迷いの森の話と、ゴミ箱と私のこと
レオン――元婚約者は、肩を落とし、埃まみれのまま去っていった。その背中は、異様に小さく見える。さっきまで私に向かって叫び、ゴミ箱を叩いていた男と同一人物とは思えないほど、力なく、とぼとぼとした足取りだった。
正直、最後に「ゴミ同士、よろしくやってね」と言ったのは言い過ぎだったかもしれない。でも、言わずにはいられなかった。だって、彼が叩いたのは私じゃなくてゴミ箱だったのだから。私の誇りに傷をつけるような行動をした時点で、彼に情けをかける必要なんてない。
「お嬢様!」
その声で思考が中断される。屋敷の中から使用人たちが一斉に駆け寄ってきた。気がつけば、私は十数人の視線に囲まれていた。彼らの顔には、驚きと安堵、そして困惑が入り混じっている。
「お嬢様……本当に無事でいらっしゃったのですね……!」
一番年配らしい執事が、涙ぐんだ目でそう言った。いやいや、そんな大げさな――と思いつつも、私は返事をするタイミングを失ってしまった。彼らは次々と口を開き、私を取り囲むようにして語り始める。
「ずっと心配しておりましたとも……まさか、あの迷いの森へ向かわれたと聞いた時には、心臓が止まる思いでした……」
「ご両親が亡くなられ、莫大な遺産を相続された身。もしや誘拐されたのでは、と気が気ではありませんでした……」
――遺産相続?
初めて耳にしたその言葉に、私は思わず息を呑んだ。今の私は、自走式ゴミ箱を持ち込んだ家電メーカーの社員ではなく、莫大な遺産を相続した伯爵令嬢らしい。いや、そうらしい、と片付けるには話が重い。彼らの話は次第に深刻さを増していった。
「それにしても、ジュリアめ……!」
別の使用人が悔しそうに拳を握りしめる。
「ブランフォード家を裏切るなど……あの女、もともとはお嬢様付きのメイドであったというのに……!口が達者で、アッシュフォード伯爵家に養女として入り込み、ついには……!」
「……レオン様まで……」
レオンの名が出た瞬間、周囲の空気がさらに重たくなる。
「お嬢様の婚約者でいらしたのに……ジュリアなどに唆され、婚約を破棄するなんて……!」
「…許せません!!ジュリアめは、表では良い顔をしておきながら、裏でお嬢様の悪口を散々言い回っていたと聞きます!」
――え?
私は脳内で情報を整理しようとするが、どうにも情報量が多すぎる。私が聞いているのはドラマでも小説でもなく、どうやら「私」に関する現実らしい。
つまり、こういうことだろうか。
ミレイア――つまり今の私の体の持ち主――は、伯爵家の一人娘だった。しかし両親を亡くし、莫大な遺産を相続する。召使いだったジュリアとは親しかったが、裏ではそのジュリアはミレイアを陰で嘲笑い、悪口を言っていた。そして、別の伯爵家に養女として入り込み、ミレイアの婚約者レオンを奪った、と。
――なるほどね。
私は心の中で静かに呟いた。
「世界の理すら歪むという迷いの森に入った時点で、どうなるかと思いました……ミレイアお嬢様が行方不明だと知った時、屋敷中がどれほど恐怖に包まれたことか……!」
年配の執事は震える声でそう言った。使用人たちは次々と「心配していました」「戻ってきてくださり良かったです」と言葉を続ける。
私はそんな彼らの言葉を右から左に受け流しつつ、心の中に奇妙な違和感を感じていた。――悲劇の伯爵令嬢、ミレイア。そういう物語の人物にでもなったような気分だ。でも、今の私は家電メーカー社員の「私」に間違いない。ミレイアの「中」に私がいるのか、それとも二つの人格が「混ざり合って」いるのか。その狭間で、私は何をすべきか。
――とりあえず、ゴミ箱は守らないとね。
思考の末に出てきた答えがそれだったのだから、私はどうしようもないくらい「私」らしい。
ゆっくりと笑みを浮かべ、銀色に輝くゴミ箱の蓋をそっと撫でた。使用人たちの視線が不安げにこちらを見ているが、私は構わず呟いた。
「……今出来ることを、全力でやる。」
――そう、私は伯爵令嬢でも、お嬢様でもない。ただの自走式ゴミ箱を愛する一人の開発者だ。それ以上でも、それ以下でもない。