軽く持ち上げた。


 ――パチンッ!


 指を鳴らす乾いた音が響く。


 すると、大扉に浮かんでいた魔法陣が消えた。


 次の瞬間。


 ――ドォン!!


 大扉が勢いよく開かれた。


「王国特別捜査局だ! 全員、その場を動くな!」


 鎧を身につけた捜査官たちが、次々と会場へ駆け込んでくる。


「会場内の参加者は全員拘束済みです!」


「取引記録も確保しました!」


「落札者の身元確認が完了しました! 被害者の引き渡しも、すべて阻止しています!」


「地下に残された被害者たちの保護も開始しています!」


 捜査官たちが次々と報告する。


 少年は満足そうに頷いた。


「ありがとう。被害者の保護を最優先でお願い。」


「はっ!」


 捜査官たちが一斉に敬礼した。


 ……え?


 あの少年に?


 どうして、こんなに偉そうな人たちが、彼に敬礼しているの?


 そのとき、一人の騎士が少年に近づいた。


「お疲れ様です。まさか、ご自身で潜入されるとは……。」


「僕が入った方が確実だったからね。」


「しかし、王国最強と称される魔術師が、奴隷として競売にかけられるとは……。」


 ……王国最強?


 私は耳を疑った。


 あの少年が?


 昨日、牢屋の隅で私の話を聞いてくれた、あの優しい少年が?


「き、貴様が……まさか……!」


 司会の男の顔から、みるみる血の気が引いていく。


「銀髪の……王国最強の魔術師……!?」


 少年は小さく首を傾げた。


「そんなに有名だったかな。」


「ひ、ひぃぃぃっ!!」


 司会の男が悲鳴を上げた。


 私は、ただ呆然と少年を見つめていた。


 王国最強の魔術師。


 そんなすごい人が、どうして昨日、私の話をあんなに優しく聞いてくれたんだろう。


 すると、少年がこちらを振り返った。


 そして、昨日と同じように微笑んだ。


「フィーナ。」


「……え?」


「もう大丈夫だよ。」


 その瞬間、私の両手を拘束していた鎖が、ふわりと光に包まれた。


 ――カラン。


 鎖が外れ、床に落ちる。


 私は自由になった両手を見つめた。


 ……外れた。


 鎖が、外れた。


「もう、誰も君を売ったりしない。」


 少年が優しく言った。


「君は自由だよ。」


「……っ!」


 胸の奥から、熱いものが込み上げてきた。


 涙が、次々と溢れ出す。


「う……うぅ……。」


 私はその場にしゃがみ込み、両手で顔を覆った。


 怖かった。


 本当に、怖かった。


 もう二度と、自由になれないと思っていた。


 それなのに。


「……ありがとう……。」


 声が震える。


「ありがとう……本当に……。」


 少年は、何も言わなかった。


 ただ、私が泣き止むまで、静かにそばにいてくれた。


 昨日の牢屋の中と、同じように。


◇


 翌日。


 私は王国の保護施設で、窓の外を眺めていた。


 昨日の事件で捕まっていた少女たちは、全員無事に保護されたらしい。あの小さな女の子も、迎えに来たお母さんと再会できたそうだ。


 その話を聞いたときは、自分のことのように嬉しかった。


 私も、王国の人から森まで送り届けてもらえることになっている。


 ……帰ろうかな。


 窓の外には、ずっと憧れていた人間の街が広がっていた。


 石造りの建物が立ち並び、通りには馬車が行き交っている。遠くからは商人たちの威勢のよい声も聞こえてきた。


 昨日までの私なら、きっと目を輝かせていただろう。


 でも、今は少し怖かった。


 また悪い人に騙されたらどうしよう。


 また、あんなところに閉じ込められたら……。


 思い出すだけで、胸が苦しくなる。


 お父さんとお母さんのいる森に帰れば、もうこんな怖い思いをしなくて済む。


 大好きな森で、今までどおり穏やかに暮らせばいい。


 ……それで、いいのかな。


 私は窓の外に目を向けた。


 ずっと憧れていた世界が、すぐそこにある。


 なのに、私はまだ何も見ていない。


 海も、大きな市場も、美味しいお菓子も。


 何一つ、知らないままだ。


 ……本当は、見てみたい。


 でも、怖い。


 どうしたらいいのか分からず、私は小さくため息をついた。


 そのときだった。


 ――コンコン。


「フィーナ。入ってもいい?」


 聞き覚えのある、優しい声。


「……うん!」


 私は慌てて振り返った。


 扉が開き、一人の少年が姿を現した。


 銀色の柔らかな髪に、澄んだ青い瞳。


 昨日、私を助けてくれた少年だった。


 けれど、その姿は昨日までとはまるで違っていた。


 白いシャツに、銀の刺繍が施された濃紺の上着。肩には黒い外套を羽織り、胸元には王国の紋章が輝いている。


 凛とした佇まいは、まるで物語に登場する王子様のようだった。


 ……わあ。


 思わず見とれてしまった。


「どうしたの?」


「あっ、ううん! 何でもない!」


 慌てて首を振ると、少年は不思議そうに笑った。


「そういえば、まだ名前を言ってなかったね。」


「あ……そういえば。」


「僕はルシアン。」


「ルシアン……。」


 私は、その名前を小さく繰り返した。


 綺麗な名前だと思った。


「フィーナは、これからどうするの?」


「……え?」


「森に帰る? 帰るなら、王国が責任を持って送り届けるよ。」


「……森に。」


 私は俯いた。


「……帰ろうかなって、思ってたの。」


「うん。」


「お父さんとお母さんに会いたいし……また怖い思いをするのも嫌だから。」


「そっか。」


 ルシアンは、静かに頷いた。


「それなら、帰った方がいいかもしれないね。」


「……うん。」


 その言葉を聞いたとき、胸の奥が少しだけ寂しくなった。


 どうしてだろう。


 森に帰れば、きっと安心できるのに。


 私は窓の外を見つめた。


「……でもね。」


「うん?」


「本当は、まだ見てみたいの。」


 ルシアンが私を見る。


「海も、大きな街も、賑やかな市場も。私、ずっと楽しみにしてたから……。」


 言葉にすると、胸の奥にしまい込んでいた気持ちが、少しずつ戻ってきた。


「怖いけど……やっぱり、諦めたくない。」


 ルシアンは、しばらく私を見つめていた。


 そして、ふっと微笑んだ。


「じゃあ、僕と一緒に来る?」


「……え?」


「僕、仕事でいろんな場所に行くんだ。王都だけじゃなくて、ほかの街にも行くし、海の近くにも行くよ。」


「海……?」


「うん。フィーナ、海を見てみたいって言ってたでしょう?」


 ……覚えていてくれたんだ。


 昨日、牢屋の中で話したこと。


 私が、ずっと憧れていたもの。


「もちろん、無理にとは言わないよ。森に帰りたくなったら、いつでも送っていく。」


「……本当に?」


「うん。」


「私が一緒に行っても、迷惑じゃない?」


「どうして?」


 ルシアンは、不思議そうに首を傾げた。


「僕も、フィーナともっと話してみたいと思ってたから。」


 その言葉を聞いた瞬間、胸が大きく高鳴った。


 私はルシアンを見つめた。


 王国最強の魔術師。


 大勢の奴隷商人や貴族たちを、たった一人で捕まえてしまった人。


 でも、私が思い出したのは、そんな姿ではなかった。


 暗い牢屋の隅で、私の話を静かに聞いてくれた少年。


 私の夢を、笑わずに聞いてくれた人。


 あのとき、私は確かに救われていた。


 鎖が外れるよりも、ずっと前から。


 ルシアンが、私に手を差し出した。


「どうする?」


 私は、その手を見つめた。


 森に帰ることもできる。


 でも、まだ知らない世界を見てみたい。


 そして、できることなら。


 この人と一緒に。


「……うん!」


 私は差し出された手を、ぎゅっと握った。


「私、ルシアンと一緒に行きたい!」


 ルシアンが嬉しそうに微笑んだ。


 その笑顔を見た瞬間、胸がどきりとした。


 ……あれ?


 どうして、こんなに胸が高鳴るんだろう。


 私は少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、繋いだ手を握り直した。


「じゃあ、行こうか。」


「うん!」


「まずは王都の市場を案内しよう。美味しいお菓子のお店も知ってるよ。」


「本当!? 行きたい!」


「それから、少し仕事を片づけたら、海にも行こう。」


「海!」


「うん。夕日が綺麗な場所を知ってるんだ。」


「……楽しみ!」


 私は笑顔で頷いた。


 森の外には、まだ知らないものがたくさんある。


 怖いことも、きっとあるだろう。


 それでも、私は自分の目で見てみたい。


 ずっと憧れていた、広い世界を。


「行こう、フィーナ。」


「うん!」


 ルシアンに手を引かれ、私は一歩を踏み出した。


 こうして、私の本当の冒険が始まった。


 王国最強の魔術師と一緒に。


 ――まだ見ぬ世界へ向かって。


 おしまい。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


牢屋の隅で出会った優しい少年が、実は王国最強の魔術師だったというお話でした。


フィーナとルシアンの冒険は、まだ始まったばかりです。


少しでも面白いと思っていただけましたら、評価やリアクションをいただけると嬉しいです。


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