ゴミ箱と伯爵令嬢の覚悟
「……サインはこちらでございます、お嬢様。」
老執事が柔らかい声で私に書類を差し出す。重厚な机の上に並べられた書類の山は、それだけで十分圧迫感を与えるものだ。けれど、驚くことに私の手は慣れたようにペンを走らせている。
この体――ミレイアの記憶とスキルが自然と染み付いているのだろうか?それとも、現実世界での資料作成や報告書の処理スキルが活きているのか?どちらにせよ、伯爵の仕事は、デスクワークとしての要素が多い。つまり、私はむしろ得意分野だ。
「さすがでございます、お嬢様。」
執事が感心したように軽く頷く。私は適当に微笑みを返し、次の書類に手を伸ばした。
ふと横を見ると、エリオットが無言で手伝ってくれている。彼は騎士の家柄らしく、常に背筋を伸ばし、表情を崩さず、誠実そのものだ。こういう人がサポートしてくれるのは正直ありがたい。彼が横にいるだけで、屋敷の空気が少しピリッと引き締まる。
「……何かご不明な点がございましたら、お任せください。」
相変わらず真面目な顔でエリオットがそう言う。私は首を横に振って、軽く笑って返した。
「今のところは大丈夫。ありがとうね。」
エリオットは軽く頷いてまた黙々と作業を続ける。
使用人たちの視線が私を見守っているのが分かる。彼らの中には、長年この屋敷に仕えてきた者もいれば、若い召使いもいる。全員が誠実で、ミレイア――今の私――のことを心から大切に思っているのが伝わってくる。
不思議なことに、その環境は心地よかった。元々、私は「周囲に恵まれた環境」というものをあまり感じたことがなかった。けれど、この異世界では、確かに私を支えてくれる人たちがいる。そして何より、私にはゴミ箱がいる。
私の隣で静かに佇む自走式ゴミ箱。その銀色のボディは相変わらず美しく、今日も何事もなく私を見守っている――いや、見守るなんて感情があるわけではないけれど、そう思わせてくれるくらい、そこにいてくれることが大切だった。
「……まあ、この異世界も悪くないかもね。」
私は心の中でそう呟いた。
書類をめくりながら、次第にそう思うようになっていた。
両親を亡くし、婚約者に裏切られ、迷いの森で行方不明になった伯爵令嬢――なんて悲劇的な物語の主人公のような人生を引き継いだはずなのに、今はそんな実感はほとんどない。優しい執事や真面目なエリオット、忠実な使用人たち――そして、自走式ゴミ箱という私にとって唯一無二の相棒がいる。
だけど。
「……あいつらは、また来る。」
自然と胸の奥に込み上げてくる確信。
あいつら――ジュリアとレオン。
口先だけで信用を勝ち取り、人を欺くジュリア。そして、純粋な信頼を裏切り、彼女の甘言に溺れたレオン。二人がこのままで終わるはずがない。
使用人たちが私を心配してくれる理由はそこにあるのだろう。私の平穏を脅かすのは、外からの脅威ではなく「かつての身内」だ。
「お嬢様……どうなさいました?」
老執事の声が優しく耳に届く。私は軽く笑い、書類に再びペンを走らせる。
――大丈夫。分かってる。今度はもう、誰にも好き勝手はさせない。
私は机の上の書類から顔を上げ、ゴミ箱に目をやった。その銀色の蓋が、まるで「やるときはやるよ」と無言で応えている気がする。
「さあ、始めるわよ。」
言葉を口に出してしまったのは無意識だった。でも、その言葉は心地よく響いた。
――そう、すべては私とゴミ箱から始まったのだ。
私は再びペンを持ち直し、笑みを浮かべながら次の書類にサインをした。ゴミ箱は「ピッ」と軽い電子音を鳴らし、まるで「その意気だ」と言っているかのように静かに輝いていた。