005
「――おにいちゃんと出会ったのは、わたしがまだ五歳くらいの時でした。わたしのお父さんと、おにいちゃんのお父さんが幼馴染みでよくここのキャンプ場で遊んでいました。体の弱いわたしは車から出ようとしませんでしたが、そんな時、おにいちゃんがバスケットボールを持ってわたしのところに来たんです――『一緒にバスケやろうぜ!』って。その日、わたしは初めてバスケットボールに触れて運動の楽しさを知りました。殻の中に閉じ籠もっていたわたしを引っ張り出してくれたんです。おにいちゃんには恥ずかしくて言えなかったけれど、わたしは将来、バスケ選手になろうと思ってたんです。でも、小学二年生の時、わたしは事故に遭いました。いつも通りキャンプ場に向かっていた日でした――わたしの乗っていた車に山の斜面から滑り落ちてくる落石がぶつかって……ガードレールを突き破り――谷底に落ちました。わたしは運よく助かったんですが、両親は亡くなりました。医者の先生が言うには助かったのは奇跡だそうです。わたしは長い昏睡状態と引き換えに生還したんです。もちろん、バスケなんてできる体ではなくなりました。落下の衝撃で心臓に大きなダメージが残り、運動をすれば胸が痛くなるんです。無理をすれば、命に関わると先生に言われました。わたしは生きる意味を失い絶望しました。大好きな両親を亡くし、バスケ選手になる夢を奪われ、四角い部屋の中で何度も死のうと考えていました。そんな時、おにいちゃんとその家族がわたしの病室を訪れたんです。わたしはおにいちゃんに本音を伝えました。『この世界にわたしの生きる意味は無いって、死にたいって、誰でもいいからわたしを殺してよ』と、懇願しました。おにいちゃんは泣きながらわたしの頬に平手打ちをしました。『夏澄の父ちゃんと母ちゃんは車からお前を連れ出して亡くなったんだ。痛みに耐えながら、二人の希望を夏澄に託したんだ。優しくてカッコ良かった夏澄の父ちゃん、料理上手でおしゃべりな夏澄の母ちゃん……絶対に夏澄を死なせない。夏澄の代わりに、オレが――全国で一番になって優勝旗を届けてやる――このバスケットボールに誓う。だから、生きろ!!』」
………………。
「それからはおじいちゃんとおばあちゃんの家に居候させてもらって――これが、わたしとおにいちゃんの関係です。まあ、先程も見ていた通り、今では嫌われてるようですが……」
少女にはあまりにも残酷な運命。一人の少女が背負うにはあまりにも過酷すぎるものだった。
「夏澄ちゃん……」
そうか、だからあの時鎌田はインターハイ優勝すると言っていたのか。
「夏澄ちゃん、あいつは夏澄ちゃんのことを嫌いだなんて思っていないさ。今でもインターハイ優勝を目指して頑張っている。夏澄ちゃんのためにな」
「そう……でしょうか」
「はい、鎌田君は根は優しい人ですから夏澄ちゃんのような可愛い子を卑下するような人ではないです」
「……ありがとうございます。お二人とも優しいんですね。どうか、これからもおにいちゃんと良き友人であってください」
「当たり前よ」
「はい!」
少女のささやかな願いを聞いた俺達は、勉強会を始める。午前中だけで色々あったが、夏澄ちゃんは鎌田のベッドの上で読書をして過ごしていた。
――三時間後。
練習を終えた鎌田が帰ってきた。
「まだいたのか。夏澄は――寝てるか」
夏澄ちゃんの寝顔を確認すると、鎌田はバスタオル手に持った。
「話は聞いたぞ、鎌田」
「そうか、夏澄の面倒を見てくれて、ありがとうな――二人とも」
鎌田は、そう言い残して部屋を後にする。十分後、鎌田は帰ってきた。バスタオルを首にかけて。
「二人とも、ちょっと近くの自販機までコーヒーでも買いに行かねえか。何か奢るぞ」
「コーヒー、ですか?」
「おい、せっかく帰ってきたのにお前何を――」
「いいから、黙ってついてきてくれ――頼む」
夏澄ちゃんにブランケットを掛けると、鎌田は振り返ってコートを着始める。俺と泉はお互いに顔を見合わせ、鎌田について行った。
………………。
寒い雪道を進み、あの自販機の前まで歩く。その間、鎌田は一言も発さずに前を向いて歩き続ける。そして、自販機の前に到着した。鎌田は俺達に温かい缶コーヒーを手渡すと、やっと口を開いた。
「で、どこまで聞いたんだ?」
「全部聞いたよ。出会いのことから今までのこと」
「そうか、夏澄のやつ結構口が軽いんだな。ってことはオレがバスケをしてる理由も――」
「ああ、聞いた」
「そうか……なあ覚えてるか成生。インターハイ決勝のこと」
「――ああ、覚えてるさ。鮮明にな、あと一点差――惜しい試合だった」
「オレがあそこで決めてればあいつの夢を叶えられたのにな」
「……鎌田は何も悪くないだろ。チームの中でも一番頑張って、俺達を決勝まで導いて」
「そんなことを言ってくれたのはお前だけだ――成生」
「……え?」
「知ってるか? オレが先輩と喧嘩した理由――」
「いや……」
「オレは結構妬まれてたらしくてな、ウィンターカップ直前にバスケ部を辞めたとき、『お前のせいで男子バスケ部は恥をかかされた』って先輩に部室でキレられたんだ」
時系列の矛盾。鎌田はバスケ部と喧嘩してからやめたのではなく、辞めてから喧嘩をしたのだ。
「お前さえいなければ俺がキャプテンだった、お前さえいなければ俺がスタメンだった、お前さえいなければ俺がレギュラーだった、お前さえいなければ、お前さえいなければ、お前さえいなければ、お前さえいなければ――わかるか成生、人間ってもんは使えるときは好意的、使えないときは悪意的なんだよ」
「使えないって、鎌田は――」
「インターハイ、どうして決勝まで行けたと思う?」
「え? そんなの鎌田のおかげ――」
「そうじゃない。成生――こんな話を知ってるか? 野球選手の肘の話」
「野球選手の肘?」
「プロの野球選手は皆言ってるぞ、『肘は消耗品で、人生に投げられる球の数には限りがある』って」
「ああ、それなら何度かテレビで聞いたことがある」
「じゃあ、成生――それって肘に関してだけだと思うか? 例えば、バスケ部に必要な足――とか」
「――ッまさか……」
「実はな、インターハイの時、薄々感じてたんだ。右膝が痛み出してな――我慢してた。でも、決勝戦の残り数秒のシュート、膝が一瞬悲鳴を上げたんだ。それで僅かに軌道が逸れて――負けた。悔しかったよ、無理をして決勝まで行ったのに結局は負け。今思えば、あれが最後のチャンスだったんだ」
「最後って……」
「インターハイが終わってオレは再び必死になって練習した。先輩も『俺達をここまで導いてくれてありがとう。最後は惜しかったけど準優勝嬉しすぎて感動したよ。借りは冬に返そうぜ』って励ましてくれた。嬉しかったんだ――でも、ウィンターカップ予選の決勝、残り一分でオレは倒れた」
「……え」
「体力は有り余ってたし、スタミナもまだまだ残っていた――でも、膝は違った。使い込みすぎて、限界だったんだ。医者は言った――高校ではバスケはもうやるなって。顧問にそれを伝えて、その日のうちにオレは自主退部した」
「――自主……退部」
「嘘ついて悪かったな。でも、もう時間が無いんだ、オレには――いや、夏澄には」
………………。
「――え?」
「この前の勉強会、あの時の電話相手は夏澄の担当医だった。夏澄にはまだ告げられていないみたいだが、先生から告げられた時、オレはびっくりしたよ――『夏澄の余命は長くても今年の夏までだろう』って言われたんだからな」
「夏までって――! 嘘……だろ?」
「夏澄ちゃん……」
「オレだって最初は耳を疑ったさ。でも、あいつの心臓は毎年毎年弱っていった。これは事実だ。疑いのない事実。だからオレは決めたんだ――今年こそは優勝旗を手に入れて……夏澄の……夏澄の夢を代わりに叶えて…………最後の夏を……過ごして欲しいって――」
俺は、俺達は何も言えなかった。いや、俺達が介入できる次元をはるかに超えていたからだ。鎌田の決意、覚悟を、軽々しく止めろだなんて、俺に言う資格はない。ただ、その場で鎌田の話を聞くので精一杯だった。
「ひでぇもんだよ神様なんてやつは……夏澄から両親と夢を奪って、今度は命まで奪おうとしている。先生は『生きていたのは奇跡』だと言っていたが、そんなものあるわけねぇ。起きねえんだよ、奇跡なんてものは――あるのは結果、そこにある残酷な現実だけだ」
「でも――」
「でもじゃねえんだ。夏澄はいつか死ぬ。それが春か夏かはわからねえ。もしかしたら秋まで生きれるかもしれないし、冬まで生きてくれるかもしれねえ。だが、それでも、夏澄がこの世を去る日は近いんだ。一秒たりとも無駄にできない。オレは今から学校で練習を再開する。今度こそ、絶対に優勝を掴むんだ。成生――悪友としての一生の願いだ。インターハイまで俺に構うのはやめてくれ。それと、また夏澄が遊びに来ちまうことがあるかもしれない。その時は話相手をしてやってくれないか? 早苗ちゃんも、お願いだ」
鎌田は深々と頭を下げる。その姿勢から心の底からそう願っていることを汲み取れた。
「鎌田君……」
「――わかった……」
「助かるぜ―成生、早苗ちゃん。さ、家に戻ろう、オレは部活の道具を揃えたら学校に行くが、たぶん夏澄のことだ。今日は一泊していくつもりだろう。時間の許す限り一緒にいてあげてくれ」
………………。
十分後。俺達は、鎌田の家にいた。俺と泉は一足先に鎌田の部屋に戻り、勉強を再開する。しばらくして、鎌田は準備を済ませて部屋に戻り、俺達の夏澄ちゃんの寝顔を見て悲しそうに頬を優しく抓った。
「行ってくるぞ。絶対におにいちゃんが優勝旗持ち帰ってやるからな」
「お兄……ちゃん――おめ……でとう……」
「……ッ」
夏澄ちゃんの寝言を聞いて鎌田は部屋を足早に去った。ただ、俺には、あいつが振り向いた瞬間――光る結晶が流れたようにも見えた。
………………。
時は過ぎる――無常だ。俺達が勉強している間、夏澄ちゃんが寝ている間、鎌田が練習に行っている間も、時間はその流れを一刻も止めることなく流れ続ける。生物には寿命がある――人それぞれに与えられた時間。だが、それは均等ではない。流れる時間は一定なのに対し生命が存在できる時間は一定ではない――不平等な世界だ。
夏澄ちゃんはまだこのことを知らない。一生懸命に生きている。なら、俺達がしてあげられることはあるのだろうか――。
一時間が過ぎた頃、夏澄ちゃんはゆっくりと目を覚ました。外は暗く、月が上り、宵の空を照らしていた。




