後編
私はすぐに出ると伝えた。家の者に何事ですか、と聞かれたので、恩師が危篤なのだと嘘を吐いた。恩師の所へ行くのは本当だ。
旦那様が家を離れているときに、と咎められたが、私はとにかく行かねばならないと振り切った。
供は要らないと告げ、逃げるように家を出た。馬車を飛ばして三時間、私は懐かしい場所へ足を踏み入れた。
「おや、まぁ、珍しいお客様ね」
ワイズ先生が茶目っ気ある笑顔で私を迎え入れた。恰幅の良さときびきびした動きは変わっていないが、いくらか目尻に皺と、髪の白いものが増えている。
私がここの生徒だった頃が遠い昔のように感じられた。まだ学院を出て七年なのだけれど、確かに七年経ったのだ。
「ワイズ先生、お元気そうで何よりです」
「あら、少しはお行儀よくなったみたいね。でもその様子を見ると、思い立ったら行動してしまう癖は変わっていないようね」
私は照れ臭くなって俯いた。自分の少女時代を知っている人、友人ならば同じ時代を共に過ごしたから平気なのだけれど、自分の刺々しく、それでいて傷つきやすい不安定な時代を知っている大人に、大人になってから会うと何となく恥ずかしい。
「貴方の尋ね人はいらしてますよ、セアラ。案内しましょう」
私の思った通り、ルジェとシャルレイはここに身を寄せているらしい。
きっとシャルレイは私に気づいてほしくて、わざわざあんな手紙を寄越したのだろう。
学院のすぐそばに救貧院がある。そこに住むほとんどの人は働けなくなった高齢者だが、そこには色々な事情から誰も身内に頼ることができない子供や若者もいる。貧苦は自分から遠い場所にあるのではないということを土曜日が教えてくれた。
生徒は土曜日にそこで奉仕活動を行うことになっていたのだ。
「彼らをよく受け入れましたね。ワイズ先生。国中大騒ぎだというのに」
「国中皆が大騒ぎしているわけではありませんよ」
ワイズ先生はやわらかな微笑を私に向けた。
「世間の言うことがいつも正しいとは限らないし、本人の言う事が正しいとも限りません。でも、彼女は正直者だということはわかりましたよ」
「どうしてですか?」
「自分のことでは無いみたいに彼女は話しましたからね」
私はルジェがごく稀に自分のことを話す時の、どこか虚ろでぼんやりとした瞳を思い出していた。彼女は不幸である自分が自分でないようにいつも振る舞っていた。
それは彼女が自分を保つ為の術だったのかもしれないし、単に私たちに同情を示されたくなかったのかもしれない。
私はワイズ先生が扉を開けた時、後悔の念に襲われた。ルジェは私に会いたくないかもしれない。
私が躊躇いながら部屋に入ると、ベッドに横たわっているルジェが微笑みかけてきた。
「セアラ、こんにちは」
ルジェは私が来たことに驚きを示さなかった。今日私がここに来ることをわかっていたかのような落ち着きぶりだった。
「こんにちは、お身体の方はどう?」
私が尋ねると、彼女は答えずにただじっと私の目を見つめ、短い沈黙の後にワイズ先生に席を外して欲しいと頼んだ。ワイズ先生が部屋を出ると、私に座るよう勧め、彼女も身体を起こして額に手を当てた。
「私、身体はそんなに悪くないの、ただ不安定なの。物事を考えすぎると熱を出したり胸が苦しくなったりするの」
「考える?」
「私はこのまま姉さんの侍女として、姉さんの幸せの為に生きるのかということよ」
私の頭にルネの顔が浮かんだ。美しく、高飛車で誇り高いルネと私は反りが合わなかった。ルネは私を身分に相応しくない粗野な振る舞いをする娘だと見下していたし、私も高慢な態度をとる彼女を好きになれないでいた。
ではルジェは?私の知っているルジェは控えめだが気遣いの出来る、真面目なしっかり者で、享楽的な姉と正反対の、まっすぐな心を持った良い人間だ。
そんなルジェをルネは面白みのない、つまらない人間だと言って憚らなかった。
そんな姉の下僕となって人生を終えるのは誰だって我慢ならないだろう。だから、シャルレイと逃げたのか?
「勿論、貴方にも幸せになる権利はあるわ。でも、どうしていきなり逃げたのよ。相談してくれれば私だって何か力になれたはずよ」
「でも、誰も助けてくれなかったわ。可哀想なルジェ・エアンに、同情はしてくれたけど、皆知らんふりだったもの。そんな人たちは信用できない」
私は痛いところを突かれて口を噤んだ。私たちは彼女に同情しながらも、それ以上は無関心でいた。ルネとやり合いたくはなかった。彼女は妹を自分の嫁入り道具の一つとして見ていたし、他家の使用人を引き抜くようなことは今後の為にしたくなかった。
自分がルジェの立場であったなら、耐えられなかったろうに、私たちは他人であるルジェの痛みに鈍感で、或いは鈍感であるふりをしながらやり過ごしていたのだ。
「貴方の言う通りだわ。確かに貴方が話してくれたとしても私たちは動けなかったでしょう。何かあってから駆けつけたって遅いわよね。ぐうの音も出ないわ」
「そうね。まぁ、どうしようもないことが世の中にはごまんとあるものよ」
ルジェは静かに呟き、それから小さなため息を吐いた。
「ルジェはこれからどうしたいの?シャルレイと暮らしたいの?あの人はいまどこにいるの?」
私は耐えきれずに立て続けに質問した。私はその時、ルジェの答えがどうであろうと叶えられることは叶えてやりたいと思っていた。勿論、ルネに告げ口する気などさらさらない。それが私にしてやれる唯一のことだと思ったからだ。
「私は姉さんの元を離れたい、それだけよ。そしてシャルレイも同じだった。ルネから逃げ出したかったのよ。あとは知らない。好きにすればいいと思っている」
「シャルレイと仲違いでもしたの?」
彼女は首を振った。
「違う。でもシャルレイも私と同じだから」
「同じ?」
「考えることから逃げてきたの」
私はルジェが、両親と姉の言いなりになって生きていたことは容易に想像がついた。そうするしか生きる術がないと思い込まされて育った彼女にとって、両親と姉が全てであり、それ以外は考えられなかったのだろう。
しかし、シャルレイは?
私の知っているシャルレイは、好きに生きている人だった。何不自由ない生活の中で、遊び、学び、誰もが羨む妻を娶った。但し、夫婦仲が芳しくないことは誰の目にも明らかだった。
ルネの派手な性格は人を引き付けた。人に遠慮などせず、思ったことを言い、好きに振る舞う姿は確かにいきいきとして見えた。
ルネのことを好きになれなかった私でさえ、彼女の魅力は認めていた。自らの武器とその価値を知っている人間の堂々たる振る舞いは、見るものを圧倒し、欠点でさえ好意的に捉えてしまうものなのだ。
シャルレイはルネのようにはなれなかった。良家の長男ということ以外は平凡な、可も不可もない男だ。そんな彼はルネのような人間に憧れ、自分はなれずとも傍に置きたいと思ったのだろう。手に入れてしまったらそれを自分のことのように錯覚出来る。
ルネもある意味不幸だった。彼女は頼りない夫に怒り、呆れ、自分の運命を憎んだ。そこで二人、腹を割って話して、互いが望む方向に修正していけば良かったのだ。
しかし、ルネは望む夫が自分の傍にいないことに怒るだけで、シャルレイはそんな妻から逃げ出した。
でも、完璧な人間などそうそういない。私も欠点が多い。夫に腹が立つこともあれば、彼が私に腹を立てることもある。割れ鍋に綴じ蓋で上手くいくこともあるのだ。
話しても行動に移しても、どうしても合わないならば仕方ない。それでも互いの欠点を罵ったり、相手から逃げ出したりするだけではどうすれば合うのかも見えてこない。
ルネとシャルレイの問題はそこにある。
私は小さくため息をつき、ルジェに視線を戻した。
「貴方はこれからどうするの?一人の大人の女性が決めた生き方に私も口を出さないわ。でも、協力できることがあるなら言ってよ」
「そうね、姉さんにはもう関わりたくないから言わないで。あの人、何でも持っている癖に私のものを欲しがるのだから」
それは彼女の慎み深く見える性質のことだろうか、それともシャルレイのことか。
「ルネは貴方を見下しながら、後ろめたく思っていたのね。貴方は堅実で真面目だから」
「そうでないと追い出されるから。行く当てもないと思っていたしね」
私はあえて深く聞き出そうとはしなかった。ルジェがここを知ったのは、時折私が聞かせたからだ。堅苦しい規律、仰々しく行われる様々な式典、教師への反抗、単調な日課。それでも友や恩師と知り合うことが出来たこの場所に私は愛着を持っている。
もっとも、私がいたのはここではなく向かいの女子学校だ。それでも、ここに通うことで私は気づいた。
世の中には努力して真面目に生きても、報われない人々が大勢いる。私はそんな人たちに生かされているのだ。たまたま私たちが食うには困らない家庭に生まれただけで、この人たちを自分よりも下の存在として同情するのは無知にほかならない。
人は遠い存在の不幸には鈍感で辛辣だ。今でも私は自分と夫の財産を投げ打ってまでこの人たちを救うことは出来ない。
自分の生活が何より大事だからだ。口では綺麗ごとを並べても結局そうだ、私はまだ無知で冷淡なままだ。
「ルジェはここで暮らすの?失礼だけど、甘くないし、自由があるわけではないわ。食事も服もシーツの洗濯頻度さえ、お屋敷とは違うのよ」
「自分の力と意志で生きてみたいの。その為にはここで自分の出来ることは何でもして置いてもらうつもり。姉さん無しで、私の足で自分の人生を歩みたい」
「そう。それならば私は貴方の幸せを願うだけだわ、もう何も言わない。元気でね」
「貴方もね」
それきり私達は言葉をかわさなかった。
最後にルジェの手をそっと握ると、彼女は戸惑いの表情を浮かべながらも優しく握り返してくれた。
「私は何も知らないし、何も出来てはいない。これからもきっとそう。嫌になります」
私はワイズ先生の元へ戻り、彼女が用意してくれた冷たい水を一気に飲み干してから言った。
「私はここに勤めて長いけれど、それでもまだ何も出来ていない。自分が何か出来るなんて奢りは捨てなさい、セアラ」
「ワイズ先生のように多くのものを私は他者に捧げられません」
「それは私がしたいからよ。私は親もいないし、子供もいない。その分ここにいる家族に何かしてやりたいという私のわがまま。誰かの為ではない、私の為よ」
私は改めてワイズ先生に尊敬の念を向けずにはいられなかった。他者への奉仕、しかもそれを善行と思わずに出来るこの人をどうして尊敬せずにいられようか。
「今貴方にやれること、やるべきことをやりなさい。貴方の幼馴染の場所は聞いたの?」
「いいえ。でも探してみます。見つからなければそのままに」
私は外套を手に取った。ルジェは教えてくれなかったので、私は町の一軒しかない宿屋を訪ねて、シャルレイがいたならば話をするし、いなければ放っておこうと決めた。
ワイズ先生に別れを告げて、私は馬車に乗り込んだ。ルジェと会うのはこれが最後かもしれない。ルジェのこれからがどうなるかは誰にも分からない。でも、私は今日初めてルジェと話をした気がする。それだけでも、彼女の人生の鎖が少し外れたのであろうことはわかった。
あとはシャルレイだ。
「やっぱりいたの、貴方って本当に分かりやすいのね」
私は宿であっさりとシャルレイを見つけた。髪を短く切って、粗末な服を着てはいたが、それくらいで幼馴染の顔が分からないはずがない。
偽名を使ってはいたが、宿屋の主人の手のひらに少し金貨を落とすと、訳ありの客のことをあっさり教えてくれた。シャルレイも主人の手のひらにこうして金貨を落としたのだろう。
「セアラ、僕は……」
「見つけて欲しいからこんな分かりやすい場所にいたのでしょう。ルジェはもう自分の足で歩き始めているわ。貴方は?私はいつまでも貴方の歩行器でいられないわよ」
私は語気を荒げながら話した。
「ルジェとここに来れば自分も変われると思っていたのでしょう。でも、そんなことはなかったでしょう。ああ、ルジェは看取ったわ。自分を表に出せないルジェのことは。次は貴方よ」
シャルレイは両手で顔を覆って項垂れた。厳しいことを言っているのは自分でも分かってはいた。でも、自分で考えねば何も変わらないし、動かない。
シャルレイは私がここに来ることをどこかで期待していたのだろう。でも、私は彼の人生に責任を持てない。
「違う場所に来たら何かが変わると思っていた。でも変わらなかった。僕はまだ家に、ルネに囚われている。始めにそこだったんだ」
幼稚な言い訳だった。彼が周囲に迷惑をかけたのは揺るがぬ事実で、私も実際怒りがない訳ではなかった。
ただ彼を詰れないのは、私も彼の立場であれば恐らく逃げたくなったろうし、彼だけに責任があるとも言えなかったからだ。彼の失態を罵る人たちも、自分が彼をそういった立場に追い込んだ責任があることから目を逸らしているのだろう。
「じゃあ、帰りましょう。私も立ち会うわ、怖いでしょうけれど、それは私も同じよ。シャルレイ」
「でも、僕はどうしても怖い。勘当されたらどうすればいい?」
「そうなったら私が貴方に勤め先をどうにか探してあげる。貴方、学校は出ているもの、何か出来ることはあるわよ。あのね、行動に責任は伴うの。私だって、家を飛び出してきたはいいけれど、今回のことを咎められるのは免れないでしょうね」
シャルレイの瞳が現れた。小さくごめんと言いながら私の手を取った。その謝罪がどれに対して向けられたものか分かりかねたが、私はともかく頷いた。
「帰ろう、セアラ」
私はそれから一か月後、約束通り彼の勤め先を探すことになった。これが正解だったのかは今でも分からない。ただ、世間にルジェとの過ちが無かったことだけは知らせることは出来た。
いま彼は、ルネから渡された婚約指輪と結婚指輪だけを財産に、田舎のお屋敷で住み込みの教師をしている。
私は夫から軽率な行動をこっぴどく叱られ、自主的に半年間の自宅謹慎をした。時間はたっぷりあったので、私は使用人たちと一緒になって銀食器を磨いたり、ブラウンソースを煮込んだり、仕事着の繕いものをしたりした。
後は夫と庭の散歩をしながら何気ない会話をしたり、本を読んだりして過ごしている内にルジェから一通の絵葉書が届いた。
朝の陽射しが描かれたその葉書には、大変ですが前よりも幸せです、とだけ書かれていた。
ルネの最後についてはわざとあまり書きませんでした。ただ、指輪を返したというのは決別とせめてもの餞だったという設定です。前後編なので駆け足で物足りない部分も多くある物語でしたが、お読みいただいた方ありがとうございました。