4-8 ニコラの恋(※ニコラサイド)
ニコラには幼い頃に母と過ごした記憶が、ほとんどない。
ただ、稀に会うたびに母は、とにかくクロードより優秀になれと言っていた。あなたは王になるのよと、繰り返し言い聞かされていたと思う。私は側妃だからあまり会いに来れないのよとも、よく言っていた。
小さなニコラはいつも母が恋しく、寂しかった。常に母の正妃と一緒にいる、兄のクロードが羨ましかった。他の側妃の子供である妹たちだって、母親と一緒に過ごしているのをニコラは見ていた。どうして自分だけ母様と過ごせないのだろうと、いつも疑問に思っていた。
ただ、その代わりニコラは、王宮の優しい乳母ルイーゼと、よく一緒に過ごしていた。
彼女は動物が好きな人で、よく傷ついた動物を保護しては里親を探したり、野生に返したりしていた。だから、ニコラもそれを手伝っていた。幼いニコラは猫や小鳥、亀なんかの手当てをしながら、母に会えない寂しさを紛らわしていたのだ。
しかし、ニコラが六歳になってからしばらくした、とある日のことである。世話をしていたはずの動物たちが、突然、一斉に姿を消していた。彼は大変なショックを受けた。全員、大切な子たちだったからだ。
周囲に話を聞いてみれば、ニコラの母が怒り、全て捨てさせたのだと言う。しかも彼の大好きな、あの乳母ルイーゼまでもが王宮をクビになり、去っていったと言う。ニコラは、ルイーゼにさよならも言えなかった。
ニコラはすぐに、母に縋りに行った。ルイーゼだけでも良いから、何とか連れ戻させて欲しかったのだ。
しかし当の母は、こう叫んだ。「動物なんて、あんな臭くて汚いもの、城に入れないで!」と。そして、「あんなもの、あんたが王になるのに必要ないじゃない!」とも叫んでいた。
追い詰められたニコラが泣きながら縋ると、母は「その二色の不気味な目で見ないで」と言って、彼を叩いた。
母は、ニコラに会いに来られなかったんじゃない。
母はニコラが嫌いだから、会いに来なかっただけだ。
まだ幼い彼にだって、それくらいはわかった。
やがてクロードの母が亡くなると、ニコラの母が正妃の座についた。彼女の増長はひどかった。彼女は、急にニコラに擦り寄って来るようにもなった。
クロードに勝て、王になれ、と。以前よりも激しく、執念深く。繰り返し、繰り返し言い聞かせてくるようになった。それはまるで呪いの言葉のように、ニコラには聞こえた。
でも、ニコラは――――ちゃんと、知っていたのだ。
自分の優しくて気弱な気質が王に向かないと、王宮の皆が口々に言っていることも。
勉学も武術も社交術も、何をやったって兄クロードには到底、敵わないのだということも。
自分を持ち上げて笑う人々が、自分ではなく、母の後ろ盾しか見ていないと言うことも。
全部全部、ニコラは知っていた。
ニコラは、からっぽの王子様だった。
二つの派閥の隔たりは、どんどん大きくなっていった。そんな中でニコラが十七歳になった、ある日のことである。
王宮に、『聖女』とされる女性がやってきた。名前はマリア・コストナー。鮮やかなオレンジブロンドに、溌剌としたピンクの瞳。自分なんかとは到底釣り合わない、華やかで可愛い人だなと、遠目に見て思った。きっと彼女とは、全く関わらないままでいるのだろうと――――漠然とそう、思っていた。
しかしニコラは、怪我した小猫を拾って帰る途中、聖女マリアにばったり遭遇してしまったのである。
「その子、拾ったんですか?」
鈴の鳴るような声で唐突に問われ、ニコラは答えに窮した。彼はいまだに、こういう弱った動物を見つけては連れ帰り、癒すことを繰り返していたのだ。もしも、汚いものを見るような目で見られたらどうしようと、一瞬恐れた。だからニコラは慌てて、こう言い募った。
「王宮で飼うわけじゃない。ただ……怪我が良くなるまで、少しの間だけ。王宮に、置いてあげるだけなんだ!そうしたら、里親を探すから……!」
「……優しいんですね」
「え…………?」
「優しくて、素敵だなって……思います!」
顔を上げると、マリアは……それはそれは可愛い笑顔を、ニコラに向けていた。ふわりとしたそれは、まるで砂糖菓子のようだった。
ニコラは、心底びっくりした。王宮にいる人間に、しかも女の子に、そんな風に言ってもらったのは、生まれて初めてだったからだ。
そのうちニコラとマリアは打ち解け、一緒に動物たちの世話をするようになった。ニコラが秘密で動物を保護している場所で、逢瀬を重ねるようになったのだ。
彼女は、他の人とは何もかもが違った。ニコラ自身を見てくれて、その頑張りを見つけて褒めてくれた。ニコラの優しさが好きだと言ってくれた。ニコラのオッドアイを見て、綺麗だとも言ってくれた。
ニコラは嬉しかった。毎日がふわふわとして、幸せだった。彼は自分が、どんどんマリアに惹かれていくのを感じた。無邪気で純粋な彼女が眩しくて、全く目が離せなかった。
ある日ニコラは思わず、マリアに苦しい心のうちを吐露した。
「君は、僕を優しいと言ってくれるけど……。優しいのは……王子としては良くないことだって、僕もわかっているんだよ。そんなの、王には、相応しくないって……」
マリアは一瞬きょとんとした顔をした後、またあのふわりとした可愛い笑顔で言った。
「そんなことないと思うわ。私は、優しい王子様が良いと思います」
「でも……君だって。王子としては……クロード兄様の方が、優れていると思うだろう?」
「優れている……とかより、きちんと自分の心を持っている方が、大事なんじゃないかな……?私は、か弱いものに手を差し伸べられる優しい王子様、とっても良いと思いますよ」
マリアはニコラの手を包み込み、静かに言った。まるで神託のように。
「ニコラ様は素敵な人です。きっと、か弱いものを助けられる……優しい王になれる人です」
ニコラはその日、彼女を心の底から好きだと思った。彼女以上に好きになれる人なんて、もう現れないだろうとも思った。
ふわふわした毎日を送る一方で、気になることもあった。
今年の七月頃からだろうか。周囲に怪しげな動きが出てきたのだ。なんと第二王子派閥が、建国記念パーティーでニコラの立太子宣言をすると息巻いているらしい。心配で探ってみると、どうやら武力さえも行使する気でいるようだ。
ニコラの知らないところで、自分を神輿にしようとする人々が動いている。しかしニコラは、本当は争いが大嫌いだった。あの大舞踏会のような事件は、二度と起きてほしくなかった。
ニコラはもう、王位継承権を手放したいという気持ちが強くなっていった。
しかし、十月になったある日のこと。
ニコラは、マリアから突然呼び出された。慌てて彼女のもとへ行くと、何だか切羽詰まった様子で、こう告げられた。
「私、ニコラ様をお慕いしています」
「え…………っ!?」
「ニコラ様……どうか、私の想いに応えてください」
ニコラは一瞬、歓喜で舞い上がった。しかし次の瞬間、マリアはこう告げた。
「ニコラ様。あなたは王に相応しい人だわ」
「…………!!」
「どうか、王になってください。ニコラ様」
ニコラには何も、返事ができなかった。沸き上がったところに、突然冷や水を浴びせられたような気分だった。
「ごめん。今は何も……応えることが、できない。少し、時間が、欲しい……」
そう言って、逃げるように身を翻した。
――僕だって、君が好きだ。君以外、他に何も要らないほど、君が好きだよ。
――でも。僕が王になりたくないと言っても、君は僕を好きでいていてくれるんだろうか?
――或いは君も、僕が王になるかもしれないから、わざわざ近寄ってきてくれたのか?結局は、あの母と同じだったのか?
――もしも僕が、ただの僕になっても。君は僕を、好きでいてくれるのか……?
ニコラはもう、疑念でいっぱいだった。こんな自分が嫌だった。
自分は、王様になんてなりたくない……。それが彼の本音だった。
ニコラは激しく痛む胸を抑えながら、涙を一筋零し、早歩きでその場を去ったのだった。




