ネムノキ:1
青年は独り森を歩いていた。下草を踏みしだく音は、森の豊かな音に簡単にかき消される。鳥の鳴き声や羽ばたき、枝葉の揺れ擦れる音、時折がさりと響く獣の足音。しゃりしゃりと草木をかじる虫の咀嚼音まで、人が森という単語から連想するものすべてが彼の耳に届いていた。
地球は青かった、と、はるか昔に空へ打ち上げられた人類の一人は語ったそうだ。虚空に浮かぶ真っ青な球体を、青年は歩きながら想像した。寒々とした黒の中に浮かぶ地球は、寧ろ際立って青ざめているようにすら思えた。自分自身の踏みしめている大地がその球体のものであるとは、理屈抜きにしては理解しがたいものだった。そう考えると、体が芯から冷え込んでくるような気がした。背後の太陽に向き直った方が、まだ暖が取れるだけましってものだ。たとえその強い光に目がつぶれるとしても。それにしたって目の前の風景に比べたら、と唇だけで音を出さずにつぶやく。
「及第点かな」
遠近感を喪うほどの白。純白と表現するにはあまりによそよそしい、色素を奪われてしまったかのような白がそこにはあった。生い茂る樹木、その間を縫って歩く獣、葉の裏に潜む虫に至るまでがあまりに平凡な、ともすれば模範的であるとすらいえる風景。しかしそのすべては漂白されており、木々の隙間から漏れ出る空色は、視覚が正常であることを保証してくれる唯一の要素だった。
青年は常軌を逸した風景にひるむこともなく歩き続け、ある一線で足を止めた。
びっしりと並んだ文字列に一つだけ気まぐれに打ち込まれたかのような空白があった。不自然に脱色された森林の中にあって、なお不自然極まる空白。草木一本すら生えていないつるりとしたサークルの中心には、直径5mはあろうかという巨樹―いうまでもなく真白に脱色されていた―が立っていた。遠目から見ると、樹木全体のシルエットはキノコの傘のように水平方向に大きく開いている。葉は細かい櫛のように生い茂り、よく見ると細かな無数の細い花弁を持つ花がびっしりと咲いている。大樹の立ち姿には、己の不自然さが、さも自らの在り方そのものであると主張するかのような厚かましささえ感じられた。
「『ネムノキ』か」
際立った異常性は見受けられない。事前情報通り、特質個体である線は薄いだろう。
青年が迷いを見せることはなかった。淡々と踏み出された足が地に着くか否かというところで――――――――—
森は総毛だった。
餌を探し森を闊歩する獣が、花をつつく小鳥が、葉の裏に潜む虫が、風にそよぐだけの枝葉までも。そのすべてが、無遠慮極まりない闖入者に瞼を開き、ぎょろりと目を向けたように青年には感じられた。
森はその「目線」をそのままに、青年へ向けて文字通り凝集した。肉食獣が草食獣の首元にかみつくためにとびかかるのとも、鳥が魚をめがけて急降下するのとも違う。白血球が抗原を除去するのと同じ。機械的な、しかし全力を以って開始された、ただ異物を除去するためだけの動きだった。中央に立つ巨樹は何の反応も示すことなく、いまだふてぶてしく中央に鎮座している。
つい先ほどまで自由な生を謳歌していたかのように見えた動物たちは、水平方向に猛進する雪崩となっていた。青年はその猛威にあらがうすべなく飲み込まれる...
かのように見えた。青年に襲い掛かった無数の脱色された生物は、青年に一歩届かない距離で、そのことごとくが倒れ、あるいは地に落ちていた。彼の手元にぬるりと閃いたのは、一振りの武器だ。実用的とは言い難く、どちらかといえば悪趣味なデザインに映るかもしれない。しかし、見た誰もが持ち主のイメージだけは明確に持ち合わせていることだろう。
鎌だ。それも死神の持つ、誇張されたような大きな刃が付けられた大鎌だ。装飾はない。理詰めで設計されたような、シャープな印象さえ受ける。創作の中でしか見ないような大鎌という武器に反して実用性を極限まで考慮されたシルエットは、奇妙かつアンバランスな印象を見るものに与えるだろう。しかし、刃渡りの異様に長い鎌は大量に襲い掛かる生物たちを「刈る」ように薙ぎ払う動作には最適だった。脱色生物たちは刃に触れたそばから、つながれた電源コードから解放された家電のように動きを止め、元々寒天でできた人形だったかのごとくその場にぐにゃりと崩れ落ちる。攻防と表現するのもためらわれる、森林の一方的な「排除」と、青年の一方的な「伐採」は長時間続いた。攻守が変更されることのないワンサイドゲーム。もともとつるりとした地面と巨樹のみで構成されていた空白のサークルには、生物の残骸が山のように折り重なっていた。もともと白く輪郭を捉えづらいなかにあって、それらの残骸は、ほとんど雪景色と見分けがつかない。
その積雪を前にして、青年の鎌がわなないた。足下に積もる生き物たちを悼むようにも、狩りを終えた後の喜びを隠しあぐねているようにも見えた。青年は鎌の刃先を足元に積もる残骸のうちの一つにさくりと突き刺したのだった。
奇妙な光景だった。鎌と死体。親和性を見出すには血なまぐさい連想を経る必要のある二つの事物は唐突に、物理的に結びつくことを決めたようであった。残骸が、鎌の刃先へと吸収され始めたのである。どくり、どくりと波打ちながら青年の鎌は吸収を続ける。さながらすすられるスープがごとき速さで足元の残骸はものの十数秒で姿を消し、青年の鎌は大きくその姿を変えていた。
斧である。シャープな印象そのものであった鎌から一転、柄は太く、刃は厚く、青年の身丈の二倍はあろうかという大きさに生長していた。
「仕事だ」
サークル内を縦横無尽に駆け鎌をふるっていた時とは一転、青年は猛然と一直線に大樹へと走り出す。森が再び総毛立った。生物たちはそれまでとは比べ物にならないほどの規模を以って、各々の器官の特長を最高効率に発揮しながら走り出し、飛び立ち、地面をはい始めた。雪崩の目標は斧を持った青年。森の白さに染まり切らない異物、その一点のみであった。
白い波濤が青年の影を飲み込むまさにその直前、斧が大樹を打った。甲高さと重厚感を併せ持った金属質な破壊音が周囲に木霊す。青年を牙にかけようとしていた生物群は、斧が大樹に打ち込まれたその瞬間、金縛りにあったように動きを止めた。青年はその瞬間を見逃すことなく、初撃にできた傷口に向かい、斧を繰り返し叩き込む。
二撃、三撃、四撃。
大樹は抵抗するかのように幹を硬質化させるが、青年の勢いと斧の鋭さが損なわれることはなかった。大樹の裂け目は瞬く間に広がり、鈍い金属音のような倒壊音とともに、地に倒れ伏した。青年が斧を打ち込んでから、数十秒も経過していないうちの出来事である。
樹の倒壊と時を同じくして、白い森はそのざわめきを止め、自重に任せてその枝葉を垂れさがらせた。男の大鎌の餌食にならなかった動物たちも、突如脳からの指令を筋肉が受け取るのを拒否し始めたがごとく、すべてがその場に力なく崩れ落ちた。獣は倒れ、鳥は地に墜ち、虫は音もなく足を天に向けてひっくり返った。
森は死んだ。すべての音が漂白されてしまったようだ、と青年は考えたけれど、その実行犯は紛れもなく、自分とその手に握られた斧だった。