003
翌日、泉の家に行くために学校で待ち合わせをしていたわけだが、そこまではよかった。
そこまでは。泉に案内をされて十分。問題は起きた。というか、今目の前にある光景がそれなのだが。
バスケットボールを指先で回す男。泉の家の玄関で待ち受けてたその男は「上がれ」と強面の表情で俺を威圧する。鋭い眼光に気圧され、言葉に詰まった俺はその男の後ろをついていくしかなかった。
………………。
家の案内をされて長方形の炬燵を俺を含めた四人がそれぞれの辺に居座る。
「さて、小僧――」
強面の男は立ち上がると俺の方を振り向く。
「ぅらあ、今日は宴だぁ‼ さゆり、酒だ酒だ!」
「はい、ただいま」
「――は?」
ここまでくると俺にも何が何だかわけがわからなくなってしまう。目の前には酒を豪快に飲み始める強面の男。
「まさか、我が娘が同級生を連れてくるとはな――お父さん嬉しくて涙が止まらないぜ」
お父さん? この強面の男は泉の父親か。
それにしても――
酒瓶を持った大人が涙を流しながら酒を飲んでいる。
「お父さんそんな、大げさですよ」
「これを祝わずしていられるかってんだ」
「しかも男の子――はっ、もしかして早苗の彼氏さんかしら!」
「なぁにぃ? 彼氏だとぉ? 貴様、娘に手を出したらわかってんだろうなぁ」
エアガンを持ち出し俺の頬に押し付ける泉の父親。
「ち、違います違います――クラスメイトです!」
「なんだクラスメイトか。俺としたことが――だが、早苗は渡さん! 早々に立ち去るんだな」
「ああ、それではお言葉に甘えて――」
「ほう、逃げだすのか小僧――最近の若者は草食だな。そう、ショックなんてなガハハ」
「おっちゃん、よく頭のネジが飛んでるって言われないか?」
「言うじゃないか小僧! それに免じて名前くらいは聞いてやるぜ」
高笑いを上げながらおっちゃんは俺の背中を叩いてくる。
「やっぱり、お父さんと成生くんなら仲良くなれると思ってたんですよ」
「これは仲がいいと言えるのか……」
「で、名前は?」
「え? ああ、成生悠真だけど」
おっちゃんは顎に手を添えて何かを考え込む。
「成生――悠真、か。なんだかラノベの冴えない主人公みたいな名前だな」
「余計なお世話だ。というか、そういうおっちゃんの方はなんて名前なんだよ」
気が付けば俺は、泉の父親をおっちゃんと呼び、タメ口調で話していた。
なぜだかは俺にもわからない。
あちら側は俺のことをどう思っているのかはわからないが、少なくとも俺は、この空気は嫌いではなかった。
「ふふん、俺の名か――知りたければ教えてやろう。俺の名前は泉 俊央だ」
「ご近所の子供たちからはとっし~と呼ばれています」
すかさず合いの手を入れる泉の母親。
「おいさゆり、それじゃあこの小僧に示しがつかねえぜぇ」
せっかく名前を教えたのに俺の呼び方は小僧のままらしい。俺の方もおっちゃんという呼称を変えるつもりもないが。
「そうだ小僧、今日の晩飯は食っていけよ。せっかく娘が友達を呼んできた晴れの日だ、遠慮はいらんぞ?」
外は猛吹雪だった。
………………。
なんなんだ、この家族は。
「晩飯って言ってもな……」
俺は泉に視線を送り、助け船を要求する。
「成生くんが迷惑じゃなければ、食べていってください。お母さんの料理、絶品なんですよ」
「それなら……」
それから間もなく、俺は泉の部屋へと案内された。
綺麗な部屋。最初の数秒は確かにそう思っていた。部屋の中は綺麗に整頓され、部屋の壁紙、つまり、白色の内装を邪魔するような色のものは置いておらず、強いて言うなら本棚に少しだけ顔を覗かせている赤本が何冊かあるが。
それにしても、寂れた空間だった。
泉の部屋には、ベッド、箪笥、本棚、小さなゴミ箱、ホットカーペット、そしてその上に乗っかっているテーブルしかなかった。女の子の部屋にしてはぬいぐるみの類のものは見つからないし、ポスターなども貼っていない。真っ白な空間に家具が丁寧に並べている
まあ、俺の姉と比べるのもそれはそれでどうかと思うのだが。
「成生くん、どうかしました?」
「あ、いや、なんでもないよ。それにしても、綺麗に片づけてあるな」
「そうですか? 普通、だと思いますけど」
普通、か。
確かに俺は普通の場所とは違う場所で育ったわけで、それは姉も同じだ。
ならば、きっと、今どきの女の子というのはこういうモノトーンな部屋で過ごしているのだろう。
はたして、泉のような秀才を普通の女の子と定義してよいものなのか、と聊か疑問もあるが、それはさておき俺は来週提出の数学の課題を終わさなければいけない。
「それじゃ、勉強始めましょうか」
泉は、テーブルの教科書とノートを開いて勉強を始める。俺もシャーペンを回しながら勉強を始めるが、やはり切り替えには時間が掛かる。向かい合って黙々と計算を進める泉を見て、頭の出来が違うということをつくづく痛感させられる。
「どうかしましたか? 成生くん。さっきからペンが止まってますけど」
「――いや、この問題なんだけどな……」
泉は髪の毛を右耳にかけると「ここはですね――」と懇切丁寧に教えてくれた。
………………。
勉強。
数学。
課題。
昼下がりだった外の景色も気が付けば夜になっており、そのうちに泉の母親が部屋をノックして「ご飯できましたよ」と言告げる。
「もうこんな時間でしたか」
「俺はもうくたくただよ」
四時間弱も勉強をしていた所為で少し頭痛気味だが、だからと言って無意味な時間ではなかった。課題も無事に終わらすことが出来たし、復習をすることも出来た。それもこれも、泉が丁寧に教えてくれたからに他ならない。
正直、崇めてもいいレベルだ。
階段を下りれば、いい匂いが嗅覚を刺激する。炬燵の上に御馳走が並んでいた。きっと泉の母親が作ったのだろう。
「お、来たな。さあさあ小僧、思う存分さゆりの料理を堪能してくれたまえ」
「わぁ、今日はいつにもまして気が入ってますねお母さん」
「ええ、なんたって早苗の彼氏候補ですから」
「俺は彼氏候補なんぞ認めないが、遠慮はいらんぞ」
「しかし、本当にいいのか……」
俺は泉の方を見つめ申し訳なさそうな視線を送る。対して泉はニコニコとした表情を浮かべている。
「私の料理では不満でしたでしょうか……?」
悲しそうに俯く泉の母親。どうやら、思い込みが激しい性格のようだ。
「てめぇ、うちの嫁を泣かせるとはいい度胸してるじゃねえか、ああん?」
すかさず俺の頬をエアガンで圧迫してくるおっちゃん。
「い、いえ、謹んで泉のお母様の料理を食べさせて頂きます」
「よかったなさゆり、小僧はちゃんとさゆりの料理を食べていってくれるようだぞ」
もはや、そこに拒否権などは無かった。あるのは食べるという選択肢のみ。
「それと、よろしければ私のことは泉のお母さんではなく、さゆりさん、と呼んでください」
「え……と、それは」
少しためらう素振りを見せる俺に対して、おっちゃんはまるで西部劇のガンマンのようにエアガンを回す。
やはり俺には拒否権がないのだ。
「それじゃ、さゆりさんの料理ありがたく頂きます」
「はいっ」
「成生くん、遠慮せずにどんどん食べてね。勉強も何事も健康が第一です」
俺は箸でさゆりさんの料理を口に運ぶ。
温かい料理などいつぶりに食べただろう。勿論、自宅では食べる前に電子レンジで温めてから食べるのだが、できたてを食べる、という行為をしばらくしていなかった俺は心身ともに暖まっていた。
「どうだ、さゆりの飯は旨いだろ?」
我が物顔で俺に問いかけるおっちゃん。
「美味しい、です」
「ですよね。私もお母さんの料理はとても大好きなんです」
「さて小僧、今こそ肚を割って話そうじゃねえか」
炬燵の上にビール瓶を力強く乗せるおっちゃん。既に酔いが体中に回っているようだ。
「悪いが、俺はまだ未成年だ。てか、あんたも人の親なら未成年に酒を飲まそうとするな」
「おいおい、今時そんな古臭いものに縛られてるなんて――」
「俊・央・さ・ん?」
にこやかにおっちゃんの方を向くさゆりさん。
「い、いやぁ、小僧よ。やはり酒は二十歳からだなハハハ」
「やれやれ」
「あはは、やっぱりお父さんと成生くんはいいコンビになれそうですね」
楽しかった。
まるで宴会のように笑い合いながら。
俺の家庭ではなかったことだ。あんな冷え切った家庭では、一緒にご飯を食べる機会なんてなかったのだ。起きる頃には父親は出かけているし、姉と母親が起きるのは俺が学校に出て行ってから。
眩しい。
俺にこの光景は眩しすぎた。この夕食を楽しんでいる傍らで、自分の歩んできた人生を嘲笑している自分がいる。
楽しい夕食会は終わった。
おっちゃんは酒を飲みすぎたのか、酔いつぶれて座布団を折って枕代わりにして横になっていた。泉とさゆりさんは食器をキッチンへ運んで洗っている。俺も片づけを手伝おうとしたのだが、二人とも口をそろえて「炬燵でゆっくりしていてください」なんて、優しい口調で門前払いを喰らってしまった。丁寧な口調は母親譲りなのだろうと認識した俺は、速やかに退散してこうして炬燵でテレビ番組を見ている。
十分後。
洗い物を終えた二人が炬燵へ帰ってきた。
時計を見上げれば、夜の九時。時間も時間。
俺は二人が炬燵に入るのとほぼ同時にカバンに手を触れる。
「ああ泉、そろそろ俺帰るよ」
「もうそんな時間でしたか玄関まで見送ります」
「うふふ、いつでも遊びにいらしてくださいね悠真さん」
「ええ、さゆりさんこそ、今日は本当にありがとうございました」
泉と一緒に玄関へ向かう。
とても温かい家族だった。俺もこんな楽しそうな家に生まれたかった、なんてことを頭の隅で考えなら廊下を歩く。
「楽しい家族だな。泉の家は」
「はい、お父さんもお母さんもとってもいい人なので毎日が幸せです」
「羨ましいよ」
「そうですか?」
「ああ、それじゃまた来週な」
「はい、また来週です」
泉の家を後にした俺は暗闇に包まれた道路を一人歩き続ける。
………………。
俺の家はなんて冷え切った家庭なのだろうか。改めてそれを再認識した土曜日だった。唇を噛みしめて夜道を進む。横殴りの冷たい雪風に十分ほど煽られた末に、目の前には俺の家があった。
帰りたくない家。
見たくもない家。
家のドアを開ければ、リビングの方から母親が出迎える。
「悠ちゃん、今日は遅い帰りだったね。どこか遊びにでも行ってたの?」
「……ああ」
「そう……」
会話の終わり。
俺の家での会話なんてこんなものだ。泉の家とは対照的な家族――いや、家族ではない。ただの同居人に過ぎないのだ。だから、なのだろう。俺はこの母親と名乗る人物に対して興味はないし、話そうとも思わない。いつもは適当に相槌を打つかそのまま無視をして部屋に戻っている。
リビングの方には姉の笑い声が響いている。父親の声が聞こえないということは、もう寝たのだろうか。
いや、そんなことすらどうでもいい。俺は足早に階段を上がった。
無言のまま――部屋まで。
部屋に入っても電気を付ける気が起きない。俺は、目が暗闇に慣れるまでベッドに横たわる。天井を見上げながら。
目が慣れたところで俺は風呂の準備を進め、手短に入浴を済ませた。髪を乾かし歯を磨いて、再びベッドの海に体を投げ入れる。
「…………」
目を瞑る度、瞼の裏側に映される泉の家族。
現実は現実。
ないものねだり。
眠れない夜に、月明かりが窓から差し込んでいた。