決断のとき
まるで劇場の舞台のようだった。
「お義母様……」
彼女はしとやかに両手を胸の前で組み、静かに夫人を見つめる。涙が溜まった瞳を伏せ、震える声で続けた。
「私はただ、貴族として相応しくあろうと努力していただけなのに……それなのに、お義母様には冷たくされ、嫌われて……」
「年頃なのに、老婆のような髪型や服ばかり押し付けられて、本当に……悲しかったんです……」
「そ、そんなことは――」
その言葉に夫人が青ざめた。
「私は、年若い貴族令嬢らしく装うことを許していただけなかった……」
ジュリアは、あくまで弱々しく。慎ましく。そして、耐え忍ぶ健気な娘として涙を零す。
「私は、ただ……ただ、お義母様に可愛がってほしかっただけなんです……!」
……いや、違う。これは完全な演技だ。
本来ならば、感情の爆発とともに怒りをぶつけてくるような人間が、今この場で、なぜこんなにしおらしい態度を取るのか。
それは、この空間に「彼女を庇う絶対的な者」が一人いるからだ。
「……ふん。」
伯爵が静かに鼻を鳴らした。
そして、ゆっくりと夫人に目を向ける。
「くだらん。年増女の嫉妬ほど、見苦しいものはないな。」
「……!」
「母親として、もっと寛容になれなかったのか?」
伯爵は、まるで「妻の幼稚な嫉妬をたしなめる夫」のような口調だった。
「ジュリアの訴えが本当なら、お前は娘を虐げていたことになる。あまりにも心が狭すぎる。」
「そ、それは……」
「いや、何も言うな。お前は、自分の老いを認められず、若い娘を貶めようとしただけだろう?」
「そ、そんな……!わたくしは……!」
夫人の瞳が揺れる。
「わたくしは、ただ、あの子を……」
必死に声を振り絞る夫人だったが、伯爵の冷たい視線がそれを許さない。
「言い訳は無用だ。」
そう言い放たれた瞬間。
――夫人の目に、涙が滲んだ。
私は静かに唇を噛み締める。
夫人は、ずっとこうして生きてきたのだろう。
彼女は名門貴族の夫人であり、家を守る者であり、そして何よりも――伯爵家の妻として生きてきた。
なのに、彼女が何を言っても夫は聞きもしない。
彼女がどれだけ正論を述べても、彼の中では「妻の言葉」は「ただの愚痴」でしかない。
「どうして……あなた……」
夫人の瞳から、ぽつりと涙が零れ落ちた。
それは 耐えきれず溢れたものではない。
むしろ、何かが決壊する直前の静かな滴り。
「……お母様!」
令嬢の震える声が、それをきっかけにしたかのように空間に響いた。
彼女は座り込んだ母の側に駆け寄り、その肩に手を添える。
「お父様お願いです……!お母様を責めないで……!」
令息もすぐにその場に駆け寄る。
少年らしい顔を青ざめながら、必死に父を見上げた。
「お父様……!お母様がそんなことをするわけがないでしょう! 」
伯爵の顔は依然として険しいままだ。
夫人の消え入りそうな声は、彼には届いていない。
私は、彼女の肩が細かく震えているのを見ていた。
――夫人が泣いている。
ここまで耐えてきた人が。
何年も 気丈に「貴族の妻」としてあり続けた人が。
彼女はこの家を守ろうとしただけだ。
それなのに、何故ここでこうして涙を流さなければならないのか。
ジュリアは、もう伯爵の背後に隠れていた。余裕のある顔で、彼の影からちらりとこちらを伺っている。
――「勝った」つもりなのだろう。
このままいけば 「私も被害者でした」という形で収束し、夫人が一番の「加害者」として沈められる。
その結末を、彼女は確信している。
そうはさせない。
私は静かに、右手をスカート部分の切れ込みに滑らせた。
例の日記。
決して明るみに出してはならない証拠。
これさえあれば、形勢を覆すことができる。
――それでも、迷いがなかったわけではない。
これは、秘密そのものだ。
内容が内容だけに、これを晒せばアッシュフォード家は致命傷を負うだろう。
だが。
私は夫人の震える肩を見た。
その横で涙を浮かべながら、必死に母を庇う子供たちを見た。
この家を壊すつもりはなかった。
ただ 「本当に守るべきもの」 を、守らなければならない。
私は深く息を吸い込む。
決断は、もうついていた。




