4-12 マリアの心
「マリア。今日から君の先生になる、カトリーヌ様だよ」
マリアが、まだ幼い時。父に家庭教師を紹介された時には、もう全てが終わっていた。カトリーヌは彫りが深く、コンラート王国人の顔立ちとは、明らかに系統が違っていた。そのとき既に、マリアの家まるごと全てが、ストイッタ帝国に囲われていたのだ。
マリアは魔法が発現する前から、間諜としての教育を綿密に施された。
無邪気に、無知に振る舞うこと。わざとらしくしすぎないこと。周囲の感情を、うまく操ること。
必要な情報を入手する術。体術と魔法の使い方。視線の動かし方。微笑み方、泣き方、甘え方。
マリアは幼い頃から、全てをコントロールして過ごさなければならなかった。他の生き方なんて知らなかった。
コンラート王国より先に、ストイッタ帝国に見つけられてしまったから。マリアの人生はその瞬間に、闇に堕ちたのである。
錆びついた匂いのする牢屋で手錠に繋がれながら、マリアは呆然としていた。いつかこうなるんじゃないかという予感は、ずっとあった。自分のしていることが、良くないことだという自覚はあったから。
でも、マリアは他の生き方なんて知らなかったのだ。
遠くから足音がする。小さい頃から周囲に耳をそばだてて生きてきたから、マリアにはすぐわかった。でも彼女は顔を上げなかった。
だってもう、必要ないから。何をしたって無駄だから。
「…………マリア」
牢屋の向こう、目の前で立ち止まった人物に存外柔らかな声をかけられて、マリアは驚いた。そこでやっと顔を上げる。そこには思案げな顔をしたニコラが立っていた。
――なんで。
どうして、会いにきたんだろう。
もう、私のことを見限ったのだと思ったのに。
「マリア。僕は君を、恨んでいないよ」
「え……!?」
思わず声を上げてしまう。ニコラの前でほんとうの感情を露わにするのは、これが初めてだった。
「君はこれから、その能力を使って人々を癒していくことになる。償いの場だ」
「償い…………?」
言葉の意味がわからず、壊れた人形のように首を傾げる。だって自分にはもう、死しか残されていないと思っていたからだ。
「君の働き次第では、外に出て生活もできるそうだ。勿論、監視の目はつくだろうが……」
「嘘……」
「嘘じゃない。僕が頼んだんだ。君を助けてもらう代わりに、兄様に王位を譲った。後悔はないよ」
「……!!」
マリアはいよいよ、目を見開いた。
「僕は、君を待っている。いつままででも」
「なんで……?………………どうして……?」
マリアの質問は無垢だった。本当に意味がわからないからだ。そんな彼女に、ニコラは優しく微笑みかけた。彼が差し出したのは、これまでマリアが一度も受け取ったことのない、深い愛情だった。
「君を、愛しているから……」
「え…………」
「何もないからっぽの僕を、君は好きだと言ってくれた。例え嘘だったとしても、君がくれた笑顔や……言葉の数々に、僕は何度も救われた。だから……」
ニコラは牢屋越しに手を伸ばし、まるで一等大切なものみたいに、ゆっくりとマリアの輪郭をなぞった。
「だから。君が例え、からっぽだったとしても……僕は、君を愛しているよ」
「…………っ!!」
マリアの、両目からは――――どうしてだろう。水がぽたぽたと、零れ落ちた。何故かは、わからない。涙なんて、もう長い間……周囲をコントロールするためにしか、流したことがなかった。
ニコラに告白をしたのは、ニコラを愛しているからではない。彼を王位へと焚き付けた方が、ストイッタ帝国の利になると考えたからだった。『シナリオ』とのずれがあまりにも大きい周囲への困惑と焦りが、マリアにはずっとあった。そのために功を急ぎ、ニコラを上手く誘導できなかったと反省していたくらいなのだ。とにかく、そこにマリアの心は一切なかった。
それなのに――――ニコラはマリアを心から愛して、自分を犠牲にした。そうしてまで、マリアが生きられるようにしてくれたのだと言う。
マリアは呆然としながら、両手をゆっくりと彼に向かって伸ばした。流れる涙のせいで、彼の姿がはっきりと見えない。
「ニコラ様。…………私。私……っ」
動物たちを看る、ニコラの優しい瞳を思い出す。それを自分に惜しみなく向けてくれていたことも、知っていたはずだった。
もっと、ちゃんと見ていれば。
ちゃんと、自分の心に気づけば良かった……。
もっと、早く……。
「…………今更。今更、だわ…………」
「うん…………いいんだよ」
涙が止まらない。マリアにはもう、自分をコントロールすることができなかった。
「今更、だけど…………。…………こ、ここを。出られるように、頑張ります。ニコラ様に……また、会えるように…………」
「うん」
「…………っ。待っていて、くださいますか……?」
「うん。待っているよ」
ニコラがはっきりと頷いてくれたのが、マリアには分かった。
「いつまでも、待っているよ」
「…………ありがとう。……ありがとう、ございます……っ」
マリアはしんとした牢屋の中で、いつまでも声を殺して泣いていた。
ニコラが立ち去った後も、ずっとずっと、泣いていた。




