007
日曜日の朝、俺は鎌田の家に行っていた。勿論、昨日泉に教えて貰った数学を今度は鎌田に教えるためだ。
「ここでこれを使って――」
二時間後。
鎌田が数学をしている間、俺はそのほとんどを漫画に費やしていた。
「そういや成生、もうすぐ夏澄から電話がくるぞ」
「へえ、夏澄ちゃんが」
「そうそう、頻繁に病院の公衆電話から掛けてくるんだよ。昨日会ったばっかなのにな」
「でも、今のところ容態は安定しているんだろ?」
「そうだな、それでもやっぱり夏が正念場なんだろうけど」
噂をすれば影。
鎌田の携帯からバイブレーションが鳴り響く。鎌田は電話に出るとスピーカーモードにし、聞き覚えのある声が鼓膜を刺激した。
『やっほ~おにいちゃん』
「よう夏澄か、今日は成生もいるぞ」
鎌田は携帯を俺の方に寄せる
「久しぶりだな夏澄ちゃん。体の具合、どうだ?」
『成生さん、お久しぶりです。最近は特に元気ですよ。おにいちゃんのためにももっと頑張らなきゃって言い聞かせてるんです』
「夏澄ちゃんは本当に頑張り屋だな。今度は俺もお見舞いに行こうと思うけど、なにかリクエストがあったら言ってよ。鎌田と一緒に買っていくからさ」
『そうですね、あじまんが食べたいです』
「あじまん? たい焼きじゃなくてか?」
『あじまんはとっても美味しいんですよ。薄い皮にぎっしりと詰められた熱々のあんが冬の寒さに負けない力をくれるんです。大きさも手のひらサイズでとても食べやすいんです。たい焼きに勝らずとも劣らずのとっても美味しい食べ物なんです!!』
力説する夏澄ちゃん。どうやら、何かのスイッチが入ってしまったのだろう。あじまん愛を一生懸命に俺に語りかける。
「わかったよ夏澄、今度あじまん買ってくよ」
『本当!? 楽しみにしてるよ。あ、そろそろ診察の時間だから電話切るね』
「おう。元気でな、夏澄」
『おにいちゃんこそ、また無理しちゃだめだからね。成生さん、おにいちゃんが無理しないように監視の方よろしくお願いしますね』
「おう、任せときな」
『それじゃあね――』
静寂。
「元気そうだったな」
「ああ、昨日も会ったけど最近は本当に元気だよ」
夏澄ちゃん。
余命を宣告された少女。
そんな少女でさえ、明日への希望を信じているのに俺は……。
「成生?」
「ああ、すまない。なんでもないんだ」
それからはお互いに漫画を読みながら過ごした。あんな退屈な家にいるよりも、こうして鎌田の家で寛いでいた方が何百倍もマシというものだ。監獄のような俺の家なんかよりも。
外は相変わらずの雪景色。こういった日は炬燵に暖まりながら漫画を読むに限る。そして、眠気に身を任せて昼寝をする。至福のひと時だ。
こんな時間が永遠に続けばいい――そう考えたりすることもあるが、現実はそうも甘くないらしい。寝ていた時間の差分はきっちりと清算されている。
夕暮れ。
「なあ鎌田――」
鎌田の方を振り向けば、漫画をアイマスク代わりにして寝ていた。
「…………」
鎌田はどう思っているのだろう。家族は海外出張で家にはいないが、寂しくないのだろうか。そんなことを訊こうともしていたが、寝ているなら無理に起こすのも可哀想だ。
俺は鎌田が目覚めないように帰りの支度を始める。勉強道具を一通りカバンに入れた後、「俺、帰るからな」と一言を添えて鎌田の家を後にした。
………………。
雪を踏む音が響く世界。今日の夜は静かだった。風もなく、降雪も少ない。こんな日だからなのだろう――あの場所に行こうと思ったのは。
あの日、消えてしまった彼女の最期の場所。
学校の裏山にある石階段を上る。小さな鳥居をくぐり、一段一段足元に気を付けながらあの場所へ向かった。
拝殿。月明りに照らされた拝殿は、燦然と
舞い落ちる小さな雪を纏い幻想的な雰囲気と寂しさを覗かせる。
「久しぶりだな――かごめ」
勿論、返答などない。ただ、彼女なら近くで俺を見守ってくれてる。そんな気がしたのだ。
そう、気がした。
結局は俺の都合のいい解釈と自己欺瞞だ。
――ただ、それだけ。
俺は、拝殿の前にある小さな階段に腰を掛ける。幸い、屋根のおかげで雪は積もっておらず、濡れる心配もなかった。扉を背もたれ代わりにして扉の向こう側にいるかごめに語りかける。
「どうだかごめ、最近の調子は。俺は、ちょっと微妙かな。なんて言うんだろう――やっぱり俺は恵まれてないんだなって痛感させられたよ」
月明かりが雲に見え隠れしながらも、俺は語り続ける。
「なあ、俺はこれからもあんな場所で生活しなきゃいけないのかな。息が詰まりそうだよ――かごめ」
かつての友人の名を呼びながら、俺は月を見上げる。綺麗な満月――雲間から垣間見える幻想世界、夢幻に近い光景を眺めながら。
「――え?」
俺は小さく声を洩らす。気のせいだと思うが、背中の方――拝殿の扉が少し揺れた気がした。まるで、扉の向こう側に何者かが背中を下しているように。
重み。
想い。
その重みに恐怖という感情はなかった。いや、明確になかったわけではないが、それよりも、懐かしいという想いが勝ったのだ。
「そういやかごめ、大分昔に世界の秘密がどうのこうのって言ってたよな――そんなものがあったとして、俺は変わることが出来るのかな」
『…………』
俺は、過去の会話を思い出していた。
「探してみる……か―――それもいいかもしれない」
風とともに、壁を挟んだ向こう側の重みが消える。
数秒後。
俺は立ち上がり、歩き始める。暗い階段を下りて、暗い校舎を抜けて、校門を出る。かごめに悩みを打ち明け、少しだけ、ほんの少しだけ心が軽くなった俺は家の方角へ足を運んだ。
家に帰ると母親と名乗る女性が「おかえり」という言葉とともに俺を出迎える。口には出さないが、正直迷惑だ。頼んでいもいないのにわざわざ玄関まで出迎える神経がわからない。
俺の過去に父親と母親なんてものはいない。父親は仕事でほとんど家にはいなかったし、母親は家にすらいなかった。そんな家庭で育った人間はきっと俺のような人間に成長していくのだろう。
俺はその言葉を無視して自分の部屋に閉じ籠もる。
そして翌日、放課後のことだった。鎌田はいつものようなハイテンションで俺と泉を呼びつける。
「なあ二人とも、今日夏澄の見舞いに行こうと思うんだけど二人も来ないか?」
「特に予定もないし、いいぞ」
「私も今日は大丈夫ですよ」
「っしゃ、じゃあバス停に行こうぜ」
鎌田の先導で、俺達はバス停でその時を待った。この時期、バス停の時刻表は当てにならない。平然と十分以上も運行が遅れたりもする。山間のこの土地ではそういったことが多々あるのだ。
そう、それは今日も同じだった。十五分の遅れでバスは到着し、市の中心街に向かって走り始める。夏澄ちゃんが喜ぶように、病院近くであじまんを購入してから病院へ足を運んだ。
俺と泉が待合室で待っている間、鎌田は受付で手続きをしている。
「そういや泉、自分探しは順調かよ」
話題の枯渇。
無言で鎌田を待つという選択肢もあったにはあったが、受付という微妙な待ち時間を無言で待ち続けるというのは中々精神を削られる。
「そうですね……」
泉はやけに真剣な顔つきで悩んでいる。
「ある程度、いえ、自分がやるべきことはもうわかっているんです。でも、勇気が出ないと言いますか」
「勇気――ねえ」
「それを見つけてしまったら、私が私でなくなるような気がするんです」
「ちょっと意外だな。頭もよくて家庭にも恵まれてる泉にも、悩みがあるなんてな」
「…………」
「悪い悪い、別に悪意的に言うつもりじゃなかったんだ。俺からすれば泉は雲の上の存在だからな」
「成生君は、小さい頃の記憶はありますか?」
「小さい頃? そうだな、まあ、覚えてるといえば覚えてるし、覚えてないといえば覚えていない、まちまちかな」
「そうですか。私はほとんど覚えてないんです。お父さんやお母さんとの記憶すら」
「へぇ――」
「だから、この学校にはそれを探すために入学したんです。ここならきっと見つけられると思ったので――」
泉は確信に満ちた表情を浮かべる。
間もなく、鎌田が受付から帰ってきた。どうやら許可が下りたようだ。
エレベーターに乗って夏澄ちゃんの病室へと向かう。




