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Traumerei  作者: 水月
第三章・泉早苗
27/34

010

 「泉の具合はどうですか?」

 「……大丈夫だろう。時期に目を覚ますはずだ」


 おっちゃんは安心したように煙草に火をつける。

 あれから俺は泉を背負い込んで泉の家まで大急ぎで走った。泉は今、部屋のベッドで安静にしているらしい。


 「なあ坊主、もしかしてあの木に行っちまったのか?」

 「…………」


 俺が静かにうなずくと、おっちゃんは煙草の煙をゆっくりと吐いた。


 「そうか、あれはな、あの木は……真実を隠しているんだ。いや、隠してくれると言った方が適切かもしれないが」

 「隠してくれる?」

 「そうだ、そいつならではの悩み、苦しみをあの木はすべて受け止めてくれるのさ。願った通りにしてくれる。でも、あの木に眠る早苗の記憶をお前たちは蘇らせてしまった。隠された記憶を」

 「隠された記憶……?」

 「……早苗が小さい頃の話だ。ある冬の日突然高熱を出したことがあってな。医者に緊急で診てもらったが原因は不明。間もなく早苗は意識を失った。俺とさゆりにできるのは病室のベッドの傍らで、早苗が目を覚ますことをただ祈るだけだった。そして、幾日が過ぎた頃、早苗は目を覚ました。だが、悪夢はまだ終わっちゃいなかった――早苗の記憶は、全て失われてしまった。原因不明の高熱による記憶喪失、医者にはそう診断された。記憶喪失にもいろいろあってな、一部の記憶が欠如したり、過去の記憶を全て忘れたり、記憶喪失になってから蓄えられる記憶が定期的に失われたり、どれも悲惨なものだが、早苗は過去の記憶を全て忘れた。自分の名前、八歳まで一緒に生活した記憶、大切な思い出すら、早苗は忘れてしまった。それから幾許かの月日が流れた夏の夜、俺達家族はこの町を訪れた。早苗は記憶喪失の影響で性格が変わり、他人行儀な口の利き方になってしまったが、それでも早苗は早苗――俺とさゆりの愛娘だ。それでも……俺達は、縋ってしまった。真実を隠す、そんなオカルトじみた一本の木に。その木に俺達は一つのお願いをした。『早苗が記憶喪失になったという真実を隠してくれ』と。願いは賭けだった。記憶喪失という負の事象に対して、それすらも忘れるように負の事象の願いで上書きするように願った。結果は成功だった。早苗はほんの一部だけ記憶を取り戻し、俺達家族もまた新たなスタートを切れた。だが、そんなのはただの欺瞞でしかなかった。早苗は成長していくに連れて、自分の記憶について疑問を抱きはじめ、早苗は自分の過去について詮索するようになっていった。俺とさゆりにそれを止める権利は無かった。欺瞞に欺瞞を重ねた俺達にできるのは早苗の背中を見つめることだけだった。そして今、早苗は真実へと至ってしまった。結果、隠されていた記憶喪失という負のエネルギーが再び早苗の意識を奪った、とまあ、これが今回の顛末だろう」


 「……そ、そんな」


 俺が、泉の背中を後押ししなければ、こんな事には――


 「言っておくが坊主、お前に責任はない。この結果は、遅かれ早かれいつか来ることだった。俺達は俺達が背負うべきものから目を背けてしまった。ズルをしてしまった」

 「ち、近づかないでください!」


 突如として叫び声が聞こえてくる。それが、さゆりさんではなく、泉の声だというのは言うまでもなかった。

 俺はおっちゃんと一緒に泉のところまで走る。そこには部屋の隅で蹲りさゆりさんの手を拒む泉の姿があった。


 「成生君! 助けて!」


 俺の姿を見つけるなり泉はそう叫んだ。


 「落ち着け泉、いったん深呼吸を――」


 泉の傍まで駆け寄ると、泉は俺の袖を掴み震えた声で呟いた。


 「知らない人が……私を襲うの!!」

 「えっ――」


 世界が止まった。白と黒が混在するこの部屋で、泉の世界は再び停止した。いや、泉だけではない。おっちゃんやさゆりさんの世界も静止してしまった。俺も、この現状を前にして何をすればいいのかわからず、ただ泉を見つめることしかできなかった。


 「なるほど、そうきたか」

 「…………」


 おっちゃんは頭を抱え、さゆりさんは言葉に詰まる。


 「成生君、逃げましょう!!」


 おっちゃんやさゆりさんはその場から動く様子もなくただ立ち尽くすだけの中、泉は覚束ない足取りで俺の手を引きながら家を飛び出した。外は静かな闇に呑まれ、白く染まった息とは反対に雪がふわりふわりと舞っている。電柱の蛍光灯が照らす雪の地面は、まるで世界から切り取られた異空間のようにさえ感じられた。


 「なんとか……逃げれました……ね」


 前かがみの姿勢のままそう呟く泉。


 「なあ泉、本当に覚えてないのか?」

 「何が、ですか?」

 「あの二人は、泉の父親と母親だぞ?」

 「そんなはずないです! 私のお父さんとお母さんは……お父さんとお母さんは……駄目です。思い出せません……」

 「だから――」


 泉は突然走り始める。焦燥感に駆られるように。


 「おい泉!」


 俺は泉の後を追った。目的地は、やはり高原のようだ。暗闇の中、泉は奥へ奥へと進んでいく。


 「泉……」


 十分後。

 俺と泉はあの木の前にいた。そして、泉はおもむろに地面を掘り始める。


 「おかしい、ですよね……確かにさっきまでここで何かの探し物をしていたのに、なんだか時間を抜き取られたように突然前が見えなくなって」

 「さっきも言ったように、あそこは泉の家だぞ。本当に何も覚えていないのか?」

 「はい……私の家、両親の顔、家族の思い出、綺麗さっぱり無くなっちゃいました。思い出そうにも、靄がかかって思い出せないんです。だから、私に残されたのはただ、探すことだけ、です」

 「まだだ――」

 「……成生君?」


 幹に手を触れて、木を見上げる。どこか懐かしい雰囲気が手を通して伝わってくる。


 「この木にもう一度頼もう。この木はどんな願いだって叶えてくれるんだ」


 そう言い切った根拠はわからなかった。ただ、この瞬間だけはこの木を頼ることが許される、そう感じたのだ。

 泉は、寂しそうな表情を浮かべたのち、静かに膝をついて祈りをささげた。雲間から覗かせる澄んだ星空でさえ、忽ち泉の祈りと共に白銀の世界へと吞まれていった。

 目を開けばそこにあるのは一本の木と寂れた空間。辺りは白なのか灰色か分からないモノクロの世界に支配され、自分が立っているのか宙に浮いているのかさえ忘れてしまう。


 「ここはいったい……泉は!」


 周りを見渡しても泉の姿は見当たらない。その場からの移動を試みるも、体はうまく言うことを聞いてくれない。


 『私はこの町が嫌いです。今見てる風景、町の人との交流、家族、どれもなくなってしまえばいいとさえ思っています』


 その声の主は間違いなく泉だった。だが、どこかその声に幼さを感じる。

 泉のその声に呼応するように、景色は変容していく。

 見覚えのある家だ。最近よく遊びに行った家だ。

暖かく温もりのある世界――そんな光景が映る、はずだった。


 『何度言わせれば分かるんだ。塾なんか行かせないで子どもは子どもらしくのんびりとさせておくべきだろう』


 聞き覚えのある声、おっちゃんだった。


 『いえ、早苗は頑張り屋さんだから塾に行かせた方がいいと思うのよ』

 『いいや、そんなものより友達と遊ばせてやった方が健康的でいいだろう』


 …………。


 『――二人はいつも言い争いをしている。私の育て方で意見が対立しているみたい。学校に行く前も、学校から帰ってきても、ご飯のときも、眠る前も、いつも喧嘩をしている。それもこれも全て私がいるからなのかな。私さえいなければ二人は平和に過ごせるのかな』


 これは、泉の小さなころの記憶か。にしても――


 『ごめんな悠真。お母さんしばらくの間いなくなっちゃうけど、父さんがその分楽しませてやるからな』


 嫌な過去を思い出してしまった。いや、今はそれどころじゃない。泉を探さないと。

 記憶は移り変わる。


 少女が一人で木の前に立ち尽くしている。頭には少量の雪が積もっていた。


 『どうかお願いです。私のお父さんとお母さんが仲良くなるようにしてください。二人が喧嘩をせずに幸せに暮らせるようにしてください』


 再び世界は光に包まれる。


 「――ッ」


 目の前には白銀の世界が広がっていた。見たことのある街並み、風景。その季節を助長する結晶が空を舞っている。




 「――あれ」


 俺は……僕はどうしてこんなところにいるんだろう。上手く言い表せないが、少し疲れているみたいだ。僕は高原に向けて前へと進む。どうしてだろう、高原への道のりがなんだかいつもより長く感じる。


 「いかなきゃ」


 僕は、何かの使命感に駆られ慣れないその体で坂を上る。

 何分走り続けたか分からないが、僕の前には大きな木と一人の少女がいた。少女は泣きながらうずくまっている。

 僕は心の中であることを願うと、少女に手を差し伸べた。

 手のひらには百円玉が一つ。


 「この木はね、僕の願い事を何でも叶えてくれるんだよ」


 僕は指を数回振ると今度は握った手を指差した。

 握った手をゆっくり開くと百円玉が一枚増えて二百円になっている。


 「さ、もう泣くのはやめてさ、一緒に温かい飲み物でも飲みながら帰ろう?」

 『……うん』


 …………。

 そうか、僕は――俺は昔に会っていたんだな。きっと泉の叶えた願いの影響で俺の記憶まで上書きされてしまったんだ。


 「――ッ!」


 それは唐突なノイズだった。一瞬浮かんだのは雪崩の光景。雪の波が押し寄せすべてを呑み込む景色。

 そのノイズが終わると同時に世界は暖かい光に包まれていく。


 『私は……ただ、夢を見ていたんですね。醒めない夢を――』


 …………。


 『夢から醒めたら、私は……また……あの世界に――それならばいっそ……』


 凄まじい轟音ともに世界が震撼し亀裂が入る。


 「な、なんだ」

 『私は……目醒めないまま――この世界に――』


 亀裂の隙間から蠢く闇が漏れ出している。


 「この世界に閉じこもる気か!」


 俺は迫りくる闇を背に前に向かって走り続ける。

 白い闇を抜けた先は学校の校門に繋がっており。昇降口からは異物を排除せんと、闇が俺の背後を狙っている。俺は校舎を出、高原に向かって走った。闇は徐々に速さを増して背後に迫っている。目の前には一本の木とその根元に座り込む少女の姿。俺は必死に手を伸ばすが――闇の中へと引きずり込まれていった。

 漆黒。

 先の見えない暗闇の中、俺は静かに目を閉じた。

 結局ここまでか。ガラにもないことはするもんじゃない、無理だったんだ。俺だって他人にどうこう言えるような人間でもないのに。


 『へ~、悠くん諦めちゃうんだ』

 「え――」


 俺はかつての友の声を聞いた。まるで意思を持った何かが直接心の内側に語り掛けているようだ。


 『ボクのお母さんを助けてくれたみたいに、悠くんにはその力があるのに』

 「そんな、俺には何の力もないさ。ただ、あの時は運が良かっただけ。それに、力があればこの手を泉に差し伸べられたはずだ。自分のことは棚に上げて、結局はただの欺瞞だったんだ」


 闇は俺の体を侵食していく。足から太ももを通り腰の位置まで呑まれている。もうまともに体が動かすこともできない。


 『そう――人が人である限り欺瞞によって真実は隠蔽され、欺瞞を抱える限り願いはやがて代償を支払う負の願いになってしまう。自己欺瞞の前に、現実は容易く忘れ去られ、信じたい理想に書き換えられる。都合のいいように、信じたい現実のみを受け入れようとするんだ。この木は人の弱さを試しているんだ。人の可能性を――』


 そうか……泉は家族の幸せを願うときに……。


 「そう、だな。この世界は欺瞞に満ちている。おかげで目が覚めたよ、ありがとうな。今度はいつ会えるかわからなないけど、いつか会えるといいな――かごめ」

 『そうだね。ボクも楽しみにしてる。だから――』


 彼女は何かを言いかけ、消えていった。雪のように、風に乗って。

 俺の体を蝕んだ闇は次第にその勢力を落とし、やがて闇霧は晴れる。そこには、木にかかったブランコに座る一人の少女がいた。


 「俺たち、小さいころに出会っていたんだな」

 「そう、みたいですね。私も記憶がなかったから気づかなかったです」

 「それで、どうするんだ? この夢の世界は間もなく終わりを迎える」

 「私は、この世界に取り残されてもいいのかなって思ってます。この願いから解放されてもあのときと同じ生活に戻るのなら、喧嘩の日々が続くなら、私が存在しない方が二人のためになる……そう思えてきちゃうんです」

 「それでも、家族の平和を願ったんだろう? 俺にはできないな」

 「成生君?」


 俺は泉の横に座ると、崩壊していく銀世界を見つめながら、本心を吐露する。


 「俺も……家の連中との関係性で結構悩んでてな。それこそ、現在進行形で距離を取るくらいには」

 「そう……なんですか」

 「それでも俺は、泉みたいに何かを犠牲にしてまで平和を願うことなんてできなくて、だからその……」

 上手く言葉を紡ぎだせないもどかしさに葛藤していると、泉の口角が少し緩む。

 「泉はもっと自分の幸せを願ったっていいんじゃないか? 誰かの幸せを願うことは素晴らしいことだし、尊敬もするけど、でも、その幸せの中に泉自身が入ってないと、おっちゃんやさゆりさんが悲しむと思うんだ」

 「……願った結果、私は記憶を無くし、そして止まっていた幸せの時は再び動き始めました。きっと何度やっても空回りしてしまいます」

 「この木はどんな願い事だって叶えてくれる。ただ、願いの仕方によっては思いのよらぬ方向へ叶うことがあるんだ。特に泉の場合は、願いの代償として無意識に自分の記憶を差し出してしまった。この木は人の弱さを試しているんだ。でも、今の泉ならその弱さを克服できる、そうだろう? 今度は誰かの為だけに願うんじゃなく、その中に泉自身が入っていてもいいんじゃないか」


 俺は立ち上がり、泉に手を伸ばす――あの時の少女に向けて。


 「私は……私は……」


 泉の頬から雫が流れ落ち、今まで押し殺してきた感情、隠されてきた感情がとめどなく溢れる。俺は一度伸ばした手を戻し今度は優しく泉を抱擁した。


 「俺みたいな欺瞞に満ちた人間には家族の幸せを願うんなんてとてもできない。俺にできるのは、泉の背中を後押しすることだけだ」

 「私は……幸せになって……いいのでしょうか……あんなにお父さんとお母さんに……迷惑を掛けて……十年近くも自分を見失い続けて……」

 「泉、こんな話を聞いたんだ。ある少女が記憶喪失になったとき、その両親は家族三人でこの木を訪れて願い事をしたらしい。そしたら、僅かながら少女の記憶が戻ったんだ。その両親はただただ家族の幸せを願い、全てを忘れてしまった少女の成長を今も見守り続けているんだ」

 「お父さん……お母さん……」

 「おっちゃんとさゆりさんは泉の負の願い――その鎖を断ち切ったんだ。今度は泉が断ち切る番じゃないか?」

 「私は……もっと……今までよりもずっと……お父さんとお母さんと……仲良く楽しく暮らしていきたいです……」


 泉の心に呼応するように世界の闇は藻掻き苦しみ、崩壊が収まっていく。


 「さあ、元の世界に戻ろう」


 俺は再び泉に手を伸ばす。


 「おっちゃんとさゆりさんが飯を作って泉の帰りを待ってるぞ」


 泉は静かに俺の手を取る。


 「……はい…………」


 眩い閃光が闇を振り払い世界の全てを照らす。灰燼のように積もった闇はやがて天高く昇っていき、輝く粒子となって世界に降り注いだ。

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