ぼんやりするミシャ
博物館からでたあとも、しばらくドキドキしていた。
ぼんやりと上の空で歩いていたのだろう。ヴィルの「危ない!!」と言う声でハッと我に返る。
腕を引かれ、後ずさったのだが、先ほどまで私が立っていた場所を、猛烈な速さで荷車が通過していった。
「まったく、どこを見ていたのか」
「も、申し訳ありません」
今は社交期で人通りが多い上に、貴族相手に商売をしようとやってくる人達が大勢いる。そのため、ぼんやり歩いていたら危ないのに、うっかりしていたようだ。
「私の手を握っておけ」
「いや、それはちょっと……」
「自らを危険に晒すような者に、選択権などない」
ヴィルはぴしゃりと言って、私の手を握った。
ただ手を繋いでいるだけなのに、どうしようもなく恥ずかしい。
恋愛経験値の低さを、これでもかと露呈しているだろう。
前世で三十年以上生きていたのに、学生時代は勉強やアルバイトに明け暮れ、就職してからも毎日残業、休日は寝ているだけと残念な過ごし方をしてきたのだ。
私にセカンドパートナーになってくれと言った元婚約者との出会いは、上司の紹介だった。結婚すれば昇進に有利だと聞かされ、渋々私を選んだわけである。
私も彼をよく知ろうとせずに、どうせこの先出会いもないだろうから、と上司に言われたとおりに婚約を結んだのだ。
それがまさか、あのような最低最悪の事態を招くなんて……。
今世でのルドルフについては――名前を思い出しただけでもうんざりしてしまう。
彼は毎週のように教会に足を運んでいた熱心な信者で、私が少し話しかけただけで顔を真っ赤にさせるような初心な人だった。
体調が悪い日も健気に教会にやってくる様子を見て、庇護欲のようなものが湧き上がっていたのだろう。
彼とならばきっと温かい家庭を築ける。
そう確信していたのに、従姉のリジーにあっさり心を奪われてしまった。
いわゆる〝寝取られ〟というやつなのだが、下品過ぎて考えただけでも吐き気がする。
これまでの私は男運が最低最悪過ぎた。
そのため、ヴィルから好意を寄せられても、素直に喜べないのだろう。
馬車乗り場で別れるのかと思いきや、ヴィルはレヴィアタン侯爵邸まで送ってくれるという。
馬車に揺られながらぼんやり考える。
エアみたいに、ヴィルもお友達ではだめなのか、と。
けれどもヴィルが結婚したら、今日みたいに二人っきりで会えないだろう。
彼と結婚した女性だって、どこの馬の骨かもわからない女とヴィルが一緒にでかけるのを嫌がるに違いない。
ふと、結婚したヴィルについて考えていたら、酷く傷ついている自分自身に気づいた。
ヴィルに抱いているのは友情ではない別の感情だ、とまざまざと証明してしまう。
お友達だったらどんなによかったのか。
ヴィルは関係ないと言うが、大公家と子爵家の結婚なんて、許されるはずがないのに。
「ミシャはまた、よからぬことを考えているな」
「よく、ご存じで」
「非常にわかりやすいからな」
ヴィルは理由を聞かずに、「今は思い悩むな」と言ってくれた。
「もうすぐ雪山課外授業なのだろう? 今日みたいに上の空だったら危険だ」
「そう、ですよね」
私は信用ならないのか、ヴィルはジェムに向かって私をしっかり見ておくように、と語り聞かせていた。
話題を変えようと思い、ヴィルに話しかける。
「あの、雪山課外授業とはどのような活動をするのですか?」
そう問いかけた途端、ヴィルはまるで苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「わかりやすく言えば、軍事訓練のようなものを雪山で行う授業だ」
「ええっ……」
雪山課外授業については、毎年内容が変わるとかで、どのようなことをするのか聞かされていなかった。
先輩達は言いたがらなかったので、誰も何も知らないという状況だったのだ。
「私でも辛いと感じた。皆、当時のことを思い出したくないから言えなかったのだろう」
「な、なるほど」
ヴィルも私でなかったら、説明する気にならなかったと言う。
「もしかしたらミシャのときと内容が変わるかもしれないが」
ヴィルはゾッとするような雪山課外授業のメニューについて教えてくれた。
「まず、初日は雪山を登る。ただ登るのではなく、各々、山小屋で使う食材や雑貨などを運ばされるのだ」
その日は吹雪のような天候で、ヴィルは遭難しかけたらしい。
「一日かけて山頂まで登ると、山小屋で一泊する。翌日は――」
ヴィルは遠い目になりながら、二日目について語り始めた。
「ソリだ」
「もしやソリを使って下山するのですか?」
ヴィルは重々しい表情で頷く。
なんでも〝エルク〟と呼ばれるトナカイやシカに似た魔法生物が引くソリを、魔法で制御しながら下山するという。
「それがもっとも辛かった」
エルクは大人しい性格だが、雪の斜面での制御は非常に難しく、生徒の三分の一は転倒し、治療を受ける羽目になるようだ。
「話を聞いただけで、ゾッとしますね」
「ああ。ミシャも気をつけてくれ」
「もちろんです」
雪山課外授業を修学旅行のようなものだと思っていたが、大きな勘違いだったようだ。




