ミシャの元婚約者、ルドルフの葛藤
この世界に神はいない――。それは亡き母の口癖だった。
幼少期から親の言いなりだった母は、何をするにも侍女から一挙手一投足を監視させられながら育ったという。
僕を産んだことでさえ、大きな家の当主である伯父からの指示だったようだ。
父親については一度も口にした覚えがない。ただただ母は伯父への憎しみばかり口にしていた。
伯父の言いなりだった母の、唯一の反抗が僕を連れてラウライフの地に逃げてきたことらしい。
伯父には何か計画があったようだが、母と僕がいなくなることによって計画が頓挫してしまったようだ。
ざまあみろ、と伯父を罵っていた。上品な母が乱暴な口を利いた唯一の記憶である。
そんな母はラウライフの過酷な環境に適応できず、四十五歳という若さで儚くなった。
きっと神を信じず、礼拝堂に一度も足を運ばなかったから早死にしてしまったのだろう。そう、神父様が話していた。
その日から僕は、母の魂が安らかになるように祈りを捧げる。
体が弱く、満足に働けない僕が母にできる唯一のことだった。
そんな僕を神が見ていたのか、手を差し伸べてくる天使のような女性と出会った。
ミシャ・フォン・リチュオル――!
領主の娘で、僕の事情を知るやいなや、屋敷の御用聞きの仕事を与えてくれた。
そこから彼女と親しくなって、将来の仲を誓ったのだ。
彼女の傍だったら、生きていける。
ミシャは希望の光だった。
けれどもどうしてか、彼女の従姉リジーにも強く惹かれてしまった。
リジーは不思議な女性だった。いつも妙に甘ったるい香りをまとっていて、話をしているうちに意識がぼんやりしてくる。
なんの香りかと聞くと、彼女の母親が使っていた魔法の香水らしい。
かぐと緊張が解けて楽しい気分になるのだとか。
そんな会話をしているうちに意識が遠ざかる。
翌朝、気付けばリジーと一緒に眠っていたことは一度や二度ではなかった。
夜の記憶は残っていないが、とてつもなく素晴らしい晩だったような気がしていた。
そんな日々を過ごすうちに、リジーから妊娠を告げられる。
まさか、記憶がない晩に子をなすような行為をしていたなんて……。
驚くのと同時に、嬉しい気持ちがこみあげてきた。
母が恨み言のように言っていたのだ。妊娠と出産は死ぬよりも辛いことだった、と。
いずれミシャにそれを強いることになると考えたら、辛くて胸が張りさけそうだったのだ。リジーの子を未来の子爵として立てたら、ミシャは辛い妊娠と出産をしなくていい。
偶然にもリジーを本妻にして、ミシャを第二夫人として据えたらいい、と彼女も提案してくれたのだ。
さっそくミシャに報告するも、彼女は猛烈に怒った。
なぜ、理解してくれない? 疑問で満たされる。
婚約は破談となり、屋敷を追放されてしまった。
領民達の目も冷ややかだった。仕事を探さないといけないのに、ミシャを裏切った男に与える仕事はない、と言われてしまったのだ。
リジーがこんな土地なんて捨ててしまえ! と言うので、最終的にラウライフの地を発つことになる。
出発間際に、馬車乗り場でミシャに会った。彼女は王都にいった帰りだったらしい。
リジーはこれから王都暮らしをするんだ、と自慢していた。ミシャは心あらず、という感じに聞き流している。
リジーが王都行きの馬車に乗り込んだあと、彼女は手切れ金だと言って一枚の金貨を手渡してきた。
驚いて彼女を見ると、ミシャは「リジーをあまり信用しないように」と言う。
どうしてそんなことを言うのか。言い返そうとしたら御者が出発すると言って急かす。
ミシャは別れ際、「お幸せに」とだけ言ってくれた。
その後、去りゆくミシャの姿があまりにも潔くて、美しくて――思わず目が奪われてしまった。
それがラウライフの地で最後に見たミシャの姿だった。
リジーの父を頼ろうと思っていたのに、連絡がつかなかったらしい。
仕方がないので、リジーの母の実家を頼ることとなった。
リジーの母の実家は酒場で、仕事は山のようにあったのだ。
毎日客が汚した皿を洗い、便所よりも汚いフロアの掃除を行い、客同士のケンカの仲裁を行い――想像以上の過酷な仕事に、心身共にボロボロになってしまう。
体が限界だと訴えても、リジーの祖父母は聞く耳なんて持たない。
頼りにしていたリジーは昼間はずっと眠り、夜になるとどこかへでかけてしまう。
何をしているのか、どこにいっているのかと聞いても答えてはくれない。心配になってあとをつけてみたところ、リジーは毎日王都で遊び回っているようだった。
どこにそんな金があるのかと聞いたら、僕が持っていた大金だという。
あろうことか、リジーはミシャから貰った金貨で豪遊していたようだ。
なんて酷いことをするのか、と訴えると、妊婦は毎日辛い思いをしているから、金貨一枚くらい使っても罰は当たらない、と主張する。
妊娠していない男にはわからないだろう、と言われるとそれ以上追求できなかった。
リジーはもっと金貨をだせと言うが、あるわけがない。リジーにも働いてほしいと言うと、妊娠中のつわりで辛いという。
リジーの分の仕事もさせられる毎日が続くこととなった。
本当に辛い毎日だった。
けれどもリジーと子どもを養うためだ、と自らに言い聞かせる。
ある日、リジーの父親が迎えにやってきた。
大量のドレスを抱えて。
なんでもリジーは貴族の家に養子に出されるらしい。
美しいドレスを着た彼女は本物のプリンセスのようだった。
これまで見たことがないくらい、リジーは幸せそうな表情を浮かべていた。
父親と再会できてよかった、と心から思う。
僕も一緒に貴族の家に行けるものだと思っていたのに、彼女は突き放すように言った。
「バカだね! 最初から子どもはいなかったんだよ! あんたが魅力的に見えていたのは、ミシャの男だったからなんだ! 今のあんたに、これっぽっちも魅力なんてないんだよ!」
たしかにラウライフにいた頃に比べたら身なりは汚いかもしれない。
けれども一生懸命に働いた結果、こうなったのだ。
リジーとお腹の子どもを思って頑張っていたのに、最初からいなかったなんて……。
「リジー、どうして、子どもを妊娠したなんて嘘を?」
「そうでもしないと、あんたはミシャを選ぶだろうが」
たしかに、リジーが妊娠していなかったら正妻はミシャだった。
彼女に妊娠をさせたくない、という思いからリジーを正妻にしようと決めたのだ。
「言っておくけれど、あんたとは一度も妊娠するような行為はしてないからね!」
「え?」
「魔法の香水で、錯覚していただけなんだよ!」
なんでもリジーの実家はかつて魔女の家系で、怪しい魔法薬を売って生計を立てていたらしい。けれどもリジーの母親は魔女の才能などなかったようで、実家の物置から香水を盗んだのだとか。
ちなみに魔女業については国の取り締まりが厳しくなったとかで、現在は廃業。
そのため酒場を開いて暮らしているらしい。
「あんたはきれいな体だから、安心しな」
「リジー……」
「ここからは追いだされないみたいだから、頑張って働くんだよ!」
リジーにどん! と胸を押されて転倒してしまう。
最近は頑張って毎日仕事をしているから、筋肉もついてきた、と思っていたのに。
ミシャの言うとおりだった。
彼女はリジーをあまり信用しないように、と忠告してくれたのに。
リジーを信じ、子どものためと思ってミシャの言うことに耳を傾けなかった。その罰を今、受けているのだろう。
僕はなんて愚かな男なのか。
いつもいつでも、僕を助けてくれるのはミシャだけだったのに。
心の底から愛してくれるのも、きっとミシャだけだったのだろう。
どうして彼女の愛と献身に気付かなかったのか。
もう遅い?
いいや、そんなことはない。
ラウライフの屈強な男のようになったら、ミシャは振り向いてくれるに違いない。
まだ、神は僕を見捨てていない。
リジーの父親が言っていたのだ。ミシャは王都の魔法学校に通っている、と。
一生懸命働いて、病弱な体ともお別れし、ミシャに恥じないような男になろう。
そして彼女に再度結婚を申し込むのだ。
僕は毎日ミシャを想い、酒場で働く。
どんなに罵られても、体が悲鳴をあげても、ミシャのためだと思ったら頑張れるのだ。
これこそが、真なる愛なのだろう。
そんな僕に好機が訪れる。
酒場にやってきた青年が、ミシャの知り合いだというのだ。
彼は僕に仕事を与えてくれるという。
きっと彼といたらミシャに出会えるだろう。
そう信じてならなかった。




