閑話 アレックスとエリーゼ2
アデルに愚痴を聞いてもらった翌日のことである。エリーゼは、勤務日でもないのに、治癒院で労働に精を出していた。何かを一生懸命やっていれば、気が紛れるからだ。
しかし夕方ごろ、そこにアレックスがふらりと姿を現した。
「やあ、エリーゼ」
「…………アレックス。どうしたの?」
エリーゼはなるべく不自然にならないように、つんとして答えた。するとアレックスは、どこか申し訳なさそうに言った。
「働いているところ、押しかけてごめん。やっと見つかったものがあったから、君に見て欲しくて。少しでいいから、話せないかな。仕事が終わるまで、適当に時間を潰して待ってるよ」
「……大丈夫。本当は今日は、勤務日じゃないの。少し、庭で話しましょう?」
アレックスの懸命な様子に、エリーゼは折れた。
こうして二人は治癒院の庭にある、ベンチに並んで腰掛けた。入院中の老人たちが散歩をしたり、小さな子どもたちが遊んだりしている、穏やかな景色に包まれる。
「見せたかったものは、これなんだ。探すのに、随分手間取ってしまってね」
そう言ってアレックスが大切そうに取り出したのは、一冊の絵本だった。受け取ったエリーゼはページをめくっていく。美しい挿絵のついた絵本だ。
「綺麗ね……。これは、女神様?」
「そう。…………俺が、君のことを『女神様』って言ったのは、覚えてる?」
「蘇生した時のことでしょう?はっきりと覚えてるわ」
エリーゼははっきりと覚えていた。死の淵で朦朧としたアレックスが発した言葉の意味が、気にかかっていたのである。
アレックスは隣から絵本のページをめくって、ある挿絵を指差した。一輪の白百合を持った美しい女神が、人々を癒しているというシーンだ。
「俺はエリーゼが、この女神様みたいだって思ったんだよ」
「ええ……?私、こんなに綺麗じゃないわ」
「いや、君は綺麗だよ」
アレックスがエリーゼの顔を覗き込み、真剣な声音で言う。エリーゼはどきりとして、一気に呼吸が苦しくなった。
「この絵本はね、俺を捨てた母親が残していったものだったんだ」
「捨てた……?」
「……俺の、つまらない半生の話だ。聞いてくれる?」
エリーゼは頷いた。
するとアレックスは、痛みを堪えるような顔で、ぽつぽつと話をし始めた。
母親に突然捨てられたこと。
実の父親に虐待されていたこと。
兄弟と比べられ、居場所がなくて家を出たこと。
女性が心から信じられず、苦しんでいたこと。
それはエリーゼの想像を絶する、壮絶な半生の話だった。
彼の話の中で、エリーゼは自分が『女神様』と呼ばれたことの意味と重みも思い知った。
エリーゼは前世でも今世でも、家族には恵まれている。だから小さなユリウスの苦しみを思って、彼女はぽろぽろと涙をこぼした。
「君が涙をこぼす価値なんてないんだ。こんな話を聞かせてごめん……」
アレックスは遠慮がちにハンカチを差し出してくる。前のように、気軽には触れてこなくなった。
「そんなこと言わないで……」
エリーゼは必死に否定した。アレックスのことを、軽薄な男だと誤解していた自分を恥じた。ハンカチを借りて、涙を拭う。
「本当につまらない半生だよ。俺はクズだった自覚がある。ただ…………俺がどれだけ、いま、真剣なのかを知って欲しかっただけなんだ」
そう言ってアレックスは、眩しそうに治癒院を見遣った。
「ここに、来るのはさ。実は……初めてじゃないんだ」
「……え?」
初めて聞く話に、エリーゼは驚く。ここで彼に会ったことはなかった。
「エリーゼがここで働いてるって聞いて、様子を見に来たことがあるんだ。俺は、いつも通り軽く声をかけて帰るつもりで……でも、それができなかった。働く君が、あんまり美しくて。……俺には……まるで、手の届かない人だと思ったから。だから、声が掛けられなかった…………」
「…………」
「本当は、初めて会った時にはもう惹かれていたんだと思う。君は俺の思う、『女神様』……そのものだったから。でも俺は恋を知らなかった。だから、わからなかったんだ……」
アレックスはもう一度エリーゼの方を真っ直ぐに見た。満月のような金色の瞳に、赤い長いまつ毛が影を落としている。それが美しかった。
「勿論君は美人だと思うけど、見た目だけに惹かれたんじゃない。ただ、当たり前に人を助ける君が俺には眩しくて、憧れたんだ。本当に……俺なんかに手の届く存在だなんて、思わなかっんだよ。だから、敢えて軽い言葉しか投げかけられなかった」
それからアレックスは、自らの心臓の付近をぎゅっと握り締めた。そこは、事件の時にガラス片が深く刺さっていた部分だ。
「でも。今回……君は、その大切な寿命を削って、俺の命を助けてくれた。だから君は……俺が初めて、心から信じられる……唯一の、女性になってしまった……っ」
彼が紡ぐ愛の言葉は、痛々しいほど真剣で――――まるで、狂おしく赤い血を吐き出すかのような告白だった。
「そうなったら…………、もう、無理だよ。手を伸ばさずには、いられない。愛さずには、いられない……。どうしたって俺はもう、君しか……愛せない。勿論、すぐじゃなくて良い。…………少しで良いから、俺を見てほしい。今まで不誠実ばかり重ねてきた俺のことを、信じられなくても良いから…………」
エリーゼは、心臓を握るアレックスの手に自分の手を重ねた。驚いた彼がパッと顔をあげて、赤い髪がさらりと流れる。その目は見開かれていた。
「信じるわ」
「…………え?」
「婚約を、受けるわ」
「は……?受ける……??い、いい……のか?何で…………?」
まるで信じられないとでも言いたげなアレックスの様子に、エリーゼはクスッと笑う。そして、重ねた手に力を込め、微笑んだまま告げた。
「私……アレックスのこと、好きになってしまったんだもの。責任取って頂戴」
「え……?え…………?」
「ただ……結婚はもう少し、待ってくれる?その……あなたを心から、信じられるようになるまで……」
「そんなの勿論!いつまでも待つ!!」
アレックスは食い気味に言ってから、口元を空いた手で覆った。想定外のことで、心底困ったという風に、おろおろしている。
「でも、いや待ってくれ……俺のことを好き……?何かの、勘違いじゃないのか?俺の一体どこに、好きになる要素がある?」
「……いつも皆のことをよく見ていて、優しいところが好きよ」
「は……?」
「自分に自信がないところも、今日好きになったわ。それにね、前からずっと格好良いって思っていたの」
「ちょ、ちょっと。待って……待ってくれ…………」
「事件の時だって、自分の命をかけて令嬢を守ったわ。あなたは立派な騎士だわ」
「待っ……」
「それから……」
アレックスはようやく、自分からエリーゼに触れた。エリーゼの口を手で覆って、無理矢理言葉を止めたのだ。彼はもう、恥ずかしさで耳まで真っ赤になっている。とうとう耐えられなくなったらしい。
可愛い人だと、エリーゼは思った。
「今日は、そのくらいで。勘弁、してくれ…………」
「……仕方ないわね。他に好きなところは、これから伝えていくわ」
エリーゼは、にっこりと笑った。まるで白百合のように清廉で、可憐な微笑みだった。
「エリーゼ……」
「はい?」
「抱き締めても…………いいか……?」
「……………………はい」
緊張したエリーゼが、小さな小さな声で返事する。すると途端に、アレックスの大きな体に抱き竦められた。縋るようにエリーゼを抱き寄せる大きな手は、震えている。
すぐ隣にある彼の顔をそっと見てみる。すると、アレックスは静かに涙を流していた。
エリーゼは、彼なら信じて大丈夫だと、強く確信できた。
――――優しくて、寂しがりな、アレックス。これからは、私が隣にいるわ。
そう思いながら、そっと彼の背に手を回したのであった。




