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片道ハイウェイ

作者: 岸 四季

暑い...そして臭い...そしてなんだこの臭い。芳香剤?いや、違う。そんな甘い臭いじゃない。腐乱臭のような刺激臭だ。さらに、暗くて狭い。くそ。しかも縛られているのか、両手は背中で固定され動かせない。どうにか、上体を起こそうと試みるが、少し頭を揺するだけで天井にぶつかってしまう。「一体全体何が起きたっていうんだ。おれはさっきまで普通に昼飯を食ってただけだろ。おい。」

呟きも口を出ると途端に天井に衝突して跳ね返ってくる。暑さと焦りで呼吸が荒くなる。心臓の拍動が徐々に早くなり、苦しい。酸素が足りていないようだ。炎天下の密閉状態。

「熱中症と脱水症状で確実に、死ぬ。」

はあ、はあ、と切れ切れな息を漏らしながら、独り言は続く。

すると、バタンという音。そして葛城を閉じ込めている空間全体がぐおんと沈み込むように揺れた。ブオオオオンというエンジンをかける音が密閉空間に響いた。やがて、葛城は何かに乗せられて、運動する感覚を覚えた。

「なるほど。もしかするとここは車のトランクの中かもしれんな。てぇ!そんな冷静に考察してる場合じゃねえ!なんだこれどういう状況なんだ俺!はっ!誘拐か?これは誘拐なのか?!」

葛城はひとしきり喚いたり、打ち上げられた魚のようにジタバタと暴れてみたりしたが、そのうちに疲れはて眠りに落ちてしまった。

悪夢。

当然、その形容しかふさわしくない類の夢だった。暑さと臭いと混乱と恐怖とによって、疲れは精神を飛び出し葛城の肉体をも侵食しはじめていた。どれほど眠ったのかわからない。暗すぎて目を開けているのか閉じているのかも判然としなかった。

「トランクの中ってこんなに暗かったんだなぁ」

と、くだらない感慨に耽るほどに。

と、気付くと車は停車しており、信号待ちかとも思ったが体感では10分、20分は停車しているように感じた。とは言っても疲労困憊の葛城には定かではない。その時感じたのはただ、暑さが和らいで、少しひんやりとした風がトランクの隙間から吹いてくる心地よさだけだった。

「ん?冷た..い、風?ということはもう日が暮れてるってことか?そんなに長い時間移動してたのか。」

ざくざくざく。と、トランクの外から乾いた土を踏む音が近ずいてくることに気付く。トランクに鍵が差し込まれ、グッと指を取手に引っ掛ける音。ついで、トランクのフタが勢いよく開かれた。

一瞬、葛城の目には白い閃光が飛び込んできて、反射的に瞼を力一杯閉じた。葛城はほんの少しづつ瞼を開きながら、目の前に葛城を見下ろす黒い影が見えた。その手にはナイフのようなものと懐中電気が見える。葛城は全身が総毛立つ恐怖を感じた。薄目が開いているのを見た黒い影は懐中電気を持ったその右手を振り上げ、葛城の顔面に向かって振り下ろした。


次に目を覚ました時、葛城は後部座席で横になっていた。長時間、同じ姿勢で窮屈な空間にいたために、全身の筋肉や関節はこわばり、上体を起こすのにも一苦労だった。左側の後部座席に座り、鼻の下に固まった鼻血を拭い、手首をさする。何を使って縛られていたのかわからないが酷く痛む。かなり食い込んだ跡が付いていた。運転席には40代ほどの男が座っている。居眠りをしているように見えた。この隙を付いて、逃げるのが好機とも思われたが、窓から周囲の様子を見て、思い直した。

「どこだ...?ここは」

もうすっかり夜になっている。周囲には人工物らしきものが一切見当たらない。林か森のどちらか、ここがなんという地名なのかもわからない。一体今何時だ?何時間、おれはトランクの中で移動したんだ?少なすぎる情報に葛城の脳は容量を超えそうになる。

気温は随分下がり、23度前後だろう。冷房はついていなかったが、不快な暑さは感じなかった。

「いや、しかし、この喉の渇きと空腹はまずい。それにずっと汗をかいていたからか、Tシャツがびしゃびしゃで身体中ベタついて気持ちが悪いな」

絞ったら水たまりができそうなほど汗を吸ったTシャツを脱いだ。

「さて、どうするか。ぼんやりしてても仕方ない。おっさんを起こすか?いや待て。無防備にも犯罪者に関わるのはまずい。こいつは武器を持ってるかもしれん。まず、身の安全を確保できる準備をしよう」

そうして、葛城は車内をくまなく点検し、おそらく自身が縛られていたであろう、布切れとスポーツバッグのような大きな黒い酷く汚れた異様に重い荷物を後部座席の足元に発見した。それから、助手席には漬物と刺身の食べかけ、ペットボトルの麦茶3本を発見。

「さすがに、漬物と刺身は危険だな。なんとなく、トランクで嗅いだ異臭のように感じる。日中の暑さに晒されているかもしれん。お茶だけをいただこう」

500mlの麦茶はあっという間に空になった。

それから、葛城は布切れでおっさんの手首を自身がそうされたように後手にきつく縛った。

「さて、取り調べの時間といこうか」


✳︎


後悔。もはやその言葉が渦巻く以外、存在の痕跡はないように感じた。つい昨日までの記憶が永遠に繰り返されているかのごとく、何度もなんどもフラッシュバックを繰り返し、傷跡を深めていく。

あの嬌声、あの悲鳴、あの重苦しさ、あの楽しさ、あの緊張、あの寛ぎ、あの恐怖、あの幸福。走馬灯のように光景が流れて行く。自分では止めることも出来ない。そう、当事者であるはずの自分こそが、何も出来ずにいる苦悩。惨めさ、不甲斐なさ。どうして守れなかったのか、どうして間違えてしまったのか。いくら思い返して、考え直してみても、すでに結論づけられた誤った解を解き直すことなど間に合わなかった。夕実..ごめんな...。


✳︎


バシッバシッと両頬を平手で打たれる痛みと共に覚醒した。

「ううぉおおう?!」

ガバッと跳ね起き、驚愕の声が上がる。跳ね起きた反動で上半身が大きく前後し、シートがギュギギュギと不気味な音を立てる。佐伯はつい先刻までの立場が完全に逆転を遂げていることを瞬時に理解した。また、その状況に佐伯の直感は身の危険と焦燥を告げる。

「随分とまあ間抜けな誘拐犯さんだな。おい」

佐伯の横、つまり助手席に座る若者はトゲのある口調で気怠げにいう。

「人質を自由にしたまま同じ空間で居眠りしてるなんてなあ」

「そうか、私は寝てしまっていたんだな。そうか...」

「ふん。情けない面だなおっさん。まあいい、とにかく俺を解放してもらう。その前に、いくらか質問がある」

「いいだろう。聞こう」

「なんだ、妙に落ち着きはらった様子だな。この状況を打開する策でもあるのか」

「いや」少し間を置いて、佐伯は若者の目を見て言った。

「ただ、諦めがついた。というか、自分で自分が恥ずかしくなった。悪いな、巻き込んでしまって」

「はあ?奇妙なことを言う誘拐犯だ」

「ああそうだなあ。あのな、さっきから気になってたんだが、その殊更に誘拐犯を強調するのをやめてくれないか」

「ふん。知ったことか。それは俺の自由だ」


佐伯はこのやり取りの間に少しづつ冷静さを取り戻した。若者が佐伯のジーンズのポケットから取ったであろう二つ折りのくたびれた財布を持っていること、既に時代に取り残された二つ折りの携帯を取り上げられていることに気付く。

「まず、ここはどこだ」

「見てわからないか?渓谷だよ」

「違う違う違う。馬鹿かおっさん。ここの地名を聞いてるんだよ」

「ならそう言え。横浜から車で6時間。岐阜の川浦渓谷だよ」

「は、はあ?岐阜う?」

「ああそうだ。岐阜だ」

「はああ。ありえねえ。なんで岐阜なんかに来てんだよ、てか、岐阜ってどこだよ」

「中部地方」

「くそっ」

ガンガンとダッシュボードを蹴る。

「おい、おっさん」

若者の機嫌がすこぶる悪くなる。まずい。これでは私が殺されてしまいかねない。いや、そもそも未来なんて閉ざされたも同然の身だ。それはそれで万事解決かもしれないな。と、考えていると、口元が緩んでいたようで、口角が上がり、若者には笑っているように見えたかもしれない。それを見た若者は一層不機嫌になった。

「なにがおかしい?クソ運の悪い惨めな俺を笑ってるのか」

「いや、そんなわけない。私もついてないんだ。運は尽きたんだよ。とっくのむかしにな。強盗は失敗するし、余計な男を連れて来てしまうし、車は故障して遭難」

「ははっ。遭難か、そりゃ良い。人生2度目の遭難だ。しかも2度も自分の意志はどこにもない他人の勝手な行動でな」

「お前、名前はなんて言うんだ」

「人に名前を尋ねる時は、まず自分から名乗れだろ。おっさん」

「すまないな。世間知らずなんだ。私は佐伯吾朗。43歳だ」

「ふーん。そう」

「そう...って、それだけか。次はお前の名前を教えてくれよ」

「はあ〜。葛城吉嗣。23歳」

「ほう。じゃあ社会人一年生か大変な季節だな」

「ちげーよ。まだ社会人じゃない」

「ん?じゃあ大学生、院生か?」

「もう聞くな鬱陶しい。そもそもそんなことまで話す必要は無い」

若者、葛城吉嗣の苛立ちを治めることはできなかった。どころか、ますます不機嫌にさせてしまったようだ。

何か面白い話をしなくては、と佐伯は焦る。

葛城の様子を窺うようにチラチラと視線を向けていると、葛城の方から話をついできた。

「なんでこんな、場所に来たんだ。教えてくれ」

「本当は富山まで行くつもりだった。だが、君を連れていては邪魔だから、どこかで捨てる必要があった。」

「で、ここで俺を捨てようとしたと」

「ああそうだ」

「それでなんで、無防備な状態で放置してたんだ」

「うむ、実は車の故障だ。これ以上進めなくなった。私は修理なんてできないからな。それで考えたんだ、ひとまず、君には協力してもらわなくてはならないと」

「いや、ちょっと待て、なんで俺が俺を無理やり攫ったおっさんに協力しなくちゃならないわけ?そんな道理はないだろう。絶対嫌だね」

「だがな、青年よ。君、この状況でどうやって帰るつもりだ?」

「どうって、そんなの決まってるだろ。この林から出て、人家まで歩く、そこで助けてもらう以外、ないだろう?」

「そうだな、確かにそれが最も現実的で確実だ。しかしな、君、ここは渓谷だよ。しかも、君を殺して埋めるために来た場所なんだ。誰も近づかず、当然ほとんど隠された土地だ。そんな奥まった渓谷をこの土地に詳しくない君がどうやって出られるだろうか?」

「じゃ、じゃあこのあんたの携帯電話で救助を...」

「いや無理だ。その携帯はすでにバッテリー切れだ。使えない」

まるで脅し立てるように葛城に強い語調で向かう。このままこの青年を自由にしてはならない。私はすぐさま強盗未遂で逮捕させる。かといって、この状態のままこの危機的状況を打破できる見込みはまずない。だからこそ、この場では、葛城という青年と良好な関係を築き、どうにか策を弄さねばならない。と佐伯は考えを巡らせる。


✳︎


葛城は心中に言い知れぬ憤懣が立ち込めていた。佐伯と名乗る奇妙な誘拐・強盗未遂犯からの取り調べと称した情報整理。それから、思い出す忌々しい記憶。似たような環境に行き詰まってフラッシュバックする事件の記憶。鬱々と暗い車中で噛みしめるように反芻する。母親に取り残された森の奥。一人で三日三晩も彷徨った心細さ、やり切れなさ、悔しさ。その時と同じ感情を今、抱こうとしている。

一人でこの渓谷を抜ける方法は無い。かといってこの佐伯とかいうおっさんを全面的に信用することなど毛頭出来ない。どうする?このままここでじっとしていても、埒があかない。誰も来ない。無闇に動くと遭難だ。この時間に自然の中を動き回っても、運が良ければ助かるが、運悪く獣に襲われ無いとも限らない。どっちに転んでもこのおっさんを抜きにしては解決できそうに無い状況だと葛城は結論を出した。

それでも、とにかく考えないという選択は選ばなかった。

「おい、おっさん。正確な現在地が分からなくても、来た道を辿れば渓谷を抜けられるんじゃないのか」

首を振りながら答える。

「すまんが、その来た道を見失った」

かなりの獣道を無理矢理通った挙句に、低い崖から落ちたのだという。

「しかも、落ちた衝撃で車が故障しちまったらしくてな。エンジンがかからない。修理なんてできないし、打つ手無しだ」

助けを呼ばれては私が迷惑だがな。愉快そうに首をかしげる。

佐伯は縛られたまま、葛城は膝を激しくゆすりながら、二人して唸るように考えを巡らせる。

「なあ、君。ひとまずこの拘束を解いてくれないか。襲う気はないんだ」

「いや、駄目だ。あんたにその気がなくとも、俺が信用する理由にはならねえ。ナイフを持っていたしな」

「ナイフ?いや、そんなものは持っていないが」

「とぼけるな!店に強盗に入った時も、俺をトランクから降ろす時も、左手に持っていただろが」

「確かに、店に入った時は包丁を持っていたが、出る時に落として来た。君を引きずる時にな。しかし、トランク。トランクを開けた時は刃物なんて持ってな....あ!そうだ、もしかして、これと見間違えたんじゃないか?」

そう言って、佐伯は顎をくいとハンドルの後ろのメーターの方に向ける。そこには、銀色の薄い、長方形のケースがあった。

「タバコケースだよ。金属製だから、懐中電灯の光が反射して、ナイフのように見えたんだな、きっと」

ちっ、と葛城は舌打ちで返事をした。

拍子抜けした様子を見せながら、言葉を継ぐ。

「それでも、安全とは言い切れない。思い出したぞ。そうだ、あんたは店で俺を軽々と投げた、武器がなくとも十分危険だ」

随分と慎重だな。と呟きながら、佐伯は聞く。

「じゃあ、どうすれば信用してもらえるんだ」

「そうだな。これと言って確かめる方法はないな」

考えを曲げようとしないという意思を持って沈黙が答えに蓋をした。


✳︎


大きな溜息が車内で淀む。

「これは独り言なんだが」

無言の圧力を振り切ろうと、佐伯が渇いた喉を震わせた。


✳︎


ー俺は富山の海沿いの町で生まれ育った。父親は漁師で、俺に漁業を継がせようとした。でも、俺は海が嫌いだった。その反抗から、小さい頃から荒れっぽい性格で、喧嘩ばかりしていた。

中学に上がる時、柔道っていうスポーツがあることを知った。激しい肉体のぶつかり合いを目の当たりにした。それがきっかけで更生できたんだ。それからはどんどん柔道に熱中していって、夢はオリンピック選手だっていうようになった。地元の強豪校に入ってからも、熱は衰えることなく、むしろ、より柔道に執着していった。おかげで、インターハイ優勝まで漕ぎ着けた。いよいよ、アスリートとして、柔道の選手として将来を見据えられるような気がしてきた時、そんな幸先いい時期に親父が死んだ。

漁に出た日、その日は日中はずっと快晴だった。なのに突然、大シケになりやがった。親父は帰ってこられなかったんだ。

まあ、漁師であるなら、覚悟はできてることだ。そう少なくない話だしな。でも家族はそうじゃねえ。残された家族にそれを受け止めきれる余裕はないのさ。

俺は、まだ小学生の妹と母親を二人っきりにはしておけなかった。だから、大学進学も、柔道も辞めて、地元で就職する道を選んだ。漁師になることは毛頭嫌だったし、何より母親もそれを望まなかった。

公務員として何年か働くと、新しい夢ができた。いつか結婚したら、家族で飲食店をやりたいってな。そのために色々な資格も取ったし、妹が成人する頃には嫁をもらっていた。それから、結婚して2年後にはひとり娘が生まれた。娘が4歳の時に遂に喫茶店を始めたのさ。妹も母親も賛同してくれた。友人や恩師にも資金提供をしてもらったし、何もかも順調だったんだ。

なのに、今度もまた、長くは続かなかった。


騙されたんだ。保険か何かの詐欺だったんだな。柄の悪い組織ぐるみの犯罪だった。裏には暴力団の姿がちらついていて、地元の警察では手の打ちようがなかった。

気付いた時にはもう破産寸前。何もかも失った。

そういう経緯があって今も俺はその暴力団関係者にうまく使われてるってわけさ


✳︎


「おっさんの惨めな身の上話なんか聞かされてうんざりだ」

「まあそう言うなよ。誰かと話すのだってもう最後になるかもしれないんだから」

おっと。佐伯は不意に何かに気づいたように声を発した。

「なあ、2分だけこの紐解いてくれよ」

しかし、葛城は聞こえないかのように外を睨め付けたまま、膝と人差し指で叩く。

「小便だよ。漏らしちまうぞ。おい、いいのか、おっさんがこの密閉空間でおもらしをするっていうのはなあ...」

「わかった。わかったから黙れ」

うんざりしきった顔つきで、葛城は助手席から降り、正面を回って運転席のドアを開けた。

一連の動作は、意識して静かに努めても、生命の気配が薄い雑木林の腹の中では、土や落ち葉を踏む些細な足音や、車が軋む音などが嫌という程耳につく。

人質の筈の若者が、誘拐犯かつ強盗犯である筈の中年男を紐で縛っているという構図はあまりに立場が逆転しすぎていて、彼らはその異質な状況に、自らの境遇を無自覚かつ無意識にその胸の内に再構築しようとしていた。

拘束といっても下手くそな固結びだった。適当にきつく結んだが、そのキツすぎる結び目に葛城自身が悪戦苦闘する。

「なあ、まだか」

痺れを切らした佐伯が催促する。

「うるさい。静かにしててくれよ。イライラするだろうが」

はあ。とという佐伯の溜息を聞き流して、暗いなかで指先に力を込める。2、3分も時間をかけて、やっとの事で紐を解き終えたとき、葛城の額からは大粒の汗が滴っていた。

「ほら、解けたぞ」

佐伯は車から6、7メートル離れた樹木の下まで小走りに駆けた。その間、葛城は車の故障の原因について検討を始めた。全くの素人ではあるが、はっきりとして原因ならばどうするのが適策か今後の見通しはつくかもしれない。

しかしだが、その希望的観測はすぐさま打ち砕かれた。崖から落ちたらしいというのに、目立つ外傷が何もなかったのだ。単に衝撃でどこかの接続が馬鹿になったというだけなのだろうか。

用を足した佐伯がバンパーの前に立つ葛城に近づいて来る。

「どうだ。何かわかったか」

状況の深刻さに麻痺をして居たから、佐伯の口調が随分と馴れ馴れしくなって来る。

「いや、何もわからん」

そうか。と大して落胆した様子もなく頷く佐伯。

そのまま車に乗り込むということはなく、二人して車にもたれかかって居た。

夜の澄んだ空気を肺に送り込んで、体を換気する。車中のむせ返るような臭いは耐え難く、状況に追い打ちをかけるように葛城を塞ぎこませた。

夜になって少し冷えた8月の空気は、吸うだけで、清々しい気持ちに、爽やかな気持ちにさせてくれる。

深呼吸のおかけげで葛城の頭は少し軽くなり、気分が良くなった。

ふと左を見遣ると、運転席のドアにもたれかかって、星を見上げて居た佐伯が目を閉じ、穏やかな表情をしていた。


✳︎


「お前は、どうなんだ」

突然投げかけられたその言葉の意味を葛城は最初、理解出来なかった。

続かない言葉を、咀嚼し、飲み込んで、葛城はポツリポツリと話し始めた。

「俺は、高校の時にドロップアウトしちまった人間なんだよ。ただ親に言われるがまま進学校に入ったはいいものの、学校に行く意味も、勉強を続ける目的も見失って、いや元々まともな社会の枠組みが向いてなかったのかもしれない。人間らしい生き方っていうか、社会的な生活に無味乾燥したものをずっと感じていて、それが爆発した。教師を殴った。それだけで退学だ。それから1年はバイト生活を続けてみたが、結局ダメだった。社会に出たところで学校と何が変わるわけでもない。結局、学校出たやつらが集まってんだ。学校にいるときと同じなのは当然なのさ。どこで何をしていたって関係ない。人が他人に迷惑をかけない限り、彼らは善良な市民の1人と数えられるってことをその時実感した。

別に俺1人がトクベツな人間って思ってるわけじゃない。みんな同じゴミ箱の中にいて、一緒に腐ってる。ただ、俺には耐えられなかった。俺が弱いだけだったんだよ」

そこまで捲くしたてて、息切れをした葛城はそれ以上言葉を継ぐことが出来なかった。


✳︎


長い沈黙が喉の根元を締め上げるような感覚。

今まで固く固く閉ざしていた唇が割れた心の破片を吐き出す。

その後に残ったのはやはり、恥ずかしさと、惨めさだけだった。

「葛城くん。カメラはいいぞ。カメラ」

唐突な提案だった。明らかに慰めのような口調だったが、葛城はそれを単に嫌うことは出来なかった。

それは多分、佐伯自身が、失敗を取り戻せなかった後悔から葛城を救うためだと気づいたから。

とても不器用に、けれど正直に生きてきたと、そう誇れる大人がすぐ側に居ること。それがもう葛城を慰めていた。

「写真ってのは、自分が見た景色や事実をそのまま他の誰かに訴えることなんだよ」

訴える。見たいものや考えたいことを共有する、か。

「それ、誰の受け売りだ?」

皮肉っぽく、口角を上げて尋ねてみる。

佐伯は恥ずかしそうに、右手で首をさすりながら、はにかんで言う。

「俺の、だよ」

ああ。そうだ。俺は何か言いたいことがあって、わかって欲しいことがあって、でもそれをちゃんと伝えることができなかった。だからこんなに悩んで、塞ぎこんでしまったのか。


✳︎


「はあ」

ひとつ、大きく息を吐いた。

徐に佐伯は背を車体から離し、伸びをする。

それからドアを開けて銀色のケースを取り上げた。葛城がナイフと見間違えたタバコケースだ。佐伯はその薄い直方体から長く細いタバコを一本、摘んで口に運んだ。ジーンズの左ポケットからライターを取り出し、タバコに火を点ける。甘いく煙たい空気が膨らむ。

その一連の動きは緩慢で、水の中のように穏やかに流れる。

「ほい」

佐伯が吸いかけのタバコを葛城に向ける。だが、葛城はそれを受け取らない。

ずっと考えている。先刻自分が話したことに嘘はなかったか。自分に嘘をついてないかを。検める。結論を急ぐより、大事なことだった。

一本、吸い終えた佐伯は吸い殻を地面に落としつま先でぐりぐりとタバコを踏みつけた。次いで、またしても運転席のドアを開けようと、佐伯が右手を伸ばした瞬間。ぽすっという、何かが落ち葉の上に落下する音が葛城の耳に届く。

「おい、おっさん。何か落としたぞ」

「うん?これは...」

佐伯がその落ちた物を拾い上げると、それは月光に照らされて、鈍い黒色を現した。

「四角い、小さな箱」

葛城が目にしたのは、人差し指と親指でつまむのにちょうどいい小さな黒い箱で、赤色のランプが端で点滅している物だった。

「何だそれ」

葛城は尋ねるが、佐伯は拾い上げたそれを見つめ続け、何も言葉を発さない。身じろぎひとつしない様子は時間が停止したようにすら見える。

「おい、おっさん。どうしたんだ。何か言えよ」

もしや心当たりがあるのではと声をかけ続ける。

佐伯が不意に顔を上げ、葛城の目を射抜くように見つめる。そこには驚嘆と絶望の入り混じったような濁った色が映る。

途端に血の気が引いて行くのが目に見える。

佐伯は焦燥に駆られ、心臓は早鐘を既に打ち始めていた。

「発信機だ」

絞り出すような苦い声がこぼれる。

ざっざっざっという腰ほどの草を分け入る音とともに、平凡な人物では言うはずのない粗野な言葉と、威圧的な調子の声が聞こえてくる。

夜半に月光に晒されたその黒い影に、佐伯は即座に反応したか。

「逃げろ」その言葉が、どんな危険を表しているか、葛城も感じ取っていた。佐伯が話をしてくれてよかった。でなければ、何も知らないまま、残りの人生を棒に振っていたかもしれなかった。


✳︎


駆ける、駆ける。もう走っているのか、転がっているのか分からなくなるくらい、木の幹や根っこ、蔓にぶつかりながら走った。

「おらあ、待たんかいおどれ。けじめつけんかい」ドスの効いた荒々しい叫びが響く。

「やばいやばいやばい」

死ぬ、死ぬ。殺される。短絡的な、幼稚な言葉しか頭に残らなくなるほど、恐怖が脳を、四肢を侵食し、体をひたすらに前に前に進めようとする。


至る所にある湿った落ち葉、長く張った太い根っこ。暗い雑木林のあらゆるものが彼の行く手を阻もうと足を掴み、また、眼前にたちはだかる。

膝ほどの高さにある蔓に足を取られ、危うく転びそうになる。しかし、ただ必死に足を止めまいと、地面に手をつき、バランスをとる。

視界の左端には佐伯の姿がちらつく。よかった、まだ2人だ。と安堵する。もし1人で逃げることなど考えては、怖気付いて諦めてしまう。

運動不足で弱った心肺機能が悲鳴をあげ、脇腹はギリギリと痛む。

1キロほど走った頃だろうか、少しだけ拓け空間に飛び出した。月光の煌めきがその雑木林のギャップの一点に降り注ぐ。ともすると、相手から丸見えの場所だが、立ち止まってしまった葛城の足はもう動かない。小刻みに震え、呼吸は不規則で、ほとんど酸素を吸えていない。

もうだめだ。酸欠気味の頭を垂れ、落胆するように膝をついた瞬間。ドスン、ドスン。聞きなれない、低い音。しかし、葛城にはそれが銃声であると直感的にわかった。いや、もしかするとそれはただの希望的観測だったかもしれない。けれど、その音が聞こえる度に同時に、大人の男の短い低い呻きが次々と生まれ、また同時に、背中に迫っていたはずの人の気配もだんだん薄くなっていった。

十数発の銃声を聴き終えた頃には、2人の周りに人の気配を感じることは出来なくなっていた。アンブッシュをかけた謎のスナイパーが追っ手を一掃したかのように、今度は寧ろ耳が痛いほどの静寂が降りた。緊張から呼吸が止まっていた佐伯も長く息を吐いた。

フクロウのほうほうという鳴き声が不気味に感じられる。

「葛城くん。大丈夫か」

佐伯が地面にヘタリ込む葛城に左手を差し出す。佐伯に疲れ様子は微塵も見受けられない。

なんとか膝と腰に力を入れゆっくりと段階的に立ち上がる。

うまく出来なかった呼吸が少しずつ正常な、規則正しいものに戻り、自然の澄んだ空気を吸う。肺をほんのり冷たい空気で冷やしたくて、目を閉じて、大きく深呼吸をした。胸が膨らみ、顎が持ち上がる。自然、顔は天を仰ぐ形になる。顔を上げたまま、ゆっくりと瞼を開け、意識を昇らせる。

仰いだ空は、既に白みはじめ、明けの明星が我こそはと、主役を張るように輝いている。


✳︎


その後、どんどん明るくなる夏の朝日のもとで、周囲の景色は良好になり、2人は確かな足取りで渓谷を下りた。

結局、追い詰められたあの時、助けてくれたのがどんな人物だったのかは知れないままだ。佐伯が言うには、おそらく敵対する組織が送り込んだ殺し屋ではないかとの話だった。

ともかく、葛城は今生きている現状に安堵し、満足していた。と同時に早く日常に戻りたいという欲求も湧いてきた。

衣類は破れてこそないが、土と汗と、樹液のような汚れでボロボロに見えた。

さて、これからどうすればいいんだろう。

重く疲れた頭で考えようとしたところに、

「なあ、葛城くん。私たちはこれでお別れだよ」

唐突な言葉に、葛城は一瞬ぽかんとした顔をする。

「ここまで、私と君の非日常は終わる。君はもとの生活に戻るのか」

「わからない。今、俺がすべきことが何なのか」

「そうか。私は決めたよ。やるべきことが今、見えた」

「そう。それで、やるのか、それを」

もちろんだ。と佐伯は青年を振り返り、莞爾と笑う。歯を見せて笑うその表情は、朝日のせいか、とても眩しくて、葛城は目を細める。

「まあ、何をするかわからなくても、今はまだいいんじゃないか。これから考える。そのための毎日だと思う」

そういった目には清々しく、透き通った意志が見える。

それから二言三言いうと、佐伯は太陽に向かって歩き始めた。葛城はそれを見送ることなく、陽を背にして、歩き出す。


✳︎


チャリンと扉を開けると鈴が鳴る。俺が通い慣れた、何処にでもありそうな平凡な喫茶店。

「いらっしゃいませー。あ、葛城さんだー」

そういって明るく出迎えてくれるのは、喫茶『アポロン』のアルバイト店員、咲希ちゃん。

「おう、4日ぶりだな、吉嗣。もう平気なのか」

カウンターから、利発そうなメガネをかけた坊主頭が尋ねる。

「そりゃ、丸2日眠ってりゃ、元通りさ。まあ、まだ身体中がちがちに固まってるけどな」


結局、渓谷からは抜けられたものの、家まで帰る足もなく、頼る人もいなかったので、ポケットに奇跡的に入っていた20円を使って、公衆電話で幼馴染の雄輔を呼んだのだった。

「まさか、強盗に入られるなんて思ってもみなかったが、幼馴染が誘拐されちまうなんてとんだ笑い話じゃないか」

くつくつと意地悪そうに雄輔が笑う。

「いやいや、笑い話になんてならねえよ。マジで、死ぬかもしれなかったんだからな」

「ええ、どんな話だったの?」店の奥から出てきた雄輔の妻の秋穂が穏やかな口調で聞く。

「これがさー、また変な話で、全く事件ぽくねえの」

雄輔が面白可笑しく話すのが癪に触って、遮る。

「いや、もういいよ。その話は。いつか自慢する思い出話くらいにしといてよ」

雄輔はまた腹に一物抱えていそうな顔つきで、葛城を見る。

「まあ、いいけどさ。それより、いじられにきたんじゃないなら、何のようで来たんだ?」

「別に用がなくちゃいけねえのかよ。ただの客だよ」

「そう、まあ別に構わんよ、うちのバイトに余計なちょっかいかけんかったらな」

くっ、バレてる。

俺が咲希ちゃんに好意を持っていることは、やはり幼馴染には筒抜けのようだった。

「お前、帰ってきてから、なんか吹っ切れた顔つきになったよな」

そういって雄輔は背を向けて、コーヒーの豆を挽く。

いや、まだ何も成し遂げていない俺が、まだ何も始められてない俺が、一丁前に恋なんて出来るはずがない。

だから、この1週間でよく考えた。誘拐されてから、愉快なおっちょこちょいなおっさんから貰った言葉をずっと考えていた。そして、今日、朝起きた瞬間に決心した。俺がこれから何をすべきなのか、ようやくわかった。

「俺、写真家になろうと思う」

「そうか。よかった。やっと、やりたいことが見つかったんだな」

驚くほどあっさりと、雄輔は受け止めた。しかし、そこには確かな情があって、ずっと待っていてくれていたようだった。

「それで、いつから始めるんだ」

「まず、何かのコンペティションに応募する。撮りたいものはもう決めてあるんだ。賞を獲ってデビューする。そうしたら、俺、咲希ちゃんに告白するよ」

ぷぷっと雄輔が噴き出す。

「何それフラグじゃん。告白は絶対失敗するね」

このクソ坊主メガネ、今良い話してたじゃねえか、台無しにすんな。

「でも、まあ良いんじゃねえか、夢っていうか、目標を持つのは大事だよな。でも、夢のままじゃただの脂肪とおんなじだぜ。頑張れよ親友」

そういう励まし方をする男はうまいコーヒーを淹れてくれて、俺はそれを一息に飲むと、店を出た。

そして、そのまま電車に乗る。行き先は川浦渓谷。

もう一度あのエメラルドグリーンの思い出を手に入れようとカメラのシャッターを切った。


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