彼ではない人
何気なく、本当に穏やかに眠りから目覚めた。
まだ部屋は薄暗くて、夜に近い、朝の時間。
隣に眠る人を起こさないように、そっとベッドから抜け出した。
早朝に目覚めたのに、何故かとても気持ちがよくて頭もすっきりしている。
寝室を出てリビングに向かい、窓にかかるカーテンを開ける。
空はやっと白々と明るくなってきて、柔らかい空気が漂う。
窓も開けて、ベランダに足だけ出す格好で座る。
ゆっくりと、でも止まることなく明るくなっていく空に向かって、手にしていたスマホを向ける。
何枚か写真を撮って、SNSを開いた。
「彼」は、初めて恋以上の思いを抱いた相手だった。
喧嘩もしたけれど、私は、彼との恋が人生で最後になるのだと信じていた。
けれど、1年と少し交際をして彼から告げられたのは、「別れ」。
少しずつ、自分の夢が現実になりつつあった彼。
その為に、一緒にいられる時間は減っていたけれど、私はそれを苦にしたことはなかった。
いや、全くなかったとは言わないけれど、短くても、一緒にいられる時間があれば帳消しにできる程度のもの。
だから、私にとって、彼からの言葉は予想外でしかなかった。
「なぜ?」と聞いた私に帰ってきた答えは「責任」だった。
まだ、始まったばかりの、形になり始めた自分の夢。
それさえも全うできていないのに、私のことまで責任は持てないと。
このまま、私の人生を、自分を待たせるだけで終わらせられないのだ、と。
私は待っているつもりもなかったし、私は私の時間をきちんと過ごしている、そう伝えても、彼は引かなかった。
「私が嫌いになった、そうはっきり言えばいい。」
そう言った私に、彼は酷く怒って「愛している」とまで言った。
なんて人なんだろう、と私は泣いた。
別れ話をしている相手に、なんてことを言うんだろう。
私を愛しているならば、なぜ別れる必要があるのか。
結局、最後は大喧嘩になり、そのまま彼とは会っていない。
あの頃の私は、彼を「待っていない」と思っていた。
けれど、彼は正しかった。
あれから2年がたった今、冷静になって振り返れば、間違いなく、私は彼を「待っていた」のだと分かる。
そう。私は、一生懸命に彼を待っていた。
会えない寂しさも、悲しさも、必死に隠して、笑って。
どんどんと前へ進んでいく彼に忘れられないように、置いて行かれないようにと、いつもいつも、不安でしかたがなかったのに。
何でもない振りをして、私は大丈夫なのだと自分自身に言い聞かせながら、彼を待っていた。
優しくて、敏感な彼は、私自身も気が付いていなかったその感情に、きっと早くから気が付いていて、胸を痛めていたのだろう。
そして、私は知らないうちに、彼の重荷になっていた。
SNSを開き、スクロールしていくと、彼の上げた写真が表示された。
彼は、私をブロックすることなく、フォローを外すこともしなかった。
私は、コメントもアクションも返すことなく、ただその近況だけを確認している。
私も同じように、彼をブロックせず、フォローも外していない。
彼が、私の近況を見ているかどうかは、定かではない。
コメントも、アクションもないから。
彼は今、海の向こう、季節が反対の国にいるようだ。
ひとつひとつ積み重ねて、夢を着実に現実へ変えている。
きっと、まだまだ途中なのだと思っているかもしれない。
そういう人だから。
私は、空の写真をSNSに上げる。
コメントも、タグもなく、ただその空だけ。
「元気?」
手にしている「機械」に声を掛けて、私は空を見上げた。
ほんの短い時間のうちに、もう空は青くなり、世界は光で溢れている。
「私は、元気だよ。」
今度は、空に向かって呟いた。
後ろで、扉の開く音がして、私は振り返る。
「おはよう。早いね」
笑うその人に、私も笑顔で返す。
「おはよう。目が覚めちゃった」
「彼」とは違うその人とは、もう少しで付き合って1年がたつ。
優しい人。
温かい人。
穏やかな人。
でも、彼ではない人。