どうか、私たちが
「……実は、私も逃げたかったんだ。」
周囲は深い緑に包まれ、風が枝葉を揺らす音だけが静かに響いている。どこかひんやりとした空気が漂い、淡い光が木々の隙間からこぼれ落ちていた。
ミレイアは、不思議そうにこちらを見た。
「……逃げたかった?」
彼女の問いかけに、私は頷いた。
「そう。現実から、ね。」
私の視線は、遠いどこかを彷徨うように泳いでいた。
「仕事も、結婚も、将来も、不安でさ。どうしたらいいのかわからなかった。いや、わからないまま走り続けるしかなかったって言ったほうが正しいかな。」
吐き出すように言葉を紡ぐと、自嘲気味に笑った。
「それでね、私、小説が好きだったんだ。異世界ものとか、悪役令嬢ものとか、貴族令嬢の優雅な暮らしとか……」
脳裏に浮かぶのは、通勤途中の電車やベッドに寝転んで読んだ、幾つもの物語。魔法の使える華やかな世界、痛快な逆転劇、優雅なドレスに身を包み、格式ある舞踏会で微笑む貴族令嬢。庶民の私には到底手の届かない、そんな世界。
「だから、異世界に行けたらいいなって、思ってたんだよね。貴族の令嬢になって、のんびり幸せに暮らせたらって。」
苦笑しながら言うと、ミレイアが少し驚いた顔をした。
「……でも、実際はそんなに上手くいかないね。」
私は足元の草を軽く踏みしめる。
「貴族は貴族で大変だし、何をやっても、そうそう理想通りにはいかない。結局、どこに行っても人生って大変なんだなって思ったよ。」
「……そう、ですね。」
彼女の声は、どこか遠くを見つめるような響きを帯びていた。
「……私たち、似たもの同士だね。」
私はそう言って、ミレイアの顔を見つめた。
森の中、静寂に包まれた空間。頭上には揺れる木の葉の隙間から、薄い光がぽつぽつと落ちてくる。風が吹くたびに葉擦れの音がかすかに響き、遠くで小鳥のさえずりが聞こえた。まるで世界がほんの一瞬、息を潜めているようだった。
私が異世界に転生して貴族の令嬢になりたかった時に、彼女は自分の命を捨てるためにこの森へ入った。そして、その願いが重なったとき、互いが入れ替わってしまったのではないか。
そう考えると、まるで皮肉みたいだ。
私がこの世界に来て、必死に彼女を救おうとしていたのは、結局自分自身を救おうとしていたのと同じだったのかもしれない。
「ねえ、ミレイア。」
私は小さく息をついてから、ゆっくりと口を開いた。
「これからも私たちは、たぶん迷うし、傷つくし、悩むし……死にたくなることもあると思う。どうしようもなく、すべてが嫌になる瞬間がきっと何度もやって来る。」
言葉を紡ぎながら自分の胸の奥に沈んでいる思いにも気づく。私はずっと、そうやって生きてきた。
――でも、もう違う。
「だけど、それでもいい。」
ミレイアは私を見つめている。真っ直ぐな瞳で、まるで私の言葉をひとつ残らず受け止めようとしているみたいに。
「たとえ何もできなくても、何も変えられなくても、どんなに情けなくても、それでもいい。誰かに認められなくたって、自分だけは自分を否定しなくていいんだ。弱くていい。迷ったままでいい。ただ、そのままの君で、生きていてほしい。」
私の声は静かに響く。それはまるで、過去の私自身に向けた言葉のようだった。
「何かあったら、また助けに来るよ。私はあなたの味方だから。」
ミレイアはしばらく黙っていた。風が彼女の髪を揺らし、木々の間をささやく音が、森の奥へと消えていく。
「……ありがとう…!」
彼女はかすかに微笑んだ。ほんの少し、でも確かに。
「さようなら、もう一人の私。」
そう言って、ミレイアは深く跪いた。
私は深くお辞儀を返しながら、胸の奥で小さく呟いた。
――さようなら。異世界の私。そして、どうか、私たちがどこまでも歩いていけますように。




