騎士テンバーの失敗
最初は、単なる世間話だった。
山で少し、黒い煙みたいなもんが見えたんだよ。
誰かの言い出した、その程度の話。
よせやい、縁起でもねえ。
皆、顔をしかめて言ったものだ。
もし瘴気の沼だったらどうするんだ。滅多なことを言うんじゃねえ。
言い出した本人もそれに気付いたのだろう。すぐに、あれは炭焼きの煙だったんだろうなあ、などと言って、それで終わったはずだったのだ。
だが、それからしばらくしたある日、山に入った子供が、黒い犬みたいな人を見た、と言った。
そこで気付けばよかったのだ。
いや、皆薄々気付いていたのだろう。
だが、村人たちは信じたくなかった。
村の裏山に瘴気の沼が現れて、そこから魔人が出てきたのではないか。そんな恐ろしい可能性など。
それで、単なる子供の勘違いとして一蹴した。
しかし結局、それが大きな間違いだった。
山に入った村人が二人、帰ってこなかった。
そのうちに、犬の不気味な遠吠えが響くようになった。
もうこれはだめだった。
村長は王都に火急の報告をしたが、最初のとっかかりでの対応のまずさが災いした。
黒い霧が少しずつ村にも流れてくるようになり、村人は自分たちの村を棄て、隣村へと逃れた。
穏やかな春の日差しの下で、サムはぼんやりと座っていた。
もう種蒔きの時期が終わりかけている。
早く自分の村へ戻って畑仕事を再開しなければ、次の冬には餓えるしかない。
だが、村の様子を見に戻った者の話では、瘴気の霧は濃くなる一方で、とても中まで入れるような状況ではないという。
村から持ち出してきた食料もじきに尽きるし、いつまでもこの隣村に厄介になってもいられない。
昨日は畑の手伝いをして少し食事を分けてもらえたが、毎日顔を出すと嫌な顔をされる。この村もそこまで豊かではないのだ。
妻のエナはほかの女たちと一緒に、この村の女たちの手伝いをしに行っている。今日はそちらで何かもらってこれるといいのだが。
そこまで考えたとき、向こうから娘のアンの笑い声が聞こえてきた。
子供は呑気なものだ。
サムはため息をつく。
5歳になる娘のアンは、いつでも元気だった。
明日をも知れぬ今の状況をどうするべきか、大人は皆、頭を悩ませているというのに。
まあ、村に帰りたいと毎日泣かれるよりは余程いいか。
そんなことを考えながら娘の方に目を向けたサムは、アンと話しているのが、村から一緒に逃げてきた仲間たちの子供ではなく、長身の見知らぬ青年であることに気付いて、慌てて立ち上がった。
「あんた、どちら様だい」
そう言いながら、サムは青年に近付いた。
避難民が集まって寝泊りしているこの村の広場には、時折悪意を持った輩がやって来て嫌がらせをしていくことがあった。
魔人の出現は天災と同じだ。村の住民たちは基本的には避難民に同情的だったが、それでも中には、やはりよそ者を嫌う者もいた。それに避難民とて行儀のいい者ばかりではない。両者の摩擦は少しずつ強まっていた。
だからサムは、この青年が何か娘にちょっかいを出しに来たのであろうと思ったのだ。
「遊んでくれるのはありがたいが、それはうちの娘でね」
そう言ってアンの手を引こうとしたサムを、アンが振り返る。
「お父さん、騎士様だって!」
アンは目を輝かせて父を見上げた。
「騎士様が、あたしたちの村を助けに来てくれたんだって!」
「な、なに」
突然のことに戸惑ったサムは、娘の隣でにこにこと微笑む青年の顔を見た。
「騎士様だって」
「あなたの娘さんですか」
青年は快活な声で言った。
「将来は美人になりそうだ」
「そ、そりゃどうも」
おざなりにそう答えながら、サムは改めて青年の姿を見た。
細い身体にくたびれた旅装をまとっていたが、それが上質な生地で作られたものだということはサムにも一目で分かった。
そして、その腰に佩いた剣。
旅人が剣を佩くこと自体は格別珍しいことではなかったが、その剣は青年の年齢にしてはあまりに使い込まれていた。
だが、こんな緊張感のない若い男が騎士だって。
娘の言葉を信じることができず、サムはおそるおそる尋ねた。
「あなた様は、その、本当に騎士様なんでございましょうか」
「騎士テンバーです」
青年はあくまで快活に言った。
「魔人“黒犬”を討ちに来ました」
それはまるで、ちょっと隣の畑を見に来ました、とでもいうような軽い口ぶりだった。
サムは唖然としてその顔を見る。
「あなたの村の長はどこに?」
にこにことした笑顔を崩すことなく、青年は言った。
「だいぶ放置したな、これは」
無人の村を歩きながら、テンバーは周囲を見まわしてそう呟いた。
黒い霧のような瘴気が時折その肩をかすめて流れてゆく。
「普通はこんなになる前に報告が来るものだが」
瘴気が濃い。
沼が、深く、大きくなっている証だ。
そのとき、村の奥の方から大きな叫び声がした。
奇妙な声だった。
人の絶叫のようでもあり、犬の遠吠えのようでもあった。
「私を呼んでるのか」
テンバーは微笑んだ。
「どうせ招かれるのなら、淑女との食事の方がいいのだが」
そう軽口を叩く。
「まあ慌てるなよ。今、行ってやるからさ」
山へと通じる道を真っ直ぐに歩いていくと、不意に瘴気が濃くなった。
一瞬顔をしかめたテンバーが剣の柄に手をかけるのと、物陰から黒い毛むくじゃらの男が飛びかかってくるのは同時だった。
突き出された男の鋭い爪と、それに抜き合わせたテンバーの剣がぶつかり合って、鋭い音を立てた。
魔人“黒犬”。
確かに、直立した山犬のような異形であった。
その名に違わぬ鋭い牙を剥き出して、魔人は低く唸った。
「満たしたい」
魔人は言った。
「この、餓えを」
それに答えず、テンバーはじりじりと距離を詰めた。
魔人はその動きに敏感に反応した。体勢を低くして身構える。
「満たす」
また“黒犬”が呟く。構わず、テンバーは今度は一気に踏み込んだ。
だが振り下ろしたその剣は空を切った。人には決してできぬ跳躍で、魔人は騎士を飛び越えてその背後に着地する。
「ちっ」
テンバーの肩口がわずかに切れていた。
飛び越しざまに魔人の爪が閃いたのだ。
「速い。だけど」
テンバーは振り返ると、臆することなく再度踏み込んだ。
「シエラの騎士の剣の方が速かった」
上段に振りかぶった剣を、魔人に振り下ろす。と見えたが、その剣は途中でぴたりと止まった。
その時には“黒犬”はすでに回避動作に入っていた。
テンバーは全身の筋肉を躍動させて、剣の軌道を変えた。
斜め前方に跳ぼうとしていた魔人の身体を、横殴りに真っ二つに切り裂く。
青い血を噴き上げて倒れた魔人が、それでも口を開けて何かを言おうとしたが、テンバーは躍りかかってその喉に剣を突き立て、とどめを刺した。
「騎士様が帰ってきた!」
遥か道の先を指差してアンが叫んだので、広場に集まっていた大人たちは皆顔を上げた。
「ほら、あそこ!」
女児の指差す方から、確かに一人の青年が歩いてくるのが見えた。
テンバーと名乗った騎士だった。
青年は何事もなかったかのような顔で、アンに手を振った。
アンが歓声を上げてそれに手を振り返す。
「“黒犬”を倒したので瘴気は晴れました」
大人たちの元までやって来た青年は、そう言った。
「もう村に戻れますよ」
そのあまりに緊張感のない声に、村人たちは喜んでいいのか分からず半信半疑で顔を見合わせた。
青年はきょろきょろと大人たちを眺めてから、少し落胆したような顔で近くの村人に尋ねる。
「私の馬を預けたのは、どこの家でしたっけね」
その村人に困惑した表情で首を振られると、青年は顎に手を当ててそのまま歩き去ろうとした。
「き、騎士様」
慌てて村長が呼び止める。
「魔人はもう滅びたのでございますか」
「ええ、もういないですよ」
青年はそう言って微笑むと、もう一度未練がましく大人たちを見回した。それから、きらきらとした瞳で自分を見上げるアンを残念そうに見る。
「君がせめてあと十年早く生まれていたらなあ」
「え?」
「いや、何でもないよ」
テンバーはアンの頭を撫でた。アンが嬉しそうに目を閉じる。
「騎士様」
村長が言った。
「どうか、お礼を」
「いや、結構。お気持ちだけで。次の魔人が待っておりますので」
テンバーは淡々とそう言うと、身を翻した。
「では、これにて」
歩き去るテンバーの背後で、ようやく実感の湧いた村人たちの歓声が上がったが、テンバーは振り返りもしなかった。
村の女性たちが皆、仕事に行っていて不在だっただけだと後で知ったテンバーは、さっさと村を去ったことをひどく後悔したという。
「男だけの村だと早合点したのか。かっこつけて、さっさと帰ってくるからだ」
その話を聞いたベテラン騎士のラザは、そう言って大笑いした。
「次は、どんなに迷惑な顔をされても村に一泊はしてこい」
「いやあ」
テンバーは首を捻る。
「そういうのじゃないんですよね。ちょっと違うんだよなあ」