[33]隻腕の魔女③
「キャッ」
耳を打つ可愛い娘の悲鳴。ああ、椿は落ちたのかしら。ボトッと根本から花弁が落ちてしまったの!?
哀れな、娘よ。ママを許してね。
アタシは思わず、両手で目を閉じてしまった。見るに耐えないじゃないの?面食い魔王のケーシのことだ、可愛い万葉は剥かれて嬲られてボロボロにされちゃうに決まってる。
ヨヨヨヨっと涙が漏れました。
「ちょっ…慶慈さんっどうしっ…ったの」
万葉が押し倒されたのだろう、ドサッと重い音がした。
切れ切れの万葉の問い掛け。
「っはあぅ」
ケーシの喉を鳴らす音が、アタシの、アタシの耳に届いてる~。
何かを舐める音がする。……………アタシは今、目を閉じてるからなにしてるかはわからない。
声がする。
だけど、見えない。当然だ、アタシは目を閉じている。
(駄目よ。駄目駄目。見ちゃ駄目だ。…………………………そう見ちゃ駄目なのに…ちょーっと気になるぅ)
刺激的だ。そして、溜まらないほど背徳的なわけよ。
覆った指の隙間をほんの少しずつ開かれていくのを止めるだけの自制心が発揮できない。見たいんだわ。どうせだめなら、楽しみたいじゃないの。大丈夫だわ、こんなに可愛い娘だもの殺されることもないでしょ。まあ、天国には昇らされちゃうかもしれないけど。
ジリジリと開いた隙間から二人の濡れ場が覗かれていく。千次郎の放つほのかな明かりが、照明なんて文明の力の吹き飛んだボコボコの穴倉を照らし出していく。陰影の中に浮かび上がる柔らかな肉のオウトツ。一人は体中に襤褸切れみたいな服を引っ掛けただけの成熟した肉体。一人はやっと育ってきた青い果実。
さぞや、そそられる。っじゃないっ!すばらしい絵なのだろう─────っと思ったのだけど。
「って、あれ???」
想像とちがってちょっと戸惑った。
目の前にいるのは大きな猫だ。猫がいる。
ここにいるのは、危険な獣じゃない。万葉の膝で丸まって甘えているのは可愛い猫ちゃんだった。
「ケ、ケーシ?!」
これは何だ?何事だ?こんな彼は、いや現象今まで見たことないぞ。
さっきまでの歪な狂気はどこにいったの。
ケーシは膝の上で丸まったまま、時折見上げるように伸びをして万葉の首筋に顔を擦りつけて満足げに目を細めている。胸元にしっかりと千次郎を抱いたまま、だ。まるで、気に入りの玩具を手にした子供のよう無邪気さで、雷神を握ったまま母親に甘えるように万葉に寄り添っている。
「ママ、慶慈さんいったいどうしちゃったの?まるで、子供だよう」
反応に困っているらしい万葉は眉根をよせて母親であるアタシに教えを扱いてきた。ビックリして固まっているのも一緒だが、初めて娘に頼られてしまうという新鮮な体験をしているアタシが、一緒に困っているわけにはいかない。
何しろ、初めて母親役をやるチャンスなのだ。
表情にニンマリとした笑みを無理矢理作り出した。小馬鹿にしたような笑みで、ゆっくりと語りかける。内心では、落ち着け。落ち着け。と連呼していた。
「あのね、万葉」
えーっと、ケーシはとっても落ち着いてる。ハッキリ云って、スイッチの入った彼がこんなに安定してるとこはみたことない。
アタシが見たこと無いってことは、これはケーシにとっても初めての現象のはずだ。何しろ、いつもいっしょだもんね。
とはいえ、安定してる。無害だ。どっちかというと可愛いくらいだ。
「今、ケーシはね。無邪気な獣になっちゃってるの」
そうだ、いつだって無邪気だったんだ。無邪気な子供の残酷さで、すべてを壊してた。今は、ちょっとちがうみたいだけど。
理由は、玉女だからかな。うん、そうだな。やっぱり自分の女だからだろう。そうだよ、やっぱり女は偉大だ。偉い。すごい。男なんてみんなアタシたちの下僕になるべきだ。
「獣?」
「そうよ。世界中であんたの前でだけ、従順な可愛い獣」
アタシは悪巧みを今度こそ思いつき、さっきまでの紛い物の笑みとはちがう、ホントのニンマリを浮かべた。
「だから、万葉。うふふふ、あんたが飼い慣らしなさいっ!!」
思いっきり、人差し指をビシッと突きつけて高笑う。
「ふえ!?なんで」
「調教よ。調教。この世界でいちばん危険な獣を飼い慣らすのはあんたに与えられた使命!」
つーか、役得よ。
「なんで、私が慶慈さんにそんなことしないとならないのよ!嫌よ」
「んふふふっ。ハッキリ云うわよ。平静をたもってるケーシ相手じゃ、あんたみたいな小娘じゃ、主導権を握るなんて絶対無理よー」
「それが、どうしたっていうのよ。っていうか、何で今頃そんな話を」
軽く噛み付くように唇を寄せてくるケーシの扱いに困惑しながら、綺麗な眉を寄せている。
「でもね。今のスイッチの入って逝っちゃってるケーシなら、あんたがご主人様になれるわよ」
「………。」
「ちなみに、化けてる時の記憶なんて元に戻ったときには曖昧なもんよ」
どんな風に接しても、彼にはバレナイ。そうよ、どんな風にもね。
「!」
「覚えてないって」
万葉は息を飲んで固まった。うっすらと笑ってアタシは甘美な毒を囁く。取れるのよ。やってみたくない?愛しい相手を飼い慣らして、可愛がる。男でも女でも一度は夢見る、永遠のシチュエーション。
どう?
ケーシは美しいでしょう?普通じゃ見られないくらい、感情が素直にでるようになってるし。
「さあ、どうする?」
顎を傾げて突きつけたままの掌を開く。
その掌に間髪置かずに掌が重ねられた。がっしりと握手した瞬間、万葉の綺麗な瞳がキラリと光る。悪戯っぽい表情で、微笑む。
「のったわ」
右手でアタシの手を取りながら、左手でギューッとケーシの体躯を抱きしめた。嬉しげにケーシが鳴いていた。
この瞬間、竜胆万葉のコードは決まった。
彼女のコードは『女主人』!これ以外に相応しい代物があるだろうか?!いや、無いに決まってる。
万葉がケーシの長い赤髪をぐしゃぐしゃと撫でてやっている。それは、犬を可愛がる時のそれだ。ただ、撫でてやった左手がだんだんと輪郭を伝って落ちていき、人差し指と中指の二本がケーシの唇に当たる。端から唇を撫でていた指先が真ん中にくると、上下に開かれた。ケーシはほんの少しの抵抗の後に、なんと素直に唇をあけ開いたのだっ。
ビックリだわ。普通なら咬むよ。ガブッとね。
「んふっ」
万葉が恍惚とした笑みで、口に含ませた指先の感触を楽しんでいる。
「舐めなさい」
静かな命令口調。
いい!?命令口調よ。命令口調。夢にまで見たであろう、自らの王となるべき男に対して、こういう遊びが簡単に実行できて楽しめちゃうところは、やっぱりアタシの娘って感じだ。
ケーシは一瞬だけ、迷うように喉で唸ったが、万葉が軽く睨むと簡単に屈服した。ピチャピチャっと可愛い濡れ音がする。
「さいっこー」
ゾクゾクとした表情で楽しんでいる娘にアタシはニンマリとした笑みで云った。
「万葉、あんたって悪い子に育ったんだね」
「仕方ないわよ。だって、ママの娘だもん」
「だわねぇ」
ああ、アタシの若い頃にそっくりな笑顔。
魔術素養はアタシじゃなくて、千次郎のほうを継いだみたいだけど、性格のほうはアタシ譲りらしい。
「ところで、ママ」
「なんだい。娘」
「慶慈の…」
あらまぁ、もう呼び捨てとはやるねぇ、万葉。んふふふふっ。
アタシはうっすらと微笑えもうとして─────
「持ってる鰻はなに?」
────固まった。
それはおまえのパパなのよ。
とは、云えませんね。さすがに云えない。
だってね。
鰻だよ?鰻。
ついさっきまで格好良く暴れてくれてた龍なら、胸はって云うよ。「これがママの愛した男だっ」てね。
でも、悲しいことに今の彼は可愛い可愛い電気鰻。威厳とか、風格とかその種のオーラが消えちゃってるのよ。
で、万葉は、そんな千次郎を覗き込んでみてるし。
焦った私は思わず云ってしまったわけだ。
「そ、それはケーシがあんたの守護霊代わりに捕まえた死霊よ!」
ビシッと黄泉に続く穴を指さした。黄泉の穴は、当然だが依然として開きっぱなしである。何発かは千次郎の特大の雷がぶち当たっていたが、穴はすべてを吸い込むだけだった。
っと、そこで思い出した。
あれ?ケーシって確か、穴を塞ぎにきたんじゃないかしら?