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悪女のその後の話

◆◆◆


教会の扉を押し開くと、ひんやりとした空気が私を包み込んだ。祭壇の前まで進み、膝をつく。


「神様、どうか。どうか……娘の目が治りますように……」


懸命に耐えていた涙が、祈りとともに溢れそうになる。

けれど、ここで崩れてしまってはいけない。私は歯を食いしばりながら、もうひとつの願いを口にした。


「そして……もう一人……上の娘が……どうか、心を入れ替えて帰ってきますように……」


いなくなったあの子を思い出すたび、胸が引き裂かれそうになる。悔しくて、悲しくて、どうしようもない。


「……何があったのですか?」


穏やかな声に、はっと顔を上げた。

司祭さまが静かに私を見下ろしていた。


私は唇を噛みしめる。

言いたくなかった。誰かに話してしまったら、本当に取り返しがつかなくなる気がして。でも……


「……上の娘が……妹の目の治療費を盗んで、家出してしまったのです……」


自分で言った言葉が胸に突き刺さる。

事実を口にした瞬間、何かが決定的に崩れていく気がした。


「昔は……本当に良い子だったんです。妹のことをいつも気にかけて、家の手伝いもよくして……優しくて、素直な子で……」


あの頃は、私の誇りだった。


「でも……あの子が街に行くようになってから、少しずつ変わってしまいました。華やかなものを好むようになり、派手な服を買い、きらびやかな世界に憧れて……」


思い出すたびに胸が締めつけられる。

最初はただの憧れだったはず。

けれど、いつの間にか、あの子は私たちが知らない世界に足を踏み入れていた。


「お金の使い方も荒くなって……夫も、何度も叱ってくれたのですが……聞く耳を持たなくて……それどころか……とうとう、家中のお金を盗んで、いなくなってしまったのです。」


言葉にした途端、涙が溢れた。

私は胸元を握りしめ嗚咽をこらえながら続ける。


「私は……私は、何を間違えたのでしょうか……?」


どこで間違えた?

どこで、娘の心は離れてしまった?思い返しても、答えは出ない。ただ、残ったのは、失ったものと、後悔だけ。


「どうか……どうか、神様があの子を見守ってくれますように……!」


司祭さまの手がそっと私の肩に触れた。


「神の御心のままに……あなたの願いが届きますように。」


優しく静かな声。

でも、その言葉は、どこか遠く感じた。


本当に、神様は願いを聞いてくれるのだろうか?


私はただ、震える指を組み直し、もう一度目を閉じて祈り続けるしかなかった。


◆◆◆


ぬかるんだ土が裸足に絡みつく。

ひんやりと冷たい感触が、足裏からじわじわと這い上がってくるようだった。

私は歯を食いしばりながら、闇に沈む森の中を歩き続けた。


――くそっ。


体は疲れているのに、頭の中は煮えたぎるように熱い。

ここはどこなのかもわからない。けれど、そんなことはどうでもいい。


全部、全部、あいつのせいだ!!


異世界から来た、ミレイアの中に入り込んでいた、あの女。


何なの? 何なのよ、あいつは。

どこから来て、何様のつもりで、私の人生を台無しにしたの?


私の人生は、親のせいで最初から決まっていた。普通の家に生まれ、普通の暮らしを強いられ、ちんけな金でちんけな人生を送る。そんなのまっぴらごめんだ。


だから街へ行った。私は、あのくだらない家とは違う。もっとふさわしい世界があると気づいた。


高価なドレス、輝く宝石、香り高い香水……どれも手に入れたかった。だから、手に入れるために動いた。


私は努力した。

口先ひとつで人を動かし、必要なものを引き寄せる術を学んだ。何も持たない者は、それくらいできなければ這い上がれない。


あの屋敷に入り込み、メイドとしてミレイアを孤立させるのは簡単だった。貴族が噂話を好むことを知っていたから。ほんの少し嘘を広め、被害者ぶるだけでよかった。


結果、私は伯爵家の養女になった。


メイドから貴族の娘へ。

まさに大逆転。


……だったはずなのに。

全部、あの女のせいで台無しになった!!!


「……ふざけるな!!!!!」


喉が張り裂けんばかりに叫ぶ。


「ねえ、神様? 聞こえてる? 私はこんな仕打ちを受けるような女じゃないわ。私はずっと努力してきたの。誰よりも、必死に生きてきた。なのに、どうして?ねえ、答えてよ。私は何を間違えたの? ねえ、神様?」


静寂だけが、私を嘲笑うように広がる。


「……ああ、そう。そういうことね!」


神は私を見捨てた。


結局、神様ってやつは、都合のいいやつだけを助けるものなんでしょう?

生まれが良くて、素直で、清らかで、善人ぶってるやつを選んで、私みたいな、必死に足掻いて手を伸ばしてきた女は切り捨てる。


「じゃあ、悪魔でもいい!!誰でもいいから、私を助けなさいよ!!!」


泥にまみれたまま、手を伸ばす。

どこに向けているのかも分からない。

でも、私を救う者がいるなら、それが誰であろうと――私は、その手を取る。


その瞬間だった。


何かが、こちらを見ている。


森の奥から、巨大な目玉が、闇の中にぽつんと浮かび上がった。脈打つように、じっと私を見ている。静かに、すべてを見透かすように。


血の気が引く。何かが喉元を這い上がる。

それが叫びになったのか、息になったのか、自分でも分からない。


「ッ……!!」


足がもつれ泥に沈む。

だが、その時――目玉のすぐそばに、もうひとつの影が現れた。


天使。


銀の髪が闇に溶けるように揺れ、白い翼と衣が風にたなびく。その顔には、どんな感情も浮かんでいない。


私は、縋るように天使の腕を掴んだ。


「お願いです!!そこの化け物を……あの目を、追い払ってください!!!」


助けてくれるはずだ。

この人は神の使いなのだから。


次の瞬間、巨大な目玉は音もなく、すっと消えた。


私は助かったのだ。

この人なら、私を救ってくれる。


「私は……私は、とても可哀想な娘なのです…!貧しい家に生まれ、幼い頃から虐げられ……愛されることもなく、ただ生きるために耐えてきました。」


言葉ひとつで、人の心は動く。


「……私は懸命に生きてきたんです。這い上がるために、どんな努力もしました。それなのに……あの悪魔が……あの異世界から来た、恐ろしい存在が……私のすべてを奪ったのです!!」


私は彼を見上げた。


「だから……お願いです!どうか、あの悪魔を……あの異世界の女を……地獄で、永遠に苦しめてください!!!」


この世の地獄では足りない。

あいつには、それ以上の苦しみがふさわしい。


「私が味わった絶望を……あの女にも!!!」


そう、これは神の裁き。

異世界からやってきた悪魔には、それ相応の罰を与えるべきなのだ。


◆◆◆


空気が変わった。森の湿った匂いが消え、代わりに焼けつくような熱が肌に絡みつく。赤い。どこまでも、赤い。血のような光が視界を満たし、空も、地面も、すべてが赤に染まっている。


「……なに、これ?」


私は混乱しながら辺りを見回した。さっきまでの森は、どこにもない。代わりに広がるのは、果てのない赤。上も下もわからない。まるで、世界そのものが裏返ったような感覚がする。


後ろを振り返ると、天使がいた。純白の衣、銀の髪、どこまでも端正な顔立ち。けれど、この赤い世界の中では、彼の白が異様なほど浮いて見えた。


何かがおかしい。


「……あなた、何者?」


そう問いかけた瞬間、彼はゆっくりと微笑んだ。その笑みは、どこか悪戯めいていて、まるで私の困惑を楽しんでいるかのように見えた。


「私は悪魔だよ。」


瞬間、視界が歪んだ。

足元が崩れる。


上も下も消え、私は宙に放り出された。焼けつくような赤の空間が、ぐるりと回る。頭がついていかない。どこに落ちているのかすら、わからない。ただ、世界が赤く沈んでいくのだけは、はっきりとわかった。


「待って……!」


何が起きているのかわからない。でも、これは違う。私が願ったのは、あの女が地獄に落ちることだった。私が、こんな目に遭うはずがない!


「お前の願いは叶えたぞ。」


悪魔の声が響く。冷静で、淡々としていた。


「異世界の女は、この世界を去った。呪いの矛先がいなくなった以上、その呪いは、本来の持ち主であるお前に還る。それだけのことだ。」


何を言っているのかわからなかった。私は、あの女を呪ったのに。私が呪われるなんて、おかしい。


「――じゃあ、ミレイアを地獄に落としてよ!!!!」


悪魔はあくまで静かに続ける。


「無理だ。異世界の女が残した銀の箱により、呪いは跳ね返りお前に戻る。」


そう告げられた瞬間、赤が深く沈み込んだ。ぐらりと空間が揺れる。熱を孕んだ何かが、地の底から湧き上がってくる。蠢く影が、私の足元へと集まってくる。


「嫌……!」


私は身を引こうとする。けれど、どこにも逃げ場はなかった。


「存分に、味わうがいい。」


くすりと笑う声が聞こえた。


◆◆◆


延々と広がる赤い空の下、無数の人が歩いている。誰もがぼんやりとした目をして、前へ、前へと進み続けている。


だが、それがどこへ向かうのかは誰にも分からない。彼女たちはただ、足を動かすことしか知らないかのように、ゆっくりと、しかし決して止まることなく歩いている。


はじめは気づかなかった。ただの亡霊か、あるいは私と同じように落ちてきた罪人かと思った。だが、近づいて、その顔を見た瞬間、私は震えた。


「……私?」


声に出して、ようやく理解する。そう、そこにいるのは、私だ。どこを見ても、どこまでも、ただひたすらに私ばかり。長い髪をなびかせて歩く私、幼い顔のまま佇む私、豪奢なドレスに身を包んだ私――どれも、私。


「どういうこと?」


赤い空の下、微笑む悪魔が静かに口を開く。


「彼女たちは、別の世界に生きたお前だよ。」


「……は?」


「本来なら、お前が辿るはずだった人生。いや、お前ではなく、この無数の『ジュリア』が、それぞれの世界で手にしていた未来だ。」


言葉の意味がすぐには分からなかった。

だが、幽鬼たちの影をよく見れば、彼女たちは皆、私が欲しかったものを手にしていた。


ある者はお洒落をして優雅に街を歩き、ある者は愛される貴族令嬢として微笑み、またある者は穏やかな家庭を築き、幸せそうに子供を抱きしめている。


そんなはずがない。


「嘘よ……! そんな未来があるはずがない……!」


私は叫ぶ。だが、幽鬼たちは変わらず歩き続ける。私を一瞥すらせず、ただ、目の前にある幸福の影をなぞるように。


「これは、お前が捨てた未来だ。」


悪魔は穏やかに告げた。


「彼女たちは、お前が貪欲に手を伸ばしさえしなければ、確かに存在したはずの可能性だ。誰かを踏みつけずとも、誰かを欺かずとも、お前が手に入れられたかもしれないものたちだ。」


「そんな……そんなもの……!」


「お前は、自らその道を潰した。だから、お前はここにいる。お前が望んだものを、誰もが持っていたという現実を知るために。」


息が詰まる。喉が焼けつくようだ。胸の奥がひどく痛い。


この世界の私たちは皆、幸福だったのだろうか?

もしも、もしも私が違う道を選んでいたら。

もしも私がミレイアの屋敷に入り込まず、策略を巡らせず、家族の元で、ただ真っ直ぐに生きていたら。


それはありえたことなのだろうか?


目の前を歩く「私」が、一瞬だけこちらを振り向いた。


――オマエノセイデ、オマエノセイデ、オマエノセイデ、オマエノセイデ、オマエノセイデ、オマエノセイデ……


「……やめて…」


声が震える。


「やめてよ……! そんな顔、しないで……!」


私は立ち尽くしたまま、ただ延々と歩き続ける「私たち」を見ていることしかできなかった。


「神様!!!!助けて!!!!!!!!」


喉が張り裂けるほどの、声にならない声。


足元は何もない。赤い空間に浮かぶ私の体は、黒い縄に吊られていた。息が詰まる。苦しい。手足が冷えて、指の感覚がなくなっていく。


「……追い払えと言ったくせに?神を否定し、悪魔を頼り、望むものを手に入れるためにどれだけの嘘を重ね、人さえも殺したのを忘れたのか?」


その声は愉悦に満ちていた。

見上げれば、天使の姿をした悪魔が、まるで美しい彫像のように微笑んでいる。


「違う……違うの……!」


視界が揺れる。涙が滲む。息が苦しい。

空を掴むように手を伸ばすが、指先は何にも届かない。


「神様は、見ているよ。」


その言葉を最後に、彼はふっと消えた。

そして――目の前に、巨大な目玉が浮かび上がる。


感情の読めない瞳。無機質で、冷たく、それでいて、どこか哀れむような――そんな視線で、私を見つめている。


いやだ、やめて。見ないで。


声にならない声が喉の奥に詰まる。

その目に見つめられていると、私の罪がすべて暴かれるような気がした。


父と母が必死に貯めたお金を盗んだ。妹の治療費を持ち逃げした。嘘をついてミレイアの屋敷に入り込み陥れた。人を殺した。


私はただ、人のものを奪い続けていた。母の愛を踏みにじり、妹の未来を奪い、そして、ミレイアの居場所を横取りしようとした。終いには無関係の人の命すら奪った。


「……お母さん……」


声に出した瞬間、涙が零れ落ちた。

なぜ今になって、この名前を呼んでいるのか、自分でもわからない。


どれだけ後悔しても、過去は消えない。目の前の世界は変わらない。


私は、帰る場所を捨てた。

自分で選び、自分で壊し、そして、全てを失った。

赤黒い世界が歪む。涙が頬を伝い、虚空へ落ちていく。


――神様は、見ている。


目玉が、ただ静かに、私を見つめていた。

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