夫が愛人をつくったので、わたくしはレースをつくります。
美しい白のレース糸は、極細のもの。遙か遠く、異国の地で育まれ、紡がれたという、とてもやわらかい綿の糸です。
六、六、四、四。
頭のなかで数えながら、左手にかかった糸に、右手に持った杼をくぐらせます。左手の指の力をゆるめながら、右手を動かし、糸をひいて、目をつくります。
頼りない綿糸が、たったそれだけのこと、糸に糸を結びつけていくだけで、しっかりとしたレースにかわるのです。なんと不思議で、なんと素敵なことでしょう。偉い司祭さまの難しいお話も、お父さまやお兄さま達の数字のお話も、お祖母さまのしてくださった妖精達のお話も、この不思議にはかないません。
白いレースが、わたくしの手のなかに、できあがっていきます。女でありながら、斯様に素晴らしいものをつくれるのを、つい誇りそうになってしまいます。うぬぼれや傲慢は、罪だというのに、誉められて当然だわと思ってしまうのです。それほどまでに、とても素敵なモチーフができあがっているから。
目をつくり続けながら、ふと、窓の外を見ます。朝はやくに、立ち洗いをすませたわたくしがこの居間へ来ると同時に、掃除を済ませた女中が窓を開けてくれました。今日もいい日和ですわ、奥さまが作業しやすいようにいたしましょうね、といって、にっこり笑いながら。
彼女はもうずっと、この家につかえていて、最近はほとんど目が見えなくなってしまっています。けれど、とても気のいいひとで、使用人のなかで唯一、わたくしに好意的でした。毎日、少しお喋りをしてくれますし、外の様子や、夫の動向も、時折教えてくれます。
実家にレース糸のことを頼む手伝いをしてくれたのも、とりよせてもらったそれを数日かけてこっそり運びこんでくれたのも、彼女です。夫は絶対に、わたくしのすることをゆるさないでしょうから、彼には頼みませんでした。たったひとり、この家でわたくしの味方をしてくれるだろう彼女を、利用したのです。
わたくしはお金を持っていないので、せめてものお礼にと、レースを縫い付けた手巾をあげようとしました。けれど彼女は、手を振ってそれを断りました。奥さまの願いが成就してからのほうが安全でしょうね、と笑い含みに。彼女は、わたくしのしていることなど、お見通しのようです。どうしてわたくしの味方をしてくれるのかわかりませんが、ありがたいことです。
居間は、嫁いで参った頃よりも、随分殺風景になってしまいました。布張りの椅子も、一枚板の天板の卓子も、どこかへ運び出されたのです。それが、二年前のこと。夫が愛人のことを隠さなくなった頃の話です。
残っているのは、わたくしが持ってきたものだけ。夫でも、それをとりあげることはできませんでした。今はまだ、わたくしのものですから。
嫁ぐ前に仕立てたガウン、レースを縫い付けた外套、宝石のちりばめられた布靴。こちらに来てからつくらせた衣裳は、どれもとりあげられました。夫のお金でつくったものだから、というのが、とりあげる根拠です。
宝石箱も無事でした。なかには、宝石が、まだはいっています。お母さまからもらった珊瑚が縫いとめられた面紗や、お祖母さまの形見の真珠の首飾り、嫁ぐ時にお父さまから戴いた、瑠璃の連なる指環。ほかにも、幾つか。
窓辺に、あの女中が、花を置いてくれていました。名のあるものではないのでしょう。白地に紫がぽつぽつと飛び散ったような色をしていて、形は菖蒲に似ていますが、それよりも随分小さく、黄色い部分はありません。お庭の雑草でも、綺麗な花をつけたので、持ってきてくれたのでしょう。
庭師が丹精しているお花を勝手に摘めば、彼女は罰せられます。ただでも、家中で邪険に扱われているわたくしに、優しいのです。それだけでも肩身のせまい思いをしているでしょうに、彼女はそれも気にしていないようでした。どうしてだか、わたくしを贔屓してくれます。遠からずここを出ていく、名ばかりの女主人だというのに。
どうしてかしらと、ふと疑問はわきましたが、頭を振って追い払いました。わたくしが今、頼れるのは、この場に居る限りは彼女しか居ないのです。
「奥さま」
細かいところを仕上げるのに、手許を見て作業していたので、彼女が近付いているのに気付きませんでした。
女中はほとんど見えなくなった目を、それでもわたしに据えて、にこっと笑います。歯は随分、ぬけてしまっていました。女中らしい簡素なガウンと、白い頭巾で、パンと葡萄酒の壜がのったお盆を皺だらけの手で支えています。壜の影に、木製の椀がありました。
「お食事です。チーズでもつけられたら、よかったんですが、厨房のやつらの意地が悪いもんだから」
わたくしはつくりかけのレースを木の椅子へ置いて、お盆をうけとりました。粗雑な卓子へ置きます。
「ありがとう。とてもおいしそうなパンね」
「ええ、そりゃもう。わたしの姪っ子の娘が焼いたんです。最近こちらに雇われましてね」
彼女が自分の親族について口にするのは、これが初めてです。わたくしは頷いて、葡萄酒を椀へ注ぎました。「その子は、お幾歳?」
「十七か、十八か、その辺でしょう。随分遅くにできた子なんです。気立てはいいけれど、口の重たい子で……」
彼女は水差しを手にし、ぺこんとお辞儀します。
「じゃあ、少ししたらおろしに参ります」
「ご苦労さま」
もう一度お辞儀して、彼女は出ていきました。
葡萄酒を呑み、パンを千切って口へ運びます。本当なら、すぐにおろしに来なくたっていいのに、彼女はわたくしが食事を終えた頃を見計らって、来てくれます。この椀はこちらの家のものですから、うかうかしていると隠されちまいます、といっていました。彼女はとても、機敏で、目端の利くひとです。
葡萄酒を半分程呑み、パンを食べて、わたくしは用足しをすませると、できあがったモチーフとレース糸、それから大切な杼を手に、寝間へと移動しました。できあがったものを、彼女がどこからか手にいれてくれた、毛織りの布で包み、寝台のなかへと持ち込みます。
安心はできません。いつ何時、夫や、夫の手のものがやってきて、これをとりあげようとするか。
不安のなかでの眠りは浅く、いやな夢を見て、何度も目を覚ましました。それでもいつしか、夢がもやもやとしたものにかわっていき、深い眠りへとひきずりこまれていきます。
夫に愛人が居ることには、うすうす勘付いていました。
わたくしが嫁いで参ったのは十五年前、十二の時です。夫は二歳上の十四歳、夫の家とわたくしの家とはほとんど同じ家格で、年齢のつりあいもとれており、春先に話をされたと思ったら初夏にはもう嫁いでいた、慌ただしい結婚でした。
まだ幼かったわたくしは、しあわせな結婚というものを夢見ていました。夫に愛され、家の者達に慕われ、可愛い子ども達を得て……というような。それは、わたくしのお母さまの姿です。わたくしのお母さまとお父さまと、実家の使用人と、わたくしときょうだい達の姿です。
ですが、そのどれも、手にははいりませんでした。
夫にはすでに、愛人が居ました。その上、夫の愛人は、わたくし達の結婚の少し前に、夫とは別の男性と結婚しています。その男性との婚約があって、夫とは『遊び』ですませていたのです。
それでも、わたくしと夫の結婚以来、夫の愛人は図々しくお茶会だの食事会だのにあらわれ、この家にも頻繁に足を踏みいれています。まるで自分がこの家の女主人であるかのように、我がもの顔で使用人達に指示を出すのです。
そして使用人達も、それを受け容れていました。わたくしの指示には従わない者が、夫の愛人には従う、その屈辱といったらありません。
それでも最初は、あのかたは高名な貴族の奥方だから皆気を遣うのだろう、と思っていました。けれど、夫の愛人が未亡人になり、喪も明けていないのに毛織物を着ることなくやってきたのを見た時に、違うのだとわかりました。ただ単に、わたくしは使用人達に、舐められているのです。大人しい、黙ってレースをつくっているだけの、面白味のないつまらない女だと。
それにわたくしは、子を持つことができませんでした。
夫はそのことで、酷くわたくしを責めます。自分への侮辱だとうけとっているのです。わたくしのことを侮辱する使用人を停めもしないくせに。
偉い司祭さまの書いた本に、あるそうです。女が身籠もるのは、『満足を得た』からだと。それは、寝台のなかでのことを示していました。男性は『満足』せねば、女を身籠もらせることはできない。だから女も、『満足』しなければ身籠もらない。男女が互いに『満足』していてはじめて子を得ることができるのだから、女が身籠もったら口でなんといおうと『満足』しているのだ、と。
わたくしは、夫との行為に、不満を持ったことはありませんでした。不快感はあります。ですが、それだけです。
夫を侮辱しようとは思っていません。多少侮辱しても神に罰せられないのではないか、とは思いますが。
レース糸とつくりかけのモチーフ、杼を持って居間へ行くと、女中が窓を開けるところでした。
「おはよう」
「おはようございます奥さま。すぐに、お粥を持って参りましょう」
にっこりして、彼女は出ていきます。少し背中が曲がってしまっていますが、矍鑠とした歩きぶりでした。
彼女の名前も知らないし、結婚しているかも知らない、と気付きました。ただ昨日、姪御さんの娘さんの話をしてくれましたから、その子のことだけは知っています。
彼女がお粥とお白湯を持って、戻ってきました。卓子へ置いてくれます。欠けた木椀に、つやのない木の匙。見ていると、哀しくなってきます。ほんの二年前までは、銀の食器をつかっていたというのに。
お辞儀して出ていこうとした彼女に、いいました。
「夫はまだ、戻らないの?」
「ええ」
きっぱりした返事です。「まだまだ、大丈夫ですよ、奥さま。なんでしたら、わたしも手をかしますからね」
わたくしは苦く笑いました。
「そうね。なにかあったら、手をかしてもらうわ」
なにしろこのレースは、くらくったってつくることができるし、つなぐことができるのですから。
できあがったモチーフが、もう随分沢山になってきました。二年前から毎日ずっと、つくっているのです。膨大な量、といえるでしょう。
そのどれも、花や木の葉のモチーフでした。薔薇、すみれ、百合、人参、唐辛子、馬鈴薯、菊。ひまわりもあります。雪柳や、楢、楡、巴旦杏、少々不吉な糸杉まで。
わたくしの実家は、ここよりもずっと南にあります。領地には沢山の巴旦杏が植えられ、時期には雪のように咲き誇りました。幼い頃から、それを見ては、白い糸でモチーフらしきものをつくっていたのです。頭で忘れていても、指が覚えていました。幼い頃につくった不出来なモチーフを、十数年後にまともなものへつくりかえたのは、奇妙な達成感を伴う出来事でした。
宝石箱を見遣ります。
蓋を開けました。中身は随分、減っています。持ってきた頃と比べたら、もう五分の一もありません。
悔しいとか、憤ろしいとかは、もう感じません。むなしいだけです。
夫の愛人が庭に居るのを見ました。きちんと手入れされた眉ともみあげ、整えられた生え際、宝石のような青い瞳。レースのついた帽子が目につきます。それに、レースの肩掛けも。あのレースは、クンストレースでしょうか。
ガウンはゆったりしたもので、腹部がふくらんでいるのがわかります。彼女は身籠もっていました。わたくしと違って。彼女の夫が亡くなってから数年、あのふたりにしては弁えたほうだということでしょうか。
これが侮辱でなくてなんというのか、夫に教えてほしいものです。
わたくしの寝室、それから居間は、邸の二階の端にございます。嫁いで参った時からそうでした。随分おかしなところにある部屋をもらったと思いました。なにをするにも不便だからです。本当の女主人用の部屋が別にあるのは、嫁いで三年後に知りました。
お茶会や食事会をとりしきるのも、わたくしの仕事の筈なのに、夫が差配しています。わたくしを信用できないのだそうです。数字の好きなかわった父と兄を持ち、自らは黙ってレースをつくっているわたくしを、夫はなにか得体の知れない、気色の悪いものだと思っているようでした。
ならば何故、結婚したのかといえば、夫にとって都合がよかったからです。
当時この家は、財政的に困窮しており、夫は早急な支援を欲していました。結婚を機に、わたくしの実家にお金を無心したようです。具体的には存じ上げませんが、かなりの額だったようだと、あの女中から聴いています。彼女は随分若い頃からこちらに仕えているようで、内情にはくわしいのです。
困窮から立ち直ると、夫は領地を発展させ、今では愛人に宝石を贈るくらいに豊かになりました。わたくしの実家が支援したことは忘れているようですが。
次の日見た夫の愛人は、真珠の持ち手の鞄をさげていました。どこかへ行くようです。夫の家の馬車にのり、出ていきました。
何度か見た光景ですが、心臓がどきどきしました。彼女は真珠が好きらしいのです。わたくしは幾つも、真珠の装飾品を持っていました。髪飾りに、首飾りに、耳飾り。夫がそれをとりあげ、彼女に渡すのが、目に見えるようです。
夕方、女中がやってきましたが、あの年老いた女中ではありませんでした。ですが、少し、面差しは似ています。ぎこちなく、パンと葡萄酒を卓子へ置き、椀をさっとそれに並べます。
「奥さま、おばさんが腰をやられちまったので、しばらくはわたしがここに参ります」
そばかすの散った鼻を赤くして、女の子はそういいました。ぎこちない調子ですし、声はとてもか細く、まるで咽を締め上げられているような声でした。
ごわっとした黒の髪をしっかり撫でつけてまとめ、頭巾で覆っていますが、ちょろんとはみでていました。茶色の瞳は、糖蜜に似て、きらめいています。
「そう。わかったわ」
レースをつくる手を停めずにいい、さっと、できあがったものを脚の間にはさむようにして隠します。彼女はまだ、信用できるかわからないですから。
女の子は緊張した顔でお辞儀し、出ていきました。
翌日、泣きながらまた、あの子が来ました。椀を失くしたそうです。仕方のないことだからとなぐさめ、彼女が家から持ってきたひび割れのある椀をかしてもらいました。
夫は都に居ます。議会がありますから。わたくしは都へ行ったことがございませんが、にぎやかで楽しいところだと、兄から聴いたことがございます。
「あのかたは、奥さまと全然違います」
数日たって、随分わたくしに慣れたらしい女中が、ふとこぼしました。普段、必要以上のことは喋らない子なので、驚いて手を停めます。声が出ないのではないかと疑うくらいに、喋らない子なのです。
まだまだ、か細い声ですが、彼女は顔を強張らせて続けました。
「なんだか、きらいです」
どうやら、夫の愛人のことをいっているようです。彼女はその後、なにもなかったみたいにまた口を噤み、てきぱきと水差しの中身を交換し、おかわを綺麗にして、出ていきました。
彼女も味方だと思って、いいのかもしれない、と思うと同時に、あの程度の陰口で信用していいものだろうか、とも思います。
あの年老いた女中が来てくれなくなって、わたくしは少々困っているのです。夫がいつ戻ってくるか、急いだほうがいいのかゆっくりしていていいのか、わからないから。
翌日、年若い女中は、なんだか始終顔をしかめていました。夕方頃、あんまりしかめ面なので、気になって訊いてみます。
「なにかあったの? おばさまの具合がよくないとか……?」
「いえ、おばちゃんは元気です。腰の痛いのがだいぶんよくなって、昨日から歩き出してます」
そういって、彼女は尚更顔をしかめました。
「あの女のひとはきらいです。わたしに、なんか菓子をくれるとかって。いりやしないのに」
今までにないくらい、しっかりした声です。驚いて目をしばたたくわたくしに、彼女は続けました。
「奥さまのことをしりたいみたいです。いいませんでしたよ。わたし、黙ってようと思えば幾らでも黙ってられますもん。あんな女に、刺されたって教えてやるもんか」
かなり強い調子にどきりとしましたが、彼女なりに、わたくしのことをまもってくれようとしているようです。
「本当に刺されそうになったら、なんだって喋りなさいね。わたくし、隠すようなことなんてないんだから」
納得は行かないようでしたが、彼女は頷いて、はい奥さま、といいました。
何故彼女が蛇蝎の如く夫の愛人をきらうのか、しばらくして事情がわかりました。彼女の母のおば、あのほとんど目の見えなくなった女中が、戻ってきたのです。
これからはふたりでお仕えしますから、という彼女に、あの年若い女中のことを訊きました。何故、夫の愛人をきらうのか、と。
「ああ、そりゃね」
彼女は小さく息を吐きます。
「彼女は露骨ですからねえ。たちまわりが上手じゃない。あの子の兄貴が、庭師をやってるんですが、それを気にいっているらしくてね。随分男ぶりがいいんで、どこに行っても女に騒がれる子で……また、当人がそれを楽しんでる節があってね、よくないっていってるんですが、ききいれてくれなくて。
その庭師から、あの子が妹だって聴いたんでしょう。だらしない子ですけど、妹達は可愛がっててね。自慢するんです。
自分の気にいりの庭師の妹が、奥さまを慕っている様子なのが、気にくわないんですよ彼女は。それで、自分の側にひきいれようとしたみたいですが……失敗しましたね。あの子は喋らないんで、頭が鈍いと思われることがありますけど、そうじゃあないんです。自分の兄貴を贔屓にしてるとは思ってないみたいですが、なにか裏があるとは思ったようですよ。あの子は下心のある人間はみぬきます」
そういって、自慢げに胸を張る様子が可愛らしく、面白くて、わたくしは少し声をたてて笑いました。女中は驚いたようで、ちょっと目をしばたたきます。「あれま、奥さまが笑ったのなんて、いつぶりでしょうね?」
「奥さま、これもってけって、おばちゃんが」
か細い声でいい、年若い女中が、手紙を持ってきました。封蠟を見て、ほっと息を吐きます。やっと、返事が来た。
手紙の差出人は、修道院長です。お返事は色よいものでした。
「ねえ」
手紙から顔をあげると、不安そうな女中の顔が見えました。
「お願いしていいかしら? 今晩中に、レースを全部、仕上げてしまいたいの。あなた達、夕食の後に来て頂戴」
事情は把握していないのでしょうが、彼女は頷きました。
モチーフは布包みふたつ分になっています。糸はあと、ひとまきしかありません。ぎりぎりでした。
レース針を卓子へ置きます。大きさが違うものしかありませんが、これくらいならピコットへ通せるでしょう。
椅子、それから卓子の上へ、モチーフを置きます。同じモチーフをつないで大きなドイリーにするのです。
年老いた女中が、燭台を手にやってきました。ちびたものですが、蠟燭が燃えています。「奥さま、お手伝いに参りましたよ」
「ありがとう」
年若い女中も這入ってきました。手には、やはりちびた蠟燭を握りしめています。
燭台が卓子へ置かれると、年若い女中が息をのむのが聴こえます。
「おばちゃん」
「お黙りな」
年老いた女中は年若い女中の腕を優しく叩き、にっこりしました。「奥さまのものを奥さまがどうしようと、勝手だろ? ずっと持っていても、捨てちまっても、ね?」
ふたりは床に座りました。その為に、丈夫な麻布を持ってきたそうです。年老いた女中に椅子を譲ろうとしましたが、奥さまがそんなことをなさるのはいけません、と、彼女は頑なでした。
彼女達はてまわしがよく、糸を三巻持ってきていました。それに、小さなはさみも二挺。レース針はかしました。もともとそのつもりでしたから。
レース針をつかってピコットに糸を通し、かたく結んで糸を切る。それをくりかえしていきます。どこにどうつなぐかは指示しておきました。年老いた女中はとても手際がよく、年若い女中は苦戦していましたが、段々と慣れていったようです。明け方には、皆無言で作業していました。
すべてのモチーフがつながれ、数枚の大きなドイリーになった丁度その頃、二本目の蠟燭が燃え尽きました。
窓からさしこむ月光だけが、室内を照らします。
「なんて綺麗なこと」
感心したような、溜め息まじりの声は、年老いた女中のものです。年若い女中がそれに頷くのが、ぼんやり見えました。白いレース達は月光をうけて、きらきらとかがやくようです。なんて美しいのでしょう。こんなに美しいものを、わたくしがつくりだした。そのことが、誇らしくてたまりません。
傲慢でもなんでも、いいです。
道具を片付け、レースはまた、布で包み、ちょっと迷って、寝台へ持ち込みました。これは大切なものです。
ふたりがお辞儀して帰っていき、わたくしはしばらくぶりに、ぐっすり眠りました。夢はひとつも見ませんでした。
年老いた女中に頼み、実家への手紙を託しました。修道院へはいるというわたくしの決断を、お母さまもお兄さまも哀しんだようですが、馬車の手配はしてくれました。
夫がまだ議会に居るうちに、わたくしはレースを持って、邸を出ることにしました。
馬車へのりこもうとすると、背後から金切り声が聴こえます。
「お待ち!」
夫の愛人が、屈強そうな男の使用人をつれてやってきました。わたくしは目を伏せ、粗末な布包みを座席へ置きます。
「なんですかしら」
「あなた、どこへ行くの」
息を切らし、夫の愛人はいいます。「なにを持っているの。見せなさい」
包みから一枚、ドイリーをひっぱりだしました。巴旦杏のモチーフをつないだものです。
拍子抜けしたみたいに夫の愛人は息を吐きます。そこに、使用人が走ってきて、耳打ちしました。「宝石箱はあります」
「ああ、そう……」
「わたくし、修道院へ参ります」
わたくしが自発的に喋ると思っていなかったのか、夫の愛人も使用人達も、はっとしました。
わたくしは、御者を振り向きます。「そうよね?」
「はい、お嬢さま」
「そちらで長くお世話になりますの。これは寄付するものですわ。わたくしが寄付できるものはこれくらいですから」
忍び笑いが聴こえます。夫の愛人はいやな笑みをうかべ、どうぞいってらっしゃいな、といいました。
修道院にはいったといっても、出家した訳ではありません。そういう境遇の女は多く居ます。結婚までに間違いがあってはならぬと、修道院に預けられている娘達です。或いは、体調を崩し、家から出た女も居ました。
彼女らは、家から定期的に寄付があるか、それも必要のないくらい莫大な寄付がすでにされているかです。わたくしも、レースをすべて寄付し、特別綺麗なはなれをもらいました。
友人を招いてもいいし、ほしいものがあればなんでも用意できるといわれています。ですので、レース糸を戴きました。つくったものは、また寄付しましょう。些少であっても、売ればお金になるでしょうから。
あの、女中達に手伝ってもらって仕上げたドイリーは、礼拝堂で飾ってくれるそうです。とても素晴らしいものですねと誉められて、誇らしい気持ちになりました。彼女達のことも誉めてくれたらいいのに、と思いました。
杼をつかったレースのいいのは、どこでだってできるところです。雨でなければ、わたくしは薬草園を歩き、途中の木陰に座ってレースをつくるのが日課になっていました。
「随分細かいレースですね」
無遠慮に話しかけてきたのは、豪華なレースの襟をつけた、長身の男性です。着ているものは立派だけれど、子どものように遊んだのか、脚に泥が飛んでいました。しかも、右腕をつっています。怪我をしてここで療養しているかたのようです。随分立派な体格ですから、馬術や槍術でならしているかたでしょうか。
「手慰みですわ。たいしたものではございません」
正体のしれない相手ですが、修道院でも奥まったところに這入ってきているのだから、きちんとしたかたなのでしょう。丁寧にそう答えると、嬉しそうに顔をほころばせます。子どものような笑みです。
「とてもいい腕をしているようです。俺がそれを手にいれることはできないですか?」
「はあ……できあがったものは、こちらへ寄付しようと考えていますの。院長さまが売ろうとお考えになれば、可能性はございますわね」
「ふむ。院長先生は、これを気にいりそうだなあ。彼女を通さずに、俺へ直に売ってくれませんか?」
ほんの、掌ほどのドイリーです。少し考えて、彼へさしだしました。
「おや」
「どうぞ。さしあげますわ」
「いいんですか?」
うなずく。
「では、代金を払わなくては」
「いえ。かわりに、レース糸を戴けませんか? あなたのその襟をつくったような、とても細いものを」
彼はきょとんとしてから、子どもみたいにまた、にっこりしました。「幾らでも持って参りましょう。かわりに、あなたは俺に、今度は襟をあんでください。どうです、このとりひきは?」
申し分ないので、わたくしは承知しました。
夫が訪ねてきたのは、修道院へはいって半月後です。レースをつくっていたわたくしは、作業を停めずに彼を迎えました。
下働きの男性に案内されてやってきた夫は、わたくしが上等なはなれをもらっていることに、とても驚いたようです。すすめても布張りの椅子には腰掛けず、居丈高にいいました。
「子を持てぬ女がいつまでも男にしがみついているのはみっともないもの。自ら出ていくとは、いい心がけだ」
「お褒め戴いて光栄です」
夫に誉められたのはおそらくはじめてです。けれど、誉められても嫌悪感しか湧きませんでした。顔をしかめたり、無礼な言葉を口にしたりしたくないので、手は停めません。目を綺麗につくることに集中していれば、余計なことをしなくていいですから。
「結婚は取り消せた。お前とは、十親等しかはなれていなかったと証明してな」
「そうですか」
労えばいいの? このばかみたいな男を? どうして?
夫はわたくしが謝るか、いやがるか、抵抗するか、なにかしらの反応を引き出せると思っていたようですが、わたくしは手を停めず、夫の顔を見ていただけです。ああいえ、もと・夫、でしょうか。それとも、夫だと勘違いしていた殿方?
わたくしがそれ以上口をきかないので、つめたい青の瞳でわたくしを見ていた彼は、痺れを切らしました。
「それから、お前が我が家に与えた損害の分、お前の財産をもらえることになった。お前は我が家に嫁いできてから、子をなしもせずにガウンを次々とほしがり、無駄に茶会だのなんだのを催したな。お前の宝石でゆるしてやるから、すぐに寄越せ。宝石箱だけ置いていくとは、こしゃくなことを」
ガウンを年に数度仕立てるのは、貴族夫人として当然のことです。お茶会はわたくしの仕切ったものではなかったですし、わたくしはしたいと申してもやらせてもらえませんでした。
目を伏せます。彼は勝ち誇ったようにいいます。
「裁判所に訴えてもいいんだぞ。お前の浪費癖がおおやけになったら、お前の親や兄がはじを」
「ございません」
「……なに?」
顔をあげ、彼をまっすぐに見ました。
「ございませんわ」
「なにを……なにをいっている。お前、自慢げにいっていただろう。親にもらったとか、祖母の形見だとか」
はっと、彼は息をのみました。
「売ったのか? 金があるということだな。じゃあその金を寄越せ」
「ございませんわ」
ついと、礼拝堂のほうを示しました。
「あちらにあるそうですわ。院長さまが、飾ってくださると。修道院の持ちものに手をつけるおつもりなら、どうぞご自由に」
彼の顔から血の気がひきました。
「どういうことだ。礼拝堂に装飾品を置くなど」
「レースにあみこんだのです。わたくしの持ちものをわたくしがどうしようと、勝手ですわ。こちらでこれからお世話になるにあたって、誠意を見せたまでのこと」
穴の開いている宝石には糸を通し、そうでないものは糸で囲うようにしてレースに固定しました。それくらいの技術はわたくしにはあります。宝石を台座から外すのも、糸を切るのも、やってできないことではありません。
女中も、協力してくれました。どうにもならないほど大粒のものは、こっそり持ちだして台座から外し、穴を開けてくれたのです。職人に宝石以外はあげるからと渡せば、案外快くやってくれたそうです。金の台座付き指環が手にはいれば安いということでしょう。
宝石があみこまれたレースは、礼拝堂を飾るのに相応しいと、喜ばれました。彼も修道院に敬意を払い、先に礼拝堂へ行っておけば、こんなふうに無駄にわたくしと顔を合わせずにすんだのに。
「もうあれらは修道院のものです。院長さまに申し上げたらいかがでしょう。妻だった女が寄付したものをくれ、とでも」
返事はありません。当然です。教会は王家に庇護されている、神聖なもの。そこに寄付したものをとりあげるなど、誰だってできっこないのです。もしできるとすれば、王家のかたでしょう。そうだとしても、なにか確固たる理由が必要になります。
わたくしの浪費癖なるものは、きちんと調べれば嘘だとわかります。その嘘を盾に教会と、ひいては教会を庇護している王家と争うなど、どんなばかでもやりません。
薬草園であれから時折顔を合わせるようになった殿方にも、一切、お金は戴いていません、かわりに、とても細い、上質な綿糸を、何玉も戴きました。わたくしが今、膝の上に置いているその糸が、どれだけの価値のものか、この愚か者にはわからないのでしょう。それを寄越せとはいいません。
思い出して、傍らの机の上にある布包みをとりました。なかには、結婚の折に彼から送られた、金の指環があります。丁度昨日、外したところでした。ずっとつけていたので、忘れていたのです。
「お返ししておきますわ」
結婚はとりけされたのですし、これは本当に彼の家のものですから、返すのが筋でしょう。
顔色を失ったもと・夫が、指環を手に出ていき、わたくしは再び静かに、レースに集中します。女中達は元気だろうか、と考えながら。
「この襟は評判ですよ。とても趣味がいいってね。皆、俺がこんな襟を持っているのが羨ましいようです」
「それは宜しかったです。わたくしも、鼻が高いですわ」
彼はレースの襟を誇らしげに撫でます。すでに、腕は治ったようで、つってはいません。この数日姿を見なかったのですが、その間に友人とでも会っていたようです。
誉められても罪悪感は持ちませんでした。当然よ、という気持ちです。
ふと、彼がきょとんとしました。見ているのは、わたくしの手です。
「不躾なことを訊いても?」
「どうぞ」
「あなたの手には以前、指環がありました。だが、今はない。どういうことでしょう?」
肩をすくめる。
「結婚が取り消されたのです。十親等しかはなれていなかったそうですわ」
「ふうん」
めずらしい話ではありません。離婚ははじですから、調べたところ結婚できないくらいに血が濃かった、といいわけするのです。時折公示がされるので、わたくしも知っていました。あの……夫だと思っていた殿方が、それを企んでいると、女中が教えてくれて、宝石を奪われる前に出て行ってやろうと……。
「あなたは貴族ですか?」
「……父は伯爵です」
実家の名字を口にすると、彼はにっこりしました。あの、子どもみたいな笑みです。
さっとひざまずいたかと思うと、彼は頭を垂れました。
「どうぞ、俺と結婚してください」
一年後、わたくしは都に居ました。象牙や鼈甲でできた杼を手に、細い糸を結んでいます。
あのかたは、皇太子でらっしゃいました。レースが好きで、あの修道院を訪れたのです。わたくしが寄付したレースは評判になっていたそうで、腕が折れていたというのに、寝台を飛びだしてやってきたとか。
わたくしがあのレースをつくった者だとは思わなかったそうですが、モチーフや襟を数枚見て、そうではないかと疑ってはいたと、あとから聴きました。
わたくしは結婚が取り消されて自由の身でしたし、実家の家族も納得してくれました。
王家と議会は、彼が説得しました。彼よりわたくしのほうが歳が上なのですが、皆さん納得してくれたそうです。彼は今まで、結婚を渋っていたそうで、わたくしとでなければもう結婚はしないといいはったとか。そうまでいわれては、陛下達も納得せざるを得なかったのでしょう。
子を成せない、という懸念はありましたが、あなたと結婚したいのであって子がほしいのではない、と彼がいい、王位の継承に関しても弟王子や、従兄弟なども居るといわれ、わたくしも説得されてしまいました。
半年ほどの婚約期間を経て、都へ行き、宮廷へはいり……彼にねだって、もと・婚家から、あの年老いた女中と、年若い女中をつれてきてもらいました。レースづくりを手伝ってもらったのだというと、彼はすぐにふたりをつれてきてくれました。
ふたりは今、勉強をして、侍女になってくれています。ふたりとも糸を紡ぐのも得意で、細い糸を沢山つくってくれます。
年老いた女中は、わたくしのことを子どものように思っているようです。彼女には昔、娘が居たのだと、年若い女中から聴きました。わたくしは改めて手巾をつくり、彼女達に贈りました。
心配に反し、わたくしは今、おなかに子どもが居ます。
年老いた女中が教えてくれましたが、夫だった殿方の愛人、今は正式に妻になったあの女は、不義をしていたのです。
夫婦で青い瞳なのに、うまれた子どもは糖蜜のような色の瞳だったとか。ほかの殿方の子、ということのようです。
それが原因で夫婦仲に亀裂がはいったとか、急激に左前になっているとか、いやそもそも領地が潤っているというのが嘘だったのでは、など、噂が様々、耳にはいってきますが、もはやわたくしには関係のないこと。
ですが、領地経営が本当はうまくいっていなかったとすれば、あんなにも宝石をほしがった理由はわかります。少しでも、お金になるものがほしかったのでしょう。
いえ……そうでなくとも、わかるような気もいたします。あのひとは、強欲なのです。きっと、理由などなかったのでしょう。むなしいですが、そういうひとですから。
「また頼んでもいいかな」
夫がちょっとだけばつの悪そうに、綿糸を数玉かかえてやってきました。小さな袋には、ビーズがはいっているのでしょう。「母上が、手提げをつくってほしいっていうんだ。君のレースの装飾じゃなければ納得しそうになくて……つくってもらえる?」
子どもっぽく甘えてくるのが可愛らしくて、わたくしはこっくり頷きました。
6/12加筆・修正しました。
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