ある伯爵夫人の話
夜の吹雪が強く吹きつけて磨かれた窓ガラスをゆらす。
その激しさに思わずブランシュがびくり、と肩をちぢこませると、暖炉の前にいたガウン姿の十歳年上の従姉が優しく笑った。
「あらあら。もう十三歳だというのに、ブランシュは相変わらず吹雪や嵐が苦手なのね」
「だって、窓ガラスが割れたらと思うと…………」
「マロン伯爵邸のガラスは、この程度の風で割れたりはしないわ。旦那様が最新のガラスをはめさせているもの。こちらにいらっしゃい。ほら、ホットチョコレートが来たわ」
盆を抱えたメイドが伯爵夫人の寝室に入ってくる。
ブランシュは室内用のレースのスリッパをぱたぱた鳴らして、暖炉の前の長いソファに座ると、湯気の立つ飲み物をうけとり冷えた指先をあたためた。
ブランシュの隣に従姉も腰をおろし、二人でしばしとろりとした甘さを堪能する。
従姉の肩にもたれて暖炉の炎を見つめていると、従姉がどこか夢見心地の声音で提案してきた。ブランシュが幼かった頃のように。
「寝る前に一つ、お話をしましょうか。あなたの好きな、婚約破棄からはじまるお話。お姫様が王子様と結婚するお話を――――」
「貴様との婚約は解消する、ローズ嬢! 身分や家柄を笠に着てきての、我が愛するデイジーへの無礼と暴言の数々! もう我慢ならん!!」
とある子爵夫人の夜会で。
一人の子息が婚約者である令嬢に右の人差し指を突きつけ、宣言した。
子息の左手は可憐な令嬢の細い腰の上。
『ローズ』と呼ばれた令嬢は屈辱と苛立ちを緑の瞳ににじませながらも、努めて冷静に子息に向かい合う。
「その件でしたら、もう話し合ったはずです。爵位も持たぬ家の娘が、自分の家より高位の、それも正式に婚約者のいる殿方に過剰に親しく接する。それを注意することの、なにが不当とおっしゃるのですか?」
「黙れ! 口を開けばいつもいつも、小馬鹿にした目で説教ばかり! お前のその正義面が見苦しくてたまらんのだ! 結婚したら毎日その顔を見ると思うと、うんざりする!!」
理屈にもなっていない子息の罵倒にローズも腹立ちを覚えたものの、淑女らしさをたもって淡々と返答する。
「私個人の気持ちとしましては、婚約解消に異論はございません。ですが卿のお父君、それに私の父は承知しているのでしょうか? 私はお二人から、まだなにも聞いていないのですが」
すると子息は「ふん」と偉そうに鼻を鳴らした。
「父上にはこれからお話しする。私の気持ちはすぐにご理解いただけるはずだ」
「まさか、お父君の許しを得ていない、いえ、お話しなさってすらいないのですか? それなのに婚約破棄が成立するとでも?」
ローズは怒りをとおりこして呆れ、事態を見守っていた客の間にも驚きと困惑がひろがる。
「成立するに決まっている。淑女にあるまじき貴様の生意気ぶりは、父上もよくご存じのはずだからな」
言いながら、子息は手近な位置に立っていた給仕係の盆の上からシャンパングラスをひっつかむと、勢いよくその中身を婚約者の令嬢にぶちまけた。
貴婦人達が悲鳴をあげ、ローズの仕立てたばかりの薔薇色のドレスに大きな染みができる。
ていねいに化粧した頬にも数滴、金色の液体がかかった。
「貴様にはその格好がお似合いだ」
嘲笑と共に吐き捨てた子息の言葉に、さすがに「ひどい」と周囲から同情の言葉とまなざしがローズに集まる。
すると観客をかきわけ、別の子息が現れた。
「いくらなんでも、やりすぎでしょう」
きらめく金色の髪に、青の瞳。均整のとれた長身と、それを包む最高級のジャケットとズボン、シャツ、タイ。
新たな子息はその背でローズを守るように彼女の前に出ると、ローズの婚約者をまっすぐなまなざしで非難した。
「たとえどれほど彼女から心が離れていたとしても、これは紳士の態度ではありません。女性には礼節をもって接すべきだ」
「ブラウン伯爵令息…………」
令息に指摘された途端、ローズの婚約者は言葉から勢いが失われ、半歩退いた。
それほど二人の立場には差があった。
ブラウン伯爵令息は無礼者が戦意を失ったことを確認すると、ローズをふりかえる。
「お怪我はありませんか? ローズ嬢。シャンパンがかかっただけですか?」
「ええ。幸い、濡れただけです。怪我などはございません。ですが、この格好では踊ることもできません。せっかくの夜会ですが、今宵はもう失礼させていただきます」
事態を知って飛んできた主催者の子爵夫人にも伝えると、夫人も気の毒そうに「そうね」とうなずいて、彼女をホールの出口へ連れて行こうとする。
「こちらをお使いください、ローズ嬢。それからこちらも」
ブラウン伯爵令息はまず絹のハンカチをローズに差し出し、それから自分が今着ている最高級品のジャケットを脱いで、ローズの白い肩に羽織らせようとした。
「まあ、そこまでしていただくわけには」
「お使いください。紳士として、淑女の危機に駆けつけぬはずはありません。まして、愛する乙女の危機ならなおのこと。貴女の危機なら、どこにいても駆けつけます、ローズ嬢」
「え?」
「以前より心惹かれておりました。彼が貴女との婚約を破棄するなら、願ってもない。どうか私の妻に、ローズ嬢。生涯、貴女を守ります」
ローズは状況を忘れて目をみはり、見守っていた令嬢達が黄色い声をあげる。
ブラウン伯爵令息。
容姿端麗、文武両道、品行方正、温厚篤実。それから広大な領地を抱える名門、ブラウン伯爵家の後継者。
「未婚の令嬢なら一度は憧れる」と噂の子息からの、あまりに唐突で予想外の申し出に、ローズは返事もままならない。
「わ、私の一存では、なにも。どうか父に。父にお話しください。父が、父さえ良いというなら、私は…………私は、反対など…………っ」
「真ですか? では明日にでも貴女の父君に会いに行きます」
至近距離で見た眩しい笑顔に、ローズは胸を射抜かれた。
「今宵は帰りましょう。送ります」
令息が差し出した、白の手袋に包まれた大きな手。
その手に己の手を重ねた瞬間、ローズの頭からはこれまでの婚約者の存在も、彼から味わわされた屈辱も、ついでに彼を奪った卑しい女の存在も、すべて吹き飛んで消えた。
令嬢達の悲喜こもごもの悲鳴に包まれながら、優しいエスコートに身をゆだねてローズは大理石の床を歩き出す。
聞き覚えのある声が背中に飛んできた気がしたが、ふりかえる気すらおきない。
「約束します、ローズ。私はけして、あの男のように貴女に恥をかかせる真似はしない。貴族の男として、貴女を守りつづけます――――」
まるで物語そのままの展開。
廊下の淡い灯りの下、令息から与えられた優しい言葉と瞳に、ローズはこの先の幸せをうっとりと確信した――――
「間抜けなご令嬢ね」
それなりに長い語りのあと、従姉はぽつり、こぼした。
「婚約者に不当な婚約破棄を言い渡されて恥をかいた令嬢を、さっそうと現れた王子様が救う――――そんな物語のような出来事が本当に起きると、ローズは信じてしまったのよ。愚かなことに」
「どうして? 伯爵令息はローズを助けてくれたのでしょう? すてきな夫を得て、幸せになったのではないの?」
「表面上はね」
従姉はブランシュの波打つ金髪をなでる。
「令息はたしかに素晴らしい夫となったわ。夜会でも舞踏会でも、夫婦で出席する催しには必ずローズを同伴して人前でも臆面もなく妻を褒め、気遣い、誰もが彼を理想的な夫と褒めた。伯爵邸でも彼は妻の好みや願いをよく聞いて、彼のできる範囲で、できる限りのことをし、不自由を感じないよう気を配った。おかげで社交界ではブラウン伯爵夫妻は仲睦まじい夫婦と信じられて、使用人の大半もそう思っているでしょう。ついでに、ローズの元婚約者は社交界の笑い者。…………でもね、そんなローズにばかり都合のいい物語など、あるはずがないの」
ふ、と従姉の唇から苦い、苦い、そして深い寂しさを含んだ笑いがかすかにもれる。
「令息には、本当に愛する女性が別にいたのよ」
ブランシュは目をみはる。
「夫には、結婚前からの恋人がいた。彼が本当に愛するのは、その女性だけ。けれど彼女は、名門伯爵家の後継者の妻には逆立ちしてもなれない立場だったし、夫も若さゆえの激情に身を任せて駆け落ちするほど、無謀でも無責任でもなかった。彼は未来の伯爵として、貴族の男として、らしく生きる道を選んだの。つまり貴族の女を妻に迎えつつ、本当に愛する女は愛人として囲う、というよくある道ね」
とうに空になったホットチョコレートのカップを、従姉の白い手がぎゅっ、とにぎる。
「ローズは夫に告げられたの。初夜の時に」
『私には真に愛する者がいる。だから君を恋人として愛することはできない。今夜も、この先も、ずっと』
「ただし」と従姉はつづけた。
『君の生活は保証しよう。君がブラウン伯爵夫人として役目を果たしつづける限り、私も君を伯爵夫人として、正式な妻として丁重に扱う。不自由はさせないし、良き夫となること、不名誉な噂などいっさい立てさせないことを、神に誓う。君にとっても、悪い話ではないはずだ。それで納得、満足してほしい』
新婚の夫は真っ向から堂々と新妻を見すえ、宣言した。
「…………拒む余地はなかった。ローズの婚約破棄の顛末は社交界中に知れ渡り、彼女が自身の名誉を回復するには、ブラウン伯爵家とその令息の威光にすがるしか道はなかった。もし、あそこで令息の申し出を断って新婚早々離婚なんてことになったら、今度こそローズの評価は地に落ちて社交界には二度と戻れない。実家だって笑い者に…………っ」
寝間着の裾をにぎりしめた従姉の顔に、恨みや憎しみは浮かんでいない。
ただ、暗く重い空気が霧のようにまつわりついている。
「この話にはね、もう少しつづきがあるの」
言葉を失ったままのブランシュに、従姉はさらに物語をつづける。
「ローズの夫はね、世間には秘密の本当の恋人との間に子供ができたの。男の子よ」
「え…………」
「夫はその子を、伯爵家の跡取りにするつもりなの。父親である伯爵にも秘密よ。療養を名目に数年間、ローズと二人で都を離れて、療養先で身籠って産んだ、と対外的にはよそおうつもりなの」
「え、でもローズは」
「しかたないのよ。夫はローズに指一本触れない。どれほどローズに優しくても、彼女を抱くことだけはない。ローズは永遠に身籠れない。彼女が伯爵夫人としての役目を果たし、『石女』の不名誉から逃れるためには、それしか方法がないのよ」
「…………」
「そんな表情をしなくていいのよ、優しいブランシュ。ローズは幸せだもの。身分不相応の立派な結婚をして、立派な夫を得て、夫は私生活でも優しく、何不自由ない暮らしをさせてくれて、妻が不名誉を避ける配慮までしてくれる――――それが自分の都合であっても――――」
「…………」
「夫は立派な貴族の男よ。だからローズも、非の打ち所がない貴族の妻になることにしたの。だから、あなたが悲しむ必要はないのよ、ブランシュ。ローズはとても恵まれた令嬢。世間で言う『社交界一の幸運な令嬢』なのだから――――」
そこまで語ると、従姉はとうとつに明るい声でブランシュの顔をのぞき込んできた。
「ほら、機嫌をなおして、ブランシュ。これはお話。全部、作り話なんだから。ね?」
従姉はブランシュを抱きしめた。
ホットチョコレートはとうに空になり、外は吹雪がやまずに窓はガタガタ鳴りつづける。
従姉はブランシュに提案した。
「ねえ、ブランシュ。今夜は私のベッドで一緒に寝ない? 吹雪が怖いのでしょう、今夜は特別に。ね?」
明るい声と笑顔。
その優しい緑の瞳の奥の、すがるような寂しいまたたき。
ブランシュは気づかないふりをして、大好きな従姉の提案に乗った。
「ええ、よろこんで。ロザリーお姉さま」
従姉妹はメイドの整えたベッドに並んで横たわり、毛布に潜る。
「寒くない? 毛布は足りている?」
「大丈夫よ、お姉さま。お姉さまと二人だもの、大丈夫…………」
はや眠気に呑み込まれていく意識の中、ブランシュには確信が生まれていた。
来週から伯爵家の別荘に遊びに行くロザリーお姉さまは、きっと二、三年間、戻って来ない。
そして帰ってきた時には、お姉さまは赤ちゃんをその胸に抱いているのだ。
赤ちゃんは旦那さまか、お姉さま以外の女性の顔に似ている。
でも、お姉さまはそれを黙って受け容れるのだ。貴族の女として。
そうして『社交界一の幸運な令嬢』ロザリー嬢は『社交界一の幸運な伯爵夫人』ロザリー・ド・マロン伯爵夫人となるのだ――――




