002
「数学の課題……ですか?」
教室の黒板掃除をしている泉は、その手を止めて首を傾げる。
「見せてほしいって、それじゃ成生くんと鎌田くんのためにならないです」
予想通り、か。
「鎌田――?」
放課後のこの教室において、その名が出たことに今度は俺が首を傾げる。あの日、バスケ部を自主退部した鎌田は放課後になれば鳥のように自宅へ帰宅する帰宅部のエースになっていたはずだが。
背後。
確かに何者の気配のようなものを感知することが出来た。数秒もすれば左肩に圧力がかかり、
「ツレないじゃないか。オレにも答えを見せておくれよ」なんて陽気な声とともにソイツがそこに立っていた。
泉も、苦笑いと呆れた顔を浮かべて掃除を再開する。
「なんでいるんだよ」
「お前だけにチート技を使わせるかよ――我が友、な、りう氏よ」
「俺はどこぞの虎か。よし、お前とは絶交だ」
「薄情すぎるだろッ‼」
いつもの見慣れた光景に、泉は笑みをこぼす。
「本当、お二人は仲がいいですよね。鎌田くんの調子も戻ってきましたし、これも夏澄ちゃんの努力の結晶ですかね」
夏澄ちゃんは、あれから病院に戻って毎日病気と闘っている。鎌田が言うには、病院に行けば変わらずの明るい性格で迎えられるという。余命宣告をされてもなお前向きに生きる夏澄ちゃんに、彼女の頑張り次第ではもしかするかもしれないと、先生も躍起になって病気の解明を急いでいるようだ。
「鎌田の仲はその辺りに置いておくとして、確かに夏澄ちゃんお前との約束を果たすって言ってたしな」
「むしろ最近は明るすぎて眩しいくらいだよ。ところで――」
「答えは駄目です。教えるのはいいですけど」
どうやら、その一線は譲らないようだ。
「土曜日なら空いているので、その日にでも勉強会をしますか?」
「明日か。俺は空いてるけど、鎌田はどうなんだよ」
「土曜日か。その日はちょっと夏澄のところに顔を出そうと思うからキツいかもな」
「鎌田の家が使えないってことはやるとしたら俺の家か泉の家になるけど……」
俺の家の状況を考えれば、とても友人を招くなんて真似は出来そうにもない。あんな光景を見られたら――いや、考えたくもない。
「よろしければ家に来ますか?」
「いいのか。俺みたいなのがほいほいついて行っちまって」
「お二人とは日頃から仲良くさせて頂いているので、私の家なんかでよければいつでもいらしてくれていいですよ」
「いいなあ成生、オレも早苗ちゃんの家に行きたかったぜ。数学は日曜日にでも俺に教えてくれよ成生」
俺の左肩をポンと叩くと鎌田は教室を後にする。
嵐のように現れ、そして立ち去った。
「あはは、そういえば勉強会のことですけど、私の家でよかったですか?」
「あ、ああ、それじゃせっかくだし泉の家で勉強させてもらおうかな」
夕日が差し込む教室。その日に背中を灼かれながら泉の掃除が終わるのを待った。
十分後。
黒板を一通り綺麗にした泉は教卓に置いていたカバンを手に持つ。
「なんかすみません、待って頂いて」
「いや、俺が勝手に待ってただけだから気にしなくていいぞ」
夕日が眩しい廊下を泉と歩く。
………………。
それはふとした瞬間だった。特別気になったというわけではないが……いや、気になったのだろう。
疑問。
至極当然のことだ。あるコミュニティの中で特筆して秀でている人間、つまりこの場合は学校になるが、学年でも一、二を争うような頭脳の持ち主がなぜこのような学校に収まっているのか。この学校は県内で見ても割と上位の進学校ではあるが、泉ほどの頭脳があればもっと上位の進学校を目指せたのではないか、と。
「そういや泉ってどうしてここ受けたの?」
「唐突ですね……」
泉は苦笑いをしながら少し困った様な顔を見せる。
「ほら、泉って頭いいし、もっと上の進学校にも行けたんじゃないかと思ってさ」
「頭いいかはともかく、そうですね……多分自分を確かめたかったんだと思います」
「自分を確かめたかった?」
「う~ん、自分を探したかった?」
「自分探しの旅ってやつか」
「まあ、そんなところだとなんだと思います」
他人行儀の言いぶりに些細な違和感を覚えるが、ともかく、これ以上の余計な詮索はプライバシー的にもいかがのものかと思った俺は、残りの疑問を心の箪笥の奥底に無理くり押し込める。
それにしても。
自分探し――か。
泉らしいというか、頭脳明晰な人間らしいというか、その年で自分探しとはそれほどに自分をよく客観視できている証なのだろう。
「殊勝なやつだな」
「そこまで大層なものでもないんですけどね」
やはり、親が子に与える影響というものは計り知れないのだろう。謙虚な性格、これは親の遺伝なのだろうが、普段の生活という疑似的な遺伝も、今の泉を構築していったに違いない。
………………。
きっと、俺とは比べられないほど恵まれた環境で育ったのだろう、と思うとなぜだか少し心が締め付けられるような気がした。
「私の予想だと、お父さんとは凄く気が合いそうですよ成生くん」
「へぇ」
自分のことを俯瞰的に見たことなど一度もない俺は、自分と気が合いそうと言われても、いまいちピンとこなかった。まあ、それも明日全てわかるのだろう。泉の父親も、家庭環境も。