003
その日は、少し吹雪いてる天気だった。勿論、こんな天気の中外に出歩きたいと思う酔狂な人間はいないが、俺は出歩かなければならなかった。追試課題、それを提出するためだ。鎌田ほどの量ではないが、俺にも数個ほど、課題が渡されていた。今日はそれを職員室にいる教科の担当教師に提出するのだ。背に腹は代えられない。俺は、勉強会のあとも自宅で音楽を聴きながら課題を進めていた。
鎌田とは、あれ以来遊んでいない。携帯で連絡を取っても、今日は用事があると言ってその日の会話はそれで終わる。
そんな会話が今日で四日目だ。
あいつが今何を思ってどうしているのか、それすらわからない。どことなく聞きづらいのだ。
十分後。
猛烈に強い風を受けながら、俺は学校に到着する。昇降口で内履きに履き替えると、職員室の方へ向かう。廊下は誰の姿もなく、とても静かだった。いつもなら賑わってる校舎も、長期休みになれば寂れた大きい建物に過ぎない。風が窓に吹き付ける音、冷気。そんなものと数分の間戯れ、職員室へと着いた。
「――失礼します」
「おう、成生か。時間通りだな」
飲みかけのコーヒーが倒れないように、新聞紙をそっと置くと、数学の教師が立ちあがる。
「追試課題はきちんとやったか?」
「はい、一応ちゃんとやったつもりっすけど」
俺は渡された追試課題を数学の教師に渡す。
「ほう、ふむふむ」
これがいかにも数学の教師といった人で、眼鏡を頭の上に乗せてじっくりと課題を見つめている。時々、相槌を打ちながら一枚、また一枚と課題を眺め採点する。
二十秒後。
「よし、合格だ。この調子でしっかり勉強すればもっといい得点取れるんだから頑張れよ。入試の時の数学は上から数えて三位だったらしいじゃないか」
「あ、あはは、そうだったんすか、きっとまぐれっすよ」
きっとそれはかごめのおかげであって、俺の実力とは言えない気がする。
「他の教科の追試課題があれば渡しておくぞ。この時期は寒いし何度も学校に来るのは面倒だろう」
「いえ、実は数学の課題しか持ってきてなくて、それに、自分で渡さないと誠意が伝わらないというか……」
「がはは、誠意か――ならちゃんと勉強して単位は取っておくんだな」
………………。
その通りだった。ぐうの音も出ないとはまさにこのこと。
俺は、数学の課題を提出すると、職員室を後にした。
再び冷える世界。職員室とは違い、無機質な光景と雪風。窓の揺れる廊下を進み、昇降口に向かおうとすると、何やら声が聞こえてきた。声の主は、運動部――体育館の方からだった。特に何かを思い立ったわけではないが、俺の足は体育館へと吸い込まれていった。
体育館のドアは換気の為か、大体いつも空いている。俺はそこから少し顔を出して中の様子を見た。
――男子バスケ部。そこにいたのは男子バスケ部だった。俺がまだ現役だった去年のインターハイの頃に比べて、確かにバスケ部は衰退していた。シュート、パス、ドリブル、どれも当時からは考えられないくらいにだ。
「おい、やる気あんのか! こんなんじゃ、インターハイなんか夢のまた夢だぞ」
聞いたことのある声。馴染みのある声が体育館中に響き渡っていた。
「鎌田――?」
「おいそこ、もっと声出せ。気迫で負けたらどこにも勝てねえぞ」
『はい!』
男子バスケ部は大きな声で返事をする。
「いいか、まずは基本を思い出せ。シュート、パス、ドリブル、この中で今自分に必要なものをよく考えて練習するんだ。フリースローは絶対外すな。パスは強く、そして速く。ドリブルは利き手じゃない方のハンドリングを中心に練習するんだ」
『はい!』
「まずはこの一時間、各々に必要なもの、足りないものを練習するように、以上!」
何故だ。鎌田は確か去年に強制退部させられたはず。
理解が追い付かない。
鎌田は顧問に何かを言い伝えると、振り返ってこちらに向かってくる。水でも飲みにきたのかはわからないが、俺はひとまず物陰に身を潜めることにした。
水道の蛇口を捻る音。水が流れる音が鼓膜を刺激する。
「――ぷはっ」
首にかけていたタオルで顔全体を拭くと、鎌田は鏡越しにこちらを睨み付ける。
「出て来いよ、いんだろ?」
………………。
「相変わらずえぐい視野だな」
「――何の用だ」
「いや、特に大した用があるわけじゃなくて、課題を出したら声が聞こえてきてな、ちょっと覗いてたってわけだ――ってんなことより鎌田、いつの間にバスケ部に復帰したんだよ」
「……お前には関係ない。何も用事がないならオレは練習に戻るぞ」
「待てよ、強制退部させられたんじゃなかったのかよ」
「………………」
「何があった。ついこの間までは普通だったじゃないか」
「言ったはずだ。成生には関係ない。オレはこのチームでインターハイに出場し、優勝する――それだけだ」
「それだけってお前――一年もブランクあってインターハイ優勝だと? いくらお前がバスケの才能があっても、さすがに半年じゃ無理だ」
「――無理じゃない! そんなくだらないことを言いに来たのか」
「何を急いでるんだ。らしくないぞ」
「――ッ!」
「なぁ、教えてくれ、何があった」
「……れ」
「え?」
「黙れ黙れ黙れ、オレには時間が無いんだ。この会話をしている一秒も惜しい――オレは行く」
「おい、鎌田――」
「……一つ言い忘れていた。オレはもうあの生活には戻らない――お前との関係もこれで終わりかもな」
そう言い残して、鎌田は体育館へと戻っていった。バスケットボールの音が虚しく響く体育館へ。
それからは、あっという間だった。他の教科の追試課題で何度か学校に行ったが、鎌田はバスケをしていた。何かに急ぎながら。
冬休みは空け、実力テストが近づいていた。しかし、俺は相変わらずだった。何も変わってない。毎日を怠惰に過ごし勉強道具は学校の机に置きっぱなし。何の代わり映えのない日常を送っていた。鎌田は変わっていた。学校はサボらずに毎日来ているし、授業中も寝ずに受けいている。俺だけ取り残されている、そんな風にも感じた。事実、あれ以来鎌田とは一言も口を聞いていないし、あいつもそれを望んでいるようだった。
授業が終わり、放課後になると鎌田は一番に教室を出る。体育館へ向かったのだ。
「成生くん、最近鎌田くんおかしくないですか?」
「まぁ、そうだな」
俺は泉と教室を出ると、昇降口に向かって歩き始める。
「あいつ、どうも急いでるように見えるんだよな」
「急いでる――ですか」
「きっとあの時の勉強会、あの電話の後にああなったのは確かだ」
「でも、私たちに何かできることはあるのでしょうか」
「正直わからないな。でも、今はそれよりも来週の実力テストだ。テストが落ち着いたら考えよう」
「そう……ですね」
「とりあえず、土日は勉強三昧か……先が思いやられる」
「そう言って成生くん、ちゃんと勉強してるんですか?」
「あ、ああ――ちゃんとしてるヨ」
ジッと見つめる泉、俺は靴を履き替えて昇降口を抜ける。
「あ、待ってください」
少し慌てながら昇降口を走る泉。
「も、問題です」
「――は?」
「生類憐みの令を出した将軍は誰だかわかりますか?」
「徳川家、家……家」
「綱吉です……では、徳川幕府五代目将軍は?」
「えっと、家……家み、いや、家の――」
「綱吉です……」
「二回連続同じやつはせこいぞ! しかもどっちも家が付かないし!」
「今回の実力テスト――来年の受験に向けてある程度のクラス分けが決まるそうなのでしっかり勉強しておいた方がいいのではないでしょうか」
「ちゃんと、してるさ……ちゃんと」
「……あ、よろしければ学校で勉強会しませんか? 結構集中できますよ」
「テスト前に教室が解放されるあれか? ちょっと敷居が高い気もするが」
言われるがまま、というか、このままだと本当に三年次に響くと思った俺は、渋々その誘いを受けることにした。
帰路――俺は泉と別れると家に到着した。俺の嫌いな場所、嫌いなものが住み着く巣窟。唇を噛みしめ、ドアを開ける。間もなくリビングから声が聞こえる。
「あら悠ちゃんかしら、お帰りなさい」
「おう、もうそんな時間か」
聞き馴染みのある声、親父の声だった。だが、そんなものに耳を傾けるわけでもなく俺は階段を上る。今日は姉も友人と飲みに行くようなので、静かな空間に浸ることが出来る。冷えた家庭で育った俺には、今更あんなものを受け入れることなんてできない。
憎い。
考えただけで胸の奥底が沸騰するように沸々とマグマが煮えたぎってくる。今にも噴火してしまいそうなほどに。俺はベッドに倒れ込むと、数日後のことを考えていた。
「実力テスト……か」
それに、不安要素はそれだけじゃない。鎌田、あいつの変わりようも普通じゃない。約一年、あいつと行動を共にしてきたが、何をしたって三日坊主で終わるような奴がバスケ部に復帰、いったい何を考えているんだあいつは。
「……はぁ」
溜め息を付くなんて俺らしくもない。窓から見える景色は至って普通の冬の世界。そんな無機質な景色を眺めているうちに、俺は眠りについた。
………………。
気が付けば、朝日が流れ込んでいた。どうやら夜飯も、風呂も済ませずに眠っていたようだ。確か今日は泉と勉強会の約束をしていたはずだ。重い頭を上げて改めて冬の厳しさを知る。
「――寒っ!」
それもそうだ、こんな真冬にエアコンはおろか、布団も掛けずに寝ていたのだから。身震いする体を抑えながら俺は風呂場に直行した。
十分後。凍えた体を温め、学校へ行く準備をする。朝食は基本的にラップに包まれており、前日に作られている。父親は既に出勤おり、母親と姉はまだ眠っている。手短に朝食を済ませると、カバンを片手に家を抜け出した。
一月ともなると積雪が増え、少しずつ歩きにくくなる。特に、山間にあるこの町ではそれが顕著にあらわれる。朝の四時くらいには除雪車が周辺を除雪しに回っているし朝の六時くらいなれば住人が雪かきのために起き始める。
凍える空気に耐えながら学校に到着すると、校門の前で泉が待っていた。
「泉、わざわざこんなところで待ってなくてもいいのに」
俺は、足早に泉のところへ向かう。
「あ、成生くんおはようございます。私も今着いたばかりなので気になさらないでください」
「それにしても寒そうな格好だな」
「格好、ですか? 制服ですけど」
「いやな、この季節にスカートはさすがに凍傷になるだろと思ってよ」
「確かに寒いですけど、それを言うなら成生くんだって夏でも長ズボンだから熱中症になりそうです」
「あ、それもそうか」
「結局制服は一長一短なんじゃないんでしょうか」
なぜか食い気味に迫ってくる泉。ズボンとスカートだからってなんか上手いこと言っているつもりなのかなのだろうか。
「そ、そういや教室ってどこだったっけ。俺わからんから案内してくれよ」
俺は泉の後ろについて行き教室へと向かっていた。すると、私服姿の少女が一人、廊下であたふたしながら左右を確認している。
「迷子、でしょうか」
「ああ、たぶんそうだろう」
「私、ちょっと訊いてきますね」
そう言って、泉は少女に尋ねる。
「どうしたの? 道にでも迷った?」
「あ、すみません、実は今学校見学をしてまして、最後に体育館を見ようと思ってたんですけど」
「体育館ですか――それじゃ私たちが体育館まで案内してあげますよ」
「本当ですか⁉ ありがとうございます」
泉は今まで歩いていた方向とは真逆に歩き始める。
「おいおい、どうせ体育館なんて行ってもバスケ部が練習に使ってるだろ」
「バスケ部――いるんですか⁉」
「ん? あ、ああ、たぶん今日も練習なんじゃないかな」
「やっと……お兄ちゃんに会える――」
「お兄ちゃん? この学校に兄貴でもいるのか」
「本当のお兄ちゃんじゃないんですけど、それくらい慕っている方がいるんです。バスケが上手で優しくて、カッコ良くて……今日久しぶりに会うんです。最後に会ったのは一年以上も前で、悔しそうに涙を流してましたけどね」
一年前。きっとインターハイの時だろう。準優勝なんて経験、俺からすれば凄い誇らしいことだったが――。冷えた廊下を――体育館に続く廊下を進む。体育館に近づけば近づくほど、声が聞こえてくる。練習をしている声だ。
「お兄ちゃんの声――」
少女は突如走り出す。俺達は後を追うように体育館へと向かう。
体育館では、男子バスケ部が練習をしていた。どうやら今はシュート練習を行っているようだった。勿論、あいつも――
「――ッ!」
鎌田は俺達に気づくと、顧問に何か話をしてこちらに向かってきた。
………………。
「どういうことだ、どうしてお前たちが夏澄といる」
「夏澄? この子のことか?」
「お兄ちゃん、久しぶり――だね」
少女は鎌田に抱き着く。
「夏澄――どうやってここに来た。ちゃんと先生に許可は取ったのか?」
「え――う、うん……取った、よ……」
「――馬鹿野郎‼」
鎌田は怒り声を上げた、体育館に響き渡るくらい大声を張り上げて。部員は何事かと、練習の手をやめてこちらを向く
――静寂。静かな体育館の手前で、少女は怯えながら、足を震わせながら鎌田の腰にしがみつく。
顧問が手を叩いて「練習を再開しろ」と言うと、場は再びいつもの体育館の音になった。
「許可取ってないなら来るんじゃない。先生に怒られんのはオレなんだぞ」
「おい鎌田、先生の許可取ってないからっていくら何でも言いすぎじゃないか?」
「成生は黙ってろ。夏澄、さっさと帰れ――ここはお前のいる場所じゃない」
「ッ―――」
「鎌田、いい加減にしろよ。この子はお前に会いたくてこんなところまで来たんじゃないのかよ。一年ぶりに会うのが楽しみだって――一年ぶりにあった子に対する態度がこれか‼」
俺は鎌田の胸倉を掴む。
「成生くん――!」
泉は感情的になった俺と鎌田の間に入って俺の手を引き離す。
「暴力は――駄目です。何も生みません!」
「――成生」
「な、なんだよ」
鎌田は無言で鍵を俺に渡す。見覚えがある鍵、鎌田の家の鍵だった。
「悪いが、夏澄をオレの家に連れていってくれないか。お前も学校で勉強するより暖房の効いた家の方が勉強が捗るだろ。それと夏澄――先生にはオレから伝えとくが、次同じ事したら、許さないからな」
「はい……」
「オレは練習に戻る。夕方前には戻るだろうからそれまで夏澄の面倒を頼む――成生、早苗ちゃん」
鎌田は振り返り練習へと戻っていった。
「行こうか夏澄ちゃんだったっけ――鎌田の家に行こう」
「――ぐすっ……は、はい……」
俺は泉、夏澄ちゃんを連れて、鎌田の指示が飛び交う体育館を後にした。バスケットボールが弾む音が響く体育館を。
………………。
鎌田の家。来るのは二週間ぶりくらいだが、部屋は驚くほどに片付いていた。いつもなら漫画が最低でも一冊以上が転がっていたのに、今は綺麗に整頓され、テーブルには教科書が積みあがっていた。
あいつらしさなんて微塵も感じない程に。
「大丈夫だったか夏澄ちゃん。ごめんな、あいつ最近調子が悪くてな」
「いえ、大丈夫です。私も無断でここまで来ちゃったんですから――それよりも、お二人はお兄ちゃんとお友達ですか?」
「ああ、まだ名乗ってなかったな。俺は成生悠真、鎌田とは去年からの付き合いでまあ、なんやかんや悪友みたいな感じだな」
「私は泉早苗です。成生くんほどではありませんが、私も最近仲良くさせてもらってます」
「成生さんに、泉さんですか。私は老野森夏澄です。今は中三で、今年この学校に入学しようと考えてます」
「なあ夏澄ちゃん、鎌田とは、その――どういった関係なんだ?」
沈黙。時計の秒針だけが音を立てる。
「――お兄ちゃんと出会ったのは、私がまだ五歳くらいの時でした。私のお父さんと、お兄ちゃんのお父さんが幼馴染みでよくここのキャンプ場で遊んでいました。体の弱い私は車から出ようとしませんでしたが、そんな時、お兄ちゃんがバスケットボールを持って私のところに来たんです――『一緒にバスケやろうぜ!』って。その日、私は初めてバスケットボールに触れて運動の楽しさを知りました。殻の中に閉じ籠もっていた私を引っ張り出してくれたんです。お兄ちゃんには恥ずかしくて言えなかったけれど、私は将来、バスケ選手になろうと思ってたんです。でも、小学二年生の時、私は事故に遭いました。いつも通りキャンプ場に向かっていた日でした――私の乗っていた車に落石がぶつかって……ガードレールを突き破って――谷底に落ちました。私は運よく助かったんですが、両親は二人とも亡くなりました。医者の先生が言うには助かったのは奇跡だそうです。私は長い昏睡状態と引き換えに生還したんです。もちろん、バスケなんてものはできる体ではなくなりました。落下の衝撃で心臓に大きなダメージが残り、運動をすれば胸が痛くなるんです。無理をすれば、命に関わると先生に言われました。私は生きる意味を失い絶望しました。大好きな両親を亡くし、バスケ選手になる夢を奪われ、四角い部屋の中で何度も死のうと考えていました。そんな時、お兄ちゃんとその家族が私の病室を訪れたんです。私はお兄ちゃんに本音を伝えました。『この世界に私の生きる意味は無い』って、『死にたい』って、懇願しました。お兄ちゃんは泣きながら私の頬に平手打ちしました。『夏澄の父ちゃんと母ちゃんは車からお前を連れ出して亡くなったんだ。痛みに耐えながら、二人の希望を夏澄に託したんだ。優しくてカッコ良かった夏澄の父ちゃん、料理上手でおしゃべりな夏澄の母ちゃん……絶対に夏澄を死なせない。夏澄の代わりに、オレが――全国で一番になって優勝旗を届けてやる――このバスケットボールに誓う。だから、生きろ‼』」
………………。
「それからはおじいちゃんとおばあちゃんの家に居候させてもらって――これが、私とお兄ちゃんの関係です。まあ、先程も見ていた通り、今では嫌われてるようですが……」
少女にはあまりにも残酷な運命。一人の少女が背負うにはあまりにも過酷すぎるものだった。
「夏澄ちゃん……」
そうか、だからあの時鎌田はインターハイ優勝すると言っていたのか。
「夏澄ちゃん、あいつは夏澄ちゃんのことを嫌いだなんて思っていないさ。今でもインターハイ優勝を目指して頑張っている。夏澄ちゃんのためにな」
「そう……でしょうか」
「はい、鎌田くんは根は優しい人ですから夏澄ちゃんのような可愛い子を卑下するような人ではないです」
「……ありがとうございます。お二人とも優しいんですね。どうか、これからもお兄ちゃんと良き友人であってください」
「当たり前よ」
「はい!」
少女のささやかな願いを聞いた俺達は、勉強会を始める。午前中だけで色々あったが、今では何とか丸く収まり、夏澄ちゃんは鎌田のベッドの上で読書をしている。
――三時間後。
練習を終えた鎌田が帰ってきた。
「まだいたのか。夏澄は――寝てるか」
夏澄ちゃんの寝顔を確認すると、鎌田はバスタオル手に持った。
「話は聞いたぞ、鎌田」
「そうか、夏澄の面倒を見てくれて、ありがとうな――二人とも」
鎌田は、そう言い残して部屋を後にする。十分後、鎌田は帰ってきた。バスタオルを首にかけて。
「二人とも、ちょっと近くの自販機までコーヒーでも買いに行かねえか。何か奢るぞ」
「コーヒー、ですか?」
「おい、せっかく帰ってきたのにお前何を――」
「いいから、黙ってついてきてくれ――頼む」
夏澄ちゃんにブランケットを掛けると、鎌田は振り返ってコートを着始める。俺と泉はお互いに顔を見合わせ、鎌田について行った。
………………。
寒い雪道を進み、あの自販機の前まで歩く。その間、鎌田は一言も発さずに前を向いて歩き続ける。そして、自販機の前に到着した。鎌田は俺達に温かい缶コーヒーを手渡すと、やっと口を開いた。
「で、どこまで聞いたんだ?」
「全部聞いたよ。出会いのことから今までのこと」
「そうか、夏澄のやつ結構口が軽いんだな。ってことはオレがバスケをしてる理由も――」
「ああ、聞いた」
「そうか……なあ覚えてるか成生。インターハイ決勝のこと」
「――ああ、覚えてるさ。鮮明にな、あと一点差――惜しい試合だった」
「オレがあそこで決めてればあいつの夢を叶えられたのにな」
「……鎌田は何も悪くないだろ。チームの中でも一番頑張って、俺達を決勝まで導いて」
「そんなことを言ってくれたのはお前だけだ――成生」
「……え?」
「知ってるか? オレが先輩と喧嘩した理由――」
「いや……」
「オレは結構妬まれてたらしくてな、ウィンターカップ直前にバスケ部を辞めて、『お前のせいで男子バスケ部は恥をかかされた』って先輩に部室でキレられた」
時系列の矛盾。鎌田はバスケ部と喧嘩してからやめたのではなく、辞めてから喧嘩をしたのだ。
「お前さえいなければ俺がキャプテンだった、お前さえいなければ俺がスタメンだった、お前さえいなければ俺がレギュラーだった、お前さえいなければ、お前さえいなければ、お前さえいなければ、お前さえいなければ――わかるか成生、人間ってもんは使えるときは好意的、使えないときは悪意的なんだよ」
「使えないって、鎌田は――」
「インターハイ、どうして決勝まで行けたと思う?」
「え? そんなの鎌田のおかげ――」
「そうじゃない。成生――こんな話を知ってるか? 野球選手の肘の話だ」
「野球選手の肘?」
「プロの野球選手は皆言ってるぞ、『肘は消耗品で、人生に投げられる球の数には限りがある』って」
「ああ、それなら何度かテレビで聞いたことがある」
「じゃあ、成生――それって肘に関してだけだと思うか? 例えば、バスケ部に必要な足――とか」
「――ッ! まさか‼」
「はは、その通りだ。実はな、インターハイの時、薄々感じてたんだ。右膝が痛み出してな――我慢してた。でも、決勝戦の残り数秒のシュート、膝が一瞬悲鳴を上げたんだ。それで僅かに軌道が逸れて――負けた。悔しかったよ、無理をして決勝まで行ったのに結局は負け。今思えば、あれが最後のチャンスだったんだ」
「最後って……」
「インターハイが終わってオレは再び必死になって練習した。先輩も『俺達をここまで導いてくれてありがとう。最後は惜しかったけど準優勝嬉しすぎて感動したよ。借りは冬に返そうぜ』って励ましてくれた。嬉しかったんだ――でも、ウィンターカップ予選の決勝、残り一分でオレは倒れた」
「……え」
「体力は有り余ってたし、スタミナもまだまだ残っていた――でも、膝は違った。使い込みすぎて、限界だったんだ。医者は言った――高校ではバスケはもうやるなって。顧問にそれを伝えて、その日のうちにオレは自主退部した」
「――自主……退部」
「嘘ついて悪かったな。でも、もう時間が無いんだ、オレには――いや、夏澄には」
………………。
「――え」
「この前の勉強会、あの時の電話相手は夏澄の担当医だった。夏澄にはまだ告げられていないみたいだが、先生から告げられた時、オレはびっくりしたよ――『夏澄の余命は長くても今年の夏までだろう』って言われたんだからな」
「夏までって――! 嘘……だろ?」
「夏澄ちゃん……」
「オレだって最初は耳を疑ったさ。でも、あいつの心臓は毎年毎年弱っていった。これは事実だ。疑いのない事実。だからオレは決めたんだ――今年こそは優勝旗を手に入れて……夏澄の……夏澄の夢を代わりに叶えて…………最後の夏を……過ごして欲しいって――」
俺は、俺達は何も言えなかった。いや、俺達が介入できる次元をはるかに超えていたからだ。鎌田の決意、覚悟を、軽々しく止めろだなんて、俺に言う資格はない。ただ、その場で鎌田の話を聞くので精一杯だった。
「ひでぇもんだよ神様なんてやつは……夏澄から両親と夢を奪って、今度は命まで奪おうとしている。先生は『生きていたのは奇跡』だと言っていたが、そんなものあるわけねぇ。起きねえんだよ、奇跡なんてものは――あるのは結果、そこにある残酷な現実だけだ」
「でも――」
「でもじゃねえんだ。夏澄はいつか死ぬ。それが春か夏かはわからねえ。もしかしたら秋まで生きれるかもしれないし、冬まで生きてくれるかもしれねえ。だが、それでも、夏澄がこの世を去る日は近いんだ。一秒たりとも無駄にできない。オレは今から学校で練習を再開する。今度こそ、絶対に優勝を掴むんだ。成生――悪友としての一生の願いだ。インターハイまで俺に構うのはやめてくれ。それと、また夏澄が遊びに来ちまうことがあるかもしれない。その時は話相手をしてやってくれないか? 早苗ちゃんも、お願いだ」
鎌田は深々と頭を下げる。その姿勢から心の底からそう願っていることを汲み取れた。
「鎌田君……」
「――わかった……」
「助かるぜ――成生、早苗ちゃん。さ、家に戻ろう、オレは部活の道具を揃えたら学校に行くが、たぶん夏澄のことだ。今日は一泊していくつもりだろう。時間の許す限り一緒にいてあげてくれ」
………………。
十分後。俺達は、鎌田の家にいた。俺と泉は一足先に鎌田の部屋に戻り、勉強を再開する。しばらくして、鎌田は準備を済ませて部屋に戻り、俺達の夏澄ちゃんの寝顔を見て悲しそうに頬を優しく抓った。
「行ってくるぞ。絶対にお兄ちゃんが優勝旗持ち帰ってやるからな」
「お兄……ちゃん――おめ……でとう……」
「……ッ」
夏澄ちゃんの寝言を聞いて鎌田は部屋を足早に去った。ただ、俺には、あいつが振り向いた瞬間――光る結晶が流れたようにも見えた。
………………。
時は過ぎる――無常だ。俺達が勉強している間、夏澄ちゃんが寝ている間、鎌田が練習に行っている間も、時間はその流れを一刻も止めることなく流れ続ける。生物には寿命がある――人それぞれに与えられた時間。だが、それは均等ではない。流れる時間は一定なのに対し生命が存在できる時間は一定ではない――不平等な世界だ。
夏澄ちゃんはまだこのことを知らない。一生懸命に生きている。なら、俺達がしてあげられることはあるのだろうか――。
一時間が過ぎた頃、夏澄ちゃんはゆっくりと目を覚ました。外は暗く、月が上り、宵の空を照らしていた。
「ぐっすり寝てたな、夏澄ちゃん」
「おはようございます」
「あ、本当だ。漫画読んでたらいつの間にか眠くなっちゃって――あれ? お兄ちゃんは? まだ帰って来てないんですか?」
「あ、ああ……少し練習が伸びてるみたいだ。あいつ、夏澄ちゃんのためにインターハイは優勝するって張り切ってたからな」
「そう……ですか。私のために――いえ、やっぱり私の所為……ですよね」
「――え」
「私……実は知ってるんですよ。この体が、長くてもあと半年しか持たないって――」
「なッ――」
「おじいちゃんが電話で話しているの、聞こえたんです。お兄ちゃんが膝を痛めてバスケ部を退部したことも、問い詰めたらすぐに教えてくれました。お兄ちゃんは優しい人です。私がここからいなくなる前に、どんな無茶をしてでも優勝する――予想通りでした。私はバスケ部を辞めてほしい。先の短い私のために、お兄ちゃんの長い人生に傷痕を残したくない。そう思ってここに来たんですから――」
どんな無理をしてでも優勝旗を掴みたい兄と無理をして欲しくない妹。互いが互いを想い合ったすれ違い――どちらも正しいし、どちらも間違っていない。
「成生さん、お兄ちゃんのところに連れて行ってください」
「鎌田のところへか」
「はい、お兄ちゃんに無理はして欲しくないんです。お願いします、成生さん」
「………………」
「お願いします、成生さん……私は……」
今にも涙を流しそうな夏澄ちゃんに気圧された俺は頭を掻きながらため息を一つつく。
「……はぁ、わかった」
「成生くん?」
「いいんだ、泉も来てくれ。俺も夏澄ちゃんの意を汲んで鎌田を説得する」
「わかりました。鎌田くんには申し訳ないですけど、私もお手伝いさせていただきます」
「ありがとう……ございます――成生さん、泉さん」
俺達は学校へ向かう。鎌田のいる場所へ。一人で全てを抱え込んだ悪友のもとへ。
バスケットボールが弾む音。それがある程度一定リズムで流れる――ドリブルの練習をしているのだろうか。体育館からはボールの音が一つしか聞こえないことを考えると、きっと一人で練習しているんだろう。
一歩、また一歩体育館へ近づく。
そして――ドリブルの音が止んだ。
「成生、早苗ちゃん――夏澄……」
鎌田は何が起きたのかわからないような顔をしている。
「お兄ちゃん、もう――無理はしないで」
「――え? 無理なんてしてないぞ、ほら」
鎌田は手に持ったボールをゴールに向かって放る。ボールは綺麗な弧を描いてゴールに入った。
「ほら、3Pシュート。今日も絶好調――」
夏澄ちゃんは鎌田の胸を目掛けて走る。そして――
「――やめて‼ もうやめてよ――お兄ちゃん……私、知ってるんだよ。お兄ちゃんが足を痛めてバスケ部を辞めたこと――そして、私の寿命も……残り少ないこと…………全部――知っているの……」
「…………成生。まさかお前……言ったのか――?」
「違うの――最初から知ってたの」
「知っ……てた……?」
「お願い……もうバスケは……やめて――」
「バスケを……やめる……? オレが……? 何を言ってるんだよ――」
「このままバスケを続けたら……足、壊しちゃうよ……」
「オレは……元気だ――」
「――嘘つかないで‼ 嘘つかないでよ……私のために自分の人生を犠牲にしないでよ…………お兄ちゃんは凄いバスケ選手なんだから、あと一、二年休めばまた復帰できるんだから、だから……今は休んでよ」
「――それは、できねえ」
「……え?」
「夏澄に優勝旗を見せる――それがオレの夢なんだ。それを諦めるなんて……できるかよ」
「どうして‼ どうしてどうしてどうして‼ 私の大好きな――大好きなお兄ちゃんに……これ以上無理して欲しくないだけなのに……」
夏澄ちゃんは涙を零す。今まで抑えていた涙が、全ての感情と共に流れ落ちる。
「夏澄――」
そう言って鎌田は夏澄ちゃんをゆっくりと抱きしめる。
「そんなの……オレの方が好きだからだよ――‼」
鎌田は声を震わせ、涙を流しながら夏澄ちゃんを強く抱きしめる。
「――なんでなんだよ‼ 夏澄が何をしたってって言うんだよ‼ お父さんもお母さんも何もかも奪って――なんで世界は理不尽で……残酷なんだよ。オレはずっと夏澄といたかった――オレの方が――夏澄の何倍も夏澄のことが好きなのに‼ それなのに――それなのに……」
鎌田は泣き崩れる。体育館の床に両手を付けて、しばらく涙を流し続けて――
「お兄ちゃん……」
「……でも、それでも、バスケはやめられない――」
「……お兄……ちゃん」
「これが……オレが兄として最後にできることだから――」
ゴールから転がってきたバスケットボールが鎌田の足元にぶつかる。
鎌田の覚悟は正しい。夏澄ちゃんの願いも。
なら、俺に何かできることはあるのか。