前世の世界へ帰ってきた 8
パンを買いに行く話。
(僕の黄金の右前足が……)
「もう唸らせないからな?」
二度目の猫パンチをエストレアへ食らわそうとするディアベルを左腕で抱え、俺は空いている右腕で尻を掴んでいた手をはたき落とす。
まさかかつての同級生が、他人の尻を鷲掴みするような変貌を遂げていたとは、人生は驚愕の連続だ。
俺は誰かに洗脳されてたらしいし、ヒューバートは過保護になってたし、硬派だったエストレアはやたらと他人の尻を触るようになってるとは。
「……尻を掴んでまで呼び止めた用事はなんですか? パン買って帰りたいんですから、早くしてください」
「あら、クオンくん、パン買いたいんですか? 私のオススメのお店、紹介してあげますね。いつも空いてるのに、とっても美味しいんですよー? さあ、行きましょう」
俺はエストレアへ向けて言ったつもりだったが、エストレアの背後から顔を覗かせて現れ、悪戯っぽく笑って近寄ってきたシュシュさんに腕を掴まれる。
「え? ありがとうございます?」
「お疲れ様でした、マスター。定時なので失礼しますね。頼まれてました仕事は終わってますので、ご心配なさらずに」
戸惑いながらも感謝の言葉を口にした俺の腕を掴んだシュシュさんは、軽く目を見張ったエストレアへ反論する間も与えず終業の挨拶をする。
二人の力関係が透けて見えるやり取りだ。
流れるような展開に断る間もなかったが、間があったとしても断らなかったとは思う。
アバンチュールは求めてはいないが、こんなお茶目な美人との買い物なら単純に楽しみだ。
「で、クオンくん。うちのマスターとはお知り合いなんですか?」
冒険者ギルドを絡まれる事なく出て来た俺とシュシュさんは、夕闇が迫る街並みを並んで歩いていた。
当たり障りのない会話をしていた筈が、不意に飛んできた予想外の問いに、俺の思考は一瞬停止する。
「いや、今日が初対面だ……っと、すみません」
「ふふ。私なら素の口調で構いませんよ? どちらも可愛らしいですし」
動揺を隠そうとした結果、口調が素になってしまって少し慌てたが、シュシュさんは気にしないタイプだったらしく笑顔で頬を突かれる。
「……えぇとまあ、なるべく崩さないようにしたいんで」
すぐ崩れそうな気はするけれど、もう少し真面目な少年ぽく頑張りたい。
「エストレアさんと知り合いかどうか、でしたよね? 先程も言いましたが、今日が初対面です。そもそも、冒険者ギルドへ入ったのも今日が初めてなんですから」
「そういえば、トゥエルくんも『初めてで緊張してるクオンさんを守らないといけないと思ってやりすぎました』って、言ってましたね」
「たまたま買い物に入ったお店でトゥエルくんが働いてただけの接点だったんですが、俺が冒険者登録しに行くって話をしたら、案内をしてくれるって言うんで、甘えてしまいました」
「あー、トゥエルくんのお姉さんが店長さんをしているお店ですね」
さすがというか、なかなか有名人なトゥエルくんの情報をシュシュさんはきちんと把握していたらしく、すぐに納得した表情で頷いている。
(ねーねークオンー、気付いてないのー?)
「それで、話は変わるというか戻りますけど、クオンくんは本当にうちのマスターとは知り合いではないんですか?」
ぽふぽふと前足で頬を叩いて何事か訴えるディアベルを目配せして待たせ、俺はディアベルと同じタイミングで話しかけてきたシュシュさんを横目で見て訊ねる。
「どうしてそこまで疑うんですか?」
「いえ、疑ってる訳ではなくて、なんでクオンくんは──大っぴらに名乗っていないうちのギルドマスターの名前を知ってるのかな、と」
そう苦笑いを浮かべて俺を見てくるシュシュさんの瞳には、確かに探る色は無くただただ好奇心で輝いて見え、俺は自分の馬鹿さ加減に頭を抱えたくなる。
たぶんだが、エストレアが俺の尻を掴んでまで呼び止めたのも、同じ理由なのだろう。
(もー、先に言われちゃったー)
さらにディアベルが言いたかったのも同じ事らしく、不機嫌そうな尻尾がびたびたと背中に当たっているが、今はどう誤魔化すかが肝心だ。
まさか『前世で友人でしたー』なんて言っても信じてはもらえないだろうし、そもそも転生したなんて誰にも言うつもりはない。
ヒューバートは……まぁ特別だ。
朝別れたきりの大切な『悪友』の顔を思い出した俺は、ついでにとても都合の良い言い訳を思いつく。
「すみません、実はエストレアさん……ギルドマスターの事は、ヒューから聞いてて、つい名前で呼んじゃってたんだと……。失礼でしたよね。次からは気をつけますので、ギルドマスターにも謝っておいてもらえますか?」
俺とエストレアが同級生で友人だったということは、もちろんヒューバートも同級生で顔見知りだ。
俺が森の中の屋敷に住んでいる事は話してあるし、街に入る時に使ったのはヒューバートの名前で保証された身分証明書だ。俺がヒューバートの名前を出しても違和感はない……筈だが、シュシュさんの瞳からは好奇心に満ちた光が消えない。
なんだったら、さらに驚いた顔までしてる。
(クオンのばーかー)
「どうした、ディアベル」
俺以外にはぐるると唸るように聞こえる罵倒に、俺は首を傾げてディアベルの頭を撫でる。
上手い言い訳だと思ったんだが、ディアベルの反応からすると、また何か間違えたのかもしれない。
「クオンくんが他の人の話をするから拗ねちゃったんですよ、きっと」
俺の違和感のない言い訳を信じてくれたのか、シュシュさんからさらなる追求はなく満足した表情でうふふ、と笑って肩の上のディアベルを見ている。
話をしている間、もちろん口だけではなく足も動かしていたので、パン屋はもうすぐらしい。
パンの焼けるいい匂いが道まで漂っている。
「いい匂いですね」
「あそこです。小さなお店だけど美味しいんですよー」
くん、と匂いを嗅いで笑う俺に、シュシュさんも同じように匂いを嗅いで、笑顔で前方の店を指差す。
そこは日本の有名魔女アニメ映画に出てくるパン屋に何となく似ていて、俺は思わず看板を見上げる。
そこで揺れてるのは、こちらの言語で店名が書かれた普通の木の看板だ。
「キートンの店……店主さんのお名前ですか?」
映画をきちんと観た事はなかったが、件のパン屋の画像とかイラストは目にした事があったので、なんだか懐かしさすら感じる。
さすがジ……日本を代表する素晴らしいアニメ会社の作品だ。ほとんど見てない俺にも既視感を覚えさせるとは。
「そうですよー。カウンターの中にいるのが、キートンさん。少し厳つい顔をされてるけど、とても優しい方なの」
シュシュさんの説明に、ガラス越しに室内を眺める。
カウンター内にいるのは、短めで硬そうな金色の髪に鋭い榛色の瞳の、四十代ぐらいに見える男性だ。
全体的に虎っぽいな、と思うのと、強そうな雰囲気をここにいても感じられる。
年齢に関しては、こっちの世界では外見は当てにならないんだよな。まあ見た目は強そうな四十代だ。
「強そうな方ですね」
「ふふ、そうですね。元A級冒険者だもの、お強いわ」
思ったことを口にした俺に対し、なかなかの衝撃発言をしたシュシュさんは、俺の反応を待たずに店のドアを開けてしまう。
チリン、とドアベルが軽やかに鳴って、カウンターの中で新聞を読んでいた店主──キートンさんがこちらを見る。
「おう、シュシュちゃん、よく来たな」
歳を重ねた獰猛な肉食動物のような鋭い瞳を持つ顔が、ニッという効果音の付きそうな笑顔で柔らかくなる。
が、それは俺を見て、すぐに探るような色を浮かべて鋭さを取り戻す。
これはシュシュさんに付く悪い虫とでも思われたか、と内心苦笑いしつつ、相手の反応に気付かないフリをして、笑い返しておく。
「はじめまして。美味しいパン屋さんがあるとシュシュさんからお聞きして、買いに来ました、駆け出し冒険者のクオンと申します」
俺は差し障りのない自己紹介をして、ペコリと頭を下げる。殺気に似た圧迫感は少し減ったようだ。
「へぇ、駆け出しの割にはなかなか……」
「そうですよね! マスターもそうおっしゃってましたし、私もビビッと来ましたから」
ふむ、と無精髭の生えた顎を撫でるキートンさんの呟きを聞き、シュシュさんは我が意を得たりと喜んでくれてるが、恥ずかしいので俺のいない所でやって欲しい。
俺がそこそこ強いのはもちろん否定しないが。
(肉体的には前世の方が強かったけどー、魔力なら今が勝ってるのー)
「冷静な分析ありがとな」
さすがというか、かなり詳しいディアベルの分析に、俺は小さく笑ってディアベルの頭を撫でておく。
「お、クオン坊やはテイマーか?」
ゴロゴロと喉を鳴らすディアベルを撫でていると、ディアベルの存在に気付いたキートンさんが、興味を惹かれた様子で問いかけて来たので、俺はゆるく首を横に振っり、
「いえ、主体は俺自身の魔法で戦います。こいつは、まあピンチの時には手伝ってもらうくらいで、あとは周辺の警戒してくれてます」
坊や呼びには苦笑いを返しながら、肩の上でぐでっているディアベルの背中を撫でる。
嘘は言ってない、嘘は。
それに、ディアベルを本気で暴れさせたらどうなるか想像するのも恐ろしいなんて、この可愛らしい見た目からはわかってもらえないだろう。
そういうのに敏感そうなトゥエルくんも無反応だったし、ディアベルの偽装は完璧らしい。
「魔法使いか。……魔力量は相当なもののようだな、確かに」
物理的圧力を感じそうな鋭い眼差しで俺の頭から足先まで一撫でし、キートンさんは納得した様子で頷いている。
「買いかぶり過ぎですよ。……どれも美味しそうですね」
へらりと笑って形だけの謙遜をして、俺はパンへと視線を移して話題を変える。
実際、そろそろ帰らないとヒューバートの帰宅に間に合わないかもしれない。
「オススメは、このライ麦パンです。あ、この白パンも美味しいんですよねー」
「へぇ……あの、まだ選んでないんですが」
シュシュさんからオススメを聞いていると、視界の端でキートンさんがひょいひょいとパンを紙袋へ詰め込んでいる事に気付く。
気のせいでなければ、シュシュさんがオススメしたパンがどんどん放り込まれていた気がする。
「慰謝料代わりに奢らせてくださいね?」
まだ決めてないと、止めようとした俺だったが、シュシュさんのこの悪戯っぽい台詞と、可愛らしいウインクで諦めた。
「じゃあ、遠慮なくごちそうになります。ありがとうございます、シュシュさん」
シュシュさんへ向けてお礼を言っている俺に、キートンさんも笑顔で頷いている。
また気のせいでなければ、シュシュさんがオススメしてくれた以外のパンもひょいひょい入れられている気がする。
俺の視線に気付いたのか、キートンさんはニヤリと笑ってパンパンに詰まった紙袋の口を閉じる。
「駆け出しが遠慮するもんじゃないからな?」
そう言って紙袋を渡されてしまえば断れる雰囲気ではなく、俺は笑顔でお礼を言ってほのかに温かい紙袋を抱え込む。
「また買いに来ますね」
次はぜひ俺の欲しいパンを焼いてもらえるか相談しようと思いながら、キートンさんに挨拶をして俺達は店を後にする。
シュシュさんの自宅は近所らしく、ここでお別れですね、と店の前で解散をしようとしていたところ、何処か見覚えのある若い男性が駆けてくるのが視界の端に映る。
シュシュさんも気付いたのか、小さく、あら? と首を傾げる。
「うちの職員ですけど、どうしたんでしょう?」
「冒険者ギルドの? ずいぶんと焦られてるみたいですが……」
シュシュさんと顔を見合わせてそんなことを話していると、シュシュさんに気付いたらしい職員さんが一直線に駆け寄ってくる。
「す、すみません、シュシュさん! 見つかって良かった!」
シュシュさんの前で足を止めた職員さんは、肩で息をしながらも安堵の表情を浮かべて話しかけてくる。
すぐ俺に気付いて、ペコリと頭を下げて笑う様子は爽やかで感じのいい青年だ。
「なにかありましたか? ギルドマスターが痴漢で捕まったとか?」
「そちらはまだ大丈夫です! 実はA級案件の緊急依頼が発生しまして……」
周囲を気にして声をひそめる職員さんには申し訳ないが、俺には前半部分の『まだ大丈夫』発言の方が気になるんだが。
「A級? とりあえず、一度ギルドへ戻りましょうか」
「はい!」
A級案件ってことは、駆け出しな俺にはお呼びはかからないだろうから、空気を読んだ俺は、
「じゃあ、俺はここで失礼しますね。今日はありがとうございました」
と、挨拶をして帰るアピールをする。
「クオンくん、変な人にはついていっちゃ駄目ですよ?」
「はい。……あ、俺に手伝える事があれば、いつでも言ってください」
リップサービスではないが、一応愛想良く付け加えてシュシュさん達に背を向けて歩き出す。
遠くなるはずの二人はその場で何か話しているのか、あまり声は遠ざからない。
緊急事態じゃないのか、と内心首を捻っていると、
(クオン、呼ばれてるよー?)
「え?」
ディアベルの呑気な声に、思わず声を上げると同時に、パタパタと駆け寄ってくる足音が聞こえて、俺は足を止めて振り返る。
「クオンくん! ごめんなさい、ちょっと聞きたい事があるんだけど……」
そこにいたのは、ついさっき別れの挨拶をしたシュシュさんと職員さんで、二人揃って何とも言えない顔で俺を見ている。
「えぇと、何でしょうか?」
呼び止められる理由が全くわからず首を傾げて答えると、職員さんの方がおずおずと口を開く。
「……ヒューバートというお名前に聞き覚えはありますか!?」
「え? ありますけど……今一緒に住んでいる相手がヒューバートって名前なんですが、どうかしましたか?」
唐突に出て来た友人の名前に、俺は傾げていた首を今度は反対へ傾げて、やけに緊張した面持ちの二人を窺う。
「……一緒に来ていただけますか?」
「ごめんなさい、クオンくん。A級の緊急依頼、クオンくんにとても関わりがあるみたいなの」
申し訳なさそうな二人に、俺は気にしてないと笑って、冒険者ギルドへと引き返すために二人と共に歩き出した。
「つい先ほど、ヒューバート・ヴァイン様から、『クオン』という少年を探してくれという緊急依頼が出されたのよ」
どうやらA級の緊急依頼とは、過保護で心配性な友人からの迷子な俺の捜索依頼だったらしい。
パンを買えた話。
お読みいただきましてありがとうございます。
あと2話でとりあえず一区切りです。
肌色というか、キス多めになります。




