004
その日は、少し吹雪いてる天気だった。勿論、こんな天気の中外に出歩きたいと思う酔狂な人間はいないが、俺は出歩かなければならなかった。追試課題、それを提出するためだ。鎌田ほどの量ではないが、俺にも数個ほど、課題が渡されていた。今日はそれを職員室にいる教科の担当教師に提出するのだ。背に腹は代えられない。俺は、勉強会のあとも自宅で音楽を聴きながら課題を進めていた。
鎌田とは、あれ以来遊んでいない。携帯で連絡を取っても、今日は用事があると言ってその日の会話はそれで終わる。
そんな会話が今日で四日目だ。
あいつが今何を思ってどうしているのか、それすらわからない。どことなく聞きづらいのだ。
十分後。
猛烈に強い風を受けながら、俺は学校に到着する。昇降口で内履きに履き替えると、職員室の方へ向かう。廊下は誰の姿もなく、とても静かだった。いつもなら賑わってる校舎も、長期休みになれば寂れた大きい建物に過ぎない。風が窓に吹き付ける音、冷気。そんなものと数分の間戯れ、職員室へと着いた。
「――失礼します」
「おう、成生か。時間通りだな」
飲みかけのコーヒーが倒れないように、新聞紙をそっと置くと、数学の教師が立ちあがる。
「追試課題はきちんとやったか?」
「はい、一応ちゃんとやったつもりっすけど」
俺は渡された追試課題を数学の教師に渡す。
「ほう、ふむふむ」
これがいかにも数学の教師といった人で、眼鏡を頭の上に乗せてじっくりと課題を見つめている。時々、相槌を打ちながら一枚、また一枚と課題を眺め採点する。
二十秒後。
「よし、合格だ。この調子でしっかり勉強すればもっといい得点取れるんだから頑張れよ。入試の時の数学は上から数えて三位だったらしいじゃないか」
「あ、あはは、そうだったんすか、きっとまぐれっすよ」
きっとそれはかごめのおかげであって、俺の実力とは言えない気がする。
「他の教科の追試課題があれば渡しておくぞ。この時期は寒いし何度も学校に来るのは面倒だろう」
「いえ、実は数学の課題しか持ってきてなくて、それに、自分で渡さないと誠意が伝わらないというか……」
「がはは、誠意か――ならちゃんと勉強して単位は取っておくんだな」
………………。
その通りだった。ぐうの音も出ないとはまさにこのこと。
「そうだ。バンドの件はどうだ? メンバーは集まったか?」
「そうですね……まだ、キーボードとベースがいないですね」
「なるほど、最低でもあと二人は欲しいな。ドラムは誰がやるんだ?」
「鎌田がやってくれるみたいなんで誘っておきました」
「鎌田か。いいじゃないか、やはりお前達はいいコンビだな。ぜひとも創立祭で魅せてほしいものだよ」
「素人なんであんまりいい演奏はできないと思いますけどやれることはやっときますよ」
「そうだな。メンバーが集まったら先生にちゃんと報告するんだぞ」
俺は、数学の課題を提出すると、職員室を後にした。
再び冷える世界。職員室とは違い、無機質な光景と雪風。窓の揺れる廊下を進み、昇降口に向かおうとすると、何やら声が聞こえてきた。声の主は、運動部――体育館の方からだった。特に何かを思い立ったわけではないが、俺の足は体育館へと吸い込まれていった。
体育館のドアは換気の為か、大体いつも空いている。俺はそこから少し顔を出して中の様子を見た。
――男子バスケ部。そこにいたのは男子バスケ部だった。俺がまだ現役だった去年のインターハイの頃に比べて、確かにバスケ部は衰退していた。シュート、パス、ドリブル、どれも当時からは考えられないくらいにだ。
「おい、やる気あんのか! こんなんじゃ、インターハイなんか夢のまた夢だぞ」
聞いたことのある声。馴染みのある声が体育館中に響き渡っていた。
「鎌田――?」
「おいそこ、もっと声出せ。気迫で負けたらどこにも勝てねえぞ」
『はい!』
男子バスケ部は大きな声で返事をする。
「いいか、まずは基本を思い出せ。シュート、パス、ドリブル、この中で今自分に必要なものをよく考えて練習するんだ。フリースローは絶対外すな。パスは強く、そして速く。ドリブルは利き手じゃない方のハンドリングを中心に練習するんだ」
『はい!』
「まずはこの一時間、各々に必要なもの、足りないものを練習するように、以上!」
何故だ。鎌田は確か去年に強制退部させられたはず。
理解が追い付かない。
鎌田は顧問に何かを言い伝えると、振り返ってこちらに向かってくる。水でも飲みにきたのかはわからないが、俺はひとまず物陰に身を潜めることにした。
水道の蛇口を捻る音。水が流れる音が鼓膜を刺激する。
「――ぷはっ」
首にかけていたタオルで顔全体を拭くと、鎌田は鏡越しにこちらを睨み付ける。
「出て来いよ、いんだろ?」
………………。
「相変わらずえぐい視野だな」
「――何の用だ」
「いや、特に大した用があるわけじゃなくて、課題を出したら声が聞こえてきてな、ちょっと覗いてたってわけだ――ってんなことより鎌田、いつの間にバスケ部に復帰したんだよ」
「……お前には関係ない。何も用事がないならオレは練習に戻るぞ」
「待てよ、強制退部させられたんじゃなかったのかよ」
「…………」
「何があった。ついこの間までは普通だったじゃないか」
「言ったはずだ。成生には関係ない。オレはこのチームでインターハイに出場し、優勝する――それだけだ」
「それだけってお前――一年もブランクあってインターハイ優勝だと? いくらお前がバスケの才能があっても、さすがに半年じゃ無理だ」
「――無理じゃない! そんなくだらないことを言いに来たのか」
「何を急いでるんだ。らしくないぞ」
「――ッ!」
「なぁ、教えてくれ、何があった」
「……れ」
「え?」
「黙れ黙れ黙れ、オレには時間が無いんだ。この会話をしている一秒も惜しい――オレは行く」
「おい、鎌田――」
「……一つ言い忘れていた。オレはもうあの生活には戻らない――お前との関係もこれで終わりかもな」
そう言い残して、鎌田は体育館へと戻っていった。バスケットボールの音が虚しく響く体育館へ。
それからは、あっという間だった。他の教科の追試課題で何度か学校に行ったが、鎌田はバスケをしていた。何かに急ぎながら。
冬休みは空け、実力テストが近づいていた。しかし、俺は相変わらずだった。何も変わってない。毎日を怠惰に過ごし勉強道具は学校の机に置きっぱなし。何の代わり映えのない日常を送っていた。鎌田は変わっていた。学校はサボらずに毎日来ているし、授業中も寝ずに受けいている。俺だけ取り残されている、そんな風にも感じた。事実、あれ以来鎌田とは一言も口を聞いていないし、あいつもそれを望んでいるようだった。
それから他の教科の追試課題を提出するために何度か学校へ行ったが、鎌田は変わらずバスケをしていた。
空き教室でギターを触っていても、鎌田が来ることはない。俺はまた……一人になった。本当ならこの教室に、かごめと鎌田がいる、はずだった……。
「あれ、成生君ですか?」
「泉か? どうしてこんなところにいるんだ? 今は冬休み期間なのに」
「私、休み明けの実力テストに向けて冬期講習に参加してますのでこうして学校にきて勉強してるんです」
「泉は真面目だな。俺なんか教科書の半分以上が机の中に眠っているというのに」
「あれ? 今日は鎌田君とは一緒じゃないんですか?」
「……ああ、あの時の勉強会以来、ちょっとな」
「鎌田君と何かあったんですか?」
「まあ色々あってな」
「色々……ですか?」
「鎌田のやつがいつの間にかバスケ部に復帰してたんだ」
「そう、なんですか?」
「あいつがどうしてあんなに急いでるのかもわからんしな」
「急いでる――ですか」
「きっとあの時の勉強会、あの電話の後にああなったのは確かだ」
「でも、私たちに何かできることはあるのでしょうか」
「正直わからないな。でも、今はそれよりも来週の実力テストだ。テストが落ち着いたら考えよう」
「そう……ですね」
「とりあえず、土日は勉強三昧か……先が思いやられる」
「そう言って成生君、ちゃんと勉強してるんですか?」
「あ、ああ――ちゃんとしてるヨ」
ジッと見つめる泉、俺は靴を履き替えて昇降口を抜ける。
「あ、待ってください」
少し慌てながら昇降口を走る泉。
「も、問題です」
「――は?」
「生類憐みの令を出した将軍は誰だかわかりますか?」
「徳川家、家……家」
「綱吉です……では、徳川幕府五代目将軍は?」
「えっと、家……家み、いや、家の――」
「綱吉です……」
「二回連続同じやつはせこいぞ! しかもどっちも家が付かないし!」
「今回の実力テスト――来年の受験に向けてある程度のクラス分けが決まるそうなのでしっかり勉強しておいた方がいいのではないでしょうか」
「ちゃんと、してるさ……ちゃんと」
「……あ、よろしければ学校で勉強会しませんか? 結構集中できますよ」
「テスト前に教室が解放されるあれか? ちょっと敷居が高い気もするが」
言われるがまま、というか、このままだと本当に三年次に響くと思った俺は、渋々その誘いを受けることにした。
帰路――俺は泉と別れると家に到着した。俺の嫌いな場所、嫌いなものが住み着く巣窟。唇を噛みしめ、ドアを開ける。間もなくリビングから声が聞こえる。
「あら悠ちゃんかしら、お帰りなさい」
「おう、もうそんな時間か」
聞き馴染みのある声、親父の声だった。だが、そんなものに耳を傾けるわけでもなく俺は階段を上る。今日は姉も友人と飲みに行くようなので、静かな空間に浸ることが出来る。冷えた家庭で育った俺には、今更あんなものを受け入れることなんてできない。
憎い。
考えただけで胸の奥底が沸騰するように沸々とマグマが煮えたぎってくる。今にも噴火してしまいそうなほどに。俺はベッドに倒れ込むと、数日後のことを考えていた。
「実力テスト……か」
それに、不安要素はそれだけじゃない。鎌田、あいつの変わりようも普通じゃない。約一年、あいつと行動を共にしてきたが、何をしたって三日坊主で終わるような奴がバスケ部に復帰、いったい何を考えているんだあいつは。
「……はぁ」
溜め息を付くなんて俺らしくもない。窓から見える景色は至って普通の冬の世界。そんな無機質な景色を眺めているうちに、俺は眠りについた。
………………。
気が付けば、朝日が流れ込んでいた。どうやら夜飯も、風呂も済ませずに眠っていたようだ。確か今日は泉と勉強会の約束をしていたはずだ。重い頭を上げて改めて冬の厳しさを知る。
「――寒っ!」
それもそうだ、こんな真冬にエアコンはおろか、布団も掛けずに寝ていたのだから。身震いする体を抑えながら俺は風呂場に直行した。
十分後。凍えた体を温め、学校へ行く準備をする。朝食は基本的にラップに包まれており、前日に作られている。父親は既に出勤おり、母親と姉はまだ眠っている。手短に朝食を済ませると、カバンを片手に家を抜け出した。
一月ともなると積雪が増え、少しずつ歩きにくくなる。特に、山間にあるこの町ではそれが顕著にあらわれる。朝の四時くらいには除雪車が周辺を除雪しに回っているし朝の六時くらいなれば住人が雪かきのために起き始める。
凍える空気に耐えながら学校に到着すると、校門の前で泉が待っていた。
「泉、わざわざこんなところで待ってなくてもいいのに」
俺は、足早に泉のところへ向かう。
「成生君おはようございます。私も今着いたばかりなので気になさらないでください」
「それにしても寒そうな格好だな」
「格好、ですか? 制服ですけど」
「いやな、この季節にスカートはさすがに凍傷になるだろと思ってよ」
「確かに寒いですけど、それを言うなら成生君だって夏でも長ズボンだから熱中症になりそうです」
「あ、それもそうか」
「結局制服は一長一短なんじゃないんでしょうか」
なぜか食い気味に迫ってくる泉。ズボンとスカートだからってなんか上手いこと言っているつもりなのかなのだろうか。
「そ、そういや教室ってどこだったっけ。俺わからんから案内してくれよ」
俺は泉の後ろについて行き教室へと向かっていた。すると、見かけない制服姿の少女が一人、廊下であたふたしながら左右を確認している。
「迷子、でしょうか」
「ああ、たぶんそうだろう」
「私、ちょっと訊いてきますね」
そう言って、泉は少女に尋ねる。
「どうしたの? 道にでも迷った?」
「あ、すみません、実は今学校見学をしてまして、最後に体育館を見ようと思ってたんですけど」
「体育館ですか――それじゃ私たちが体育館まで案内してあげますよ」
「本当ですか⁉ ありがとうございます」
泉は今まで歩いていた方向とは真逆に歩き始める。
「おいおい、どうせ体育館なんて行ってもバスケ部が練習に使ってるだろ」
「バスケ部――いるんですか⁉」
「ん? あ、ああ、たぶん今日も練習なんじゃないかな」
「やっと……おにいちゃんに会える――」
「おにいちゃん? この学校に兄貴でもいるのか」
「本当のおにいちゃんじゃないんですけど、それくらい慕っている方がいるんです。バスケが上手で優しくて、カッコ良くて……今日久しぶりに会うんです。最後に会ったのは一年以上も前で、悔しそうに涙を流してましたけどね」
一年前。きっとインターハイの時だろう。準優勝なんて経験、俺からすれば凄い誇らしいことだったが――冷えた廊下を――体育館に続く廊下を進む。
「(なあ泉、この子どこかで見覚えないか?)」
「(そうですね、私もどこかで見たことがあるような気はするんですが)」
「どうかしました?」
「いや、なんでもないんだ。ほら、もうすぐ体育館に着くぞ」
体育館に近づけば近づくほど、声が聞こえてくる。練習をしている声だ。
「おにいちゃんの声――」
少女は突如走り出す。俺達は後を追うように体育館へと向かう。
体育館では、男子バスケ部が練習をしていた。どうやら今はシュート練習を行っているようだった。勿論、あいつも――
「――ッ!」
鎌田は俺達に気づくと、顧問に何か話をしてこちらに向かってきた。
………………。
「どういうことだ、どうしてお前たちが夏澄といる」
「夏澄? この子のことか?」
「おにいちゃん、久しぶり――だね」
少女は鎌田に抱き着く。
「夏澄――どうやってここに来た。ちゃんと先生に許可は取ったのか?」
「え――う、うん……取った、よ……」
「――馬鹿ッ!!」
鎌田は怒り声を上げた、体育館に響き渡るくらい大声を張り上げて。部員は何事かと、練習の手をやめてこちらを向く
――静寂。静かな体育館の手前で、少女は怯えながら、足を震わせながら鎌田の腰にしがみつく。
顧問が手を叩いて「練習を再開しろ」と言うと、場は再びいつもの体育館の音になった。
「許可取ってないなら来るんじゃない。先生に怒られんのはオレなんだぞ」
「おい鎌田、先生の許可取ってないからっていくら何でも言いすぎじゃないか?」
「成生は黙ってろ。夏澄、さっさと帰れ――ここは、お前のいる場所じゃないッ……!!」
「――鎌田、いい加減にしろよ。この子はお前に会いたくてこんなところまで来たんじゃないのかよ。一年ぶりに会うのが楽しみだって――一年ぶりにあった子に対する態度がこれか!!」
俺は鎌田の胸倉を掴む。
「成生君――!」
泉は感情的になった俺と鎌田の間に入って俺の手を引き離す。
「暴力は――駄目です。何も生みません!」
「――成生」
「な、なんだよ」
鎌田は無言で鍵を俺に渡す。見覚えがある鍵、鎌田の家の鍵だった。
「悪いが、夏澄をオレの家に連れていってくれないか。お前も学校で勉強するより暖房の効いた家の方が勉強が捗るだろ。それと夏澄――先生にはオレから伝えとくが、次同じ事したら、許さないからな」
「はい……」
「オレは練習に戻る。夕方前には戻るだろうからそれまで夏澄の面倒を頼む――成生、早苗ちゃん」
鎌田は振り返り練習へと戻っていった。
「行こうか夏澄ちゃん――鎌田の家に行こう」
「――ぐすっ……うぅっー……はい……」
俺は泉、夏澄ちゃんを連れて、鎌田の指示が飛び交う体育館を後にした。バスケットボールが弾む音が響く体育館を。
………………。
鎌田の家。来るのは二週間ぶりくらいだが、部屋は驚くほどに片付いていた。いつもなら漫画が転がっていたのに、綺麗に整頓され、テーブルには教科書が積みあがっていた。
あいつらしさなんて微塵も感じない程に。
「大丈夫だったか夏澄ちゃん。ごめんな、あいつ最近調子が悪くてな」
「いえ、大丈夫です。わたしも無断でここまで来ちゃったんですから――それよりも、お二人はおにいちゃんとお友達なんですか?」
「ああ、まだ名乗ってなかったな。俺は成生悠真、鎌田とは去年からの付き合いだ」
「私は泉早苗です。成生君ほどではありませんが、私も最近仲良くさせてもらってます」
「成生さんに、泉さんですか。わたしは老野森夏澄です。今は中三で、今年この学校に入学しようと考えてます」
「なあ夏澄ちゃん、鎌田とは、その――どういった関係なんだ?」
沈黙。時計の秒針だけが音を立てる。




