第20話 当たり前の存在
第20話 当たり前の存在
中間試験も終わった次の日、三浦は地下鉄の中でウォークマンを聞いていた。※1
今かかってる曲はコンクールの自由曲として演奏する「キャンディード序曲」である。※2
このデモテープは昨日、島岡から手渡された。デモテープを聞いて曲全体の雰囲気を掴み、楽譜を見ながら演奏する音や入るタイミング等をイメージしろ、ということらしい。
島岡が言うには、この曲は「ホルン殺し」の異名があるらしい。それほど難しくかつ魅力的なのだ。
三浦は基礎練習の後、課題曲の楽譜を持って教室で個人練習をしていた。
通常であれば個人練習というと、一人で楽譜上の音の確認や早いパッセージの指回しをさらう等行うのであるが、今は島岡が横に付いている。
楽譜を一緒に吹き、音や吹き方等を教えているのだ。
「ここの打ち込みはもっと当たりをきつく。アクセントも付いとるからな。」
三浦は「はい」と元気良く返事をすると、赤ペンでアクセントの部分に丸を付けた。
「おっ、ちゃんとペン入れしてんねんな。言われんでもするちゅう~んは、ええ心がけや。」
褒められた三浦は得意げに「へへへ」っという表情をしたのである。
なん小節か音をさらい終えると、島岡は1stを吹き、和音として音が合っているかチェックする。
ちょっとしたパート練習だ。1stと4thではオクターブ離れて同じ音なのであわせやすい。
「ここの音からここの音に落ちるとき、落ちきってへんな。若干ピッチが上や。気~つけや。」
三浦は再びペン入れをする。記号として「↓」を付けた。
そしてもう一度同じところを吹く。
「ん~、おしいな。ちょっと下がりすぎや。一回一緒に吹いてみよか。」
島岡は三浦と共に4thの楽譜を吹く。そして再び分かれて吹いた。
「そうそうその音や、覚えとけよ。ちゅ~か、ここほんま音程取りづらいな。まぁ、最悪さっきのちょっと下がりすぎがぎりぎり及第点やな。ここは意識して下げるようにしいや。」
と、このような感じで曲の頭から練習が続いているのである。
まだ課題曲の前半部分の半分も進んでいない。
「先輩、ここは練習しなくていいんですか?」
「ああ~ここなぁ~、メロフォンとホルンやったら指回しが違うからな。ホルンに代わったときにしよか。」※3
それを聞いた三浦は少し嬉しくなった。近々ホルンを吹けるという事に。
試験休み期間に、散々ホルンを吹いていた三浦は、やはりメロフォンよりホルンの方が音質が好きなのである。
『吹奏楽部の島岡さん。吹奏楽部の島岡さん。電話が入っております。至急事務室までおいでください。』※4
不意に校内アナウンスが鳴った。
「ちょっと行って来るわ。悪いけど、暫く一人で練習しとってんか。」
「はい、判りました。」
三浦が返事をすると、島岡は事務室へ向かった。
次の日。
「悪いけど、今日俺おれへんから。ほんまやったら石村さんに頼むところやねんやけど、今日は休みや。松島~、練習頼むわ。幸い合奏ないからパー練でええやろ。」
部活が始まるミーティングの前に島岡はそういうと松島は「わかった」と言った。ちょっと嬉しそうだ。
それを聞いた島岡は「悪いな~」と一言言うと鞄を持ち音楽室を後にした。
(クラブに入って今まで、先輩が横にいなかったことなんて無かったな~)
と三浦は思った。それだけ当たり前の様に感じていたのだ。
「じゃぁ、いつもの様にロングトーンやろか。」
松島は三浦に言うと「さんしー」の掛け声の後、ロングトーンを開始する。
確かにいつもと同じだった。いつも松島の横で吹いているので、特に違和感は無い。ただ、その向こうから聞こえる重い澄み切った音が無いなぁと三浦は思った。
しかし、松島にとってはそれどころではなかった。実に切実な問題になっていた。
練習前には、今日は楽できるぞ~と思っていたのであるが、島岡と同じ位置に立ったとき、いつも横にある安定した音が無く不安になったのである。
入りは大丈夫か?このピッチでいいのか?音の終わりは大丈夫か?と。
ただ、横には後輩である三浦がいるので、無様なところは見せたくはなかった。
必死にロングトーンを続ける。
ようやくロングトーンを終えたが、松島はもうふらふらであった。それほど神経を使ったのである。
ちょっと長い休憩のあと、続きの練習メニューを始めるが、二人ということもあってか軽く切り上げ音楽室の戻ったのであった。
(少し物足りないな~。いつもならもっとみっちり基礎練するのに。)
しかし、今日のリーダーは松島であるから、これが彼のやり方であると思い三浦は納得したのであった。
教室に入り二人は机の上に腰を落ち着けると松島は言った。
「どうする~。パー練するか個人練するかどっちにする?」
この言葉を聞いた三浦は言葉に詰まった。いつもの様にパート練習を通して、島岡の様に松島から教えてもらいたかったのである。
三浦は少し考えてから答えた。
「今日のパート長は松島先輩なんで、その指示に従いますよ。」
「じゃぁ、個人練しよか。俺はあっちで吹いてるから、楽譜で判れへんとこあったら聞きに来て。」
松島はそう言うと少し離れたところに譜面台を置いた。
三浦は仕方がないなぁと思いつつ、松島に相対する位置に移動した。
楽譜を開き、昨日の続きの箇所の音をさらう。
(ここ・・・この音で合ってるんかいな。・・・あ、ここの音の表現ってこれで合ってるんかな。)
三浦は悪戦苦闘していた。いつもならば即島岡の適切なアドバイスが入るからだ。
松島の方を見てみると課題曲の中間部の旋律の箇所を吹いている。荒いが力強い音だ。
三浦は練習中に悪いかな~と思いつつ松島に聞いてみた。
「松島先輩、少しいいですか?」
「なんや?」
松島は演奏を止めて言うと三浦の傍にくる。
「ここなんですけど、どう吹いたらいいか判らなくて・・・」
「一回吹いてみ。」
三浦はその箇所を吹いてから「どうですか?」と聞いた。
「そんなもんちゃうん。」
松島からはそっけない言葉が返ってきた。
「そうですかねぇ~」
三浦は不安そうに言う。
「そう言ってもなぁ・・・そんなんはあいつの仕事やし・・・っ!」
松島はそう言ったあと後悔した。基礎練習だけでなく全てにおいて、島岡に頼っていたことを気付かされたのである。
暫くの沈黙のあと松島は正直に答えた。
「悪い!俺、そこまで判れへんねん。島岡が戻ってから聞いてもらおうや。」
三浦は松島の言葉を聞いてから気付いた。先輩はみんな島岡ばかりの人ではないことを。
少し考えてから三浦は言った。
「だったら・・・一緒に練習して、判らないところ全部島岡先輩に聞きましょう。」
「そうなんやな・・・そうや、その通りや・・・こうなったら、あいつの仕事一杯増やして、ヒィヒィいわしたろか。今日来なかったこと後悔させたるんや。」
「それ、いいですねぇ~」
松島と三浦は最後は笑いながら言った。
二人は一緒に並び直し、判らないところはどんどんシャープペンで印をつけ、練習を続けるのであった。
※1 当時はMDといったものはありませんでした。当然、カセットテープです。
※2 レナード・バーンスタイン作曲、オペラ「キャンデード」にある「Overture」。テレビ朝日「題名のない音楽会」の冒頭の曲にも使われています。
※3 この箇所は中音域であろうか。B♭管で吹く様である。
※4 当時の携帯電話は高級品でした。電話は事務室からの取次ぎ又は公衆電話から掛けます。
島岡の存在を改めて認識した二人。でも、それは悪い方には行かずパート内の繋がりをより強くしたようです。




