閑話 クロードとクリスティーネ
明日はクリスティーネが、母国ファレーヌに帰る日だ。長いようで、あっという間の一ヶ月半だった。
クロードとクリスティーネは、王宮の薔薇園のベンチに腰掛けて、最後のゆっくりとした時間を過ごしていた。見張りにはユリウスをはじめとした、クロードが信頼する騎士達を配置している。多少の内緒話もできる環境だ。
クロードは自分の耳に、するりと手を当てた。そこにはクリスティーネから贈られた、イヤーカフがついている。繊細に魔法陣が仕込まれている品で、最大二度まで『すり抜け』の魔法が使えるものだ。
クロードは、どこか寂しそうにしているクリスティーネの手を取り、穏やかな声を掛けた。
「このイヤーカフ、とても気に入ったよ。時間がなかったのに、こんな素晴らしい品を作ってくれてありがとう」
「いいえ、いいの。クロード様の安全のためだもの」
「うん……君も、気を付けるんだよ。僕のせいで、君が狙われる可能性は高まっていると思う。すまない……」
クロードの声は、少し気落ちしたものになった。この結婚を邪魔に思う者は、国内外に沢山いる。自分のせいで愛する人が危険に晒されるというのは、こんなに辛いものなのかと、今更実感した。
「私はもともと王族だもの。常に多少の危険はあるわ。それに、クロード様がしっかり護衛を固めてくれたから大丈夫よ。我が国の腕利きの護衛も沢山いるのに、ちょっと過剰なくらいよ?」
クリスティーネはそう言って、くしゃりと可愛い笑顔をした。クロードの不安を感じ取ったのだろう。気丈に振る舞ってくれているのがわかって、クロードの心は震えた。
クリスティーネは薔薇園をぐるりと見渡しながら、思い出に浸るように言葉を続けた。
「ここも、本当に美しい場所よね……。今回の滞在中、この国を沢山案内してくれてありがとう。とても楽しかった……」
クリスティーネの滞在中、クロードはとにかく彼女を連れ回した。この国を、少しでもその身で知ってほしいと思ったのだ。クリスティーネは終始楽しそうに国民たちと交流していて、クロードはそれを見るのが、とても好きだった。そうして彼女と一緒に居るのが、いつの間にか当たり前になってしまった。明日別れなければならないなんて、とてもじゃないが信じられない。
「あなたのお陰で、この国のことがすっかり好きになったわ」
「それは良かった。僕も案内がてら、国内をよく見回れて良かったよ。そうだな……最後に聞いておこう。君は我が国に来たら、どんなことをしたいと思った?」
クロードは首を傾げて、興味深げに質問をした。このような議論はもう何度も交わしたが、最後の総まとめである。
「そうね、やっぱり、教育に力を入れたいわ。魔道具の文化も広めたいし。それと……この国は転生者のお陰で、随分技術が発展しているけど、その支援が不十分だと思う。その技術をもっと高めるための研究機関があれば、面白いと思うわ」
「成程ね。やっぱり君の視点は面白いな」
クロードは少年のように、朗らかに笑った。やっぱり、クリスティーネは素晴らしい人だと思う。クロードにない視点を持っているし、一緒にいてとても勉強になる。
しかし――――ふと、クロードは顔を 翳らせた。今は、こんな話をしている場合ではない。心の本音の部分では、ずっとそう思っていたのだ。
「…………止めよう、こんな表面的な話は」
勇気を出して、すっと手を差し出す。本当は……かなり照れ臭いし、知られたくない男の事情だってある。けれど、今こそもう一度、こうしなければならないと――――クロードはきちんと、わかっていた。
「ねえ、もう一度。僕の心を、読んでないか?」
クリスティーネは目を丸くした。その眉をへにょりとさせて、おずおずと尋ねる。
「……いいの?」
「少し、恥ずかしいんだけど……。きちんと、知っていて欲しいから」
クリスティーネがそっと、クロードの手より一回り小さな手を重ねてくる。触れた部分が、とても熱い。
魔法を発動した途端、クリスティーネの脳内には溢れんばかりのイメージが流れ込んできた。
――――離れたくない、好きだ、好きだクリスティーネ、愛しい、僕の、愛してる、可愛い、キスしたい、抱き締めて、閉じ込めて、もうどこにも行かせたくない…………――――
抱きしめて、キスをして、それ以上のことをしたいという欲も。全部全部、一気に流れ込んできた。
いっぱいいっぱいになったクリスティーネは、ぷしゅうと音が鳴りそうなほど真っ赤になりながら、そっと手を離した。
クロードはそんな彼女を、心底愛しげに見つめる。蜂蜜を溶かしたような甘さが、その翠の瞳には滲んでいた。改めて、今度は言葉で自分の気持ちを伝えることにする。
「今ので、よく分かったと思うけど……僕は、君を愛している」
「…………はい」
クリスティーネは熟れた果物のように真っ赤になったまま、こくんと頷いた。壊れたおもちゃみたいな、ぎこちない動きだった。クロードは離れてしまった小さな手をもう一度取り、両手で包み込む。そうして目が合ったクリスティーネに向けて、言葉を続けた。
「君の行動力に溢れるところや、芯の強いところを尊敬しているし、君は人の上に立つのに相応しい人物だと思っている。……それに、君のことを……誰よりも可愛いと思っている。君以外の人を妃にしようなんて、もう思えない」
クリスティーネは、真っ赤な顔のまま、じっとクロードのことを見上げていた。上目遣いのすみれ色の瞳には、涙の膜が張っていて。夕陽を反射して、とても綺麗だった。
「クロード様……。私……私も。クロード様を、お慕いしています……。ずっと、うまく言えなかった…………!」
「……そうか。嬉しいよ……!!」
クロードはクリスティーネの手をぐいと引っ張って、自分にもたれさせた。そうして驚くくらい、ほっそりした体をぎゅっと抱き寄せる。心臓が耳元にあるみたいにドクドクうるさくて、どうにも緊張した。
「クロード、と、呼んでくれないか……」
「!」
「お願いだよ……」
「ク…………クロー、ド……」
「うん」
ぎゅっと、抱き寄せる力を強める。クリスティーネのすべらかな頬に、自分のそれを擦り寄せた。嘘みたいに心地が良い。
「わ、私のことも……。クリスと、呼んで……」
「うん。…………クリス?」
「はい……!」
「クリス、大好きだよ……」
「……っ」
クロードはクリスティーネから顔を離し、その唇に親指を這わせた、クリスティーネの目から一筋の涙が、ぽろりとこぼれ落ちる。それとほとんど同時に、ちゅうと柔らかく口付けた。
「ん…………っ」
「クリス…………」
角度を変えて、ちゅ、ちゅ、と何度か口付ける。柔らかくて、熱い唇の感触。いつまでも溺れていたくなる。ふわふわ浮いているみたいな心地だ。
「ん…………ふっ………………」
「ん………………」
「クロード…………あの、ね…………」
「うん?」
クリスティーネが遠慮がちにクロードの頬を撫でてきたので、一旦動きを止めた。正直、いつまでも止められないところだったし、今にも舌を差し込む直前だった。危なかった。
「『シナリオ』のこと…………本当は、不安なの…………」
「『ヒロイン』が怖い?」
「うん……それもあるし。何より、あなたの身が、とても心配なの……」
クリスティーネの両目からはポロポロ、と透明な涙が溢れ落ちていた。クロードは指で優しくそれを拭いながら、彼女を甘やかす。
「そっか……不安をわかってあげていなくて、ごめんね」
「わ、私…………私ね。離れたくないの……っ。こ、こんなに……っ!」
ポロポロ。ポロポロ。透明な雫は止まらない。どんな高価な宝石よりも美しいと、クロードは思った。
「私……あんなにっ!あんなに、自分の国を、離れたくなかったのに……っ!今はもう、こんなに、あなたのもとを離れたくない……っ!」
「クリス……」
「あなたの愛情の深さと、それから……少し、不器用なところも、全部……全部、好きなの。私……私!上手く、全部言えない……。私も、心を読んでもらえたら良いのに……!」
ポロポロ溢れる涙は、指だけじゃもう拭いきれなくて。クロードは自分の右胸に、ぎゅっとクリスティーネを抱いた。
「クリスは泣き虫だね……。でも、ここではいくらでも泣いていいよ」
「うん…………っ、クロード……!!」
「僕も、本当は離れたくないよ…………身が引き千切られるみたいに、辛い…………」
肩を震わせるクリスティーネの背を、優しくさする。信じられないほど華奢な、薄い背中。でも彼女は芯があって、泣き虫だけど強くて、美しくて。クロードはもう彼女なしじゃいられないほど、彼女を愛しているのだ。
「来年。結婚したら、ずっと一緒に居られるよ」
「ん。ひっぐ。うん…………っ!」
「僕は絶対に死なない。約束するよ。必ず君と、結婚したいから」
「本当?本当に、ひっぐ。無事でいて、よ。約束よ…………!!」
「うん、約束」
クロードは少しだけ不器用で、でも優しい微笑みをクリスティーネに向けながら、繰り返した。
「約束だよ」
二人はそれから時間の許す限り、繰り返し繰り返し、触れ合って。薔薇園の隅で、お互いの気持ちを確かめ合ったのだった。




