あなたのミレイアではないの
先程までの騒動が嘘のように、夜の帳がゆっくりと降りてきている。遠くで風が木々を揺らし、葉擦れの音が耳をかすめた。
数秒の沈黙の後、誰かが短く息を呑む音が聞こえ、別の誰かが小さく何かを呟く。
その言葉を口にすることが怖くなかったわけではない。これを言えば、私はもう二度と「ミレイア・ブランフォード」として振る舞うことはできなくなる。
――それでも。
「……私には、話さなければならないことがあります。」
言葉が喉の奥に引っかかるような感覚がある。けれど、もう誤魔化すわけにはいかない。この大広間の静けさが、私にそれを許さなかった。
「私は……日本という異世界の、家電メーカーで働いていました。」
その瞬間、何かを理解しきれない貴族たちの視線が、一斉に私へと注がれる。
「日本……?」
「異世界……?」
「家電……?」
疑問がまるで波紋のように広がっていく。いや、当然だ。異世界から来ましたなんて、普通の神経をしていたら信じられない。私だって、そんな話をされたら「え、何それ?」って聞き返す。
「元々は、ただの会社員でした。開発部門にいて……今回は自走式ゴミ箱の企画を担当していたんです。」
「……ゴミ箱の企画?」
私は視線を落とし、そばに佇む銀色の機体を撫でた。つるりとした光沢のあるボディ。機能性とデザイン性の両立。私が設計した、最高のフォルム。
「はい。このゴミ箱は、私が開発しました。」
言葉にした途端、遠い記憶がよみがえってくる。
設計図と向き合い、何度も何度も試行錯誤を繰り返した日々。最初の試作品が動いたときの感動。動作試験のために中国の工場と連絡を取り、調整を続けたオフィス――。
すべて、私が現実に生きていた証だった。
「その日、私は会議室に向かおうとしていたんです。上司たちの前で、このゴミ箱のプレゼンをするために。」
あの時、私は意気込んでいた。今日は決戦の日だと。練りに練った企画書を握りしめ、このゴミ箱の素晴らしさを存分にアピールしようと。
けれど。
「――気づいたら、この世界に転生していました。会議室に入るつもりが、目の前に広がっていたのは森で……靴の感覚が変わっていて……気づいたら、この体になっていたんです。」
私は自分の手をじっと見つめた。
ざわめきがまた広がる。信じる者、信じない者、戸惑う者。けれど、私が一番気にしていたのは――やっぱり、エリオットの反応だった。
私は、そっと彼を見た。
エリオットは静かに私を見つめていた。驚きの色はあったが、それ以上に、何かを深く噛み締めるような――そんな眼差しだった。
誰かが呟く。
「本当に……そんなお伽話みたいな事があるのか?」
「あります。実際私は今日まで、ミレイア・ブランフォードとして生きていました。でも、本当の私は異世界の人間なんです。」
私は大切なものを取り戻すように、そう宣言した。そして――エリオットの顔をもう一度、まっすぐに見つめる。
「今まで黙っていて……ごめんなさい。」
――怖い。
彼がどう思うかなんて、わからない。
でも、結果として騙していたのは事実で…私はそれを謝らなきゃいけない。
私はエリオットにとって何だったのだろう。私がミレイアではなかったと知った今、彼はどう思うのだろう。
それを考えると、胸の奥が締め付けられるようだった。
……きっと、怒るだろうな。
それが当然だ。私は、彼に何も言わずにいたのだから。
彼の反応を待つ一瞬の沈黙が、異様に長く感じられた。けれど、エリオットは――怒らなかった。
「……あなたは、ミレイア様ではなかったのですね。」
「……うん。」
私は、ただ頷くことしかできなかった。
「……謝ることは、ありません…。今まで……ミレイア様の為に、ここまで戦ってくださった事を感謝いたします…」
言葉を失う。
怒ると思っていた。責められると思っていた。私のことを、偽物だと拒絶されるのだと思っていた。
何それ。何で、そんな顔をするの。何で、そんなに優しいの。私はミレイアじゃなかったのに。
――胸が痛い。
それがどういう感情なのかは、わからない。ただひどく心に刺さった。
「エリオット……」
それ以上の言葉は、出なかった。
彼はただ静かに微笑んでいた。その笑顔はどうしようもなく優しくて――そして、切なかった。




