第23話 ある男の受難
第23話 ある男の受難
一人の男が自分の体よりはるかに小さいクラリネットを持ち、とぼとぼと教室に向かう。
身長190cm・体重85kgという恵まれた体格で、さらに中学ではバスケットボール部の部長までしていた男であるが、その歩き方は少し哀れである。
「誰が哀れじゃ、誰が。」
・・・おっほん。
さて、この幸薄そうな男の名前は「辻本 一芳」という。
「誰が幸薄そうな男じゃ、誰が。」
・・・なにか物音が聞こえたが気にせず話を進めよう。
彼は、今高高校吹奏楽部木管パートの黒一点であるが、下心を持ってクラリネットを選択した時点で、不幸は始まったのである。
「・・・」
何か言い分は?
「ありませんです、はい。」
よろしい。
では、今日は彼にまつわるエピソードをお話しましょう。
本編は6月上旬まで続いているが、この話は5月中旬までさかのぼる事となる。
「辻本く~ん、ここの指回しま~だ~?」
「辻本君、ちょっとリードミス多くないですか?」
「辻本~、のどが沸いたからジュース買って来て。」
上から前田・菊野・上田の3人の言葉だ。
3人とも現在3年生のクラリネット奏者で、中学からの経験者である。
特徴をまとめると、前田は癒し系のデレデレ、菊野は可愛い系のツンデレ、上田は美人系のヤンデレである。
一人一人はまことに素直で優しいのであるが、3人が集まるとそこは暴風圏内となる。
彼女たちをまとめて注意できるのは、まさしくOB・OGしかいないであろう。(但し、合奏中は除く)
辻本がクラブに入ってからこの3人によって教え込まれ、今でも頭が上がらない。
いや、誰も頭が上がらない存在なのである。
とは言っても、3人にとって辻本や岩本・楠田は可愛い後輩である。愛情を持って愛弟子達に楽器を教えているのが良くわかるので、辻本も特に反発できないのである。
「辻本君、ちょっと言いにくいんだけど、相談があるのよ。いい?」
岩本がパート練習前に言ってきた。場所は校舎の廊下である。
「なんや、岩本。」
辻本は「なんかいな」と言う感じで聞いた。
「実はね・・・三人娘がコンクールに出てくれるのよ。」
「なんや、そ、そんなことかいな。せ、戦力が、補強で、できてええやん。」
岩本の言葉を聞いた辻本は、額から冷たい汗がでていた。岩本はそのまま話を続ける。
「確かに願ったりかなったりなんやけど・・・これでクラリネットは8人になるんよ。」
「せ、せやなぁ。それが何か問題でもあるん?」
「それでね昨日、柏原君と河合さんとで話してんやけど、そこまでクラリネットおるんやったら、バスクラ欲しいなぁ、ってことになって・・・」※1
「バ、バスクラかぁ・・・」
辻本はその言葉を聞くと、入部当時を思い出した。
入って間もないことであるが、その体格を買われてバスクラリネットを吹かされていた時期があったことを。結局は、人数の関係上、現在クラリネットを吹いているが・・・
「・・・それで誰がいいんかなぁって思って。順番的に言って1年の犬山さんになると思うんやけど、『明日からバスクラして~』ってなんか言い辛いねん。なんか押し付けるようで・・・」
(なんや、俺にしてくれって言われると思ったんやけど違うんか。)
辻本は、3人によって条件反射で物事を悲観的に考える様に調教されていた為、岩本の言葉に驚いたのであった。
「三人娘やったら問答無用で『辻本、お前しろ!!』って言いそうやな・・・」
「はは、それ十分考えられるわ。ほんま言いそう。」
そう言った岩本は少し考えてから、手を「ポン」と叩くと言った。
「あ、そうや。私がバスクラ吹いたええやん。後輩に押し付けることもないし、私も悩まんでええし・・・」
その言葉で辻本はさらに驚いた。あせって言う。
「あ、あかん。それしたら今後、誰がクラリネットパートまとめんねん。ばらばらになってまう。」
そして辻本は、ここでは言ってはならないことを言ってしまった。
「それやったら俺がバスクラ吹くわ。」
「・・・」
「・・・」
暫く、岩本を辻本の間を沈黙が続く。
岩本は少し微笑んだ。
辻本は少し後悔した。
その瞬間、辻本の予想通りの答えが別の方角から返ってきた。
「「「えらい!!それでこそ私達の弟子やわ。」」」
辻本はその声を聞いて「あ~、やっぱり~」という顔をした。
声のする方向には、前田・菊野・上田の姿があった。
さっきまでいなかった筈なのに、辻本に気付かれること無くそこにいたのである。
「辻本く~ん、さすがパートのことが良くわかっているのね~」
「辻本君、自分から進んで言う姿勢に感心したわ。」
「辻本~、男に二言はないよな」
3人から言葉を受けた辻本は、もう先ほどの言葉を撤回できるはずもなかった。
辻本はがっくりうなだれると三人娘の姿を見た。
本当に楽しそうに「また辻本と一緒に演奏できる~」と言い合っていた。(デレ最中である)
そして岩本を見てみると、辻本に向かって両手を合わせて「ごめん、無理やった」というジェスチャーをしていた。
(まぁ、えっか。なんやかんやでこのパート好きやし。目の保養になるし・・・)
相変わらず彼女たちの術中にはまった辻本であったが、まんざらでもないと思ったのである。
そして彼はバスクラリネットを吹いている。
クラリネットよりはるかに大きいその楽器は、彼の体に良くフィットしていた。
※1 バスクラリネットの事。音域は通常のクラリネットより低い。
前から書きたいと思っていた辻本と三人娘のエピソードでした。




