[32]隻腕の魔女②
「ケーシ。そろそろストップよ」
ブルブルっと内股を振るわせる魔女の首筋にアタシの白魚みたいにほんっとーーに真っ白な細腕を巻きつけた。
背中からニョキリと上半身を生やしたアタシは胸をケーシの頭の上に乗っけるようにして体重を掛けてやっている。
昔は、これをやってやると真っ赤になって可愛かったものなのに………四国に着てから女遊びを覚えちゃったからなのか、まったく反応はなかった。
相変わらず、潤んだ瞳をして風祭の一気に萎れた感のある体躯に拳を埋めている。
「っふぅっふっふっふぅ」
口元を赤の混じった唾液が顎をつたっていく。アタシはそれをきれいに拭ってやった。
「遊びの時間はお仕舞いなの。わかる?そろそろ、人間に戻るんだよ」
耳元で淡々とした声音で囁く。
そして、その甘い吐息に桜の香を溶かし込んだ。脳髄に染み込む、その日の本の民を魅了してやまない香気。
忍者たちと遊んだときに使った、暗示に用いる魔の香だ。
その毒をたっぷりと耳元に盛ってやる。さらに、唇を首筋に落として、知り尽くした旦那さまの性感をねっとりと嬲ってやった。
(さて、これで止められるかな?)
アタシは、ほとんど答えのわかっている自問をしてみた。
(無理ね。これはもう、モード魔王だ)
チラッと覗き込んだ瞳の色は、人外どころか天外だった。
ねっとりとした愛撫に抱かれて、官能的な炎を刺激されっぱなしで喜悦の声を漏らすケーシだったが、それだけで悶えていい様に遊ばれてしまうようなチェリーじゃない。
この男は女を抱きながらでも、仕事と趣味に走れる。それは、女にとってはいい男の条件に当てはまっていなくもないけど、あんまりタフだ困る。愛って好都合な隠れ蓑で男を篭絡したり、だましたり、隠したりって云う女に許された「伎」っとものが効かないってことなんだ。
ケーシはこそばゆそうに眉を寄せはしたが、アタシの頬に唇を寄せて長く伸びた舌で舐めていった。
一瞬だけ、かかったか?っと期待した。が、ケーシの視線はすぐに千次郎に移ってしまった。
握った拳を押し付けたまま、一瞬の溜めのあとアッパー気味に振りぬいたのだ。ゼロ距離からの暴力としてはとんでもない威力だ。風祭の体が上空にふわりと浮き上がった。しかし、すぐに重力に引かれて落ちる。
痙攣を繰り返している風祭。頭が舌を向いていて、今どんな表情をしているのかは伺えない。だが彼は、その暴力の嵐から逃れる術などなくなっているようだ。たった一発の拳。しかし、世界でもっとも重い拳を貰ってしまったのだ、世界の鬼才と云えど、たかが科学者に絶えられる痛みの量を軽く超えているのは確かだろう。
死ななかったのは、風祭の体躯で未だに電光を散らしているホルスのお陰だ。しかし、千次朗もかなり元気がない様子だった。パリパリっと可愛い放電を繰り返す今の姿はまるで、電気うなぎのようだ。
雷神の威厳が失せていた。
っと、思ったら眩い閃光が視界を焼いてきた。
ボロボロの風祭の老躯のあちこちの裂傷から眩いばかりの閃光が散る。風祭の首から上だけが妙に忌々しげに、悔しそうに、そしてほんの少し面白そうに笑った。複雑な表情の中でも目元だけが面白そうにそれを見る。それと言うのは、皮膚の下を猛烈な勢いで蛇行している、彼が手に入れた雷神。
「千次朗、外に出る気?」
アタシの声が思わず高ぶった。
そして、アタシと同じに高ぶったのがケーシだ。
つり上がった口元をなめあげて、轟然と笑う。そして、こんどは鉤爪のように開いた掌でもって、落下してくる風祭に激しくたたきつけた。
その細い指先が、老躯にめり込む。肋骨の間に入った五指がそのまま中心に向けて握られた。その掌から太陽のような光があふれる。
掴んだのは、風祭ではなく千次朗の頭だったのだ。
弱ってきているのは確かだったが開放の喜びと、討ち滅ぼすべき敵に向けて、千次朗が吼える。大咆哮が地下施設全体に反響して耳が痛い。
そして、走る太陽の光。
肉を焼く嫌な匂いがしてくる。ケーシの腕が煙をあげて、ブツブツっと赤黒い出来物が浮かび上がってきたと思うと、見る間にそれらは数を増して薄い皮膚を破って破裂した。沸騰した血液があたりに飛び散る。
それにまったく怯まず、ケーシが万力のような力で握りこむ。一瞬で骨がこなごなになり、掌のなかに竜の顎が握られる。
「っがははあぁはあうあぁぁ」
天を突くような龍の咆哮に負けぬ蛮声。電磁波で沸騰する体液を気にする様子もなくケーシは反撃した。
そして、終には風祭の体躯という媒介を得て、生者の世界に呼び戻された死霊をその器から引き抜いたのである。
アタシは複雑な気持ちで眉を寄せた。
死んだら、終わってるべきなんだ。だから、千次朗がこのままもう一度死ぬのも自然なことだ。
そう思ってる自分がいるのに、この男を引き止めたい誘惑にも囚われる。
だって、仕方ないでしょ。
どんなになっても千次朗はアタシの大切な男なんだから。
掴み出された紫電の龍。ずるりと崩れる宿主の体を余所に、のた打ち回る龍だったが、喜悦の笑みを浮かべたケーシがさらに力をこめるとグッと大人しくなった。宿主から放れたことで力が急速に抜けたことが、その急激な力の低下の原因だろう。
さらに、足で地面に縫い付けると、強力で引き裂きにかかった。零体がミシミシと引き裂かれていく。無慈悲な魔女は、まだまだ満足していないらしい。遊び道具を手放す気などさらさら無いのだ。たとえ、相手の遊ぶ気力が尽きかけていようとそんなことを気にするわけもなかった。
「ケーシ!」
思わず叫んだ。
でも、止められない。宿主に造反することなどホルスにはできないのだ。
アタシには止められない。本気で涙が出そうだった。辛い。痛い。そんな生前に経験し尽くしたはずの感情が思い出のなかから浮かび上がってくる。
誰でもいい。止めて。これ以上は痛いんだっ。わかってよ、ケーシ!
救いの神ってのはちゃんといるらしい。
「慶慈さん!無事なの!?」
アタシは思わず、振り向いた。天井に無数に開いた穴の一つから愛娘が降ってきたのだ。
「万葉っ!」
「慶慈さんっ」
ああ、我が愛しき娘さん。ママよりやっぱり男を取るのね。
「慶慈さんっ無事なの!?」
結構な高さを落下してきた万葉だったが、ひざで着地の衝撃を受け流すと、すくっと立ち上がってあたし達のほうを見た。倒れ伏す風祭も、右手に握られた雷神も、ついでに言うと背中から生えたアタシのことも見ちゃいない。
見てるのは、獣のように唸っている娘の運命の男だ。
走りよる万葉。恋する乙女というにはちょっと物騒に育っちゃった子だけども、今はまさに乙女って奴だわ。
普通に女なら、いえっ男だって今のケーシを見たら固まっちゃう。
ブルブルっとみっともないくらい震えちゃって真っ青になって泡を吹く。
それくらい、隻腕の魔女ってのは怖いんだ。
なのに、まあまあ、あの子の表情といったら、ケーシが風祭に勝ったことにたいする喜びと、負傷への心配だけがいっぱいに広がっている。
とことこと跳ねるようにして、血走った眼光で万葉を捕らえているケーシに近づいてきた。
「はぁーっ」
ケーシの口元が三日月に吊り上がる。赤い舌が嬉しそうに突き出される。生暖かい獣が呼気が漏れる。
近寄ってくる万葉は活きの良い獲物だった。
楽しませてくれたとはいえ、虫の息になってしまった千次郎とはちがう。
姿勢が下がった。足が万葉に向かう。それは、獲物に飛び掛かる寸前の獣と同じだ。
ヤバイ。
今のケーシには、目に写る物すべてが獲物だ。今まで、殺しちゃった薬師の仲間たちと同じものだ。玉女っても、こうなっちゃうと押さえられるとは思えない。
「駄目よ。万葉っ、逃げなさいっ」
「へ!?」
アタシの警告に、怪訝な表情を見せた瞬間、その目が驚きに大きく強張る。
歩みを思わず止めた万葉の前に、桜を一瞬で這わす。上下左右から生えた太い幹から、細かな枝が別れていき、先端に可憐な花弁が咲き乱れる。
幹は異常なほど禍々しく、花弁は限りなく無垢。
魔を喰らい、浄化させて華となる、それがアタシの一族の桜だ。
禍々しい気を放ちながら飛び掛かったケーシに桜がぬめるように蠢きながら巻き付いた。花弁の結界が反応して眩い火花を散らす。
「この。止まりなさい。あんたの女を殺す気かー!?」
枝に巻き付かれても、まったく問題にせずにぶちぶち引きちぎりながら進むケーシに後ろからチョークをかけた。が、所詮か弱いアタシの腕力、獣を足止めするには力不足だったわけよ。
結論から言うと、アタシの努力は無駄だった。障害物によるロスタイムはゼロコンマ以下。
あっさりと桜の太い幹をぶち抜かれ、驚きで強張った表情の万葉に向けてロケットダイブ。
ああ、アタシもう見てられない。
「キャッ」
可愛い娘の女の子な悲鳴が上がった。
なんて哀れな娘なんだろうか、ごめんね。育ってあげられなかった上に、女の幸せを知る前に散ることになっちゃうなんて。