011
見覚えのある部屋。俺の部屋。視界はやや霧のように遮られているが、時刻を見ると夜の七時半を回っている。部屋を出、階段を降りると、リビングには灯りが灯っていた。リビングに近づくに連れて視界の霧は晴れていく。扉を開けると、そこには新聞を読みながら座っている父親に、ソファに座りながら雑誌を読む姉さん、夜飯を作る母親の姿があった。
「悠、珍しいね。ご飯ができる前にリビングに来るなんて」
姉さんの様子を察するに、ただあの木から自宅に飛ばされただけのようだった。俺は父親の前に座り、何から話すべきかを考える。
「なあ、親父」
「どうした悠真」
父親の声はやはり元気がない。
「親父は――ナツメを知ってるか?」
その言葉の直後、キッチンの方から何かが割れる音がした。母親が皿を落としたようだ。
「………………」
「俺さ、この前久しぶりに会ったんだ。ナツメと」
「そう、か。元気だったか?」
「ああ、家族の事頼むって」
「やめて……やめて……」
母親は頭を抱えながらその場に座り込んだ。姉さんも読んでいる雑誌を置いてうつ向いている。そんな中、父親は新聞紙を開きながら続けた。
「ナツメが元気そうなら、いい」
「親父、俺さ、いない方が良かったかな? いない方が、ナツメのことも思い出さずに暮らせたのかな」
「………………」
「なぁ親父――」
俺は父親のもとへ向かうと、父親は新聞を折りたたみ机の上に置いた。
「いつかは話そうと思っていた……でも勇気がなかったんだ。あの日、ナツメが亡くなって、母さんは何度も自殺未遂をした」
「……ッ!」
「悠真が生まれて間もなく母さんは再び病に伏せて、それでもなんとかこの子だけは育て上げよう、そういう風に誓ったんだが――守れなかった。父さんは……悠真にナツメのことを重ねてみ見てしまっていた。心のどこかであの子を求めてしまった。そして悠真の自我が芽生え始めた頃、父さんの心も壊れてしまっていた。そこからは悠真も知るようなダメな父親だよ。息子のことも顧みず、仕事に逃げて子育てをしている気になって」
これが、父親の本音。思えば、こんな風に長々と親の話を聞いたのは何年ぶりなのだろう。俺は、耳を塞いでいた。目を閉じていた。この現実から。
でも、それももう終わりだ。逃げちゃいけない。今なら、きっと向き合える。
向き合え! 成生悠真!!
「親父――父さんさ、いつだったか俺にバスケを教えてくれたよな。なかなかシュートが入らない俺に、シュートを教えてくれて……俺がバスケをするきっかけを作ってくれたのは紛れもなく父さんだ。仕事帰りで疲れてるはずなのに俺にバスケを教えてくれた。それだけでも立派な父親だよ」
「バスケ……か。悠真……こんな、ダメな親を、俺を……父親として認めてくれるのか?」
認めてくれるか、って――
「……当たり前だろ。今まで苦悩したこともたくさんあったのに、俺をここまで育ててくれたじゃないか――ありがとう父さん」
父さんはそっと両手を上げて、慣れない手つきで俺の背中に手を回した。記憶にない温もり。震える胸の中。
俺は、母親のもとへ行くと、姉さんが割れた皿の片付けをしながら母親の背中を擦っていた。
「母さん、この間は悪かった。俺、父さんや母さんの苦悩を分かろうとしていなかった。家族の問題から目を背けてた。ナツメのこと……流産してしまった母さんが一番つらかったよな。これからは家族の為にできることをするから」
俺は母親に手を伸ばすと、体を引っ張られる。母親の両腕の中で、初めて母親の温もりを感じた。
「悠ちゃん、ごめんなさい。私がナツメを産めなかったばかりに、皆に迷惑を掛けて――幼稚園の入園式や卒業式にも出られず、それ以降の行事も一度も出てあげられなくて――私は怖かった。ナツメが視えていた悠ちゃんが……私を恨んでいるだろうナツメが……毎日が不安で、不安で不安で堪らなかった」
「ナツメは――恨んでいないよ」
「嘘……」
「『生まれてあげられなくてゴメン。それと、父さんと母さんと、姉さんをよろしく』って言ってた。ナツメは心から皆の幸せを願っていたよ」
母親は――母さんはひたすらに泣いた。己の無力感、贖罪、ナツメを産むことができなかった自身を、きっと、赦すことができたんだと思う。
「悠ちゃん……今まで母親らしいところを見せられなくてごめんなさい。これからは、母親として悠ちゃんを精一杯サポートするから、だから――」
「うん――これからは家族として皆で助け合いながら生きていこう」
俺は母さんのもとを後にしてリビングの扉の前に立ち、姉さんの方を振り返る。
「姉さん、ありがとう。こんな出来の悪い弟と仲良くしてくれて」
「悠――私も、なかなか口に出せなくてゴメンね。でも、私たち家族はようやく一つになれる――」
「うん――そうだね」
「悠真?」
「さ、俺の方はこれで終わり。次は――ナツメの番だぞ」
『――え』
その一言に、家族中の視線が集まる。
「おい、ナツメ。なんでナツメまで驚いてるんだ」
「え、だって、ぼくは悠真にしか見えないし――」
「いいから――」
俺は傍にいるナツメの手を握る。
精いっぱいの願いを込めて。
「ちょ、悠真!?」
ナツメは手を引っ張られ、家族の前でよろめいている。
「いきなり何すんのさ悠真――」
「う……そ…………」
「本当に、ナツメ、なの?」
「ナツメ、なのか?」
「え?」
ナツメは首を振って自分が認識されていることに気づく。
「ナツメ――ナツメ……ナツメっ……!」
「あ……え……」
姉さんがナツメに抱き着き声を震わせる。
「母さん、この前、ナツメについて調べた時に見つけたんだけど、あれ、渡した方がいいんじゃない?」
日記。ナツメへ宛てた贖罪の日記、そして、ロケット。母さんは長年忘れていたことを思い出すように部屋を後にした。
「ナツメ……本当にナツメなんだ……」
「真美……姉……?」
「ごめんなさいナツメ……私が下の子が欲しいと言ったばかりに、ナツメには本当に辛い経験をさせてしまった。お姉ちゃん失格だよ……忘れたくなかった……なのに、朝を迎える度に記憶が徐々に消えていって……この前も、悠にナツメのことを聞いて―――」
「真美姉が……ぼくに……触れて…………」
「そうだよ……ナツメ。今度は絶対に忘れない。あなたの温もり、一夜の夢幻になんかさせない。私の大切なきょうだいだからっ!」
「真美姉……」
ナツメは声を震わせながら、姉さんの抱擁に戸惑っている。
「頼りないお姉ちゃんかもしれないけど、これからはいっぱい頼って欲しいな。ナツメの相談だって乗ってあげられる」
「ありがとう真美姉。これからは真美姉に相談することにするよ」
「だから、もう……ね……いなくならないでよ…………?」
「………………」
「ナツメ……」
「僕ね、ずっと思ってたんだ。僕という過去の幻影があるからこの家族は不幸になってしまったんだなって。だったら、僕のことは綺麗さっぱり忘れてもらった方がみんなは幸せに暮らせるんじゃないかって――」
「――そんなわけないじゃない!」
「真美姉?」
「ナツメに渡したいものがあるの」
「僕に?」
姉さんは近くのクマのぬいぐるみを手に取った。
「このぬいぐるみは……?」
「これはね、ナツメが無事に生まれてきたときにあげようと思っていたプレゼントなんだ」
「あはは……まさかこんなものを貰えるなんて……嬉しいよ。真美姉」
「そのクマ、後ろを見てもらってもいい?」
「……これ、は――――」
「そのクマの背中のチャックは開けられる仕組みになっているんだ。ちょっと恥ずかしいけど……開けていいよ?」
ナツメがチャックを下すと、一枚の紙が出てきた。
「手紙?」
「目の前で読まちゃうのは少し恥ずかしいけどね」
ナツメの視線が手紙に向けられる。
『なつめへ。うまれてきてくれてありがとう。おねえちゃんはうれしいよ。ぱぱとままとかぞくでこれからもなかよくくらしていこうね。なりうけはなつめをかんげいします』
「真美姉……ずるいよ。これじゃ……僕が今までやってきたことは……」
「ううん、無駄なんかじゃないよ? きっとナツメなりに真剣に悩んで出した答えなんだもんね。
でも、本当に悩んでどうしようもなくなった時は、あたしや悠――ううん、お父さんやお母さんだって、ナツメの力になれると思うんだ。だから、いつだってあたし達を頼ってよ。それがあたし達きょうだいであり、家族でしょ?」
「真美姉……」
「――ナツメ!」
二人は、抱擁を交わす。長年実現が叶なわなかった、夢のようなひととき。
「ナツメ、あたしはナツメのことが大好き。もう絶対、ナツメのことを忘れたりなんかしない――そして次は、お母さんの番だね」
「お母さん……」
姉さんは離れ、ナツメと母さんが向かい合っている。これもまた、実現することのなかった邂逅。
「ナツメ……ごめんなさい。私はあなたを産ませてあげられなかった」
「ぼくの方こそ産まれてあげられなくてゴメン」
「ナツメに、これを」
「この木箱は――」
「私の日記とナツメへの贈り物よ。私のこれまでのこと。ナツメには少し重い話にはなってしまうけれど、それでもあなたにこれを読んで欲しいの」
ナツメは日記を手に取り、読み進める。
「『今日、成生家に新たな命が誕生した。名前はもう決まっています。あなたの名前は”ナツメ”。成生ナツメ。真美もお姉さんになれると大喜びではしゃいでいる。よかったね真美。あなたはこれからこの子の良き遊び相手になって、そして、立派なお姉さんになるのよ――』」
「『今日はナツメと一緒に神社へお参りをしにいきました。無事に産まれてこれますように、そう願いを込めて。お父さんも、真美もナツメが産まれてくることを心待ちにしています。もちろん私も願っています』」
ナツメはさらに読み進めていく。
「『ごめんなさい、ナツメ。私はナツメを産ませてあげられませんでした。母親としてこんなに悔しい思いをしたことはありません。お父さんも涙こそ流していませんでしたが、相当なショックを受けていました。きっと、辛すぎて流す涙も出てこなかったんだと思います。ナツメ、ごめんなさい。あなたはこんな私が憎くてたまらないことでしょう。でも、ナツメと一緒に過ごした十週間は私にとってはかけがえのない日々でした。お父さんや真美と四人で遠くまで旅行に出かけたり、バーベキューをしたり、コスモス畑を歩いたり、一緒にお歌を歌ったりもしました。バスケのコートで高校の同級生同士集まってバスケをしているところも一緒に応援したりして、そこでお父さんが滑って皆で笑いあったりもしました。でも、もう、私はナツメと一緒に笑いあうことができなくなってしまいました。面白いことがあったとしても、それはただの一人笑い。ナツメと感情の共有も出来ません。ナツメ、あなたは男の子だったのかな。それとも女の子だったのかな。お母さんは、それすらわかりません。母親失格ですね。』」
「『ナツメが亡くなってから一週間が経とうとしています。どうしてなのでしょうか。何故だか、ナツメがどんどんと遠くに行ってしまう、そんな感覚になってしまいます。できることならあなたの元まで迎えに行きたいのですが、私にはその勇気がありませんでした。ごめんなさい。勇気のないお母さんでごめんなさい、ナツメ』」
「……ッ!!」
「『ナツメが亡くなってから一ヵ月が経ちました。忘れたくない。そう思いながらも、一つ、また一つ思い出が頭の中から消えていってしまいます。この日記で書いていたことも少しずつ思い出せなくなって、他人の日記を見ているみたいで、時々ナツメの名前すら思い出せなくなって。これまで三日に一回は書いていた日記も、その存在すらあやふやになり始めた。ナツメ、ごめんなさい。恨まれても仕方のないことをしました。私にできる償いはただ一つだけ。お祈りを捧げること。例え、何に祈っているのか忘れてしまったとしても、ナツメのために祈りを捧げ続けます』」
「お母さん……僕の願いのせいで、みんなは……」
「これも受け取って――」
「これはロケット……?」
ナツメは母さんから手渡されたロケットを数秒見つめる。本当に僕が受け取っていいのか、と。そんな寂寥な目で。
「あ――」
ロケットには一枚の写真。白黒の存在の証明。
「これは、エコー写真――」
「あなたが生きた証よ、ナツメ」
木箱に入れられた白い包み紙を広げるナツメ。ナツメはそれを確認すると、再び包んで箱の中へと閉まった。
「お母さん……僕は……」
ナツメは母さんに抱き着き、声を震わせる。
「ごめんね、あなたのことは忘れたくなかったの。みんなそうよ。ナツメは私たちの家族なのだから――」
「……うっ……ひっ…………っああぁぁあああああああ!!」
「みんなあなたのことを想っているのよ、ナツメ。責任を感じてるのはあなた一人じゃない。私だってあなたを産めなかった。だから、一人で罪悪感をもつのはやめて、私にも一緒に背負わせてくれないかしら」
「……っうぁぁああああぁぁ……!!」
ナツメはありったけの感情を吐き出した。人に忘れられることは死と同義だ。それも家族に忘れられるとなれば、その痛みは想像を絶するものだっただろう。春、夏、秋、冬、季節は巡っても忘却の因果からは逃れられない。ナツメは俺達家族が仲良く暮らせるように、自身に関する記憶を消そうとした。しかし、そんな願いは正しく叶うことはない。母さんが流産した事実は変わらない。結果、俺達家族は歪な、そして大きな試練を課せられてしまった。でも、それももう乗り越えたと思う。いや、乗り越えた。
だって、今目の前にある幸せが――その証明なのだから。
周りが白色に染まっていく。元居た場所に戻ろうとしているのだろうか。もう、父さんや母さん、姉さんの姿は見えない。真っ白な世界にいるのは、俺とナツメだけだった。
ナツメは母さんと抱擁していた、まさにその場所で膝を付いている。
「ナツメ、立てるか?」
「うん」
「ちゃんと和解できたみたいでよかったよ」
「それは、悠真もでしょ?」
「………………」
「……なんか言ってよ」
「ナツメは、この世界に残るのか?」
「――僕という存在はこの世界の摂理の反している。かごめちゃんとは違って僕のことは救えない。例え神にだって……宿命ってやつかな。僕が生まれていたら悠真はきっと――だったら僕の代わりに思う存分その人生を楽しんでよ」
「ナツメ……」
「大丈夫。悠真のことはちゃんと見てるから」
「ナツメは本当にそれでいいのか」
「僕には大きすぎる餞別までもらえた。これ以上は本当に欲張りってものさ。それに、この場所もいつまで持つかわからない。悠真は早くここから抜けたほうがいい。巻き込まれないうちに」
「ナツメを置いて俺だけ帰るなんて、泉や鎌田に笑われちまうよ。だいたい、創立祭でのメンバーも足りてないんだからナツメも手伝ってくれてもいいんじゃないか? 弟のことをよーく知っているナツメならわかるだろう? 俺は諦めが悪いんでね」
「そうだね――来世でまた君と巡り合えたのなら――」
「ナツメ!?」
白の世界の底は抜け、俺は白銀の深淵へ落ちていく。
『ごめんね。創立祭、ちゃんと応援しているから。楽しいひとときをありがとう』




