「婚約破棄は君を試すためだった」と言われても、合格する気はありません
「それなら、君との婚約は破棄する」
エドガー様の声は、隣の卓にも聞こえる大きさだった。
夕食のあと、客間に移ってお茶をいただいていたところだ。彼のお母様が手にしていた匙を止め、暖炉の前にいた叔父様が振り向いた。十人ほどの客がいる部屋から、話し声が消えた。
私は、膝の上で両手を重ねたまま彼を見ていた。
「……旅行の日は、一月前にお伝えしましたよね。あの時は、楽しんでおいでと」
「だから、今は事情が変わったと言っている。友人たちを誘った遠乗りに、婚約者の君がいないのはおかしいだろう」
遠乗りの話を聞いたのは、今夜が初めてだった。
二週間後、私は友人のセリアと、その叔母様と一緒に海沿いの町へ行く。二泊三日の短い旅だ。子供の頃から絵でしか見たことのない海を、初めて自分の目で見る。
宿も馬車も決めて、費用を三人で分けた。私の分は、少しずつ残していたお小遣いから出した。
セリアと何度も相談して決めた日を、今日になって動かすことはできなかった。
「遠乗りを、別の日にしていただけませんか。次の週でしたら、私も――」
「僕の友人たちに、君一人の都合で予定を変えろと言うのか」
私が日を変えれば、セリアたちの予定が変わる。
そのことを言いかけて、口を閉じた。彼が眉をひそめたからだ。今それを言ったら、ますます機嫌が悪くなる。
黙ってしまった私を見て、エドガー様は椅子の背にもたれた。
「君が僕より友人との遊びを大切にするのなら、結婚はできない。婚約は破棄だ、マリエ」
二度言われて、ようやく意味が胸へ落ちてきた。
あと六週間で、私はこの方の妻になるはずだった。今夜も、婚礼の料理について彼のお母様と話したばかりだったのに。
先ほどまでおいしかったお茶が、喉の奥に引っかかっている気がした。飲み込んでも、痛みが取れなかった。
「エドガー、そんな大事な話をここで――」
「母上。僕は、彼女に答えてもらいたいんです」
彼はお母様を制し、私へ顔を戻した。
私は謝ればいいのだろうか。旅行を取りやめます、あなたと遠乗りへ行きますと言えば、今の言葉はなかったことになるのだろうか。
そうすればセリアにも叔母様にも謝らなければならない。でも、結婚をやめられるよりは。
そこまで考えた時、少し離れた席にいた母と目が合った。
「マリエ。帰りましょう」
母はもう立っていた。
私を急かさず、ただ手を差し出した。その手を見た途端、ここにいる間は泣くまいと思っていたのに、目の奥が熱くなった。
エドガー様が前へ身を乗り出した。
「帰る前に、何か言うことはないのか」
立ち上がると、膝が頼りなかった。私は椅子の肘掛けに触れ、それから母の手を取った。
「今は、お話しできません」
声がかすれた。
彼は私の顔をじっと見ていた。怒っていると思ったのに、何かを待っているようにも見えた。
私はその顔を見続けられず、伯爵様と夫人に頭を下げて部屋を出た。玄関へ向かう廊下を歩いている間、彼が呼び止めてくれるのではと、足音に耳を澄ませてしまった。
追ってくる足音はなかった。
* * *
家に着いても、すぐには泣けなかった。
侍女にドレスを脱がせてもらい、寝間着に着替え、鏡の前に座った。髪飾りを外した髪が肩へ落ちる。その向こうに、婚礼用のヴェールを入れた箱が映っていた。
箱の蓋が少し開いている。出かける前に母と眺めたのだ。
手に取ってしまってから、これはもう使わないのだと気づいた。
「マリエ」
寝室へ入ってきた母に呼ばれ、顔を上げようとした。でも、うまくできなかった。
ヴェールを箱へ戻したいのに、指が布を放さない。涙で濡らしたら困ると思ったところで、頬を伝った雫が膝へ落ちた。
母がそっと布を受け取った。私は空いた両手で顔を覆い、ようやく声を出して泣いた。
「私、楽しみにしていたの」
結婚のことなのか、海のことなのか、自分でも分からなかった。どちらも楽しみにしていたのだと思う。
海を見たら、どんなだったかエドガー様にお話しするつもりだった。お土産も選ぼうと思っていた。たった三日離れることで、彼との結婚がなくなるなんて考えもしなかった。
「一緒に行くのが嫌だったわけじゃないの。別の日なら、私も行きたかったのに」
「ええ。ちゃんと、そうお話ししていたわ」
母に背を撫でられると、ますます涙が出た。
エドガー様に初めて遠乗りへ誘われた日を思い出した。二年前の春、私は馬に乗るのがあまり上手ではなく、ほかの方の速さについていけなかった。
彼は皆を先に行かせ、私の隣をゆっくり進んでくださった。急がなくていい、僕は君を誘ったのだからと笑って。
あの帰り道、結婚したらこんなふうに過ごせるのかもしれないと、嬉しくて眠れなくなった。
「好きだったのよ、お母様」
母は、知っているわと答えた。
知っていてくれたのが嬉しくて、悔しかった。大切にしていたことを、当の本人には分かってもらえなかった。
彼に誘われれば予定を変えた。彼が嫌がれば、集まりへ出るのをやめた。困らせたくなかったし、二人で楽しく過ごしたかった。そうしていれば、あの遠乗りの日のように笑ってくださるから。
いつからか、何かに誘われても、その場で返事をしなくなっていた。
エドガー様のご予定を確かめてから、と言うのが癖になった。予定がなくても、あとから何かあるかもしれない。それで断ったこともあった。
今回だけは行きたかった。海の絵葉書を並べて、セリアと何度も楽しみだと言い合ったのだ。
「私が旅行をやめると言ったら、許してくださるかしら」
口にしてから、また涙がこぼれた。
母はすぐには答えなかった。私が顔を上げるまで待ち、それから聞いた。
「あなたは、旅行をやめたい?」
私は首を横に振った。
「では、やめると謝って結婚したあと、また同じことがあったら、どうしたい?」
今度は、すぐに答えられなかった。
次は旅行ではないかもしれない。友人のお茶会か、母に会いに来る日かもしれない。彼の予定と重なるたびに、結婚を後悔していると言われたら。
私は、そのたびに今日の客間を思い出すのだろうか。十人の前で返事を待つ彼の顔を思い出して、先に自分の予定を取り消すのだろうか。
「……怖いわ」
母が私の手を握った。
まだ好きなのに、またあの家へ行くのが怖かった。結婚すれば、帰りましょうと手を差し出してくれる母は、毎日そこにいるわけではない。
私は涙を拭いた。拭っても、次が出てきた。
「お父様に、お話しして。婚約を解消する手続きを進めていただきたいの。私、あの方のところへは行けない」
母は、分かったわと言った。
私を強い子だと褒めたり、すぐにもっといい人が現れると言ったりはしなかった。ただ隣に座り、私が泣き疲れるまで手を握っていた。
翌朝、父は私の意思を確かめてから、フェルナン伯爵家へ手紙を届けた。
私は朝食を半分も食べられなかった。眠れないまま夜が明け、鏡の中の目は腫れていた。決めたからといって、すぐ元気になれるわけではなかった。
それでも、セリアへ旅行を取りやめる手紙は書かなかった。
* * *
エドガー様がいらしたのは、その日の午後だった。
父は外出していて、母が私と一緒に応接間へ入った。エドガー様は薄桃色の薔薇を抱えて立っていた。私が好きだと言った色だ。
その花を見た瞬間、馬鹿みたいに、ほっとしかけてしまった。
「ずいぶん泣いたんだな」
私の顔を見て、彼は声を和らげた。
責める調子ではなかった。以前、風邪をひいた時に見舞ってくださったのと似た声だった。
私は母の隣に座った。エドガー様も向かいへ座り、花束を卓の上へ置いた。
「今朝、お父上のお手紙が届いて驚いたよ。どうして、こんな大事にしたんだ」
「……婚約を破棄すると、おっしゃいましたから」
「本当に破棄するつもりだったわけがないだろう。婚礼まで、あと六週間なんだぞ」
彼は、やっと行き違いを説明できるという顔をしていた。
私はその顔と花束を交互に見た。胸の中で何かがほどけかけ、けれど、ほどけた先に昨夜の自分がいた。
ヴェールを放せずに泣いた私。母の手を握り、彼の家へ戻るのが怖いと言った私。
「では、どういうおつもりで」
「君を試したんだよ。最近の君は、僕の頼みを簡単に断るようになったから。結婚する前に、僕のことをどう思っているのか、確かめておきたかった」
母の手が膝の上で動いた。私はその手に触れた。
まだ、私が聞きたかった。
「いつ、取り消すおつもりでしたの」
「君が、本当は別れたくないと言ってくれれば、その時に」
「昨日、あの場で?」
彼は頷いた。
「君だって、僕が離れていくと思えば寂しかっただろう。そう言ってくれたら、僕も安心できた。何も言わずに帰ってしまうから、お互いに嫌な気持ちになったんだ」
私が泣いて、別れないでほしいと頼むのを待っていた。
あれだけの人がいる部屋で、旅行をやめるから結婚してほしいと、縋るのを。
喉の奥が熱くなった。今度は、言えない言葉に押されていた。
「私がどんな気持ちで帰ったか、お考えになりましたか」
「だから、花を持ってきた。少しやりすぎたとは思っているよ。ただ、君にも僕の気持ちを――」
「私は、昨日、本当に結婚がなくなったと思いました」
声が大きくなった。エドガー様が口を閉じた。
私は、卓の上の薔薇から目を離せなかった。いつもなら、ありがとうと言って受け取り、水へ入れてもらう。喜んだ顔をすれば、彼も満足する。
今日は、どうしてもその顔ができなかった。
「あなたが好きでした。結婚するのを楽しみにしていました。あのヴェールをつける日を、ずっと待っていたんです。それを、全部なくしたと思って……昨夜は、眠れませんでした」
言い終わる前に涙が落ちた。
泣きたくなかった。これを見て、彼が望んでいたとおりになったと思うのが嫌だった。でも、止めようとすると喉がつかえ、言いたいことまで出なくなる。
私は手巾を頬へ当てて、息をした。
「それを見たかったんですか。私がそうなるのを、待っていたんですか」
エドガー様は、返事をしなかった。
先ほどまでは、確かめたかったことを分かってもらえば済むという顔だった。それが消え、困ったように母のほうを見た。
母は何も言わなかった。私の手だけを、膝の上で握り返した。
「……君を傷つけたかったわけじゃない。僕を一番に考えてほしかっただけだ」
「あなたとお会いする日は、大切にしていました。今回も、旅行の日は先にお伝えしましたし、遠乗りは別の日ならご一緒したいと申し上げました。それでは、足りないんですね」
「そういう日程の話をしているんじゃない。僕のためなら諦められることもあるだろうと、言っているんだ」
彼は少し苛立っていた。
その声を聞くと、私はまだ、謝りたくなった。これ以上怒らせずに話を終わらせる方法を、探しそうになった。
けれど、ここで謝ったら、何のために昨夜決めたのだろう。
「あります。だから、何度もそうしてきました。でも、今度の旅行は行きたかったんです。あなたも最初は、行っていいとおっしゃったでしょう」
許可をもらったのだから、と言いかけて、苦しくなった。
彼が認めた予定しか持てない妻になるのは嫌だ。私は昨夜、そう思って母に頼んだのだ。
握られていた母の手をそっと離し、自分の両手を膝に揃えた。
「エドガー様。私があなたの頼みを断るたび、また試すんですか。次は結婚したあとに、もう妻ではいらないとおっしゃるんですか」
「そんなことは言っていないだろう。今回だけだよ」
「私は、昨日までのあなたも、こんなことをする方だとは思っていませんでした」
彼の顔を見ると、また泣きたくなった。
初めての遠乗りの日に、私が追いつくのを待ってくれた人と同じ顔だった。その人に向かって、私はもう信じられないと言わなければならない。
「私は、試されるたびに好きだと証明して暮らしたくありません。あなたが望む答えを言わなければ、結婚できないのなら、それで結構です」
「マリエ。意地を張るな。君が僕を好きなのは、もう分かったから」
エドガー様は花束を持ち上げ、こちらへ差し出した。
薄い紙が擦れる音がした。私は受け取らなかった。
「合格する気はありません」
差し出された花が、そのまま止まった。
「好きだから泣いたんです。でも、あなたに許していただくために泣いたのではありません。婚約は、解消してください」
彼はしばらく私を見ていた。
言葉が通じなかったのかと思うほど長かった。やがて、伸ばしていた腕を下ろした。花束が膝へ戻り、包装紙の端が上着に引っかかった。
彼はそれを乱暴に外した。
「……僕は、取り消すと言っている」
「私は、結婚しないと申し上げています」
「本当にそれでいいのか。ここで僕を帰したら、今度こそ終わりになるかもしれないんだぞ」
胸がきゅっと縮んだ。つい昨日まで、一番聞きたくなかった言葉だ。
それなのに彼は、花を持ってきた今日も同じことを言う。
私は手巾を握り直し、彼を見た。
「はい。終わりにしたいんです」
エドガー様の口が、わずかに開いた。
私が慌てて言い直すのを待っているのだと、今度は分かった。だから、何も付け足さなかった。
しばらくして、母が静かに立ち上がった。
「今日はお帰りください。後日、両家できちんとお話をいたしましょう」
彼は立たなかった。
膝に置いた花を見て、それから私を見た。花束を卓へ置こうとして、途中で手を止める。
「これは、君に買ってきたものだから」
「お気持ちだけ、とは申し上げられません。今日は、お持ち帰りください」
礼を言えなかった。
優しく断れば、まだ私の気持ちを変えられると思われそうだった。綺麗な花を買ってきたことより、どうして昨日あんなことをしたのかを、考えてほしかった。
エドガー様は花を抱えたまま立ち上がった。玄関へ向かう前に一度だけ振り向いたが、私は座ったまま頭を下げた。
扉が閉まった途端、息が震えた。
母が隣へ戻ってきて、私はその肩へ額を寄せた。言い切れたから平気なのではなかった。好きだった人に、自分から終わりにしてほしいと言ったのだ。
泣きながら、同時に少しだけ、息がしやすくなっていた。
* * *
二日後、同じ応接間で、両家の話し合いが行われた。
エドガー様は両親と一緒にいらした。今度は花を持っていなかった。
フェルナン伯爵は最初に、息子の発言と、その後の説明について謝罪してくださった。父はそれを聞いてから、婚約を解消したいという私の意思を伝えた。
「マリエ嬢には、改めて息子から謝らせていただけないでしょうか」
伯爵に問われ、私は頷いた。
謝罪を聞くことと、婚約を続けることを、別々に考えられるようになりたかった。
エドガー様は私へ向き直った。前のように椅子へ深く座らず、両手を膝の上に置いていた。
「悪かった。僕は、君が断るはずはないと思っていたんだ。少し怖がらせれば、旅行をやめてくれると。……結婚をやめたいなんて、本当には思っていなかった」
私は、彼の言葉を最後まで聞いた。
聞けば聞くほど、悲しかった。結婚したくないと言われたから別れるのに、その言葉を言った本人は、別れる気がなかったという。
そんなことのために二年間が終わるのかと、まだ惜しく思ってしまう。
けれど、二年間を惜しんでこの先を決めることはできなかった。
「本当に結婚したかった。君が来る部屋も、もう整えていた。これからは嫌だと言ったことを無理に頼まないし、試すようなこともしない。もう一度、考えてもらえないか」
エドガー様の声が、最後だけ弱くなった。
伯爵夫人が顔を伏せた。あの部屋のカーテンは、私と一緒に選んだものだった。どちらの色がいいかと聞かれ、彼が明るいほうを選んだのを覚えている。
私は、膝の上に置いていた小さな箱を開けた。
「お返しします」
婚約の指輪だった。
昨夜、自分で外した。指に白い跡が残っていて、それを見るたびに、なくなった重さを感じた。
箱を卓へ置くと、エドガー様の視線がそこへ落ちた。
「マリエ。君だって、まだ悲しいんだろう」
「はい」
「だったら、別れなくても――」
「悲しくないから別れるのではありません」
言葉が重なった。
私は一度息をつき、ゆっくり続けた。
「今日も、朝からあなたに会うのが怖かったんです。私が何を言ったら怒るだろう、また何か間違えるだろうって。結婚しても、そうやって顔色を見ている自分が、どうしても浮かびます」
彼は何かを言いかけたが、私は続けた。
「もうしないとおっしゃったことは、聞きました。でも、今それを信じて、結婚したいとは思えません。一昨日も、私がお断りしたら、本当に終わりになると言われました。それが怖くて、はいと答えるのは、もう嫌なんです」
エドガー様は、目を伏せた。
誰もすぐには話さなかった。庭で木の枝を切る音が、一度だけ聞こえた。
私は手巾を握っていたが、今日はまだ泣いていなかった。
「……君が泣いたら、僕は安心できると思っていた。僕がいなくなるのは嫌なんだと分かれば、それでよかった。君がどんな思いをするのかは、考えなかった」
目元が赤かった。
私が知っている限り、彼が人前で泣きそうになるのを見たのは初めてだった。謝っているのは本当なのだろうと思った。
それでも、手を伸ばさなかった。彼が苦しそうだから婚約を続けるとは、もう言えなかった。
「私も、あなたと結婚したかったです」
過去のこととして口にすると、胸が痛んだ。
「だから、あんなふうに言わないでほしかった」
エドガー様は唇を結び、しばらくして頷いた。
卓の上の箱へ手を伸ばし、指輪を見た。何か言おうとして、結局言わずに蓋を閉じた。
婚約の解消は、その席で決まった。
婚礼の準備は取りやめ、親戚への知らせも両家から出す。費用や返す品については父と伯爵が話を進め、私たちは内容を確かめた。
あの婚礼の日に、この方の妻になる予定は、もうなかった。
帰り際、玄関でエドガー様に呼ばれた。
私は母の隣で立ち止まった。彼は両親より少し後ろにいて、私の手元を見ていた。
「旅行は……行くんだな」
「はい。楽しみにしています」
声に出してから、私は自分がそう答えられたことに驚いた。
一昨日の彼だったら、そんなに海が大事なのかと言ったかもしれない。けれど今日は、少しだけ頷いた。
「そうか」
それだけ言って、馬車へ向かった。
彼の足取りを見送っても、呼び戻さなかった。馬車が門を出るまで母と並んで立ち、それから家の中へ戻った。
自分の部屋へ上がると、机の引き出しから海の絵葉書を取り出した。
セリアへの返事には、予定どおりに行けることと、窓側の席を交代で使いたいことを書いた。
* * *
「マリエ、あれ。木の向こう」
セリアに袖を引かれ、私は馬車の窓へ顔を寄せた。
丘を下る道の先に、青いものが見えた。畑の色とも、遠くの山とも違う。道が曲がって木立が途切れると、それがずっと向こうまで広がった。
「海……?」
「ほかに何に見えるのよ。叔母様、見えましたわ!」
向かいに座った叔母様が笑った。
私は窓枠へ両手をつき、身を乗り出しすぎないようセリアに腰を押さえられた。絵葉書には波の白い線が描かれていたけれど、本物は、その線が動いている。
ただそれだけのことが、嬉しくてたまらなかった。
出発までの二週間、ずっと元気でいたわけではない。
婚礼の箱が部屋から運び出された晩には、また泣いた。街で薄桃色の薔薇を見ると、あの花束を思い出した。
セリアには婚約が解消されたことと、旅には行きたいことを、自分で話した。彼女は怒ってくれたあと、では馬車で食べるものも予定どおり分けましょうと言った。
慰められるためだけの旅行にならなかったことが、ありがたかった。
宿へ荷物を預けると、私たちは三人で浜へ出た。
初夏の風は思ったより強く、帽子の紐を結び直さなければならなかった。潮の匂いがする。波が寄せてくるたび、濡れた砂の色が濃くなる。
私は裾を少し持ち上げて、足元ばかり見ていた。
「先に、向こうの店まで歩く? それとも、浜を見ていたい?」
セリアに聞かれ、つい、あなたはどちらがいいと返しかけた。
でも、彼女は私の返事を待っていた。自分の希望を言ってはいけない顔ではなかった。
「靴を脱いでみたいわ。少しだけ、波に触れたら駄目かしら」
「私もそう思ってたの。叔母様、よろしい?」
叔母様は、波打ち際だけにしなさいよと言いながら、ご自分も腰を下ろして靴紐をほどき始めた。
私とセリアは顔を見合わせ、笑った。叔母様が先に支度を終え、二人とも遅いわねと裸足で立ち上がる。
砂は表面が温かく、少し足を沈めると冷たかった。
私は裾を両手で持って、濡れた砂の上へ進んだ。
小さな波が近づいてくる。これくらいなら平気だと思ったのに、足に触れた途端、声が出た。
「冷たい!」
「海だもの!」
セリアが笑い、その次の波で同じ声を上げた。
私はお腹が痛くなるほど笑った。彼女に、あなたも叫んだじゃないと言い返しながら下がると、かかとが砂に埋まって少しよろけた。セリアが腕をつかみ、私も彼女につかまった。
誰かがこちらを見ているか、笑いすぎていないか、確かめる前に笑っていた。
波が引いたあと、足の指の間から砂がさらわれていった。
私は遠くへ目を向けた。白い帆を張った船が、ゆっくり進んでいる。風がまた吹いて、耳元にかかっていた髪を持ち上げた。
昨夜まで考えていたことが全部消えたわけではない。でも、今はこの船を見ていたかった。
「マリエ、戻る? 叔母様が靴を持ってくださるって」
振り向くと、叔母様が三人分の靴を抱えていた。
私は、もう少しここにいたいと思った。それをそのまま言うと、セリアは私の腕を放し、隣へ並んだ。
「じゃあ、次の波は逃げずに待ちましょう」
「今のより大きかったら、逃げるわよ」
私が答えた時には、もう次の白い線が近づいていた。
思ったより大きい。二人で同時に裾を持ち上げ、それでも足首まで水をかぶった。
冷たさに声を上げ、私はセリアと笑いながら浜を駆け戻った。
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